後醍醐天皇

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後醍醐天皇
文観開眼『後醍醐天皇像』(清浄光寺蔵、重要文化財

即位礼 1318年4月30日(文保2年3月29日
大嘗祭 1318年12月15日(文保2年11月22日
元号 文保
元応
元亨
正中
嘉暦
元徳
元弘
建武
延元
時代 鎌倉時代
南北朝時代
関白 二条道平一条内経九条房実
鷹司冬平→二条道平→近衛経忠
鷹司冬教→(廃止)
先代 花園天皇
次代 南朝後村上天皇
北朝光厳天皇光明天皇

誕生 1288年11月26日正応元年11月2日
崩御 1339年9月19日延元4年8月16日
吉野行宮
陵所 塔尾陵
追号 後醍醐院
(後醍醐天皇)
1339年10月11日(延元4年9月8日)追号勅定
尊治
別称 吉野院、元徳院、元応帝
元服 1304年1月27日嘉元元年12月20日
父親 後宇多天皇
母親 五辻忠子
中宮 西園寺禧子(後京極院)
珣子内親王(新室町院)
女御 二条栄子
子女

一宮?[注釈 1]尊良親王中務卿一品親王上将軍
二宮?:世良親王大宰帥
三宮?:護良親王座主征夷大将軍
宗良親王(座主、征夷大将軍)
無文元選(聖鑑国師)
恒良親王皇太子
成良親王(征夷大将軍)
義良親王(後村上天皇
懐良親王征西大将軍明朝日本国王
満良親王
懽子内親王伊勢神宮斎宮
祥子内親王(最後の伊勢神宮斎宮)

他多数
皇居 二条富小路内裏
吉野行宮
親署 後醍醐天皇の親署
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日延元4年8月16日〉)は、日本の第96代天皇および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日[注釈 2])。尊治(たかはる)。

大覚寺統の天皇。元弘の乱鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱を開始した。

主著に『建武年中行事』がある。

生涯[編集]

即位前[編集]

大覚寺統後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。

即位[編集]

『後醍醐天皇図』

徳治3年(1308年)に持明院統花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚3月29日4月30日)に即位。30代での即位は1068年後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。

倒幕計画[編集]

太平記絵巻』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)
埼玉県立歴史と民俗の博物館

正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺文観法勝寺円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。

元弘の乱[編集]

元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。

幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王河内楠木正成播磨赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

建武の新政[編集]

後醍醐天皇像
三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)

元弘3年6月5日1333年7月17日)に帰京[1]した後醍醐天皇は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上[2])と宣言し、建武の新政を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「#評価」の節に譲る。

まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王征夷大将軍とし(数ヶ月後に解任)、足利高氏を戦功第一とし自身の(本名)「尊治」からの偏諱「尊氏」の名を与えて鎮守府将軍参議などに任じた。同年中に記録所恩賞方雑訴決断所武者所(頭人(長官)は新田義貞)・窪所などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子北畠顕家を東北・北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟足利直義鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。

翌年(1334年)に入るとまず1月23日、父の後宇多天皇が大覚寺統嫡流に指定した甥の邦良親王の血統ではなく、実子の恒良親王を皇太子に立てた[3]

同年1月29日1334年3月5日)、簒奪者王莽を倒し後漢を開いた光武帝の元号の建武(けんぶ)の故事により、元号を建武(けんむ)に改元した[4]

同年中に、検非違使庁による徳政令発布(5月3日[5]、恩賞方の再編(5月18日[6]、雑訴決断所の拡充(8月)[7]などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣(紙幣)併用とする官銭乾坤通宝を計画し[8]中御門宣明を鋳銭長官・五条頼元を鋳銭次官に任じた[9]。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に蟄居となった(『梅松論』『保暦間記』『大乗院日記目録』)[10]

建武2年(1335年6月15日には造大内裏行事所始が行われた[11]6月22日大納言西園寺公宗の謀反が発覚し、武者所職員の楠木正成高師直らに捕縛された[12]

足利尊氏との対立[編集]

建武2年(1335年)、北条氏残党の北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じた。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。

南北朝時代[編集]

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳没)。

摂津国住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。

人物[編集]

公務時間と訴訟制度への関心[編集]

太平記』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関[注釈 3])に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている[13]。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた[14]

その後、2007年に久野修義によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した[14]。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという[14]。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の後宇多院大覚寺統が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され[15]、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている[14][15]

武士への厚遇[編集]

側近である北畠親房の証言(『神皇正統記』)によれば、後醍醐天皇は当時の公家社会の一員としては異様なまでに武士を好いており、次々と武士を優遇する政策を打ち出したため、公家たちから批判されることもあるほどだった[16][17]

まず、鎌倉幕府御家人身分(御恩と奉公によって征夷大将軍に直属する武士の特権階級)を撤廃した[18]。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられるが[18]、もう一つの理由として、御家人は天皇からすれば陪臣(家臣の家臣)に当たるので、それを廃止して全ての武士を天皇の直臣に「昇格」させることで、武士全体の地位向上を図る狙いがあった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)[注釈 4][18]

また、恩賞として官位を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた[17]公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(北畠親房からの評価)。

後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、記録所恩賞方雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された[20]。鎌倉幕府の本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という[20]。また、森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い楠木正成名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である記録所寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という[21]

後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった[22]。例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権で雑訴決断所職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である評定衆の一人となっている[22]。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という[23]。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている[24]

また、(建武の乱が発生するまでは)足利尊氏をことのほか寵愛した[25][注釈 5]。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった[27]。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と護良親王(後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った[28]。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と[29]鎮守府将軍左兵衛督武蔵守参議など重要官職を惜しみなく与え[25]、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた[30]。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した[30]。弟の直義もまた、15ヶ所の土地[29]鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している[31]

とはいえ、後醍醐天皇の好意は、自分に反抗しなかった武士に限られていた[32]。後醍醐天皇は、自らの最大の敵である鎌倉幕府を「戎夷」(じゅうい、獣のような野蛮人)と蔑み、奴らが天下を治めるなどとんでもない、と言ってのけた(『花園天皇日記』正中元年(1324年)11月14日条)[26]。また、摂津氏松田氏斎藤氏らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった[32]

建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))[33]。その一方で、北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた[34][35]。このことについて、森茂暁は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」[35]とし、岡野友彦もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする[34]

書家[編集]

書家としては、和風の様式に、中国の宋風から派生した禅宗様を加え、「宸翰様」(しんかんよう)と呼ばれる書風を確立し(宸翰(しんかん)とは天皇の直筆文のこと)、新風を書道界にもたらした[36][37]財津永次によれば、後醍醐天皇は、北宋の文人で「宋の四大家」の一人である黄庭堅の書風を、臨済禅の高僧宗峰妙超(大燈国師)を介して習得したと思われるという[37]。財津は後醍醐天皇の作を「覇気横溢した書として名高い」と評している[37]。また、小松茂美は、後醍醐天皇を日本史上最も名高い能書帝としては伏見天皇に次いで取り上げ、「力に満ちた覇気あふれる書」を残したと評価している[38]

その作品は、1951年から1952年にかけて、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋)』[39][40]・『後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉』[41]・『四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉』[42]の3点が国宝に指定されている。

当時は後醍醐天皇に限らず南北両朝の天皇が競って書を研鑽したため、この時期の諸帝の宸翰は史料としてだけではなく、書道の芸術作品としても重要である[37][36]。その一方、角井博によれば、宸翰様は書風そのものの芸術的価値という点では評価が高いものの、和様書道の一部と見なされ、後世の書道への影響という点では特筆することがないという[36]

歌人[編集]

後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった[43][44]。『新後撰和歌集』から『新後拾遺和歌集』までの7つの勅撰和歌集に、多数の歌が入撰している[44]。これらの勅撰集の中でも、第16となる『続後拾遺和歌集』(嘉暦元年(1326年6月9日返納)は、後醍醐天皇が二条為定を撰者として勅撰したものである[45]。実子で南朝征夷大将軍宗良親王が撰者であった南朝の准勅撰集『新葉和歌集』にも当然ながら入撰しており[44][46]、また宗良親王の家集李花集』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている[46]。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍足利尊氏の執奏による北朝の勅撰集『新千載和歌集』でも24首が入撰しており、これは二条為世二条為定伏見院後宇多院二条為氏らに次いで6番目に多い[47]。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している[48]

後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『増鏡』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている[44]。鎌倉時代中期の阿仏尼十六夜日記』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられており、後醍醐天皇は和歌の力をも利用することで倒幕を成し遂げたのである[44]

歌学上の業績としては、当時持明院統派閥の京極派に押されつつあった二条派を、大覚寺統の天皇として復興した[44]。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。藤原北家御子左流は「歌聖」藤原定家などを排出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに鎌倉幕府と親しかった冷泉派を加えることもある)[49]。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある[49]。国文学研究者の井上宗雄および日本史研究者の森茂暁によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い二条為世よりも、その次男で儒学的色彩の濃い二条為藤の歌を好んだという[44]。その論拠として、『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる[44]。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという[44]

また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる二条為子を側室として迎えた[44]。為子との間に、尊良親王および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人を儲けている[44]

なお、後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた[50]。尊氏は前回の『続千載和歌集』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた[50]。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである[50](歌の大意:どうせ私の和歌など、紀伊国和歌の浦で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。森は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは正中の変で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している[50]。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している[50]

もっとも、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。南北朝の内乱が発生し、足利氏内部の実権が弟の足利直義に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された光厳天皇の『風雅和歌集』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた[51]。しかし、観応の擾乱で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一貫として、北朝の後光厳天皇に『新千載和歌集』を執奏した[51]。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した[52]。さらに、五摂家の一つ九条流二条家の当主で連歌の大成者でもある二条良基(これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、有職故実研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており[53]、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた[54]。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した[52]

後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った[49]。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の頓阿兼好法師、室町後期の宗祇三条西実隆戦国時代三条西公条三条西実枝細川幽斎などがいる[49]。幽斎の門下からは智仁親王中院通勝らの堂上派と松永貞徳らの地下派に分かれて江戸時代に続き[49]、江戸中後期には地下派の香川景柄(1745–1821年)の養子となった香川景樹(1768–1843年)が古今伝授の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる桂園派を新たに創始した[55]。さらに明治時代には明治21年(1888年)に宮内省の部局御歌所の初代所長となった桂園派の高崎正風らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した[56]

文人[編集]

文人としての後醍醐天皇の業績には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)の研究がある[57][58]。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や河内方の註釈書『水原抄』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた[59]。また、四辻善成の『河海抄』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の丹波忠守(善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという[59]。さらに、『原中最秘抄』(1364年)によれば、建武の新政の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である行阿に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという[59]。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の長慶天皇に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『仙源抄』を著作している[58]

なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる[59]。つまり、登場人物の桐壺帝朱雀帝冷泉帝を、それぞれの実在の醍醐天皇朱雀天皇村上天皇に結びつけ、『源氏物語』は「延喜・天暦の治[注釈 6]を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである[59]

そして、国文学研究者の加藤洋介の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という[60]。その論拠としては、以下のことが挙げられる。

  • 後醍醐天皇は延喜・天暦の治を理想として掲げていた[60]
  • 「延喜天暦準拠説」は『紫明抄』から発展して成立したと思われるが、後醍醐天皇の師の丹波忠守は後醍醐に会う以前から既に『紫明抄』を手に入れていた史証があり、したがって後醍醐が忠守から『紫明抄』を学んだ可能性は高い[60]
  • 長慶天皇の『仙源抄』には後醍醐天皇の研究成果も記されているが、善成の『珊瑚秘抄』の解釈と一致しており、偶然とは考えにくい[60]
  • 善成は、後醍醐天皇の『源氏物語』講釈を、村上天皇が「梨壺の五人」(『万葉集』の解読と『後撰和歌集』の編纂を行った五人の研究者)を編成した事業に喩えており、後醍醐と延喜・天暦の治を結び付けようとする意志が善成にも感じられる[60]

そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という[60]。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている[60]

以上の加藤の論説は、日本史研究者の森茂暁も「首肯される意見である」と賛同している[58]

楽人[編集]

後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を粟田口嗣房、没後はその従兄弟の藤井嗣実から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の大神景光から習得していたとみられている[61]。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある[62]

更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、西園寺実兼に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に今出川兼季から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「玄上」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。後伏見上皇は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている[63]

更に綾小路有頼から催馬楽の秘曲を、二条資親からは神楽の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や平等院東大寺正倉院から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた[64]

茶人[編集]

中世には闘茶茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、後醍醐天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる[65]。闘茶会であると明言されたものの史料上の初見は、後醍醐天皇の政敵である光厳天皇元弘2年/正慶元年6月5日1332年6月28日)に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)であるが、実際はそれに先立つ8年ごろ前に、後醍醐天皇の無礼講で開催された飲茶会(『花園院宸記元亨四年十一月朔日条(1324年11月18日条))も闘茶であったろうと推測されている[65]

後醍醐天皇が開始した建武政権(1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『二条河原の落書』に「茶香十炷」として記されている[65]。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『建武式目』(延元元年/建武3年11月7日1336年12月10日))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『太平記』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な室礼で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる[65]

また、茶器の一種で、金輪寺(きんりんじ/こんりんじ)茶入という薄茶器薄茶を入れる容器)を代表する形式を考案した[66]。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺(修験道の総本山金峯山寺)で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという[66]。また、『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、戦国時代の武将織田信長は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、天正7年(1579年)5月27日に、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に下賜した[67][信頼性要検証]

愛石家[編集]

中国では、北宋(960–1127年)の頃から、盆石(現代日本語の水石)といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、臨済宗虎関師錬を代表とする禅僧によってもたらされた[68]。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、徳川家康の手を経て、2019年現在は徳川美術館が所蔵している[69][68]。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある[69]。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している[69]。その銘は『源氏物語』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている[69]。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している[69]

伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国江蘇省江寧山からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は元弘の乱で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる[69]

後醍醐天皇が才覚を見出した石立僧(いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、臨済宗夢窓疎石がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を京都南禅寺に招こうとし、一度は断られたものの、再び執権北条高時を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った[70]。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった[70]元弘の乱後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の国師号を授けた[70]。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は足利尊氏直義兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として天龍寺を創建した[71]。夢窓は直義と協議して、天龍寺船に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で禅庭を設計した[71]。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の一部として、ユネスコによって世界遺産に登録された[71]

逸話[編集]

唐物趣味
元亨4年(1324年8月26日、後醍醐天皇は二条道平北畠親房洞院公敏中院光忠洞院公泰ら6人の公卿殿上人を集めると、唐物(大陸から輸入した貴重品)を自慢気に見せびらかし、1人5点までを上限として、それぞれに好きなものを取らせた(『後光明照院関白記』(『道平公記』)同日条)[72]。一見、微笑ましい逸話だが、実は奇妙な点ばかりである。まず、後醍醐天皇が自慢の唐物を見せびらかし、気前よく配った理由が不明である[72]。集まった面々が腹心であり、この翌月には後醍醐天皇の倒幕計画が鎌倉幕府に発覚して騒動となる(正中の変)という時期を考えれば、正中の変との関係を疑いたくなるが、これら6人は正中の変では幕府から特に問題視されていない[72]。しかも、これだけ大量の唐物をどこから手に入れてきたのか、なぜこの時点で鎌倉幕府を差し置いてそれだけの力を持っていたのかも不明である[72]。確実に言えるのは、当時、後醍醐天皇とその一派は唐物趣味に熱狂しており、後醍醐天皇は困難を排してそれらを大量に獲得するだけの熱意と力を持っていたということである[72]
大脱走と山盛りのイカ
元弘の乱隠岐国に幽閉された後醍醐天皇は、富士名雅清の手引で船を盗み出し、腹心千種忠顕と共に隠岐を脱出した[73]。脱走に気付いた隠岐国守護佐々木清高は千艘の大船団を率い、後醍醐天皇を追跡。船頭がこれに恐怖して逃げようとすると、後醍醐天皇は「汝恐るる事なかれ。急漕向て釣をたるべし(急いで清高の船に向かって漕ぎ、その側で釣り糸を垂れよ)」と、逆にあえて追手に接近せよという詔勅を船頭に発した[73]。さらに、自らを古代中国の聖君文王に、船頭を釣り人から軍師に抜擢された文王の賢臣太公望になぞらえて、船頭を元気付けた[73]。近づいてきた船頭に対し、清高が「怪しい船が通りかからなかったか」と聞くと、船頭は「今朝方、出雲に向かった船を見ました。順風なので、もう渡海したころでしょう」と嘘をついた[73]。清高軍は船頭を疑って船を点検したが、後醍醐天皇の姿が全く見えないので、納得してそのまま出雲に向かった[73]。なんと、後醍醐天皇は山盛りのイカで自分の身を覆い、隠れていたのである[73]。天皇であることを誇りにするプライドの高い後醍醐天皇が、自身の「玉体」(天子の肉体を聖化して言う言葉)をイカに隠すような真似をする訳がない、という固定観念を逆手にとって、絶海の孤島からの脱出劇を成功させたのだった(以上、『梅松論』上)[73]
腹心の千種忠顕になりきる
隠岐国を脱出し、船上山に籠城した後醍醐天皇は、籠城に功績のあった在地の武士巨勢宗国に対し、側近の千種忠顕を「綸旨(命令文)の奉者」(天皇の意を受けて文書を発給する係)として、感状を与えた[74]。ところが、このとき忠顕は軍事行動に就いており、船上山にはいないので、彼に綸旨を書いて貰うのは物理的に不可能である[74]。実は、この綸旨を書いたのは後醍醐天皇自身で、奉者となる資格を持つ臣下が側にいなかったため、部下の忠顕になりきり、忠顕の花押(サイン)を真似してまで、天皇が自分で自分の綸旨の奉者を装った、という前例の無い事件である[注釈 7][74]。さて、世間によくある、「破天荒な後醍醐天皇」と言う通俗的な人物像からは、これもその破天荒さの一貫と考えがちである[74]。しかし、本郷和人によれば、この文書はむしろ後醍醐天皇の保守的・形式主義的な一面を表しているのではないか、という[74]。もし後醍醐天皇が過激な改革者であったとすれば、蔵人(秘書官)・弁官(庶務官)ではない臣下を奉者とするか、あるいは綸旨に代わる新しい文書形式を作っても良かったはずである[74]。そうしなかったのは、創作上ではない歴史的人物としての後醍醐天皇は、従来の手続きを忠実に踏襲する人間であることを示しているのではないか、という[74]

評価[編集]

同時代人からの評価[編集]

北畠親房からの評価[編集]

『北畠親房』(菊池容斎前賢故実』所収)

北畠親房は、慈円と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には南朝を主導し、南朝准三宮として皇后らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『神皇正統記』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の北畠顕家が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した[75]

とはいえ、親房は、政治思想上は、必ずしも後醍醐天皇の政策を支持してはいなかった。特に、『神皇正統記』では、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている[16]。また、上横手雅敬が指摘するように、奥州合戦文治5年(1189年))以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を鎮守府将軍左兵衛督武蔵守参議に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた[注釈 8][17]。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった[17]

ところが、現実主義者・マキャベリストである親房[76]は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を積極的に活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた[77]。その中でもかなり熱心に恩賞としての官位を配ったのが、実はこの政策を批判した他ならぬ親房自身で、東国武士たちへの官位推薦状を乱発した[78]。軍事的・領土的に劣勢だった南朝にとって、後醍醐天皇が導入した「恩賞としての官位」政策は、土地がなくとも武士からの求心力を得ることができるため、優れた任官システムであると親房は理解していたのである[78]。対する室町幕府が恩賞としての官位を導入したのは、観応の擾乱で保守派の足利直義が滅んでから、と、かなり時期が遅く、山田貴司によれば、南朝が実際にこの施策で成功しているのを目の当たりにしたため、これに対抗する目的であったという[79]。それほどまでに、後醍醐天皇が考案し、北畠親房が口では批判しつつも手では実施した政策は、先進的だったのである[79]

北畠顕家からの評価[編集]

北畠親房の子である南朝公卿鎮守府大将軍北畠顕家もまた、後醍醐天皇へ上奏した『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年5月15日1338年6月3日))で、後醍醐への批評を残している。7条しか残存しないためその全容は明らかではないが[80]、少なくとも残る箇所に関しては後醍醐天皇の政治への実質的な全否定である[81]

現存する7条を要約すると、「首都一極集中を止め地方分権を推進し各方面に半独立の大将を置くこと」「租税を下げ贅沢を止めること」「恩賞として官位を与える新政策の停止」「公卿殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といったものになる。現存第1条は、後醍醐天皇の全国支配の統治機構に言及したものとして特に注目できる[82]。また、残る6条のうちの半数が、人事政策への不満に集中していることも特徴である[83][84]

佐藤進一は、同時代人からの評価を知る上で『二条河原の落書』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した[83]。しかし、亀田俊和は、奢侈を戒める条項はともかく、それ以外の条項については必ずしも的を射た批難ではなかったり、短期的には顕家の批判するように混乱を招くものだったかもしれないが、長期的にはある程度までは優れた施策であったと指摘し、顕家および佐藤進一の建武政権批判に反論した[85]

北朝公家からの評価[編集]

二条良基像(二條基敬蔵)

連歌を完成した中世最大の文人であり、北朝において摂政関白太政大臣として位人臣を極めたどころか、准三宮として皇后らに准ずる地位にまで上った二条良基は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた[53]。これは、『建武年中行事』を著した有職故実研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという[53]

中院通冬(極官は北朝大納言)は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、それを信じたくない気持ちから「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)[86][75]。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」[注釈 9]と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)[86][75]

一方、三条公忠(極官は北朝内大臣)は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い吉田定房内大臣登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『後愚昧記』応安3年3月16日条)[87]

後世の評価[編集]

独裁君主説[編集]

第二次世界大戦後、1960年代には、佐藤進一を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された[88]。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り[89]、2010年代に入っても高校の歴史教科書(山川出版社『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されている[90]。こうした人物像や政権への否定的評価は2016年現在でもまだ定説としての地位は失っていないが[90]、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている[91]

後醍醐天皇独裁君主説では、建武の新政の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。

建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。

側近[編集]

諡号・追号・異名[編集]

後醍醐天皇は、延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇村上天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。

崩御後、北朝では崇徳院安徳天皇顕徳院順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。

系譜[編集]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
88 後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王
鎌倉将軍6)
 
持明院統
89 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
90 亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康親王
(鎌倉将軍7)
 
92 伏見天皇
 
 
 
 
 
久明親王
(鎌倉将軍8)
 
91 後宇多天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93 後伏見天皇
 
95 花園天皇
 
守邦親王
(鎌倉将軍9)
 
94 後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康仁親王
木寺宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栄仁親王
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

后妃・皇子女の数[編集]

後醍醐天皇は、『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))に記録されているだけでも、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けた[92]

一覧[編集]

皇子の名の読み[編集]

後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。

江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。

明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。

一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある[93][94]

  1. 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。
  2. 応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。
  3. 応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。
  4. 後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。
  5. 永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。
  6. 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。
  7. 寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。

以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。

  • 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。
  • 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省検定に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。

偏諱を与えた人物[編集]

※後醍醐の(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。

皇子
武士
  • 足利[注釈 10](※足利高氏より改名(読み変更なし))
    • 饗庭 - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。
    • 吉良 - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。
  • 吉見(のち渋川義宗。中務大輔。南朝に属す。)
  • 小田[96] (※小田高知より改名)

在位中の元号[編集]

著作[編集]

陵・霊廟[編集]

後醍醐天皇塔尾陵

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。

また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。

足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政小槻雅久吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した[97]

伝説・創作[編集]

みたらし団子[編集]

伝承によれば、後醍醐天皇が京都市左京区下鴨の下鴨神社に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた[98]。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、みたらし団子の起源であるという[98]

武士への冷遇[編集]

軍記物太平記』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。

たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である御家人身分を撤廃、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになった、という[99]。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)[注釈 4][18]

また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という[99]。ただし、歴史的事実としては、側近の北畠親房が『神皇正統記』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである[16]

また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した北条泰家の所領をすべて実子の護良親王に与えたことが記されている[99]。ただし、歴史的事実はこれと異なり、新田氏庶流で足利氏派閥の武将岩松経家に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)[100][101][102]

登場作品[編集]

小説
漫画
テレビドラマ

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 後醍醐天皇皇子のうち、上の三人の長幼について、定説では尊良親王を一宮(第一皇子)とし、その次に世良親王護良親王と続く。しかし、護良親王を一宮とする説もある。詳細は尊良親王#誕生および護良親王を参照。
  2. ^ ただし、本文で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位譲位を経ている。
  3. ^ 後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。
  4. ^ a b 吉田賢司の指摘[19]による[18]
  5. ^ 一方、細川重男は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている[26]
  6. ^ 延喜・天暦の治醍醐天皇から村上天皇の治世である897–967年のこと。14世紀の人間はこの頃を日本の最盛期と考えていた。
  7. ^ 昭和初期、平泉澄によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、第二次世界大戦後、皇国史観への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた[74]
  8. ^ 鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、成功(じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった[17]
  9. ^ 原文:「天下之重事、言語道断之次第也、公家之衰微不能左右、愁歎之外無他事、諸道再興、偏在彼御代、賢才卓爍于往昔、衆人不可不悲歎者歟」[86]
  10. ^ 太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『公卿補任』(新訂増補国史大系本)や『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる[95]

出典[編集]

  1. ^ 『大日本史料』6編1冊80–86頁.
  2. ^ 梅松論上 1928, p. 113.
  3. ^ 『大日本史料』6編1冊392–393頁.
  4. ^ 『大日本史料』6編1冊401–404頁.
  5. ^ 『大日本史料』6編1冊553–556頁.
  6. ^ 『大日本史料』6編1冊574–581頁.
  7. ^ 『大日本史料』6編1冊752–759頁.
  8. ^ 『大日本史料』6編1冊505–506頁.
  9. ^ 『大日本史料』6編1冊713–714頁.
  10. ^ 『大日本史料』6編2冊52–57頁.
  11. ^ 『大日本史料』6編2冊430–432頁.
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  33. ^ 森 2017, 終章 果たして尊氏は「逆賊」か>足利尊氏の死去.
  34. ^ a b 岡野 2009, pp. 68-70.
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参考文献[編集]

古典[編集]

主要文献[編集]

その他[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]