弘文天皇
弘文天皇 | |
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![]() 弘文天皇像 法傳寺所蔵 | |
時代 | 飛鳥時代 |
先代 | 天智天皇 |
次代 | 天武天皇 |
誕生 | 大化4年(648年) |
崩御 |
672年8月21日(天武天皇元年7月23日) 近江国 |
陵所 | 長等山前陵 |
漢風諡号 |
弘文天皇 1870年8月20日(明治3年7月24日)諡号勅定 |
諱 | 大友、伊賀 |
別称 | 伊賀皇子 |
父親 | 天智天皇 |
母親 | 伊賀宅子娘 |
夫人 | 十市皇女 |
子女 | 葛野王 |
皇居 | 近江大津宮 |
即位していない説が有力 |
弘文天皇(こうぶんてんのう、648年〈大化4年〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉)は、日本の第39代天皇(在位:672年1月9日〈天智天皇10年12月5日〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉)。
諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられたが、実際に大王に即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。
概要[編集]
天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。
異母兄弟姉妹
- 兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため、実際の生誕順ではないことがある。
- 兄弟:建皇子・川島皇子・志貴皇子
- 姉妹:大田皇女・鸕野讃良皇女(持統天皇)・新田部皇女・大江皇女(以上:夫天武天皇)・明日香皇女(夫:忍壁皇子)・御名部皇女(夫:高市皇子)・阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子)・山辺皇女(夫:大津皇子)・泉皇女・水主皇女
系図[編集]
弘文天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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古人大兄皇子 | 倭姫王 (天智天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(38)天智天皇 (中大兄皇子) | (41)持統天皇 (天武天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(43)元明天皇 (草壁皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
間人皇女 (孝徳天皇后) | (39)弘文天皇 (大友皇子) | 葛野王 | 池辺王 | (淡海)三船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴皇子 (春日宮天皇) | (49)光仁天皇 | (50)桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
早良親王 (崇道天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(40)天武天皇 (大海人皇子) | 高市皇子 | 長屋王 | 桑田王 | 磯部王 | 石見王 | (高階)峰緒 〔高階氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 (岡宮天皇) | (44)元正天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大津皇子 | (42)文武天皇 | (45)聖武天皇 | (46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍壁皇子 | 吉備内親王 | 井上内親王 (光仁天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長親王 | 智努王 (文室浄三) | 大原王 | (文室)綿麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御原王 | 小倉王 | (清原)夏野 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | (47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞代王 | (清原)有雄 〔清原氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田部親王 | 塩焼王 | (氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
即位説[編集]
『日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。また、皇位には天智天皇の皇后・倭姫王を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。
父・天智天皇(天智7年・668年即位)のもとで天智10年(671年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。
『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った」とある。
丙辰 大友皇子在內裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉
大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當絶 家門必亡 云云
ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、天智天皇の死後に大友皇子に皇位を継承させることを指示していたものと考えられている。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため歴代天皇とみなされてはいなかったが、明治3年(1870年)になって弘文天皇と追号された。
在位中の重臣一覧[編集]
年月日(西暦) | 太政大臣 | 左大臣 | 右大臣 | 御史大夫 | ||
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天智天皇10年12月5日(672年1月9日) | 蘇我赤兄 | 中臣金 | 蘇我果安 | 巨勢人 | 紀大人 |
伝説[編集]
「壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている。
君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており、17世紀前半に書かれたと考えられている地誌『久留里記』(編者未詳)や、宝暦11年(1761年)に儒学者の中村国香が編纂した『房総志料[1]』に記載がみえる[2]。このうち、君津市だけでも
- 白山神社(君津市俵田)
- 祭神は、大友皇子と菊理媛命。この地に落ち延びた皇子が暮らした「小川御所」の跡とされる。
- 白山神社古墳(同市俵田)
- 白山神社の背後に位置する前方後円墳。地元では大友皇子を埋葬したと伝えられ、戦前までは「丸山」「山陵」「小櫃山陵」等と呼ばれてきた。考古学的には、4世紀頃に築造された在地首長のものと考えられている[3][4]。千葉県指定史跡[5]。
- 御腹川(同市長谷川)
- 大友皇子が天武天皇の追手に見つかり割腹した場所とされる。
- 死田(同市賀恵淵にあったと伝えられる)
- 大友皇子が臣下の蘇我大炊を従えて狩りに出かけた折、田植の祭りをしている光景に出合った。それを眺めていると、空が一気に掻き曇って風雨雷電が降り注ぎ、苗を植えていた早乙女たちは全員死んでしまったという。
等の伝説関連史跡が存在する[6]。
なお白山神社古墳については、森勝蔵(嘉永3年(1848年)-大正5年(1916年))をはじめとする旧久留里藩関係者が、明治10年代から同30年代にかけて天皇陵治定運動を展開している[7]。
岡崎市の西部に、大友皇子を祀った、もしくは創建に関わったとされる寺社がみられる。
- 神明社(岡崎市東大友町)
- 大友天神社(同市西大友町)
- 大友皇子の従者である長谷部信次という人物が、皇子の霊を祀るために創建したと伝えられる[9]。
- 玉泉寺(同市西大友町)
陵・霊廟[編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。
これとは別に、弘文天皇の御陵とされる墳墓が複数伝わっている[11]。
- 白山神社古墳 - 千葉県君津市俵田
- 伝弘文天皇陵 - 神奈川県伊勢原市日向
- 小針1号墳 - 愛知県岡崎市小針町
- 大友皇子御陵 - 愛知県岡崎市東大友町
- 自害峯の三本杉 - 岐阜県不破郡関ケ原町藤下
- 鳴塚古墳 - 三重県伊賀市鳳凰寺
- 膳所茶臼山古墳 - 滋賀県大津市秋葉台
- 皇子山古墳 - 滋賀県大津市皇子山
また皇居では、皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
詩歌[編集]
天平勝宝3年(751年)の序文を持つ現存最古の日本漢詩集『懐風藻』[注釈 2]には、「淡海朝皇太子」として2首掲載されている。
皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 万国表臣義
(皇明日月と光り 帝徳天地に載す 三才並びに泰昌 万国臣義を表す) — 五言 宴に侍す 一絶(1番)
道徳承天訓 塩梅寄真宰 羞無監撫術 安能臨四海
(道徳天訓を承け 塩梅真宰に寄す 羞ずらくは監撫の術無きを 安んぞ能く四海に臨まむ) — 五言 懐を述ぶ 一絶(2番)
弘文天皇を扱った作品[編集]
近江朝廷側の首班であることから、壬申の乱を取り上げた作品には登場する。
- 「壬申の乱を題材とした作品」を参照
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 紀元二千六百年記念房総叢書刊行会編 国立国会図書館デジタルコレクション 『房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第6卷 地誌其一』 紀元二千六百年記念房総叢書刊行会、1941年 。
- ^ 宮間 2018, p. 27-28.
- ^ 宮間 2018, p. 23-24.
- ^ “白山神社古墳(房総の古墳を歩く/君津市久留里の古墳)”. 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館. 2019年2月6日閲覧。
- ^ “白山神社古墳(君津市の国・県指定および国登録文化財)”. 千葉県庁 (2017年5月12日). 2019年2月6日閲覧。
- ^ 宮間 2018, p. 21.
- ^ 宮間 2018, p. 59-80.
- ^ a b 石川 1981, p. 174.
- ^ 石川 1981, p. 175.
- ^ 石川 1981, p. 203.
- ^ 宮間 2018, p. 19.
参考文献[編集]
- 『国書人名辞典』第1巻、市古貞次[ほか]編、岩波書店、1993年。全国書誌番号:94011706。ISBN 4000800817。NCID BN0981021X。
- 宮間純一『天皇陵と近代 : 地域の中の大友皇子伝説』平凡社〈ブックレット〈書物をひらく〉 ; 11〉、2018年。全国書誌番号:23066664。ISBN 9784582364514。NCID BB26130046。
- 『矢作町誌』石川松衛編、国書刊行会、1981年、復刻版。
- 井上孝夫「房総・弘文天皇伝説の研究 (PDF) 」 『千葉大学教育学部研究紀要』第52巻、千葉大学教育学部、2014年2月、 171-178頁、 ISSN 1348-2084、 NAID 110004628701、2019年2月9日閲覧。
外部リンク[編集]
- 長等山前陵 - 宮内庁
- 弘文天皇陵 - 滋賀県観光情報[公式観光サイト](公益社団法人びわこビジターズビューロー)
- 弘文天皇御陵候神地・自害峯の三本杉 - 関ケ原観光Web(関ケ原観光協会)
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