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長屋王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長屋王
長屋王像(南法華寺蔵、江戸時代)
時代 飛鳥時代 - 奈良時代
生誕 天武天皇5年(676年)か13年(684年
薨去 神亀6年2月12日729年3月16日
墓所 大和国生駒郡生馬山
現・奈良県生駒郡平群町梨本(宮内庁治定)
官位 正二位左大臣
父母 父:高市皇子、母:御名部皇女
兄弟 長屋王鈴鹿王門部王山形女王河内女王
吉備内親王藤原長娥子、安倍大刀自、石川夫人
膳夫王桑田王葛木王鉤取王安宿王黄文王山背王
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長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ)は、奈良時代前期の皇親政治家太政大臣高市皇子長男官位正二位左大臣

天智天皇天武天皇の孫(母方の祖父と父方の祖父)。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟陰謀といわれる長屋王の変自殺した。

出自

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大宝選任令蔭叙年齢規定によって大宝4年(704年)の初叙時の年齢を21歳として天武天皇13年(684年)誕生説が有力であったが[1]、『懐風藻』の記事にある享年54歳に基づき天武天皇5年(676年)とする説もある[2]。父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。

また、長屋王の祖母は蘇我姪娘であり、自身の配偶者には同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王と、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子がいた。つまり長屋王家は、長屋王自身や吉備内親王の即位の可能性のみならず、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹という考えうる3通りの選択肢を全て備えており、まさに次期皇位継承者としてふさわしく、不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑の対象となっていた[3]。長屋王一家が自死を迫られた際に葬られたのが、長娥子所生の皇子以外であったのは、藤原氏の野望を阻む対手がこれらに限られたためである[3]。なお、この問題に関して、本当に長屋王家に恐怖と猜疑を抱いていたのは、藤原氏ではなく首皇子(聖武天皇)であったとする見解もある[4]

経歴

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大宝4年(704年無位から正四位上に直叙される。通常の二世王の蔭位従四位下であるが、三階も高い叙位を受けていることから、天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたことがわかる。和銅2年(709年従三位宮内卿に叙任されて公卿に列す。和銅3年(710年式部卿に任ぜられるが、式部卿在職時に官人の人事考第に関して、以下の施策が打ち出されている。

  • 和銅4年(711年)7月:諸司の怠慢により律令がなかなか施行することができない状態にあるため、律令に違反したにもかかわらず、官人の考第(考課の評定等級)を正しく取り扱わない場合処罰する。
  • 和銅6年(713年)4月:式部省は官人の考課・選叙が任務でありその責任は他の省より重いとして、式部卿不在時に官人の勲績を議論することを禁止[5]

霊亀2年(716年)には正三位に叙せられる。霊亀3年(717年左大臣石上麻呂薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。正四位上と言う高位の初叙およびこの異例の昇進が実現した理由については、以下の諸説がある。

  • 父である高市皇子皇太子としての待遇を受けていたため(従来の説)
  • 皇親制や位階制などが始まって間もない試行錯誤期における天武天皇皇孫の扱いという課題の存在があり、その最初の適用ケースでかつ高市皇子の長男かつ天智天皇の孫という特に有力な血筋であったことが重なり、結果的に後世の常識から見ると異例の待遇となった(寺崎保広[6]
  • 妻の係累にあたる元正天皇吉備内親王の姉)と藤原不比等(藤原長娥子の父)という二人の有力者の意向によるもの。血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていた(森田悌[7]。また、元正天皇は即位前に吉備内親王と同居していたらしく[8]、その夫である長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

長屋王政権

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養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟武智麻呂房前宇合麻呂)はまだ若く、議政官中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事舎人親王とともに皇親勢力藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す[7]

  • 養老5年(721年)3月:水害干魃に起因する貧窮対策として、平城京および畿内の公民に対して1年間の調を免除し、他の七道諸国の公民に対しても同様に夫役を免除する[9]
  • 養老5年(721年)6月:前年度発生した隼人蝦夷の反乱鎮圧のための兵役の負荷軽減対策として、陸奥筑紫の公民に対して1年間の調・を免除する。戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の租税を免除する[10]
  • 養老6年(722年)2月:諸衛府衛士の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる[11]
  • 養老6年(722年)閏4月:陸奥按察使管内の公民の調・庸を徐々に免除して、農耕養蚕を勧奨して、を習得させる。辺境を助けるための租税として麻布を徴収することとし、蝦夷に与えるに充当する。陸奥国出身で朝廷に仕えている者(衛士・資人・采女など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す[12]
  • 養老7年(723年)4月:日向大隅薩摩の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に飢饉疫病が発生していることから、3年間租税を免除する[13]

また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある[14]

  • 養老6年(722年)閏4月:秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画[12]
  • 養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法[15]

この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している[16]

長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている[22]

  • 神亀4年(727年)2月:諸司の長官に対して、各官司の主典以上の官人について、勤務状況の良い者と悪い者(最上、次上、中等、下等の4段階)を選び、その名前を奏上することを命じる[23]。同年3月に報告が行われ[24]、最上・次上と判定された官人に対してが与えられ、下等と判定された者は官職を解かれた[25]。なおこの際、長屋王自身は二位の最上で絁100疋と、次に多い正三位(大伴旅人・藤原武智麻呂ら)の最上である40疋の倍以上が与えられたと見られる。
  • 神亀5年(728年)3月:これまで外位の対象外であった中央官人に対しても外五位の叙位を行うこととし、その位禄蔭位位階について定めた[26]。同年5月に中央官人に対して実際に外五位の叙位を実施した[27]

長屋王の変

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長屋王墓奈良県生駒郡平群町

養老5年(721年)11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる[28]。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる[29]。同年12月に元明上皇は崩御するが[30]、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する[31]。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある[29]

神亀元年(724年)2月に聖武天皇即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われた[注釈 1]。この結果、長屋王は正二位左大臣に進む[32]

間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する[33]。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した(辛巳事件[34]。中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに準じて、日本でも養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあり実際は天皇も律令に拘束されると示した政治対立で、中国ではありえない[35]。この事件をきっかけとして長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になってゆく。

また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王桑田王葛木王鉤取王)は先の霊亀元年(715年)に皇孫として扱う詔勅が出されるなど、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる[36]

さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、先の聖武天皇の即位当日に行われた議政官全員に対する昇叙も高官たちの支援を取り付けるための措置であったとみられている[32]。聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し[37]、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず[38]、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる[39]。結局、神亀5年(728年)9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する[36]

神亀6年(729年)2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる[40]。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らはをくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。

一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった[41]。また、前述の神亀4年(727年)に行われた官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある[42]。更に長屋王の変そのものが、長屋王と吉備内親王夫妻及びその所生の皇子の存在そのものを自身の皇位と子孫への皇位継承への脅威とみなした聖武天皇が彼らを抹殺するために引き起こした事件とする見方も存在する[4]

長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという[注釈 2]。なお、『続日本紀』によると、翌天平10年(738年)長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている[43]

人物

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  • 養老3年(719年新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催された際の、長屋王自身の作になる漢詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩作品が計3首収められている。
  • 神亀5年(728年)5月に王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願している(『神亀経』)。
  • 長屋王邸から出土した木簡から、氷室を所有し、夏に食していた事が判明した。
  • 長屋王邸から出土した木簡の中に子を産んだ母犬の餌に米を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米をの餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所金子裕之は、「この米は犬を太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表した[44]。それに対し、奈良国立文化財研究所松井章森公章は、犬狼研究者の斎藤弘吉の「江戸時代の書『蒼黄秘抄』に鷹狩用の犬には、栄養不足にして獲物への意欲増大と獲物自食を防ぐため肉味を避け米を与えたとある」との指摘を踏まえて、鷹狩用の犬だとしている[45]
  • 奈良文化財研究所の調べでは、その推定年俸(年収)は約4億円ともされる[46]
  • 長屋王がに送った千着の袈裟に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺繍されていた。これに心を動かされた鑑真は日本行きを決意したという[47]

長屋王に関する議論

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長屋親王説

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後述のとおり、長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば、親王は天皇の息子または孫に対して天皇から親王宣下を受けない限り名乗れなかったとされる。

これに対して、「長屋親王」はあくまでの長屋王家内部のみでの使用であったからこそ許された私称であり、公の場では用いることが出来ない物であったとする指摘もある。この説では、内部での使用に限って許容される私称が律令の規定に反して公の場で用いられることに対して反対する、というのが辛巳事件において「大夫人」の称号に反対した長屋王側の主張の根幹であったとしている(その裏側には天皇や藤原氏に対する国家の私物化に対する反発もあったと推測される)[48]

長屋王邸発掘調査と長屋王家木簡の出土

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昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけて、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)には奈良時代貴族邸宅址が大量の木簡群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した[注釈 3][49]

長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、二条大路に面し、南は曲水苑池の庭である平城京の左京三条二坊跡庭園と向かい合っている。約30,000m2を占めていた[注釈 4]。出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。また、奈良時代の貴族生活を知る貴重な遺産ともなったが、地元や研究者の反対にもかかわらず遺構の多くは建設により破壊され、奈良そごうイトーヨーカドー奈良店として利用されていた。

しかし両店とも2017年に閉店してしまう。このことから「長屋王の呪い」とも囁かれた[50]。翌2018年4月ミ・ナーラとしてリニューアルした。現在は敷地の一角に記念碑が設けられているのみである。

逸話

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  • 日本霊異記』では身分の低い僧を牙笏で打ち据えるような傲慢な人物として描かれており、そのために仏罰が下って滅ぼされたとしている。

官歴

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※ 注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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子孫の高階氏は、伯父の舎人親王系の清原氏と共に長く血統が続いた数少ない天武系後裔氏族でもあった。

系図

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34 舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古人大兄皇子
 
38 天智天皇
(中大兄皇子)
 
間人皇女(孝徳天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40 天武天皇
(大海人皇子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫王
(天智天皇后)
 
41 持統天皇
(天武天皇后)
 
43 元明天皇
(草壁皇子妃)
 
39 弘文天皇
(大友皇子)
 
志貴皇子
 
 
 
 
 
高市皇子
 
草壁皇子
 
大津皇子
 
忍壁皇子
 
 
 
 
 
長皇子
 
 
 
 
 
舎人親王
 
 
 
 
 
新田部親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛野王
 
49 光仁天皇
 
 
 
 
 
長屋王
 
44 元正天皇
 
42 文武天皇
 
吉備内親王
(長屋王妃)
 
 
 
 
 
文室浄三
(智努王)
 
三原王
 
47 淳仁天皇
 
貞代王
 
塩焼王
 
道祖王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池辺王
 
50 桓武天皇
 
早良親王
(崇道天皇)
 
桑田王
 
 
 
 
 
45 聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三諸大原
 
小倉王
 
 
 
 
 
清原有雄
清原氏
 
氷上川継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淡海三船
淡海氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
礒部王
 
 
 
 
 
46 孝謙天皇
48 称徳天皇
 
井上内親王
(光仁天皇后)
 
 
 
 
 
 
文室綿麻呂
文室氏
 
清原夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石見王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高階峯緒
高階氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

長屋王が登場する作品

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小説

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漫画

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宝塚歌劇

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、舎人親王は既に一品親王・知太政官事で既に最高の地位に達し、正三位大納言の多治比池守を昇叙させると官位相当から外れるために昇叙は行われずに封戸の増加が行われた。また、参議正四位上の阿倍広庭に関しては昇叙も益封も記載されていないが、5か月後には既に従三位に昇進していることが確認できるため、『続日本紀』の記載漏れとみられる(虎尾達哉)。
  2. ^ それを明言した同時代史料はないが、同年10月20日に長屋王の遺児・安宿王黄文王らに不定期の叙位があったのはその傍証とされる。
  3. ^ ただし、この邸宅について本来は吉備内親王及びその姉の氷高内親王(元正天皇)の邸宅であり、氷高の即位及び吉備と長屋王の婚姻によって長屋王も居住するようになった「吉備内親王邸」であるとする森田悌及び作家の永井路子による異説もある。
  4. ^ 邸宅の総面積は6万m²(4近く、約400m四方)に達する。参考・『詳説 日本史図録』 山川出版社 (第5版)2011年 p.51

出典

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  1. ^ 川崎庸之「長屋王時代」『記紀万葉の世界』東京大学出版会、1982
  2. ^ 木本好信「長屋王の年齢」『大伴旅人・家持とその時代』おうふう、1993年
  3. ^ a b 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  4. ^ a b 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P74-84)初版は1986年、P74-85
  5. ^ 『続日本紀』和銅6年4月25日条
  6. ^ 寺崎保広『長屋王』吉川弘文館、1999年
  7. ^ a b 森田[1993: 167]
  8. ^ 森田悌「行基の宗教運動」『古代国家と万葉集』
  9. ^ 『続日本紀』養老5年3月7日条
  10. ^ 『続日本紀』養老5年6月10日条
  11. ^ 『続日本紀』養老6年2月23日条
  12. ^ a b 『続日本紀』養老6年閏4月25日条
  13. ^ 『続日本紀』養老7年4月8日条
  14. ^ 森田[1993: 165]
  15. ^ 『続日本紀』養老7年4月17日条
  16. ^ 森田[1993: 164]
  17. ^ 『続日本紀』養老4年9月28日条
  18. ^ 『続日本紀』養老4年9月29日条
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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