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鷹司政平

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鷹司政平
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 文安2年(1445年
死没 永正14年閏10月18日1517年12月1日
別名 号:専称院、法名:上玄、道号:天理
官位 従一位関白内覧太政大臣
主君 後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇
氏族 鷹司家
父母 父:鷹司房平
兄弟 政平教玄信玄性深尊雅政玄
一条経子(一条兼良の娘)
兼輔
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鷹司 政平(たかつかさ まさひら)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿鷹司家10代当主。

関白鷹司房平の子。官位従一位・関白、太政大臣

「政」の字は室町幕府8代将軍足利義政より偏諱を受けたものである。

生涯の出来事

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近衛家への依存

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応仁の乱後の時期において、鷹司家は同じ「近衛流」である近衛家と良好な関係にあったが、その実態は近衛家による扶助に大きく依存するものであった。
例えば、『後法興院政家記』によると、応仁元年(1467年)4月、足利義政が鷹司邸へ渡御した際、鷹司房平(当時、前関白)は近衛家から手長侍(随員)や装束(大口・小直衣の帯など)を借り受けている。

自鷹司前関白許有使、来廿五日武家可有渡御也、手長侍両三人可召賜云々、無子細之由被申之、(中略)自鷹司殿大口小直衣帯等被借用、則被借遣了、明後日武家渡御云々、


また、文明15年(1483年)に政平が関白に就任した際にも、近衛政家から人員や装束の貸与を受けて儀式を行っており、公私にわたり近衛家の援助なしには活動が困難な状況にあったことが窺える。

今夜詔宣下也、鷹司前左相府蒙関白詔、(中略)今夜自鷹司、忠綱長貞等被召、渡装束少々被借用、

さらに、政平が荘園(摂津国細河庄)の還付を受けて幕府に御礼言上を行った際も、その帰路に近衛邸へ立ち寄っており、政治的な折衝においても近衛家の助勢を受けていた可能性が指摘されている。

鷹司前関白今日被参武家云々、家領摂州細河庄被還補、為其礼也、帰路被来、

加えて、他家との人間関係のトラブルにおいても近衛家の仲介を必要とする場面があった。『後法興院政家記』延徳2年(1490年)9月3日の条によると、鷹司政平と当時の関白・一条冬良の間には2、3年にわたる不和が生じていたが、これを見かねた近衛政家が和睦の場を設けて仲を取り持った事例も確認されている。

早旦鷹司前関白被来、此両三年鷹司与関白有不快事、余今日以事次令計略和睦之儀、仍令張行朝飧之汁、今日則鞠会也、

近衛政家への対抗と文明15年の座次相論

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近衛家から多大な援助を受けていた一方で、政平は近衛政家に対する対抗意識が強く、特に席次に関しては一歩も譲らない姿勢を見せた。
文明11年(1479年)、近衛政家が関白に就任した際、当時左大臣であった政平は内覧の宣旨を受けていたにもかかわらず、内大臣であった政家に地位を超越されることに激しく抗議した。この抗議により、政家への関白一座宣下が一時延期される事態となった。
この「座次相論」はその後も収まらず、文明15年に政平自身が関白に再任された際も、政家との席次について外記に勘文を提出させて争った。政家の晩年に至っても、幕府への参賀の日程をずらすことで同席を回避するなど、政平は終生、政家に超越されたことを根に持ち続けたとされる。
特に文明15年(1483年)3月、当時関白であった政平は、前関白である近衛政家との間で、朝廷内における座次の順序をめぐって争議となった。この問題は、現職の関白と前関白のどちらが上席となるかという先例に関わるものであった。『後法興院政家記』には、政家が官務(大外記)や故実家に調査を命じ、他家の長老に意見を求めるなどして奔走した様子が記されている。
同記の文明15年3月22日条には、事の発端と過去の先例について以下のように記されている。

大外記師富朝臣来、令対面、余与当関白座次事、昨日相尋之処、所見不分明由申之、退出後又重来、令勘進一紙、古来此儀未一決欤、
御座次事、師富注進也、
後猪熊関白殿下後円光院関白殿下御超越之時、元徳二、元弘三年十月一日平座見参、外記以職事経奏聞之処、内覧人先可除之由、被仰下之間、内覧冬教公経教公両公不奉載之云々、 享徳四年正月一日節会見参、以彼例二条前殿下不奉載之云々、師富、
座次事、一昨日清三位宗賢卿、左大史雅久等、可勘進先例由仰遣了、重可令注進之由申之、今日又以書状、尋申二条大閣処、有客来事、従是可有返答云々、

記述によれば、大外記の中原師富が調査したところ、過去の元徳・元弘年間(1330年代)に近衛経忠と鷹司冬教の間でも同様の争いがあり、その際は平座(同格の席)とされたが、内覧の席を外すよう勅命が下ったことで両者が反発し出仕しなかった例や、享徳4年(1455年)に二条持通がこの先例を理由に出仕を拒んだ例などが報告された。政家はさらに舟橋宗賢や壬生雅久らにも調査を命じている。
翌23日には、二条持通からの返答が届き、続く25日、27日にも調査が継続されたことが記録されている。

二十三日、乙卯、晴陰、(中略)自太閤昨日之返報到来、云当職任日、云一座宣下、旁以上首段不可有予儀由、被注進、
二十五日、丁巳、晴、清三位宗賢卿申送云、御座次事、引勘処、所見不分明云々、
二十七日、己未、陰、(中略)長興宿禰来、相談座次事、未一決也、

二条持通からは「現職の任日や一座宣下を考慮すれば、上席であることに疑いの余地はない」との見解が示されたものの、舟橋宗賢の調査では明確な根拠が見つからず、27日の時点でも「未だ決着せず」とあるように、政平と政家の席次争いは難航したことが窺える。こうした一連の行動からは、政家が有職故実の知識を追求・吸収しようとする姿勢を窺い知ることができるが、一方で政平がいかなる行動をとったかについては、現状詳らかではない。

盗賊の撃退

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長享2年(1488年12月7日 (旧暦)の夜、前関白となっていた政平の邸宅に盗賊が押し入る事件が発生した。この際、政平は自ら武具を取って応戦し、これを撃退している。当時の公家社会の様子を伝える近衛政家の日記『後法興院政家記』および三条西実隆の日記『実隆公記』には、翌12月8日の条にこの事件の詳細が記録されている。
『後法興院政家記』には以下のように記されている。

去夜鷹司前関白第盗人乱入云々、主公以半弓被射払、又照念院被出逢、兄弟両人、被相支間、女中辺衣服等少々取之退散云々、遣使者相吊之、被答本意之由、

この記述によれば、邸宅に盗人が乱入した際、主君である政平は短弓を持って自ら射払い、またその場に居合わせた弟の照念院と共に防戦した。盗賊は女中部屋付近の衣服などをわずかに奪って退散したという。政家が見舞いの使者を送ると、政平からは無事に撃退できたことは「本意」であるとの返答があった。
また、『実隆公記』にも以下のようにある。

後聞、昨夜盗人乱入鷹司前関白亭云々、

実隆もまた、前夜に政平邸へ盗賊が乱入したことを聞き及んでおり、当時の京中における治安の悪化と、それに立ち向かう政平の剛毅さを伝えている。

死去と関白兼輔の服喪

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永正14年閏10月18日、政平は73歳でその生涯を閉じた。近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』によれば、死因は赤痢(痢病)であり、14、5日前からの患いであったという。尚通は政平の死に対し、言葉にならないほどの深い悲しみを記している。

今日鷹司禅閣入滅云々、十四五日痢病云々、雖不于今始事、言語道断、悲嘆々々、

また、広橋守光の日記『守光公記』には、臨終前後の慌ただしい様子が描かれている。守光は政平の容態急変を知らず、夜になって屋敷に駆けつけたが、すでに政平は息を引き取った後であった。関白である息子の鷹司兼輔は、庭にて涙ながらに対面し、父の死を嘆いた。

後十月十八日、鷹司禅閣被薨云々、今日御歓楽一向不存知、秉燭之時分令馳参処、已御事云々、殿下於地上御対面、驚存由申入畢、御悲涙尤々、御称号事被仰下、後ト可被号、無□□如何様罷帰、可申入之旨令言上、御年齢七十三云々、

翌19日には、政平の追号についての相談が行われた。『守光公記』によれば、鷹司家の実質的な祖である鷹司兼平の号「称念院」にちなみ、「専念院」や「専称院」などが候補として挙がった。これらが関白兼輔に諮られ、最終的に「専称院」と定まったことが記されている。

十九日、午陰時分罷向逍遥院、双瓶并白壁令随身、予三条黄門有座下、下冷入道、就近辺招之、則来談、一身及沈酔、称号事、称念院関白以来一流御最所也、然者専念院・専称院之間可然歟之由被申間、則可注給由令申処、被注白麻、令悦謁、則参殿下、於門下御対面、専称院可然之由御加点也、称念院・不断光院出逢、不羅注之、

なお、政平の死後、現職の関白兼輔の実父が死去した際の儀礼について、広橋守光や鷹司家から近衛尚通へ問い合わせがあり、尚通が先例を書き送ったことが『後法成寺尚通公記』に記録されている。

広橋中納言許、御当職中御実父御他界之例可注下之由申送間、注遣之了、従鷹司被相尋之間、若申送欤、

中御門宣胤の日記『宣胤卿記』にも、政平の死とそれに伴う朝廷内の動きが記録されている。

閏十月二十日、晴、近日鷹司禅閣薨給云々、御命日、十八日、七十三才、御称号等可尋記、当関白御父也、

その後、現職の関白である兼輔の除服と復任の手続きについて、朝廷内で疑義が生じた。同年12月24日、甘露寺伊長が宣胤のもとを訪れ、関白の除服・復任に関する書式について相談を持ちかけた。 宣胤は、かつて一条冬良が母の喪に服した際の先例を引いたが、当時は冬良が無官であったため復任の沙汰は不要であった。しかし、今回の兼輔は現職の左大臣でもあるため、復任の宣下が必要か否か、単に左大臣として扱うべきか、あるいは関白職として扱うべきか、判断が難しかった。宣胤は「即答できない」と答えたが、後に聞いたところによれば、現職の関白が除服・復任を行う先例自体が存在しないということであった。

十二月二十四日、晴、頭弁来、左中弁伊長朝臣、関白除服復任事被申、書様問之、関白ハ無除服宣下、一暮之間無出仕之由、後妙華寺関白御演説、彼御母喪之時、為其分被注置、御伝分明也、其時関白無官也、仍復任事不及沙汰、今度御当官左大臣也、於復任者、可被宣下欤、然只左大臣ト許アルモ、似非関白、又関白職也、不可有復任、是非当座無覚悟之由答之、後聞、関白除服復任事無例云々、

評価

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政平は摂関家の当主として高位に昇ったが、公家社会においてその能力に対する評価は極めて厳しいものであった。
小槻長興は日記『長興宿禰記』において、文明11年(1479年)に政平が近衛政家に官職を超越された際、世間では政平の才覚のなさを理由に当然視されていたと記している。

関白宣下并小除目被行之、近衛右大臣殿政家令蒙関白詔給、御上首左大臣政平公、鷹司殿、依無御才覚、御当職難叶由、兼日及御沙汰令蒙内覧宣旨給計也、


また、中院通秀は『十輪院内府記』文明17年(1485年)5月6日条において、政平が家領を喪失したことについて触れ、無学でありながら太政大臣にまで昇ったことへの「罰」であると辛辣に批判した。

伝聞、関白家領飛行云々、是一文不通之臣任相国之罰欤、


歴史学者の石原比伊呂は、政平を「能力不足でありながら、プライドだけは高い、面倒なトラブルメーカー」であったと評しつつ、それでも近衛政家は鷹司家を見放さず、辛抱強く扶助し続けていたと論じている。

専称院関白政平公書状切

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『大手鑑』陽明文庫蔵 古筆手鑑大成11より
来十一月可被行御即位候、内弁事右府可存知之由承候、訖涯分可構試候、但一向無足窮迫体、過法候之条、于今不能拝趨候、悉皆為、公方不被垂御憐愍、者私力難事行候、更非姧曲候、此等之趣可然之様、可被披露之状、如件、
五月十七日(花押)
頭中将殿

関白鷹司政平の自筆書状で、来る11月に即位の儀式が行われること、儀式の進行役(内弁)である右大臣が務めること等について承諾の旨を答え、併せてこの儀式が費用窮乏のためこれまで行われなっかたもので、実現のためには室町将軍の援助が必要であり、自分の力では何も出来ない旨を訴え、それが決して怠慢や口実ではないことを強調している。
年記がないため明らかでないが、料紙の右端上にもとの端書部分と思われる押紙小片があり、それに「鷹司前関白」とあるから、おそらく政平が関白を辞した長享元年(1487年)2月以降の書状と思われ、本文言う即位大礼のことは後柏原天皇のあとを嗣いて践祚されたが、当時朝廷は戦乱のため即位大礼の費用に事欠き、その実現をみたのは践祚後21年後の大永元年(1521年)年3月であった。
書状に見える「右府」および「頭中将殿」の人物比定について、長享元年2月から大永元年3月の間に右大臣を務めた人物としては、大炊御門信量花山院政長近衛尚通今出川公興二条尚基久我豊通九条尚経西園寺公藤鷹司兼輔三条実香ら11名が挙げられる。また、同時期に蔵人頭兼中将を務めた人物には、三条西実隆正親町三条実望庭田重経三条西公条中山康親正親町実胤正親町三条公兄ら7名がいるが、本状は年記がないため、具体的に誰を指すかは不詳である。
この政平自筆書状はその間の事情を伝えるもので、文中に「一向無足窮迫体、過法候之条、于今不能拝趨候」と政平自身その実現に尽力した有様を述べている。政平が薨じたのは永正14年(1517年)73歳の時であるから、この書状に言う即位の儀は実現せず、政平は遂に後柏原天皇の即位大礼を見ることなく薨逝したこととなる。

官歴

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鷹司政平の官歴表
和暦(西暦) 月日 [注 1] 年齢 [注 2] 事項
寛正2年(1461年 8月8日(9月12日) 17歳 従三位に叙す
寛正3年(1262年 月日不詳 18歳 権中納言に任ず
寛正4年(1463年 1月5日(1月24日) 19歳 正三位に昇叙
寛正5年(1464年 7月5日(8月7日) 20歳 権大納言に転任、左近衛中将を辞す
寛正6年(1465年 1月5日(1月31日) 21歳 従二位に昇叙
応仁2年(1468年 12月(1469年1月 - 2月) 24歳 内大臣に転任
文明4年(1472年 1月5日(2月13日) 28歳 正二位に昇叙
文明7年(1475年 3月10日(4月15日) 31歳 右大臣に転任
文明8年(1476年 8月28日(9月16日) 32歳 左大臣に転任
文明11年(1479年 3月23日(4月15日) 35歳 従一位に昇叙
3月26日(4月18日) 左大臣を辞す
文明15年(1483年 2月24日(4月1日) 39歳 関白宣下(後土御門天皇
文明17年(1485年 3月20日(4月5日) 41歳 太政大臣に転任
4月19日(6月1日) 太政大臣を辞す
文明19年(1487年 2月9日(3月4日) 43歳 関白を辞す
永正14年(1517年 11月1日(12月13日) 73歳 薨去

系譜

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脚注

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注釈

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  1. 括弧内は西暦換算(和暦の11月末から12月は西暦では翌年の1月から2月に対応することがある)。
  2. 本表ের年齢は数え年表記である。1445年(文安2年)を誕生年(1歳)として各年の年齢を算出している。

出典

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参考文献

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公職
先代
久我通博
太政大臣
1485
次代
近衛政家
先代
近衛政家
関白
1483 - 1487
次代
九条政忠
先代
日野勝光
左大臣
1476 - 1479
次代
近衛政家
先代
九条政基
右大臣
1475 - 1476
次代
近衛政家
先代
日野勝光
内大臣
1469 - 1475
次代
近衛政家