徳大寺実基
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『天子摂関御影』 | |
| 時代 | 鎌倉時代中期 |
| 生誕 | 建久5年(1194年)/建仁元年(1201年) |
| 死没 | 文永2年10月24日(1265年12月10日)/文永10年2月14日(1273年3月11日) |
| 改名 | 実基 → 圓覚(法名) |
| 別名 | 徳大寺相国、水本太政大臣、徳大寺入道前太政大臣 |
| 官位 | 従一位、太政大臣 |
| 主君 | 後鳥羽上皇 → 順徳天皇 → 仲恭天皇 → 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
| 氏族 | 藤原北家閑院流徳大寺家 |
| 父母 | 父:徳大寺公継、母:五条夜叉(白拍子) |
| 兄弟 | 実嗣、実基、実助、実真、実縁 |
| 妻 | 家女房(鷹司頼平の娘?) |
| 子 | 公孝、道基、公信、教子、女子 |
徳大寺 実基(とくだいじ さねもと、建久5年〈1194年〉/建仁元年〈1201年〉- 文永2年〈1265年〉/文永10年〈1273年〉)は、 鎌倉時代中期の公卿、歌人。左大臣・徳大寺公継の次男。官位は従一位・太政大臣。徳大寺家5代。通称は徳大寺相国、水本太政大臣など。徳大寺家で初めて太政大臣に昇り、院評定衆として後嵯峨院政を支えた。日記に『実基公記』がある。
経歴
[編集]建保元年(1213年)叙爵。以降、侍従・右近衛少将・讃岐介・右近衛中将・左近衛中将を経て、承久元年(1219年)従三位に叙せられ、公卿に列する。承久3年(1221年)正三位に昇叙。
元仁元年(1224年)参議を経ずに権中納言に昇進。その後は嘉禄元年(1225年)従二位、安貞2年(1228年)正二位、寛喜3年(1231年)中納言、嘉禎元年(1235年)権大納言と昇進を重ねる。この間に左衛門督・中宮権大夫・中宮大夫を歴任。
延応元年(1239年)権大納言を辞するも、仁治2年(1241年)に大納言に復帰し、左近衛大将を兼ねる。
寛元4年(1246年)左右大臣を経ずに内大臣に任ぜられ、建長2年(1250年)内大臣を辞す。建長5年(1253年)太政大臣に任ぜられる。翌建長6年(1254年)太政大臣を辞す。
人物像
[編集]内大臣に任ぜられた寛元4年(1246年)に鎌倉幕府の要請で創設された院評定の一員となり、後嵯峨院政を支えた。建長5年(1253年)に徳大寺家から初めての太政大臣に至り、翌建長6年(1254年)に従一位に叙される。その後すぐに上表し文永2年(1265年)に出家するが、出家後も後嵯峨院の信任が厚く、その諮問に応じて14か条からなる奏状を提出している。
学問や故実に深く通じる一方で、必要があれば先例に拘らずに現実的な判断を下すことを是とした。こうした彼の言動は、『徒然草』に伝えられる2つの挿話[3]や後嵯峨院に充てた奏状にも反映されており、奏状の王権至上主義と合理主義・撫民重視の姿勢は、実基没後に展開される弘安徳政にも影響を与えたと考えられている。日記『実基公記』(『徳大寺相国記』)が断簡として現存する他、行幸や譲位に関する部類記が伝えられている。
検非違使別当などを歴任して法律に明るく、文永元年(1264年)には後深草上皇に名例律を進講している[4]。また、中原章澄が文永4年(1267年)に編纂した法書『明法条々勘録』は、実基から諮問を受けた回答を元にして書かれているが、実基の方も具体的な法令や学説、勘文などを出しながら諮問を行っており、彼が高い法律知識を有していたことが分かる[5]。
前内大臣から太政大臣への補任
[編集]寛元4年(1246年)に久我通光が前内大臣から太政大臣に補任されたが、この時までに前内大臣から太政大臣に任ぜられた者はいなかったのである。実基は久我通光の昇進を先例として前内大臣から太政大臣に昇進した2人目であり、その後は西園寺実兼、洞院公守、土御門定実、大炊御門信嗣、三条実重、久我通雄が鎌倉時代に同様の昇進をした。この頃、摂関家が五つに分立し摂家の嫡男が若くして大臣に昇進することが多く、加えて西園寺家から嫡男以外の大臣も輩出したため、前内大臣から太政大臣へという昇進ケースが生み出されたと考えられる。実基は徳大寺家では初の太政大臣就任であるが、右大臣・左大臣を経ていないこと、太政大臣に任ぜられてから従一位に叙せられ、従一位昇叙後は約一ヵ月後に太政大臣を辞任していることなどから、まさに名誉職的昇進とみることができる[6]。
官歴
[編集]『公卿補任』による
- 建保元年(1213年) 正月13日:叙爵(従五位下)。12月14日:侍従
- 建保2年(1214年) 正月3日:従五位上(朝観行幸、修明門院御給)。10月28日:右近衛少将。
- 建保3年(1215年) 正月13日:讃岐介
- 建保4年(1216年) 正月5日:正五位下(修明門院御給)。正月28日:右近衛中将、左近衛中将
- 建保6年(1218年) 正月5日:従四位上(修明門院当年御給)
- 承久元年(1219年) 正月5日:正四位下(院御給)12月13日:従三位(左中将如元)
- 承久3年(1221年) 正月13日:兼遠江権守。11月16日:正三位(院御給)
- 元仁元年(1224年) 12月25日:権中納言
- 嘉禄元年(1225年) 11月19日:兼左衛門督、補別当。12月22日:従二位(臨時)
- 嘉禄2年(1226年) 7月29日:中宮権大夫(立后)
- 安貞元年(1227年) 正月4日:辞督別当等。4月20日:転中宮大夫
- 安貞2年(1228年) 正月5日:正二位
- 寛喜元年(1229年) 4月18日:止大夫(院号)
- 寛喜3年(1231年) 4月26日:転中納言
- 嘉禎元年(1235年) 10月2日:権大納言(宣命)。11月20日:大嘗会検校
- 延応元年(1239年) 10月28日:辞権大納言
- 仁治2年(1241年) 4月17日:還大納言。10月13日:兼左近衛大将
- 寛元4年(1246年) 12月24日:内大臣(左大将如元)
- 宝治2年(1248年) 3月9日:辞左大将
- 建長2年(1250年) 4月27日:辞内大臣
- 建長5年(1253年) 11月24日:太政大臣
- 建長6年(1254年) 2月11日:辞太政大臣(上表)
- 文永2年(1265年) 9月某日:出家。12月14日:薨去(享年64)
系譜
[編集]注釈のないものは『宮廷公家系図集覧』による[1]
作品
[編集]| 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 続拾遺和歌集 | 徳大寺入道前太政大臣 | 1 | 新後撰和歌集 | 玉葉和歌集 | ||||
| 続千載和歌集 | 続後拾遺和歌集 | 1 | 風雅和歌集 |
参考文献
[編集]- 笠松宏至「徳大寺実基」(『日本史大事典』 第5巻、平凡社、1993年。doi:10.11501/13244232。ISBN 4-582-13105-0。)
- 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。doi:10.11501/13134523。ISBN 4-490-20243-1。
- 橋本義彦『平安貴族』平凡社〈平凡社選書97〉、1986年。doi:10.11501/12239764。
- 水戸部正男「徳大寺実基」(国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第10巻、吉川弘文館、1989年。doi:10.11501/12986683。ISBN 4-642-00510-2。)
- 山岸徳平 編『八代集全註』 第3巻、有精堂出版、1960年。doi:10.11501/1345688。
- 吉田兼好 著、西尾実、安良岡康作 編『徒然草』(新訂)岩波書店〈岩波文庫〉、1985年。doi:10.11501/12454859。