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徳大寺実基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳大寺 実基
時代 鎌倉時代中期
生誕 建久5年(1194年)/建仁元年(1201年
死没 文永2年10月24日1265年12月10日)/文永10年2月14日1273年3月11日
改名 実基 → 圓覚(法名)
別名 徳大寺相国、水本太政大臣、徳大寺入道前太政大臣
官位 従一位太政大臣
主君 後鳥羽上皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 藤原北家閑院流徳大寺家
父母 父:徳大寺公継、母:五条夜叉(白拍子
兄弟 実嗣実基、実助、実真、実縁
家女房(鷹司頼平の娘?)
公孝、道基、公信、教子、女子
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徳大寺 実基(とくだいじ さねもと、建久5年〈1194年〉/建仁元年〈1201年〉- 文永2年〈1265年〉/文永10年〈1273年〉)は、 鎌倉時代中期の公卿、歌人。左大臣徳大寺公継の次男。官位従一位太政大臣徳大寺家5代。通称は徳大寺相国水本太政大臣など。徳大寺家で初めて太政大臣に昇り、院評定衆として後嵯峨院政を支えた。日記に『実基公記』がある。

経歴

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建保元年(1213年叙爵。以降、侍従右近衛少将讃岐介右近衛中将左近衛中将を経て、承久元年(1219年従三位に叙せられ、公卿に列する。承久3年(1221年正三位に昇叙。

元仁元年(1224年参議を経ずに権中納言に昇進。その後は嘉禄元年(1225年従二位安貞2年(1228年正二位寛喜3年(1231年中納言嘉禎元年(1235年権大納言と昇進を重ねる。この間に左衛門督中宮権大夫中宮大夫を歴任。

延応元年(1239年)権大納言を辞するも、仁治2年(1241年)に大納言に復帰し、左近衛大将を兼ねる。

寛元4年(1246年)左右大臣を経ずに内大臣に任ぜられ、建長2年(1250年)内大臣を辞す。建長5年(1253年太政大臣に任ぜられる。翌建長6年(1254年)太政大臣を辞す。

文永2年(1265年出家圓覚と号す。同年薨去、享年64[注釈 1]

人物像

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内大臣に任ぜられた寛元4年(1246年)に鎌倉幕府の要請で創設された院評定の一員となり、後嵯峨院政を支えた。建長5年(1253年)に徳大寺家から初めての太政大臣に至り、翌建長6年(1254年)に従一位に叙される。その後すぐに上表し文永2年(1265年)に出家するが、出家後も後嵯峨院の信任が厚く、その諮問に応じて14か条からなる奏状を提出している。

学問や故実に深く通じる一方で、必要があれば先例に拘らずに現実的な判断を下すことを是とした。こうした彼の言動は、『徒然草』に伝えられる2つの挿話[3]や後嵯峨院に充てた奏状にも反映されており、奏状の王権至上主義と合理主義・撫民重視の姿勢は、実基没後に展開される弘安徳政にも影響を与えたと考えられている。日記『実基公記』(『徳大寺相国記』)が断簡として現存する他、行幸譲位に関する部類記が伝えられている。

検非違使別当などを歴任して法律に明るく、文永元年(1264年)には後深草上皇名例律を進講している[4]。また、中原章澄が文永4年(1267年)に編纂した法書『明法条々勘録』は、実基から諮問を受けた回答を元にして書かれているが、実基の方も具体的な法令や学説、勘文などを出しながら諮問を行っており、彼が高い法律知識を有していたことが分かる[5]

続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に2首が入集する[2]

前内大臣から太政大臣への補任

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寛元4年(1246年)に久我通光が前内大臣から太政大臣に補任されたが、この時までに前内大臣から太政大臣に任ぜられた者はいなかったのである。実基は久我通光の昇進を先例として前内大臣から太政大臣に昇進した2人目であり、その後は西園寺実兼洞院公守土御門定実大炊御門信嗣三条実重久我通雄が鎌倉時代に同様の昇進をした。この頃、摂関家が五つに分立し摂家の嫡男が若くして大臣に昇進することが多く、加えて西園寺家から嫡男以外の大臣も輩出したため、前内大臣から太政大臣へという昇進ケースが生み出されたと考えられる。実基は徳大寺家では初の太政大臣就任であるが、右大臣・左大臣を経ていないこと、太政大臣に任ぜられてから従一位に叙せられ、従一位昇叙後は約一ヵ月後に太政大臣を辞任していることなどから、まさに名誉職的昇進とみることができる[6]

官歴

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公卿補任』による

系譜

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注釈のないものは『宮廷公家系図集覧』による[1]

作品

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勅撰集

歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
続拾遺和歌集 徳大寺入道前太政大臣 1 新後撰和歌集 玉葉和歌集
続千載和歌集 続後拾遺和歌集 1 風雅和歌集

参考文献

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脚注

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注釈

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  1. 享年72とする文献もある[1]。また、文永10年2月14日1273年3月11日)に73歳で亡くなったとする文献もある[2]

出典

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  1. 1 2 近藤 1994, p. 310.
  2. 1 2 山岸 1960, p. 86.
  3. 『徒然草』第206段と207段。
  4. 「新抄(外記日記)」文永元年1月9日条
  5. 長又高夫「法書『明法条々勘録』の基礎的研究」『中世法書と明法道の研究』(汲古書院、2020年)P122-160.(原論文:2009年)
  6. 久我通光は太政大臣就任と同時に従一位に叙されたが、西園寺実兼から久我通雄までは太政大臣に任ぜられる前に従一位に叙せられるのである。
  7. 公卿補任