藤原永手

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藤原永手(菊池容斎『前賢故実』)

藤原 永手(ふじわら の ながて、和銅7年(714年) - 宝亀2年2月21日771年3月11日))は、奈良時代貴族藤原北家の祖・参議藤原房前の次男。官位正一位左大臣太政大臣長岡大臣と称する。

経歴[編集]

和銅7年(714年)、藤原北家の祖・房前の次男として誕生。長男鳥養が夭折したため、実質的に北家の長となる。

天平9年(737年)、従六位上から従五位下に昇叙されるが、聖武天皇退位する直前の天平21年(749年)に従四位下に叙せられるまで従五位下に留まるなど、聖武朝では天皇の寵遇を得た同母弟・八束(のち真楯)とは対照的に昇進が停滞し、その後塵を許した。

孝謙朝に入ると重用され、天平勝宝2年(750年従四位上、天平勝宝6年(754年従三位と急速に昇進し公卿に列す。さらに天平勝宝8年(756年)、聖武上皇の崩御直後には非参議から一挙に権中納言に昇進した[1]

一方で、当時の実力者であった藤原仲麻呂とは対立関係にあったとされ[2]天平宝字元年(757年)の道祖王廃太子の際には、孝謙天皇の皇嗣として藤原豊成とともに塩焼王を推挙し(結局、仲麻呂の意中であった大炊王(のちの淳仁天皇)が皇太子となる)、天平宝字2年(758年)8月25日に開かれた仲麻呂による官号改易の際の太政官の会議に議政官では唯一欠席している。そのために、天平勝宝9年(757年)に仲麻呂が朝廷の全権を把握して以降、中納言として石川年足あるいは文室浄三についで太政官の第3位の席次にあったものの、政治的には不遇の状況に置かれた。

天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位大納言に叙任、勲二等を叙勲される。その後、道鏡政権が成立し右大臣藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。天平神護2年(766年)には右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。

神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御に伴う皇嗣問題では、天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文室浄三大市を推した吉備真備に対して、式家藤原良継百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている[3]

宝亀2年(771年)2月に病により薨去。享年58。即日太政大臣官職を贈られた。

系譜[編集]

略歴[編集]

参考文献[編集]

  • 吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、1994年 『律令貴族成立史の研究』塙書房2006年 ISBN 978-4-8273-1201-0 所収)

脚注[編集]

  1. ^ 公卿補任
  2. ^ ただし、天平勝宝7年(755年)の橘奈良麻呂の乱では奈良麻呂への訊問使となり、奈良麻呂排斥に重要な役割を果たしている。
  3. ^ ノート:他戸親王参照。
  4. ^ 『日本文徳天皇実録』天安元年11月5日条

関連項目[編集]