藤原広嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
藤原広嗣 『前賢故実』より

藤原 広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年不詳 - 天平12年11月1日740年11月24日))は、奈良時代貴族藤原式家の祖である参議藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の娘。官位従五位下大宰少弐

生涯[編集]

天平9年(737年)4月から8月にかけて聖武朝前半の朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなったのち、9月に従六位上から三階昇進して従五位下叙爵式部少輔を経て、天平10年(738年)4月に大養徳守を兼任する。しかし、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に[1]同年12月4日に大宰少弐左遷される。

天平12年(740年)8月に広嗣は天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督吉備真備と僧正・玄昉に起因するため、二人を追放すべきとの上奏文を朝廷に送るが[2]、時の権力者右大臣橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。

広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした[3]。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、10月23日に肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられ[4]、11月1日に綱手とともに肥前国松浦郡にて処刑された[5]藤原広嗣の乱)。この反乱によって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった[要出典]

広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する鏡神社はその勧請を受けたものである。

官歴[編集]

続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』天平12年9月4日条
  2. ^ 『続日本紀』天平12年8月29日条
  3. ^ 『続日本紀』天平12年9月3日条,10月9日条
  4. ^ 『続日本紀』天平12年11月3日条
  5. ^ 『続日本紀』天平12年11月5日条

参考文献[編集]

  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、1995年
  • 八木充「藤原広嗣の叛乱」『山口大学文学会志』11-2
  • 坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」『古典と歴史』
  • 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」『歴史教育』3-5
  • 栄原永遠男「藤原広嗣の乱の展開過程」『太宰府古文化論叢』上巻
  • 柳雄太郎「広嗣の乱と勅符」直木孝次郎博士古稀記念『古代史論集』中巻
  • 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」『白鳳天平の世界』
  • 竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」『古代の日本』3、九州
  • 北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」『日本古代政治史の研究』
  • 利光三津夫「広嗣の乱の背景」『律令制の研究』
  • 木本好信「藤原広嗣の乱について」『奈良朝政治と皇位継承』

広嗣を題材にした作品[編集]

  • 『朱盗』
司馬遼太郎による短編小説。『オール讀物』1960年5月号に発表。新潮文庫『果心居士の幻術』(ISBN 978-4101152233) に収録。反乱を夢想していた広嗣が、偶然から「扶余の穴蛙(あなかわず)」と名のる奇怪な百済人の男と出会い、俗世のことをまるで意に介さずに超然としているその生き方に不思議な興をかき立てられる。