藤原清河

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藤原清河/『前賢故実』より

藤原 清河(ふじわら の きよかわ、生年不詳 - 宝亀9年(778年))は奈良時代貴族藤原北家の祖である参議藤原房前の四男。母は片野朝臣の女。唐名河清官位従三位参議従一位

遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂唐朝に仕えたが、暴風安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去した。

来歴[編集]

天平12年(740年)、正六位上から従五位下に叙せられる。聖武朝で順調に昇進して天平18年(746年)には従四位下に昇叙、天平勝宝元年(749年)の孝謙天皇即位に伴い参議に任じられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる[1]。副使には大伴古麻呂吉備真備が任じられた。天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。遣唐使一行はに到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。その席上、日本の席次は西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるはずなのに、新羅が東畔第一席で日本より上席だったことに抗議、新羅と席を替わらせて日本の面目を保っている。

同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐が35年にもおよび唐の高官になっていた阿倍仲麻呂を伴って帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行も乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。しかし副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう、現在のベトナム北部)に漂着する[2]。土人に襲われて船員の多くが殺害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。天平勝宝7歳(755年)、清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。

天平宝字3年(759年)、清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし当時の唐は安史の乱で争乱状態だったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。天平宝字7年(763年)、日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)には従三位に昇叙している。

清河は帰国できないまま在唐十余年に及び、宝亀8年(777年)に次回の遣唐使が入唐したが、その翌年に清河は唐で客死した。唐からは路州大都督の官が贈られた。なお、清河は唐の婦人と結婚して喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。

官歴[編集]

補注[編集]

  1. ^ 続日本紀』天平勝宝2年9月24日条
  2. ^ 井上靖の『天平の甍』では沖縄までは来たが出航時に座礁。その後遭難して安南に漂着したと書かれている。