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近衛政家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衛政家
時代 室町時代中期-戦国時代前期
生誕 文安元年8月1日(1444年9月12日)[1]
死没 永正2年6月19日(1505年7月20日)
別名 霞(一字名)
諡号 後法興院
官位 従一位、関白、内覧、太政大臣、准三宮
主君 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛房嗣、母:播磨局
兄弟 教基、政家、道興、増運、政深、政家
妻 北小路俊子
子 尚通、良誉、大聖院、女子
花押 近衛政家の花押
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近衛 政家(このえ まさいえ)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家14代当主。一字名は霞。号は後法興院。

生涯

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文安元年(1444年)、関白・太政大臣を務めた近衛房嗣(ふさつぐ)の次男として生まれる(生年については1445年、1446年説もあり)。兄に近衛教基(右大臣)、弟に道興(大僧正准三后)、増運(大僧正准三后)、政深(権僧正法印)、政弁(大僧正)らがいる。

元服の際には室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受けて政家と名乗る(弟の政深、政弁も同様)。

寛正3年(1462年)、兄の教基が男子なくして死去したのに伴い、政家が近衛家を嗣ぐことになる。

翌年、従三位に叙され、右近衛中将に任ぜられる。その後も連年昇進を続け、応仁元年(1467年)には権大納言となり、文明4年(1472年)には正二位内大臣となる。

応仁の乱が終熄した文明11年(1479年)に関白左大臣となる。同15年関白を辞した後、長享2年(1488年)太政大臣に任命される(翌々年辞去)。明応6年(1497年)には准三宮となった。

永正2年(1505年)6月19日、薨去。享年62。なお、正室はおらず、家女房である北小路俊子が生んだ尚通が後を継いだほか、別の女性との間に良誉(興福寺別当・大僧正)を儲けている。

文化人としての側面

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政家は和歌に優れており、その歌は『新撰菟玖波集』に入集している。なお明応9年8月13日(1500年9月6日)に近江守護六角高頼の招待で琵琶湖へ出向していた政家が、近江八景の和歌8首を即興で詠んだことが、近江八景の由来として広く知られているが、近年では八景の始まりは政家によるものではない(政家はこの時期、近江へ下向していない)とする説も有力である。

記録の疎開と利用

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近衛家では、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめとする父祖の日記や朝廷儀式関係の記録が、家の活動や存立を支える家産として相伝されていた。これらは、先例が重視される公家社会において、朝儀への参加や各種の諮問に応じるための情報源でもあった[2]。政家は文正元年(1466年)6月15日から24日まで、「代々御記」をはじめとする記録の虫干しを行っている。この時点では政家自身や記録が他所へ移動した形跡がなく、平時には近衛北室町東の自邸で保管していたとみられる[3]。また、政家期を境に近衛家当主の日記の形態が「巻」から「冊」へ変化したことについて、羽田聡は、戦乱時の移動の便が考慮された可能性を指摘している[2]。

同年8月9日、京都で近日中に「大乱」が起こるとの風聞を受け、実相院門跡であった兄・増運の勧めにより、「代々御記」など50合を岩倉の実相院へ移した[4]。翌応仁元年(1467年)に近衛邸と鷹司邸が戦火で焼失した際、これらの記録は事前の疎開によって焼失を免れた[5]。実相院は鎌倉時代以来、近衛家・鷹司家と関係の深い門跡寺院であり、当時も増運が門跡を務めていた。政家期に同院が主要な疎開先となった背景には、この一門関係があった[6]。

応仁元年(1467年)5月には、醍醐寺宝池院の文庫に記録6合を預け、翌6月には父・近衛房嗣がさらに4合を三宝院へ移した。醍醐寺には政家の兄・政深が入寺しており、房嗣自身も戦乱を避けて同寺に滞在していた。政深が応仁2年(1468年)に三宝院門跡となった後、文明元年(1469年)に醍醐寺を追放されると、同寺への記録疎開も確認されなくなる。この経過から、醍醐寺の利用は政深との人的関係と、宝池院に文庫が存在したことに支えられていたと考えられている[7]。

疎開中にも記録の損失は生じた。文明10年(1478年)12月、大原日光坊の火災により、同所に預けられていた近衛家文書17合が焼失した。この火災では綾小路家の文書も失われている。大原日光坊の所在地や近衛家が同所を利用した経緯は明らかでなく、近衛家の御霊殿領に所在した施設であった可能性が示されているにとどまる[8]。

応仁・文明の乱の終結後も、実相院は主要な保管先として用いられ、文明19年(1487年)の時点で20合の記録が置かれていた。政家は長享3年(1489年)に新造した糸桜御所に文庫を設け、自邸でも記録の虫干しを行っている。乱後の政治情勢が一時的に安定した時期には、疎開先に預けた記録を維持しながら、自邸における保管環境の再建も進めていた[9]。

明応2年(1493年)の明応の政変では、廃された将軍足利義材の関係者の邸宅や、将軍家子弟が入った寺院にも襲撃が及んだ。実相院には義材の弟・義忠が入寺しており、同院周辺にも政変の余波が及ぶ可能性があったため、政家は兄・道興の勧めを受けて、重書などを道興が門跡を務める聖護院へ移した。この中には、政家が先例の典拠として重視した近衛道嗣の日記『後深心院関白記』も含まれていた。その他の部類記などは、子の良誉が入寺していた興福寺一乗院や、近衛家領の荘官と結びつく三室戸寺などにも分散された[10]。

政変後の閏4月には、聖護院に預けた記録を実相院へ移して再び集約している。政家は実相院を保管の基軸とし、情勢に応じて一門や荘官の関係する寺院を臨時の疎開先として使い分けていた[11]。

明応7年(1498年)から翌明応8年(1499年)にかけて、記録の主要な疎開先は実相院から一乗院へ移った。明応8年(1499年)7月には、「古今御記」を含む重書、雑記、改元関係の文書などが南都へ運ばれており、それ以降、実相院への疎開記事が減少する一方、一乗院への移動が頻繁に確認される[12]。

藤ノ井日向は、足利義材の上洛戦によって実相院が戦乱に巻き込まれる危険が高まったことと、同院に居住していた近衛一門が相次いで死去し、一乗院には政家の子・良誉が入っていたことが重なり、主要な疎開先が一乗院へ移ったと捉えている[13]。実相院には門跡の増運に加え、房嗣や政家の姉・姪らが宿坊を借りて居住していたが、長享年間(1487年 - 1489年)から明応年間(1492年 - 1501年)にかけて相次いで死去した。明応7・8年(1498年・1499年)頃には同院に居住する近衛一門が大幅に減少し、聖護院門跡の道興も高齢であったのに対し、一乗院には良誉が入っていた[13]。

明応9年(1500年)には糸桜御所が火災に遭ったが、政家の日記には、この時に記録を運び出したことや、記録が焼失したことを示す記事がない。父祖の日記など近衛家の存立に関わる主要な記録は、すでに一乗院その他の寺院に移されていたとみられる[14]。

記録の疎開は、その利用に時間と労力を要する要因にもなった。政家は『後深心院関白記』の原本を実相院に預け、「座右」に備えるため、朝儀の恒例や家中の雑事など必要な部分を写した写本を作成した。陽明文庫には政家が作成した同記の写本が5点伝わっており、原本の保全と日常的な先例引勘を両立させるための措置であったと考えられる[15]。

疎開先の記録は、必要に応じて取り寄せられた。文明19年(1487年)、文明から長享への改元が議論され、他の摂関家とともに勅問を受けた際には、実相院から改元関係の部類記1合を取り寄せている。政家は、朝廷からの諮問や公事に応じて必要な記録を手元へ戻し、先例の確認に用いていた[16]。こうした記録の移動は、近衛家が宇治などの家領から人夫を動員できたことによって支えられていた[17]。

政家自身の日記『後法興院記』も、室町時代中期から戦国時代初期の政治情勢、家領経営、公家社会の儀式や風俗を伝える史料として残されている。

官職および位階等の履歴

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系譜

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  • 父:近衛房嗣(1402-1488)
  • 母:家女房播磨局 - 播磨守某娘
  • 妾:飛鳥井雅親長女
  • 妾:北小路俊子(?-1482) - 等心院。北小路家養女。加治能登入道の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:良誉(1475-1546)
    • 女子:大聖院
    • 女子:

脚注

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  1. ↑ 『国書人名辞典 第2巻』岩波書店、1995年、p.275。
  2. 1 2 藤ノ井 2026, p. 46.
  3. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 48–49.
  4. ↑ 「九日申戊、晴、世上事、近日、可及大乱之由、自方々、相示之間、代々御記等伍十合、今日遣石蔵、自実門、依被命也、洛中騒動以外事也、諸大名軍勢上洛云々」『後法興院関白記』文正元年8月9日条。
  5. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 49–50.
  6. ↑ 藤ノ井 2026, p. 50.
  7. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 50–51.
  8. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 51–52.
  9. ↑ 藤ノ井 2026, p. 52.
  10. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 53–54.
  11. ↑ 藤ノ井 2026, p. 54.
  12. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 54–55.
  13. 1 2 藤ノ井 2026, pp. 55–57.
  14. ↑ 藤ノ井 2026, p. 57.
  15. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 63–64.
  16. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 64–65.
  17. ↑ 藤ノ井 2026, pp. 65–66.

参考文献

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  • 野島寿三郎 編「近衛政家」『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1997年、305頁。ISBN 4816912444。 
  • 山田邦明 著「近衛政家」、戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。ISBN 4642013482。 
  • 藤ノ井日向「戦国期摂関家における記録疎開の一様相―近衛家を中心として」『Antitled』第5巻、Antitled友の会、2026年、45-72頁。