藤原宮子

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藤原 宮子
藤原宮子像(道成寺蔵)
第46代天皇祖母
太皇太后 天平勝宝元年(749年

崩御 天平勝宝6年7月19日754年8月11日
氏族 藤原氏
父親 藤原不比等
母親 賀茂比売
配偶者 文武天皇
子女 聖武天皇
皇太夫人 神亀元年(724年)(大御祖)
身位 夫人→大御祖→中宮→太皇太后
立后前位階 正一位
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藤原 宮子(ふじわら の みやこ、? - 天平勝宝6年7月19日754年8月11日))は、文武天皇夫人藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物として知られる。

略歴[編集]

文武天皇元年(697年)8月、持統天皇の譲位により即位直後の文武天皇の夫人となる(『続日本紀』)。なお、これと同時に紀竈門娘(きのかまどひめ)・石川刀子娘(いしかわのとねひめ)もとなっている。宮子が文武夫人となった背景には、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている、阿閉皇女(元明天皇)付き女官の県犬養三千代の存在があったと考えられている。それまで少壮官僚であった不比等は、文武即位に伴い中央政界に台頭している[1]。ただし、夫人や嬪の制度化は大宝令後であったとすると、宮子の夫人号は後世の脚色で、宮子・紀竈門娘・石川刀子娘は当初は「妃」であったが令制導入に基づいて「嬪」とされ、後に宮子だけが「夫人」とされた[2]と解する見方もある[3]

大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった。文武や父不比等ら肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した749年には太皇太后の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。

宮子は「松宮」という蔵書印を使用したとされ、宮子が崩御した中宮を平城宮の北の松林宮に比定する説が示された。[4]

宮子姫の葬儀は盛大に行われ、その命日は国忌とされた。高島正人は、宮子姫の「一周忌の斎会はおそらく天下の初例」、つまり宮子姫が日本で最初に「一周忌」をしてもらった人物と見る。[5]宮子姫の命日は国忌でなくなった後も、東大寺の梵網会(ぼんもうえ)として長く続けられた。

長く苦しむこととなる病気にかかりながらも、跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした宮子であったが、その跡継ぎである聖武天皇には安積親王しか男子がおらず、その安積親王薨去後はついに男子の跡継ぎが生まれず、一族藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、崩御後20年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまうこととなった。

なお、病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄のもとで玄昉が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。

紀州の海女説[編集]

梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州海女であったとする説を考証している。

「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年(701)に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。

 もともとこの伝説は、室町時代に初演された能『鐘巻』で最初に記録されている。紀州の海女が海から小さな観音像を拾い上げ、その御利益で光り輝く美人となり雲居に召され、その両親への恩返しのために紀州に道成寺を建てたとされたが、『鐘巻』に宮子の名は登場しない。江戸時代になると、宮子と文武天皇の物語として道成寺等が流布するようになった。近年の発掘調査で、道成寺が観世音寺式伽藍の寺であることが確認され、福岡県の太宰府観世音寺や宮城県の多賀城観音寺で行われたような、日本の東西南北の鎮護を祈る儀礼が道成寺でも行われた可能性が示された。藤原宮子と道成寺を関連させて語る伝説は、道成寺での観世音寺式儀礼を目立たない形で語り継ぐ手段だったと解釈されている。[6]

玄昉[編集]

前出の玄昉は、橘諸兄政権の際に吉備真備らと共に権勢を揮ったが、『元亨釈書』には玄昉が「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。宮子との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。また『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを藤原広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。もちろん、いずれも後世の公式ではない史料であり、信用する必然性は乏しい。同様に権勢を揮ったために妬まれ、早くから破戒僧という話が流布していた道鏡と混同された形跡もみられる。玄昉の栄達が妬まれたこと、さらには彼の没落と死去がこれらの話を作り出した、とも考えられる。

いずれにしても『続日本紀』によれば、宮子は36年間も「幽憂に沈んだ」のに、玄昉「法師が一見」しただけでその悩みが一気に解消し、長寿を全うしたことになる。その理由として、頼富本宏は「在唐経験の長い玄昉は、薬学的・医学的知識も充分に持っていた可能性を指摘しておきたい」と、何らかの投薬を行った可能性を指摘している。[7]

演じた人物[編集]

TVドラマ

脚注[編集]

  1. ^ 義江明子『県犬養橘三千代』2009年
  2. ^ 遠藤みどりは『続日本紀』慶雲4年4月壬午条の食封改訂の記事で嬪の加封記事はあっても夫人のそれはなく、この慶雲4年(707年)段階では文武天皇の夫人は存在せず、宮子の身分は嬪であったとみる。
  3. ^ 遠藤みどり「令制キサキ制度の成立」『日本歴史』754号(2011年)/改稿:「令制キサキの基礎的研究」『日本古代の女帝と譲位』塙書房、2015年 ISBN 978-4-8273-1278-2
  4. ^ 遠藤慶太「古写経の印記「松宮内印」について」『続日本紀と古代社会』、2014年12月。
  5. ^ 高島正人『奈良時代諸氏族の研究』1983吉川弘文館 p201
  6. ^ 小野俊成『宮子姫よもやまばなし』、2019年7月。ISBN 978-4-600-00180-3
  7. ^ 頼富本宏「玄昉法師と密教」2013」『仏法僧論集:福原隆善先生古稀記念論文集』。ISBN 978-4-7963-0233-3

外部リンク[編集]