鷹司政通
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時代 | 江戸時代末期 |
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生誕 | 寛政元年7月2日(1789年8月22日) |
死没 | 明治元年10月16日(1868年11月29日) |
官位 | 従一位、関白、太政大臣 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 鷹司家 |
父母 | 父:鷹司政煕、母:蜂須賀儀子 |
兄弟 | 鷹司政通、依子、隆子、吉子、繋子、今出川賀丸、景子、祺子、定子、并子、任子、皐子、道子、辰子、祥子、定演、備子、松平信充室 |
妻 |
正室:徳川清子(徳川治紀の娘) 家女房 |
子 | 輔煕、華園摂信、徳大寺公純、九条幸経、渋谷教応、介子、興子、麗子、標子、積子、美津子 |
鷹司 政通(たかつかさ まさみち)は、江戸時代の公家、政治家。東山天皇の男系四世子孫である。父は関白・鷹司政煕、母は正室・蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。
経歴[編集]
文政6年(1823年)に関白に就任、天保13年(1842年)には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856年)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。
弘化3年(1846年)に仁孝天皇が急逝した際には、喪を秘して政通を准摂政として事態の収拾を図った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。安政3年(1856年)12月9日には異例の太閤の称号を孝明天皇から贈られる(本来「太閤」は関白職を子弟に譲った前関白を指す)。義弟の水戸藩主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。
当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張したが、若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れて落飾し、出家した。
家族[編集]
系譜[編集]
東山天皇 | 中御門天皇 | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 典仁親王 | 光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | 昭和天皇 | 太上天皇 | 今上天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷹司輔平 | 鷹司政煕 | 鷹司政通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 係累縁者が多数に上るため、東山天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
- 曾祖父の閑院宮直仁親王は、東山天皇の第六皇子として生まれ、閑院宮家を興した[1]。
- 祖父の鷹司輔平は、閑院宮直仁親王の第四王子として生まれ、鷹司基輝の養子となり、鷹司家を継承した[1]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
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