二条良実
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二条良実像 (『天子摂関御影』、紙本着色より) | |
| 時代 | 鎌倉時代中期 |
| 生誕 | 建保4年(1216年) |
| 死没 | 文永7年11月29日(1271年1月11日) |
| 別名 | 福光園関白 |
| 官位 | 従一位、関白、内覧、左大臣 |
| 主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
| 氏族 | 藤原北家九条流二条家 |
| 父母 |
父:九条道家 母:西園寺掄子(西園寺公経女) |
| 兄弟 | 教実、二条良実、頼経、一条実経、円実、慈源、法助、竴子、仁子、佺子 ほか |
| 妻 |
四条灑子(権大納言四条隆衡女) 坊門親仲女 藤原隆保女 藤原程子(左少将藤原基信女) |
| 子 | 道良、教良、師忠、経通、兼基、経忠、道玄、道瑜、尋源、道潤、良宝、道乗、徳大寺公孝室 |
| 特記 事項 | 五摂家の一つ二条家の祖 |
二条 良実(にじょう よしざね)は、鎌倉時代中期の公卿。通称は福光園関白(ふっこうえん かんぱく)。極位極官は従一位関白左大臣。
摂政関白左大臣九条道家の次男、母は西園寺掄子(太政大臣西園寺公経の娘)。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経、子に左大臣二条道良、権大納言二条教良、関白左大臣二条師忠、非参議二条経通、摂政左大臣二条兼基がいる。
経歴
[編集]父と母方の祖父が朝廷の実力者であったことから、数え15の若さで従三位となり、20の時に内大臣となる。ところが父道家は良実をあまり愛さず、むしろその弟にあたる一条実経を偏愛するようになる。それでもこの頃の朝廷では祖父で関東申次の西園寺公経が道家を上回る実力を持っていたこともあって、後嵯峨天皇が践祚した仁治3年(1242年)には公経の推薦で関白に任じられるまでに至った。
良実を巡っては九条家と西園寺家の関係にも影響が及んだ。後嵯峨天皇の即位後、西園寺公経は道家を無視して孫の姞子を天皇に入内させて中宮に立てることに成功することで、娘婿である道家との協調関係が対立へと転じたが、それを可能としたのは孫の良実を自分の側に置いたことで摂関家との全面対決という構図が避けられたことによる。更に姞子の叔母にあたる四条灑子を良実に嫁がせることで、公経の嫡男実氏と良実は義兄弟ということになった[1]。
ところが公経が死去すると朝廷は道家によって掌握され、このため寛元4年(1246年)1月に後深草天皇への譲位が決まると、父の命によりやむなく関白を実経に譲ることを余儀なくされた。
この年鎌倉では、北条一門の名越光時が前将軍の頼経を擁して執権北条時頼に謀反を起こす計画が事前に発覚して関係者が処分されるという事件が起こった(宮騒動)。頼経は京都に送還されることとなり、この一件で父の道家も朝廷から去ることが避けられなくなり、またこれにともなって実経までもが関白辞任を余儀なくされるにいたった。良実は父と疎遠な関係にあったことからこの時の処分には含まれなかったが、これを道家は良実が時頼と内通して自分たちを貶めたと猜疑し、良実を義絶してしまった。
やがて、道家が死ぬと再び勢力を盛り返し、弘長元年(1261年)には再び関白となる。また、実経も父の遺言を無視して良実と和解する[注 1]。文永2年(1265年)に関白職を弟の実経に譲ったが、なおも内覧として朝廷の実権を掌握した。文永7年(1270年)11月11日、病気のために出家して行空と号し、同月29日に55歳で薨去した。法号:普光園院。
良実は居所を二条京極第に置いたことから、良実を祖とする五摂家の系統は二条家と号した。ただし『平戸記』などの当時の記録によって確認できる良実の邸は二条富小路である。
二条良実公春日社御願文
[編集]宝治2年閏12月12日、当時前関白であった二条良実は、摂関への再任を祈願し、春日社に願文を奉納した。同願文は宮内庁書陵部に所蔵されており、『大日本史料』第5編之27に収録されている。
良實清身口意、白春日大明神言、神明・三寶致祈請、速疾必可成就、其故者、佛有三身、法報應是也、先法身如來者、萬法一如妙理、無隔非情草木、報身如來者、妙覺果滿之智惠、相稱無相極理、應身如來者、大悲利物之色質、攝化無緣群類、若就萬法一如妙理云之者、弟子身心與如來身心、全無有差別、其理平等、其體不二、故若就有相事門云之者、毗盧遮那所變地水火風與弟子所具地水火風、其事一而、其相無有差別、若爾者、何物隔、何心願不通佛心哉、若願念通佛意者、大悲何隔我、若大悲憐愍我者、所願何不成就、伏惟、春日權現者、尋本地者、三身即一如來、自無相妙理、施有相利益、捨寂光妙土、住濁惡閻浮、無緣慈悲、遍雖愍法界群類、我國衆生、機緣殊深、故卜居於日域、利生於末代、故我國極惡衆生、專預明神利益、於我國衆生中、受生於藤門者、結緣殊厚、故深蒙利益者、藤氏一門也、於藤氏一門、爲執柄臣、爲王佐之仁者、代明神掌萬機、利益可異他、彼執柄之仁中、悟妙理、契實義、敬三寶、無僞、利益群生、興行佛法人、深叶明神本意、利益尤可甚深、利益可甚深理、天然雖具之、衆生不致精勤者、無速疾蒙其益、今捧甚深法味、勵無貳丹誠、明神爭無納受、利益何不速疾牟、然今、有攝籙得替之聞、定明神知食之歟、良實雖爲不德・不才之身、黷周旦・漢霍之跡、是則依積善餘慶、依明神哀憐、然不遂社壇參詣、不慮爲舍弟被奪其職、一先世造惡業、今生受其報歟、一政務非理、背明神御意歟、深思此理、雖恨我身、及其恥於祖宗、貽其名於後代、恨而猶有恨、每思此事、如屠心肝、身心無安、今度若不還得所職、不達本意、永纏妄執、遂沈三途者歟、大都凡夫之習、不鑒未來、世之所惡、人之所定、今度若微臣不還補、後榮不可有其期云々、若爲其儀者、永可令隱遁、微臣令隱遁者、子孫又不可全、子孫不全者、縱偏求佛道、彼引此妄執、可墜惡道、然者、神明爭不垂哀愍給、敬白文無私曲、大明神何莫納受、若所願成就者、佐王法、反延喜・天曆聖代、興佛法、如正法・像法之昔、其中有難治・難行者、方圓隨器、方便可行德、敬白、
寶治二年後十二月十二日、從一位藤原朝臣良實敬白、[注 2]
寛元4年1月18日、左大臣一条実経が二条良実に代わり関白となった。良実は願文において、弟である実経に不慮にして職を奪われたことに対し、「前世の悪業の報いか、政務が神意に背いたためか」と自問しつつも、「祖宗に恥を晒し後代に汚名を残す」「恨んでもなお恨めしく、思うたびに心肝を屠られるようで安らぎがない」と、激しい怨嗟と苦悩を吐露している。
さらに、今度復職できなければ「永く妄執に纏われ地獄に沈む」であろうし、かといって出家すれば子孫が没落し、その行く末を案じる執着によって仏道を求めたとしても悪道に墜ちてしまうという、進退窮まった悲痛な胸中を記している。
それから15年後の弘長元年4月29日、良実は鷹司兼平に代わって関白となり、ついにその夙願を遂げた。
官歴
[編集]| 和暦(西暦) | 月日(旧暦) | 年齢 [注 3] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 嘉禄2年(1226年) | 12月13日 | 11歳 | 元服し正五位下に叙す |
| 12月16日 | 侍従に任ず | ||
| 嘉禄3年(1227年) | 1月26日 | 12歳 | 右近衛少将に転任 |
| 12月25日 | 右近衛中将に転任 | ||
| 安貞2年(1228年) | 1月5日 | 13歳 | 従四位下に昇叙、右近衛中将如元 |
| 2月1日 | 兼播磨介 | ||
| 安貞3年/寛喜元年(1229年) | 1月5日 | 14歳 | 正四位下に昇叙、右近衛中将如元 |
| 10月29日 | 従三位に昇叙、右近衛中将如元 | ||
| 寛喜2年(1230年) | 1月24日 | 15歳 | 兼伊予権守 |
| 2月8日 | 正三位に昇叙、右近衛中将・伊予権守如元 | ||
| 寛喜3年(1231年) | 3月6日 | 16歳 | 従二位に昇叙、右近衛中将・伊予権守如元 |
| 3月25日 | 権中納言に転任、右近衛中将如元 | ||
| 4月29日 | 正二位に昇叙、権中納言・右近衛中将如元 | ||
| 10月28日 | 兼春宮権大夫(春宮・秀仁親王) | ||
| 貞永元年(1232年) | 10月4日 | 17歳 | 秀仁親王即位(四条天皇)により春宮権大夫を止む |
| 貞永2年/天福元年(1233年) | 4月8日 | 18歳 | 兼左近衛大将、右近衛中将を辞す |
| 文暦2年/嘉禎元年(1235年) | 6月17日 | 20歳 | 権大納言に転任、左近衛大将如元 |
| 10月2日 | 内大臣に転任 | ||
| 10月3日 | 左近衛大将如元 | ||
| 嘉禎2年(1236年) | 6月9日 | 21歳 | 従一位に昇叙、右大臣に転任、左近衛大将如元 |
| 嘉禎4年/暦仁元年(1238年) | 1月26日 | 23歳 | 左近衛大将を辞す |
| 7月24日 | 左大臣に転任 | ||
| 仁治3年(1242年) | 1月20日 | 27歳 | 関白および藤氏長者宣下、左大臣如元 |
| 寛元2年(1244年) | 6月1日 | 29歳 | 左大臣を辞す |
| 寛元4年(1246年) | 1月28日 | 31歳 | 関白を辞す |
| 弘長元年(1261年) | 4月29日 | 46歳 | 関白宣下(再任) |
| 文永2年(1265年) | 4月18日 | 50歳 | 関白を辞す |
| 7月16日 | 内覧宣下 | ||
| 文永5年(1268年) | 12月27日 | 53歳 | 内覧を辞す |
| 文永7年(1270年) | 11月11日 | 55歳 | 出家(法名:行空) |
| 11月29日 | 薨去 |
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 九条道家は娘・佺子に与えた所領の未来領主に甥にあたる一条家経を指名させていたが、実際に佺子が亡くなると家経の父である実経がこれを辞退して権利を良実に譲ることで和解の証とした[2]。
- ↑ 現代語訳:良実は身と口と意の三業を清め、春日大明神に申し上げます。神明や三宝に祈請を致せば、速やかに必ず成就するでしょう。その理由は、仏には法身・報身・応身の三身があるからです。第一に法身如来は、万法一如の妙理であり、心を持たない草木であっても隔てはありません。報身如来は、妙覚果満の智慧であり、無相の極理にかなっています。応身如来は、大いなる慈悲によって万物を利するお姿であり、縁の無い衆生をも導かれます。もし万法一如の妙理について言えば、弟子たる私の身心と如来の身心は全く差別がなく、その理は平等であり、その体は不二であります。故に、もし形ある有相の事門について言えば、毘盧遮那仏が変化した地・水・火・風と、弟子が備えている地・水・火・風は、その事象は一つであって、その姿に差別はありません。もしそうであるならば、何が隔てとなり、どのような心願が仏の心に通じないことがありましょうか。もし願いが仏の意に通じるならば、どうして大悲が私を隔てるでしょうか。もし大悲が私を憐れんでくださるなら、どうして願いが成就しないことがありましょうか。
伏して惟れば、春日権現は、本地を尋ねれば三身即一の如来であり、無相の妙理から有相の利益を施し、寂光の妙土を捨てて濁悪なる閻浮提の世に住み、無縁の慈悲によってあまねく世界の衆生を憐れまれますが、我が国の衆生とは殊に機縁が深いです。故に我が国に鎮座し、末の世において衆生を救済されます。故に我が国の極悪の衆生は、もっぱら明神の利益に預かっております。我が国の衆生の中でも、藤原氏の門に生まれた者は結縁が殊に厚く、それゆえ深く利益を蒙るのは藤氏一門であります。藤氏一門の中で摂政や関白たる執柄の臣となり天皇を補佐する者は、明神に代わって万機を掌るため、その利益は他とは異なるはずです。その執柄の臣の中でも、妙理を悟り、実義にかない、三宝を敬い、偽りなく、人々を救済し、仏法を興隆する人は、深く明神の本意に叶い、利益は最も甚深であるべきです。利益が甚深であるべき道理は天然に備わっているといえども、衆生が精勤しなければ、速やかにその利益を蒙ることはありません。今、甚深の仏法を捧げ、二心のない誠意を尽くしておりますので、明神がどうして受け取られないことがありましょうか、利益がどうして速やかでないことがありましょうか。
しかし今、摂籙の得替すなわち摂関交替の噂がありますが、きっと明神もこれをご存知のことでしょう。良実は不徳・不才の身であるとはいえ、周公旦や霍光のごとく天子を補佐する跡を継ぎました。これはすなわち先祖の積善の余慶と、明神の哀れみによるものです。しかし社壇への参詣を遂げないうちに、思いがけず弟の実経にその職を奪われました。一つには前世に悪業を造り、今生にその報いを受けたのでしょうか。一つには政務が道理に非ず、明神の御意に背いたのでしょうか。深くこの道理を思い、我が身を恨むといえども、その恥が先祖に及び、その汚名を後世に残すに至っては、恨んでもなお恨めしく、この事を思うごとに心肝をえぐられるかのようで、身心に安らぎがありません。今回、もし元の職に復帰できず本意を達することができなければ、永く妄執に囚われ、ついには地獄・餓鬼・畜生の三途に沈む者となってしまうのでしょうか。おおよそ凡夫の常として未来を見通すことはできませんが、世間が憎むところ、人々が定めることによって、今回もし微臣たる私が復職できなければ、後々の栄達も見込みはないでしょう。もしそのような事態になるならば、永く出家隠遁させられることとなるでしょう。私が出家隠遁すれば、子孫もまた家を保ち全うすることはできません。子孫が全うできなければ、たとえひたすらに仏道を求めたとしても、あれこれとこの妄執に引かれ、悪道に墜ちてしまうでしょう。そうであるならば、神明がどうして哀れみを垂れてくださらないことがありましょうか。この祈願文には私利による嘘偽りがありませんので、大明神はどうして受け取られないことがありましょうか。もし願いが成就したならば、王法を補佐して醍醐天皇・村上天皇が治めた延喜・天暦の聖代に戻し、仏法を興隆して正法・像法の昔のようにいたしましょう。その中で治め難く行ない難いものがあれば、四角や丸といった器の形に従うように、機根に合わせた方便をもって徳を行なうことといたします。敬って申し上げる。
宝治二年閏十二月十二日、従一位藤原朝臣良実、敬って申し上げる。 - ↑ 本表の年齢は数え年表記である。1216年(建保4年)を誕生年(1歳)として各年の年齢を算出している。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。ISBN 4-490-20243-1。
- 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年。ISBN 978-4-86602-090-7。