園城寺

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園城寺
Mii-dera Otsu Shiga pref01s5s4592.jpg
金堂(国宝)
所在地 滋賀県大津市園城寺町246
位置 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒 / 北緯35.0133583度 東経135.8528500度 / 35.0133583; 135.8528500座標: 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒 / 北緯35.0133583度 東経135.8528500度 / 35.0133583; 135.8528500
山号 長等山(ながらさん)
宗派 天台寺門宗
寺格 総本山
本尊 弥勒菩薩
創建年 7世紀
開基 大友与多王
中興年 貞観元年(859年
中興 智証大師円珍
正式名 長等山園城寺
別称 三井寺
札所等 西国三十三所第14番
西国薬師四十九霊場第48番(別所水観寺
近江西国三十三観音霊場第4番(別所・近松寺)・第5番
江州三十三観音第3番(別所・近松寺)・第4番
湖国十一面観音菩薩霊場第1番(別所・微妙寺
びわ湖百八霊場第5番(別所・近松寺)・第6番
神仏霊場巡拝の道第147番(滋賀15番)
文化財 金堂、絹本著色不動明王像(黄不動)他8件(国宝
梵鐘他(重要文化財
法人番号 9160005000624 ウィキデータを編集
園城寺の位置(滋賀県内)
園城寺
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園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。開基(創立者)は大友与多王本尊弥勒菩薩である。日本三不動の一つである黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第十四番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られる。

歴史[編集]

園城寺は7世紀に大友氏 (古代)氏寺として草創され、9世紀にから帰国した留学僧円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。

円珍の登場[編集]

園城寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没した。しかし、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする寺をようやく建立した。壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与える。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の園城寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期や飛鳥時代に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

「三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文)

園城寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表するのことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、園城寺初代長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築いたのが智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから園城寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)にはへ留学して6年間、各地で修行。青龍寺法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった園城寺に「唐院」(とういん)を設置し、寺を再興する。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

延暦寺との抗争[編集]

円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、園城寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

園城寺は、平安時代には朝廷貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信濃国善光寺も荘園末寺として記録に著れる。伽藍金堂別所水観寺を中心とする中院、新羅社(新羅善神堂)や別所・常在寺を中心とする北院、三尾社(三尾神社)と、現・長等公園一帯にあった三別所の微妙寺・尾蔵寺・近松寺を中心とする南院、さらに別院である如意寺 が整備されていき、この三院五別所の体制でもって運営されていった。

中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が園城寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義佐々木広綱宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、弘安8年(1285年)の時点で中院は74院、北院は124院、南院は140院にものぼる子院が存在していた。

続く南北朝の内乱でも北朝足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

没落と復興[編集]

戦国時代に入ると、勢力を強めていく織田信長と延暦寺の対立は頂点に達し、ついに元亀2年(1571年)に園城寺に本陣を置いた信長によって比叡山焼き討ちが行われた。しかし、その一方で園城寺は信長と良好な関係を構築し維持し続けていた。

次いで園城寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた。園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院(現在妙法院がある場所にあった)に避難させ、僧も保護したが、ほとんどの仏像や宝物はよその寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築された。当時の園城寺金堂は比叡山に移され、現在も延暦寺西塔転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

道澄は、元光浄院の住持であり秀吉の御伽衆でもある山岡景友とその弟光浄院暹実らと共に復興の請願を繰り返し行った。慶長3年(1598年)になり、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興をようやく許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな園城寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受けて園城寺長吏・道澄が中心となって寺の復興事業が開始される。それに伴って、照高院に避難させていた弥勒菩薩像、智証大師坐像、黄不動尊などを園城寺闕所の際にも存続が許されて残っていた上光院に移している。

伽藍の復興も進められ、寺領4300石も安堵された。翌慶長4年(1599年)には高台院が金堂を寄進し再建を果たした。現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。そして慶長年間末期の頃には三院で49院、五別所で25坊もの子院が並んでいた。

寛永年間(1624年1645年)には寺領4619石が安堵されている。

明治維新後、北院の大半は陸軍用地として軍部に接収されてしまい歩兵第9連隊司令部(現、大津商業高校)や練兵場(現、皇子山総合運動公園)となり、最終的に新羅善神堂と法明院を残して廃絶してしまった。また、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年昭和21年)に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となった。

伽藍[編集]

新羅善神堂(国宝)

中院[編集]

  • 大門(重文)-仁王門とも呼ばれる。入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないもの)。もとは近江国常楽寺滋賀県湖南市)にあった室町時代宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門であるが、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていたものを慶長6年(1601年)、徳川家康が寄進したものである。
  • 釈迦堂(重文)-大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(1573年から1593年)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられる。
  • 弁財天社-八臂弁財天を祀る。
  • 金堂(国宝)-中院の中心堂宇。園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造檜皮葺きの和様仏堂である。なお、移築された旧金堂は延暦寺西塔の釈迦堂として現存する。
  • 鐘楼(重文)-金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。
  • 閼伽井屋(あかいや、重文)-金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく高台院によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。
  • 教待堂-教待和尚を祀るお堂。
  • 熊野権現社-熊野権現を祀る。天保8年(1837年)の再建。
  • 霊鐘堂-霊鐘「弁慶の引摺鐘」(重文)を安置している。
  • 一切経蔵(重文)-室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市国清寺の経蔵を移築したもの。輪蔵
  • 三重塔(重文)-鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県比曽寺にあった東塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたもの。
  • 光浄院-金堂の北方に位置する。元光浄院の住持であった山岡景友の寄進。客殿(国宝)は勧学院客殿より1年あとの慶長6年(1601年)建立。規模、意匠など勧学院客殿と似る。障壁画はやはり狩野派一門の作である。池泉観賞式庭園名勝史跡である。護摩堂は十八明神社の拝殿を移築したもの。
  • 善法院-境内最西にあった子院とその庭園跡。円満院宮の院家。庭園は1934年昭和9年)に国の名勝・史跡に指定されたが、1941年(昭和16年)の豪雨による土砂崩れで埋没した。重森三玲が作成した実測図が残る。
  • 覚勝院-子院。
  • 微妙寺別所。本堂は安永5年(1776年)の再建。
  • 水観寺-別所。本堂(県指定文化財)は明暦元年(1655年)の再建。
  • 護法社-護法善神堂(千団子社、市指定文化財)には園城寺の守護神である護法善神(鬼子母神)像を祀る。石造橋(重要美術品、市指定文化財)、唐門(市指定文化財)、表門(市指定文化財)などがある。元は金堂の東にあったが享保12年(1727年)に現在地に移転した。
  • 財林坊-護法社の預坊。護法善神の本地仏である聖観音菩薩を祀る本地堂(市指定文化財)、預坊表門(市指定文化財)、門番所(市指定文化財)などがある。客殿と庫裡は享保12年(1727年)に建立。
  • 円満院-大門の北方に位置する。円満院門跡とも称し、かつては天台宗寺門派三門跡の一つであった。江戸時代の初期に現在地に移転する。寛和3年(987年村上天皇の第三皇子・悟円法親王によって創建された。江戸時代の画家円山応挙ゆかりの寺としても知られる。宸殿(重文)は、慶長年間造営の御所のうち、東福門院の御局といわれる建物を移築したもので、仁和寺の金堂などと共に江戸時代初期の寝殿造宮廷建築の遺作として重要なものである。宸殿にあった障壁画の「住吉社頭図」6面(重文)と「風俗図」4面(重文)は1974年(昭和49年)・1975年(昭和50年)に文部省買上げとなり、現在は京都国立博物館に所蔵されている。その他、円満院には円山応挙の「七難七福図」を始め7件の重要文化財が所蔵されていたが、現在はいずれも寺外に流出している。太平洋戦争後に天台寺門宗から独立した。

唐院[編集]

  • 四脚門(重文)-智証大師円珍から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところであり、寺内で最も重視されている中院の一区画・唐院の正門。寛永元年(1624年)に建立。
  • 灌頂堂(重文)-大師堂の拝殿であるが、灌頂(密教の儀式)の道場でもある。
  • 長日護摩堂(県指定文化財)-後水尾天皇の寄進で建立された護摩堂。
  • 唐門(重文)-大師堂の正門。
  • 大師堂(重文)-宝殿ともいう宗祖智証大師の廟所。慶長3年(1598年)に再建。
  • 山王社

北院[編集]

  • 新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)-新羅社。かつての北院の中心堂宇・鎮守社。園城寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。園城寺の鎮守神である新羅明神を北院の鎮守として祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を園城寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
  • 法明院-境内最北にある子院。園城寺唯一の律院。明治時代に日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサが長く滞在し、フェノロサやウィリアム・スタージス・ビゲローの墓があることで知られる。書院には円山応挙、池大雅らによる障壁画がある。園城寺最大規模の池泉回遊式庭園を有する。
  • 弘文天皇陵(長等山前陵)-弘文天皇を祀る。1877年(明治10年)に陵墓指定された。

南院[編集]

  • 三尾神社-三尾社。かつての南院の中心堂宇・鎮守社。本殿(重文)は応永33年(1426年)に建立された。園城寺の地主神である三尾明神(伊弉諾尊)を南院の鎮守として祀る。元は園城寺西方の琴緒谷(普賢堂の横)に三尾社(上三尾社ともいう)として鎮座していたが、明治時代になり神仏分離によって独立し、1876年(明治9年)に御旅所であった現在地に遷座する。旧社地は現在は三井寺霊園琴谷苑となっている。琴谷苑の入り口付近には三尾影向石が残されている。
  • 普賢堂-子院。園城寺の地主神である三尾明神の本地仏普賢菩薩を祀る三尾社の預坊。隣接して三尾社が建立されていた。池泉観賞式庭園を有する。
  • 勧学院-唐院の南隣に位置する。客殿(国宝)は慶長5年(1600年)に毛利輝元の寄進で建立。桃山時代書院造建築の代表作とされる。障壁画は狩野光信を中心とする狩野派一門の作である。護摩堂は元は法蔵。石造宝塔(重要美術品)や池泉観賞式庭園を有する。そもそもは鎌倉幕府第9代執権北条貞時の菩提を弔うために幕府の支援で房海僧正が創建したもの。
  • 総門-薬医門。北に門番所が接続している。
  • 毘沙門堂(重文)-観音堂の麓にある堂。元は別所・尾蔵寺の南勝坊境内に元和2年(1616年)に建立されたもの。1910年(明治43年)に上三尾社の近くに移されたが、1956年(昭和31年)に現在地に移築される。
  • 十八明神社-別名「ねずみの宮」。延暦寺を攻撃したネズミを祀る。天保7年(1836年)に再建。真下の地下には琵琶湖疎水が流れている。
  • 行者堂-子院。役行者を祀る。元は観音堂に属する不動堂。1878年(明治11年)に天神山に移されたが1900年(明治33年)に現在地に移築される。その際に名称を行者堂に改めた。
  • 本寿院-子院。2014年(平成26年)には改修が行われ、翌年春に休憩所「本寿院 ながら茶房」に改められた。
  • 宝寿院-子院。三井古流煎茶道の本部。
  • 万徳院-子院。
  • 法泉院-子院。聖護院門跡院室。かつて花王院という名で琴緒谷にあった時、水が枯れて困っていた。そこで泣不動尊(今は清浄華院にある)として知られる證空阿闍梨の不動明王に祈ったところ、一夜にして霊水が湧き出たことから法泉院へと名称を改めた。
  • 上光院-子院。文禄4年(1595年)に園城寺が闕所となった際にも存続がゆるされた。元々は北院にあったがやがて中院に移り、近代に入って南院の現在地に移っている。
  • 円宗院-子院。
  • 龍泉院-子院。
  • 妙厳院-子院。
  • 勧持院-子院。
  • 文化財収蔵庫 - 2014年(平成26年)10月開館。仏像、仏画、仏具などのほか、勧学院客殿障壁画のオリジナルを収蔵し、一部を展示する。
  • 両願寺-蓮如上人ゆかりの堅田源兵衛の首を祀る。
  • 長等神社-新日吉社または新宮社ともいう。かつての園城寺の鎮守社。楼門は市指定文化財。園城寺の鎮守である山王権現を祀る。明治時代になり神仏分離によって独立し、1883年(明治16年)に名称を長等神社に改める。
  • 近松寺-別所。長等公園の東側にある。本堂(市指定文化財)は享保元年(1716年)の再建。阿弥陀堂・渡廊下(附の市指定文化財)は嘉永3年(1850年)の建立である。
  • 慶祚阿闍梨入定窟石室(重要美術品)-長等公園の北側にある。

札所伽藍[編集]

五別所[編集]

園城寺には別所と呼ばれる有力な別院が5ヵ寺存在した。

如意寺[編集]

如意寺は園城寺の別院。園城寺の東側にある如意ヶ嶽京都市左京区)周辺にあった寺院である。創建年代は不明であるが平安時代中期には存在しており、鹿ヶ谷から園城寺に通じる「如意越」を中心に大慈院などの子院が存在し、本堂や三重塔があり隆盛を誇っていた。しかし、応仁の乱によって衰亡し、後に廃絶した。江戸時代初期に霊鑑寺の宗澄尼によって麓近くに小堂が再建されたが明治時代になると再び廃絶した。如意寺本堂に祀られていた千手観音像(重文)は現存している。

戦国時代には付近に中尾城如意ヶ嶽城が築城され、如意ヶ嶽の戦い中尾城の戦いが行われている。

現在如意ヶ嶽にある雨神社は、かつての如意寺の鎮守であった赤龍社である。

黄不動[編集]

国宝指定名称は「絹本著色不動明王像」。通称「黄不動」と呼ばれ、高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」と共に日本三不動の1つに数えられる、古来著名な画像である。「金色(こんじき)不動明王」とも呼ばれるこの像は、承和5年(838年)、比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に忽然と現れ、「自分は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝(円珍)を守護するために現れた。」と告げたとされる。その後、この不動明王は、円珍が唐への航海の途上、海賊に襲われそうになった時に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れたとされ、円珍の守護神的な性格をもっていたと思われる。

画面の大きさは178センチ×72センチ。平安時代初期、9世紀頃の制作と推定されているが、近年修復が行われ唐時代の作とする説も出ている。不動像は両眼をかっと見開き、上半身裸形、筋骨隆々とした姿に表される。背景を描かず、像は画面一杯に描かれる。像の足下には台座がなく、虚空を踏まえている。頭髪に弁髪を造らない点など、通常の不動明王像とは図像的にかなり異なるものである。

三井寺では宗祖ゆかりのこの像を厳重な秘仏としており、出版物への写真掲載を厳しく制限している。かつては伝法灌頂という密教の儀式を受けた者にのみ黄不動像の拝観が許されていたが、昭和時代以降、在家の一般信者も参加できる「結縁灌頂」という儀式が何度か実施され、その際に黄不動像拝観の機会が与えられた。20世紀後半以降、黄不動像が公開された機会は以下の通りである。

  • 1954年-東京日本橋高島屋にて結縁灌頂と記念秘宝展開催。
  • 1973年-横浜高島屋にて結縁灌頂と記念秘宝展開催。
  • 1989年10月 - 1990年9月-東京国立博物館など4会場で「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」開催。
  • 1990年-寺内で「智証大師一千百年御遠忌大法会」が行われ、11月6日~11月12日の7日間、結縁灌頂受者に限り黄不動像拝観が許可された。
  • 1995年5月-奈良国立博物館開館百年記念「日本仏教美術名宝展」に黄不動像を1週間だけ展示。なお、特別展図録には黄不動像の写真は掲載されなかった。
  • 2008年11月 - 2009年5月 - 智証大師帰朝1150年記念「国宝三井寺展」(大阪市立美術館、サントリー美術館、福岡市博物館を巡回)に出展。
  • 2010年10月9日-10月31日 - 大津市歴史博物館開館二〇周年記念 大津国宝への旅

文化財[編集]

三井寺の秘仏[編集]

黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。

  • 「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」(1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催)及び「智証大師一千百年御遠忌大法会」(1990年10月から11月に寺内で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
  • 「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」(2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
  • 「天台寺門宗宗祖智証大師生誕1200年慶讃大法会」(2014年10月から11月に寺内で開催) - 大師堂で智証大師像2躯と木造黄不動像、観音堂で如意輪観音像を開扉。

なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。

国宝[編集]

智証大師像(中尊大師)。平安時代の作。
  • 金堂(附:厨子)
  • 新羅善神堂(附:須弥壇及び厨子)
  • 勧学院客殿
  • 光浄院客殿
  • 絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
  • 木造智証大師坐像(中尊大師) - 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったと言われ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に三井寺に移されたものと言われている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に三井寺で新たに造像されたとの見方もある。「三井寺の秘仏」の節で紹介した行事等で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
  • 木造智証大師坐像(御骨大師) - 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左の厨子内に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
  • 木造新羅明神坐像 - 新羅善神堂に安置。非公開。円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされる。長いあごひげを蓄え、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など、極めて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。「三井寺の秘仏」の節で紹介した展覧会で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
  • 五部心観2巻-両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表した白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表した絵画のこと)。2巻のうち1巻は完本で唐時代に制作され、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻の残欠本は11世紀平安時代に日本で写されたものである。ただ、最近では残欠本の方を請来本とする意見もある。
  • 智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託。(文書典籍の明細は別記)

重要文化財[編集]

  • 木造不動明王立像-木像彩色、玉眼。唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として慶派の中心仏師のによって造られた像と見られる。
  • 木造如意輪観音坐像-木造漆箔。10世紀末頃の作。西国観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に一度とされている。
  • 梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)-金堂近くの霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。

以下は園城寺所有の重要文化財の一覧である(上に解説したものも重出している)。

(建造物)

  • 大門(仁王門)
  • 閼伽井屋
  • 一切経蔵
  • 三重塔
  • 食堂(釈迦堂)
  • 毘沙門堂
  • 唐院4棟(大師堂・唐門・灌頂堂・四脚門)
  • 鐘楼

(絵画)

  • 絹本著色新羅明神像
  • 絹本著色天台大師像 2幅
  • 絹本著色不動明王像
  • 絹本著色不動明王二童子像
  • 絹本著色不動明王八大童子像
  • 絹本著色釈迦十六善神像
  • 絹本著色涅槃像
  • 絹本著色尊星王像
  • 絹本著色多聞天像
  • 絹本著色閻魔天像
  • 絹本著色水天像
  • 絹本著色黄金剛童子像
  • 絹本著色両界曼荼羅図
  • 絹本著色尊勝曼荼羅図
  • 絹本著色八大仏頂曼荼羅図
  • 光浄院客殿障壁画 25面 紙本金地著色松に滝図(床間貼付1)、紙本金地著色菊花図(上段床間1、同障子腰4)、紙本墨画列仙図(襖4、帳台構3)(以上広間)、紙本著色花鳥図(襖12)(次の間)附:著色杉戸絵4面(唐獅子図2、松梅図2)
  • 勧学院客殿障壁画 15面 金地著色滝図(床間壁3)、梅、檜及花卉図(襖4)、桜、杉及花卉図4面(襖4)、檜及花卉図(戸襖4)(一の間)
  • 勧学院客殿障壁画 24面 紙本著色松に山鳥、鴨、鴛鴦図及竹に雀図(襖16)、竹に雀及芦に鷺図(戸襖8)(二の間)

(彫刻)

  • 木造如意輪観音坐像(観音堂安置)
  • 木造愛染明王坐像(観音堂安置)
  • 木造護法善神立像(護法善神堂安置)
  • 木造黄不動尊立像(唐院安置)
  • 木造吉祥天立像
  • 木造十一面観音立像
  • 木造千手観音立像(如意寺本尊。奈良国立博物館に寄託)
  • 木造智証大師坐像
  • 木造不動明王坐像 長和3年(1014年)、盛忠作銘(奈良国立博物館に寄託)
  • 木造訶梨帝母倚像

(工芸品)

  • 金銅孔雀文磬
  • 銅鐘 大平年間(遼)銘
  • 梵鐘 奈良時代

(書跡、歴史資料)

  • 大蔵経(文和三年正月廿三日足利尊氏願経) 592帖
  • 紙本著色園城寺境内古図 5幅
  • 園城寺尺 2枚
    • 唐院預竹計 応永三十一年四月十九日香実房領納(附 包紙(長禄二年四月二十七日授与記))
    • 唐院預尺 応永三十三年三月十五日写

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。

その他[編集]

御詠歌[編集]

いで入るや
波間の月を
三井寺の
鐘のひびきに
あくる湖

札所[編集]

西国三十三所
13 石山寺 -- 14 園城寺 -- 番外 元慶寺
西国薬師四十九霊場
47 善水寺 -- 48 園城寺別所水観寺 -- 49 延暦寺
近江西国三十三観音霊場
3 石山寺 -- 4 園城寺別所近松寺 -- 5 園城寺 -- 6 生源寺
江州三十三観音
2 泉水寺(廃寺) -- 3 園城寺別所近松寺 -- 4 園城寺 -- 5 生源寺
湖国十一面観音菩薩霊場
1 園城寺別所微妙寺 -- 2 盛安寺
びわ湖百八霊場
5 園城寺別所近松寺 -- 6 園城寺 -- 7 盛安寺
神仏霊場巡拝の道
146 石山寺 -- 147 園城寺 -- 148 西教寺

交通[編集]

周辺[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 「足利将軍の遺髪収納か 地蔵菩薩像頭部内に包み紙(京都新聞2012年11月9日)」 - ウェイバックマシン(2012年11月23日アーカイブ分)

参考文献[編集]

  • 井上靖、塚本善隆監修、瀬戸内寂聴、福家俊明著 『古寺巡礼近江4 三井寺』、淡交社、1980
  • 東京国立博物館ほか編 『三井寺秘宝展(智証大師1100年御遠忌記念)』図録、日本経済新聞社、1990
  • 大阪市立美術館ほか編 『国宝三井寺展(智証大師帰朝1150年 特別展)』図録、NHK大阪放送局ほか発行、2008
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』77号(園城寺、近江神宮)、朝日新聞社、1998
  • 『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 滋賀県』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 福家俊彦 『三井寺事典3 三井寺建築案内』、三井寺、2018

関連項目[編集]

外部リンク[編集]