清凉寺

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清凉寺
Seiryoji temple (8278704083).jpg
釈迦堂(本堂)
所在地 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
位置 北緯35度1分24.57秒 東経135度40分27.44秒 / 北緯35.0234917度 東経135.6742889度 / 35.0234917; 135.6742889座標: 北緯35度1分24.57秒 東経135度40分27.44秒 / 北緯35.0234917度 東経135.6742889度 / 35.0234917; 135.6742889
山号 五台山
宗派 浄土宗
本尊 釈迦如来(国宝)
創建年 寛和3年(987年
開基 奝然
別称 嵯峨釈迦堂
札所等 京都十三仏霊場第2番
文化財 木造釈迦如来立像及像内納入品、木造阿弥陀三尊坐像ほか(国宝)
紙本著色融通念仏縁起2巻、木造文殊菩薩騎獅像ほか(重要文化財)
公式HP 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
法人番号 1130005000238 ウィキデータを編集
清凉寺の位置(京都市内)
清凉寺
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清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算(じょうさん)である。

宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台真言念仏宗を兼ね、室町時代より「融通念仏の道場」として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ[1]

歴史[編集]

この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。

棲霞寺[編集]

この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。

清凉寺[編集]

棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立しようとしたが、様々な障害に阻まれ、一旦京都の船岡山にある蓮台寺に釈迦像を運び込むことになる。

奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の釈迦堂に「栴檀の瑞像」(前述の三国伝来の釈迦像)を安置し、華厳宗の寺として開山したのが、五台山清凉寺である[1]

大念仏(融通念仏)[編集]

融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年(1279年)以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って嘉吉3年(1443年)のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。

中世以降[編集]

享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。

本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから招来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった[2]。こうした信仰を受け、元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。

境内[編集]

伽藍[編集]

  • 山門(仁王門) - 慶長2年(1597年)に建立され、現在のものは天明3年(1783年)の再建[3]。二重楼閣の南門にして「五台山」の額を掲げる[4]。仁王は長享年間の作とされる[4]
  • 本堂(釈迦堂) - 徳川綱吉の発願にて元禄14年(1701年)に再建[1]。堂正面に掲げる「栴檀瑞像」の額は隠元の筆[1]。本尊の三国伝来の釈迦像は霊宝館にて安置。裏庭には放生池と弁天堂があり、本堂背後の渡り廊下から大方丈、澄泉閣、庫裏へと続く[1]
  • 阿弥陀堂 - 文久3年(1863年)に再建[1]。聖徳太子像を安置する。かつては旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像や木造兜跋毘沙門天立像などを祀っていたが現在は霊宝館にて収蔵。
  • 薬師堂 - 本堂西側に南向きで建つ。古くは竜幡山薬師寺と称し、疫病退散祈願として嵯峨天皇の勅により薬師如来像が奉安された名残りという[1]
  • 多宝塔 - 江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、3年後の元禄16年(1703年)に船で運ばれ再建された[1]。法華経に由来。
  • 聖徳太子殿 - 法隆寺の夢殿を模した。多宝塔の奥に建つ。
  • 鐘楼 - 「嵯峨十景・五台の晨鐘」と呼ばれてきた梵鐘足利義政富子義尚の名と文明16年(1484年)の日付が刻まれており、揃って寄進したものと推測される[1]
  • 八宗論池 - 弘法大師がこの池の畔で南都八宗の学問僧らを論破したと伝わる[1]
  • 一切経蔵 - 八宗論池の奥にあり、版の一切経を納める[5]。奝然帰国の際、持ち帰った一切経を納めていたが、建久年間(1190-1199年)火災に遭った[5]。中央に輪蔵を備え、正面に傅大士(ふだいし)父子像を安置する。現在のお堂は明治18年の再建[5]
  • 愛宕権現社 - 仁王門を入った東に建つ。神仏習合時代の名残りで、かつて同寺が愛宕山白雲寺(現愛宕神社)の山下別当寺であった歴史を今に伝えている[1]。『年中故事』(1800年刊)によれば「(嵯峨祭は)愛宕の神事。祭神イザナミノミコト、カグツチノミコト。神輿二台、一つは野宮の神輿なり。(中略)神輿二台を清凉寺の内に祭る。愛宕の神輿に冠する金鳳は愛宕山より韓櫃(唐櫃)に納め山を下りて神輿に付ける。清凉寺の内に真言宗の僧二行ありて勤む。」とあり[6]、愛宕の神輿が同寺に保管されていたことを記している[7]嵯峨祭の神輿二基は現在清凉寺仁王門前の御旅所に置かれている[8]。愛宕と関係していた名残りは後段に記した松明行事においても見られる。
  • 狂言堂 - 定期公演が開かれ、嵯峨大念仏狂言が奉納される。
  • 霊宝館 - 宝物を収蔵展示する。

墓碑・石塔など[編集]

  • 嵯峨天皇宝塔・壇林皇后層塔 - 幕末に御陵とみなされたことがある[1]
  • 源融の墓 - 多宝塔の裏に建つ宝篋印塔。嵯峨天皇の第三皇子源融のものとされるが、棲霞寺を開山した恒寂法親王の墓との説もある[1]
  • 奝然上人墓 - 高さ1.5mの八角形の石幢。嵯峨天皇宝塔らの北に並ぶ[9]
  • 十万上人墓 - 十万上人は大念仏の開祖で、本堂の後方に墓が建立されている[9]
  • 夕霧墓 - 大坂扇屋遊女夕霧の墓。夕霧は清凉寺西門前の中院の生まれにして、寛永期に全盛を誇った三名妓の一人。近松門左衛門の戯曲『夕霧阿波鳴渡』に登場する。本堂裏の墓地に墓碑がある[9]
  • 豊臣秀頼首塚
  • 前尾繁三郎(第58代衆議院議長)
  • 法然上人求道青年像

文化財[編集]

国宝[編集]

木造釈迦如来立像
  • 木造釈迦如来立像および像内納入品一切
本像は「歴史」の節で述べた、いわゆる「三国伝来の釈迦像」である。北宋時代の雍熙2年(985年)、仏師張延皎および張延襲の作。像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる。当時、宋に滞在していた奝然は雍熙元年(984年)、当時の都であった開封(汴京)で優填王造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し、翌雍熙2年(985年)、台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳の蓋板)裏面には張延皎および張延襲という仏師の名が刻まれている。古代インドの優填王が釈迦の在世中に造らせたという釈迦像の中国への伝来については、北伝ルートと南伝ルートの2つの説がある。『釈迦堂縁起』は、当寺の釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)が中央アジアの亀茲国に将来するが、その後、前秦苻堅によって奪われ、中国にもたらされたとし、北伝説をとっている[10][11]
本像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる。
像とともに国宝に指定されている像内納入品は、像の背面にある背板(内刳部を蓋状に覆う板)が外れそうになり、隙間から北宋時代の貨幣がこぼれ落ちてきたことに端を発し、翌1954年(昭和29年)に総合調査を実施した際に発見された。納入品には、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画などと共に、内臓の模型がある。医学史の資料としても注目されるこの内臓模型は、台州妙善寺の比丘尼清暁の風疾治療を祈願して納入されたのもので、世界最古の絹製模型である。それぞれあるべき位置に納められていた11個の臓腑は、中国古来の五臓六腑説とはやや異なる点があり、この内臓模型が中国医学に基づくものか否かについては諸説ある。
奝然の遺品としては、生誕仮名書付(臍の緒書き、最古の平仮名文字といわれる)や手形を捺した文書なども発見された[12]。(納入品の細目は後出。)
  • 木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像
「歴史」の項で述べた、棲霞寺の本尊である。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)に完成したと思われる。
  • 絹本著色十六羅漢像16幅
中国・北宋時代の羅漢像として唯一の遺品。東京と京都の国立博物館に8幅ずつ寄託されている。

国宝指定名称の細目[編集]

本尊釈迦如来像の正式の国宝指定名称(官報告示時の名称)は次のとおり(1955年指定)[13]

木造釈迦如来立像 張延皎并張延襲作 奝然将来 (本堂安置)1躯

背板裏に大宋国台州張延皎并弟延襲雕、反花座表に唐国台州開元寺、僧保寧の刻銘がある 蓮弁葺軸底に建保六年大仏師法眼快慶修造の墨書銘がある
附 旧厨子扉 4面

像内納入品一切

  • 一、奝然入宋求法巡礼行並瑞像造立記 僧鑑端書 1通 雍熈二年八月十八日奥書/入瑞像五臓具記捨物注文 奝然自署 1通 雍熈二年八月十八日奥書、造像博士張延皎等列名 1通/附:包紙(奝然封) 1枚
  • 一、細字金光明最勝王経 奝然自署1巻 延暦二十三年三月五日書写奥書 附:竹製八双残闕 1本
  • 一、細字法華経1巻 附:表紙題簽 1枚、銅製軸首 1双
  • 一、版本金剛般若波羅蜜経 雍熈二年六月刊記 1帙 
  • 一、版画霊山変相図 1枚
  • 一、版画弥勒菩薩像 高文進画 甲申歳十月十五日刊記 1枚
  • 一、版画文殊菩薩騎獅像 1枚
  • 一、版画普賢菩薩騎象像 1枚
  • 一、義蔵奝然結縁手印状 義蔵奝然自署 天禄三年閏二月三日奥書 1通 
  • 一、奝然繋念人交名帳 粘葉装 1帖
  • 一、捨銭結縁交名記 雍熈二年八月十八日匠人張延皎等奥書 1通 
  • 一、捨銭結縁交名記 断簡 1枚 
  • 一、奝然生誕書付(承平八年正月二十四日云々)1枚
  • 一、絹製五臓 背皮、雍熈二年八月初五日製五蔵一副云々墨書 1副
  • 一、線刻水月観音鏡像 絹紐付 紐墨書「台州女弟子朱□娘捨帯子一条」1面 
  • 一、菩提念珠 1釧分97顆
  • 一、娑羅樹葉片 1枚
  • 一、水晶珠 1顆
  • 一、瑪瑙製耳璫 1箇
  • 一、方解石 1箇
  • 一、中国銅銭 開元通宝、乾元重宝、宋元通宝、周元通宝、唐国通宝、天漢元宝、漢元通宝等132枚
  • 一、銅製鈴子 1箇
  • 一、銀製釧子 1枚
  • 一、玻璃器 2口分
  • 一、雲母製幢 1旒
  • 一、平絹片等 平絹、秋羅、縐紗、紗、羅、纐纈、綾、錦等一括

重要文化財[編集]

  • 紙本著色融通念仏縁起 2巻 - 応永24年(1417年)作。詞書は後小松天皇、堯仁法親王、義円(足利義教)、二条持基一条実秋足利義持細川満元山名時煕赤松義則六角満高斯波義重崇賢門院など。絵は六角寂済、粟田口隆光、藤原光国、藤原行広、永春、藤原行秀の6名。崇賢門院による息子の後円融天皇追善、または足利義持による足利義満追善のため制作された。制作年、詞書の染筆者、絵師名とその担当部分がすべて判明するのは極めて稀で、室町時代中期の基準作として貴重。
  • 紙本著色釈迦堂縁起(伝狩野元信筆)6巻 - 永正12年(1515年)頃の作。詞書は定法寺公助と推定される。1,2巻は釈迦の生涯を描いた仏伝。3,4巻は優填王が造った清涼寺釈迦如来像が西域から中国へ運ばれる流転譚。5巻は奝然が釈迦如来像に感銘を受け模刻を造りこれを招来しようとすると、本物の釈迦如来像が日本に仏教を伝えるため模刻像と入れ替わって日本にやってくる奇瑞。6巻には絵はなく、清涼寺開創後の様々な霊験譚。
  • 絹本著色阿弥陀浄土図 - 鎌倉時代作。「鎌倉時代以降に展開する独特の図様構成を示す浄土図の一例。本図は平安時代の源信『往生要集』等に記される極楽浄土の様子をつぶさに描き込むもので,これまで注目されてこなかったひとつの傾向を示す貴重な作例。緻密な描写や金銀の多様など,表現様式の上でも高く評価ができる。[14]」2018年度重要文化財指定[15]
  • 木造文殊菩薩騎獅像
  • 木造帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像
  • 木造地蔵菩薩立像
  • 木造毘沙門天立像
  • 木造毘沙門天坐像 - 2009年度指定。左脚を踏み下げて座す、図像的に珍しい毘沙門天像。平安時代後期。
  • 木造四天王立像
  • 木造十大弟子立像
  • 源空証空自筆消息(2通)(附 熊谷直実自筆誓願状1巻、迎接曼荼羅2幅、迎接曼荼羅由来1巻)

重要無形民俗文化財[編集]

市指定文化財(美術工芸品)[編集]

市指定無形民俗文化財[編集]

  • 嵯峨お松明

行事[編集]

  • 嵯峨大念仏(大念仏狂言) - 春と秋に狂言堂で定期公演が行われる。重要無形民俗文化財
  • 涅槃会とお松明式 - 毎年3月15日に涅槃図を供養した後、火祭りが行われる。三本の大松明を早稲、中稲、晩稲に見立て、その燃え方でその年の豊凶を占う。近世、愛宕の山中にて修験者によって行われていた愛宕への献火が変化したもの[16]。当日は境内に多くの露店が出て賑わう。

歴代住職(近年のみ)[編集]

ギャラリー[編集]

所在地・アクセス[編集]

  • (所在地)京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
  • (交通)京都市営バス京都バス「嵯峨釈迦堂前」バス停下車徒歩2分

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 京都新聞社編著『史跡探訪 京の西山』京都新聞社、1982年
  2. ^ 塚本俊孝「嵯峨釈迦仏の江戸出開帳について」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)p.14
  3. ^ 鵜飼光昌ほか『古寺巡礼 京都/39 清凉寺』淡交社、2009年、17頁。
  4. ^ a b 嵯峨教育振興会編『嵯峨誌』嵯峨教育振興会、1999年、81頁。
  5. ^ a b c 嵯峨教育振興会編『嵯峨誌』嵯峨教育振興会、1999年、82頁。
  6. ^ 嵯峨教育振興会編『嵯峨誌』嵯峨教育振興会、1999年、94頁。
  7. ^ 八木透『京のまつりと祈り-みやこの四季をめぐる民俗』昭和堂、2015年、117頁。
  8. ^ 嵯峨教育振興会編『嵯峨誌』嵯峨教育振興会、1999年、93頁。
  9. ^ a b c 嵯峨教育振興会編『嵯峨誌』嵯峨教育振興会、1999年、85頁。
  10. ^ 井上正「奝然と優填王思慕像の東伝」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)pp.10 -11
  11. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』16号、pp.6 - 165 - 169
  12. ^ 倉田文作『日本の美術 86』「像内納入品」(至文堂、1972)、pp.19 - 27
  13. ^ 国宝指定告示は昭和30年6月22日文化財保護委員会告示第43号。ただし、「旧厨子扉 4面」は2017年追加指定(平成29年9月15日文部科学省告示第118号)。
  14. ^ 「解説」『文化審議会答申~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について~』文化庁2018年3月9日
  15. ^ 平成30年10月31日文部科学省告示第208号
  16. ^ 八木透『京のまつりと祈り-みやこの四季をめぐる民俗』昭和堂、2015年、117頁、118頁。

参考文献[編集]

  • 井上靖、塚本善隆監修、瀬戸内寂聴、鵜飼光順著『古寺巡礼京都21 清凉寺』(淡交社、1978年)
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』(駸々堂、1983年)
  • 小泉順邦著『嵯峨大念仏狂言』(「かもがわ選書」8)(かもがわ出版、1991年) ISBN 4-87699-023-9
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』16号(清凉寺ほか)(朝日新聞社、1997年)
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)、京都国立博物館、1982

関連項目[編集]

外部リンク[編集]