善光寺
善光寺 | |
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![]() 本堂(国宝) | |
所在地 | 長野県長野市元善町491 |
位置 | 北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒 / 北緯36.6617000度 東経138.1877111度座標: 北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒 / 北緯36.6617000度 東経138.1877111度 |
山号 | 定額山 |
宗派 | 無宗派[1] |
本尊 | 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏) |
創建年 | (伝)皇極天皇3年(644年) |
開基 | (伝)皇極天皇(勅願) |
別称 | 信州善光寺、信濃善光寺 |
札所等 |
西国三十三所(番外) 坂東三十三観音(番外) 秩父三十四箇所(番外) 西山国師遺跡霊場(客番) 真盛上人二十五霊場(番外) |
文化財 |
本堂(国宝) 三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財) |
公式サイト | 信州善光寺ホームページ |
法人番号 | 4100005000576 |
長野盆地における位置
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善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏である[2](開帳は前立本尊で行う[3])。本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。豊臣秀吉は慶長伏見地震で損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる新たな本尊として、善光寺如来を方広寺大仏殿に遷座させていたが、死の間際に如来を善光寺へ返還した。それ以降善光寺如来は、他所へ遷座させられることなく今日に至っている(後述#戦国大名による善光寺如来の争奪を参照)。
概要[編集]
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和4年(2022年)6月時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。
古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。
特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[5]が挙げられる。
三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[6]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三観音、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。
伽藍[編集]

本堂[編集]
現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。昭和28年(1953年)、国宝に指定された。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。この他、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する[7]。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする[8][9]。
その他の建物[編集]
かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった(『一遍聖絵』)。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。
- 山門
- 経蔵
- 日本忠霊殿・善光寺史料館 - 日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
- 仁王門
- 鐘楼・梵鐘
- 雲上殿
- 大勧進
- 大本願
- 釈迦堂
- 宝物館
- ぬれ仏(延命地蔵尊)
- 六地蔵
- 爪彫如来 親鸞が滞在した際に残した爪彫りの阿弥陀如来と伝えられる[10]。
- 御供所 仏に献ずる供物を調理したり、寺僧が集まったりする[11]。
- 法然堂 法然が宿泊したと言われ、法然の像を安置[11]。
- 六字名号碑 融通念仏を血脈に加えた時の石碑[11]。
文化財[編集]
国宝
- 本堂(附:厨子1基) - 解説は既出。
重要文化財
登録有形文化財
重要美術品
史跡(市指定)
- 善光寺参道(敷石)
- 正徳4年(1714年)完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。
建造物(市指定)
- 石造宝篋印塔
- 山門を通り、左手(西)の方角に二基ある。
その他
行事[編集]
年間行事[編集]
- 1月1日 朝拝式(ちょうはいしき) 善光寺の全僧侶により行われる、新年最初の法要。
- 1月1日-3日 修正会(しゅしょうえ) 正月三が日の間に行われる、国家平安を祈る儀式。
- 1月6日 びんずる廻し(びんずるまわし) 妻戸台の周りをびんずる尊者像と参拝者が廻る行事。
- 1月7日 七草会(ななくさえ) 朝拝式・修正会に御印文加持・御印文頂戴などが組み合わされた法会。
- 1月7日-15日 御印文頂戴(ごいんもんちょうだい)善光寺如来の分身といわれる三判の宝印「御印文」を、僧侶が参詣者の頭に押し当てる儀式
- 1月15日 お焚き上げ(おたきあげ) 正月飾りや書き初め、旧年中のお札や達磨などを読経とともに焚き上げる。
- 1月25日 法然上人御忌(ほうねんしょうにんぎょき) 浄土宗の宗祖、法然上人の忌日法会。
- 2月3日 節分会(せつぶんえ)
- 3月15日 御会式(おえしき) 本尊・善光寺如来が遷座されたことを記念して行われる法会。
- 春彼岸の入り、中日、明け 彼岸会(ひがんえ)
- 4月8日 針供養(はりくよう)
- 5月4日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ)春の法会は日本天台宗宗祖伝教大師最澄の忌日に行われる。
- 6月30日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
- 7月13日 開山忌(かいざんき) 善光寺の開山、本田善光の忌日法要。
- 7月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
- 7月31日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
- 8月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
- 8月23日 地蔵盆(じぞうぼん) ぬれ仏、六地蔵、仲見世の延命地蔵など、境内各所の地蔵尊を巡回し、子どもの健全育成を祈願。
- 秋彼岸の入り、中日、明け 彼岸会
- 10月5日-14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
- 10月15日 御会式(おえしき)本尊・善光寺如来が日本に渡ったことを記念し行われる。
- 11月5日-14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
- 11月24日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ) 春と秋の2回執行され、秋の法会は中国天台智者大師の忌日。
- 12月1日 お注連はり(おしめはり) 自坊の門に注連縄をはり、正月行事の始まりを告げる。
- 12月7日-9日 貴々念仏(とうとうねんぶつ) 一定の期間を定めて念仏を唱える「別時念仏」の法要。
- 12月10日 御松はやし(おまつはやし) 正月、善光寺本堂正面向拝に飾られる御松を切りに行く儀式[15][16]。
- 12月第2申の日 (非公開行事)御越年式(ごえつねんしき) 本尊・善光寺如来の年越しの儀式。
- 12月21日 (非公開行事)おそなえつき 正月飾り用の餅つき行事。
- 12月28日 お煤払い(おすすはらい) 年に一度の本堂の大掃除。
開帳[編集]
開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた[17]。明治時代以降から2009年まで「御開帳」と呼ばれるものは全て居開帳であったが、2013年には東京の両国回向院にて「出開帳」が開催された[18]。また、2021年の御開帳は新型コロナウイルス感染拡大(コロナ禍)の影響で翌年に延期となった。
正式名は、善光寺前立本尊御開帳。数え7年目ごとに1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年間隔の丑年と未年)、秘仏本尊の御身代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ。
回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々、松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉が使用された。
期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に直接触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。
御開帳の歴史[編集]
居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせて寺の都合により開催されていた。
- 1730年:享保15年旧暦4月10日 - 16日 - 常念仏二万日
- 1742年:寛保2年旧暦1月29日 - 旧暦3月14日 - 三都開帳終了
- 1745年:延享2年旧暦3月15日 - 旧暦5月15日 - 本堂修理完成
- 1759年:宝暦3年旧暦3月15日 - 旧暦4月15日 - 経蔵落慶は旧暦3月14日
- 1762年:宝暦12年旧暦4月15日 - 旧暦5月14日 - 常念仏三万日
- 1773年:安永2年旧暦3月25日 - 4月29日 - 常念仏三万五千日
- 1785年:天明5年旧暦3月15日 - 旧暦4月15日 - 常念仏四万日
- 1791年:寛政3年旧暦3月10日 - 旧暦4月30日 - 諸堂修復完成/本堂・三門・経歳・仁王門修復
- 1799年:寛政11年旧暦3月1日 - 旧暦4月30日 - 常念仏三万五千日/回国開帳終了
- 1804年:文化元年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 出開帳終了
- 1811年:文化8年閏2月25日 - 旧暦4月15日 - 常念仏五万日/出開帳終了
- 1821年:文政4年旧暦3月1日 - 旧暦4月29日 - 常念仏五万五千日
- 1832年:天保3年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 常念仏六万日/本堂屋根修復落慶
- 1840年:天保11年旧暦3月10日 - 旧暦4月29日 - 本堂屋根修復
- 1847年:弘化4年旧暦3月9日 - 旧暦4月29日 - 常念仏六万五千日、旧暦3月24日に善光寺地震で中止。
- 1865年:元治2年旧暦2月7日 - 旧暦3月8日 - 仁王門落慶開帳(江戸時代最後)
明治以降は、居開帳がほぼ7年に一度行われている(ただし1942年は戦時中のため開帳せず)。
- 1872年:明治5年旧暦3月1日 - 旧暦4月20日 本堂屋根葺替工事始
- 1877年:明治10年4月10日 - 5月29日 - この年以降開帳の日付がグレゴリオ暦準拠のものとなる。
- 1882年:明治15年4月10日 - 5月29日 - 以降、太平洋戦争前までの御開帳は午と子の年、50日間の開催が慣例となる。
- 1888年:明治21年4月10日 - 5月29日
- 1894年:明治27年4月10日 - 5月29日
- 1900年:明治33年4月1日 - 5月20日
- 1906年:明治39年4月1日 - 5月20日
- 1912年:明治45年4月1日 - 5月20日
- 1918年:大正7年4月1日 - 5月20日
- 1924年:大正13年4月1日 - 5月20日
- 1931年:昭和6年4月1日 - 5月20日
- 1936年:昭和11年3月20日 - 5月20日
- 1949年:昭和24年4月1日 - 5月31日 - 雲上殿落慶
- 1951年:昭和26年4月20日 - 5月24日 - 善光寺如来渡来千四百年
- 1955年:昭和30年4月10日 - 5月20日 - 丑年と未年開催が慣例となる。
- 1961年:昭和36年4月1日 - 5月21日
- 1967年:昭和42年4月10日 - 5月20日
- 1973年:昭和48年4月8日 - 5月20日
- 1979年:昭和54年4月8日 - 5月27日
- 1985年:昭和60年4月7日 - 5月26日
- 1991年:平成3年4月7日 - 5月26日
- 1997年:平成9年4月6日 - 5月31日
- 2003年:平成15年4月6日 - 5月31日 - 同時期に山梨県甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、愛知県稲沢市祖父江の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳もあり、628万人が訪れた。
- 2009年:平成21年4月5日 - 5月31日 - 6年前の四善光寺に加え、岐阜県岐阜市の岐阜善光寺、岐阜県関市の関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となり、過去最高の673万人が訪れた。
- 2013年:平成25年4月27日 - 5月19日 東日本大震災復興支援を目的に「復幸支縁」と銘打ち、両国回向院にて「出開帳」を開催。
- 2015年:平成27年4月5日 - 5月31日 - ほぼ同時期に26寺で、善光寺如来の開帳が行われた(「六善光寺」については善光寺と同日程)[19]。参拝券の購入はSuica等交通系ICカードによる決済が可能になった。
- 2022年:令和4年4月3日 - 6月29日 - 当初開催予定だった2021年(令和3年)から新型コロナウイルス感染拡大(コロナ禍)の影響により延期となった[20]。また、開催期間も5月29日までの予定を混雑緩和のため1ヶ月延長された[21]。
御印文[編集]
1784年(天明4年)、第79世貫主・等順が、浅間山大噴火および 天明の大飢饉における民衆救済のため、「融通念仏血脈譜」[22]に関するそれまでの面倒な儀式を簡略化して新たに作成、通称「お血脈」として参拝者へ配布したことに始まる[23][24]。釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図。授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁することを意味する。 等順大僧正は大噴火などによる全国的な飢饉で餓死者が続出した時代、人々の心の平安を取り戻すため[25]、全国各地で行われた回国開帳などでお血脈を約180万枚を授与。全国から民衆が善光寺へ「お血脈」を求めて参拝者が集まり、善光寺信仰の全国的普及に大きな役割を果たし[26][27]、落語『お血脈』(『骨寄せ』)の題材ともなった[28][29][30]。
歴史[編集]
善光寺の創建と発展[編集]
白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている[32]。
通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、『扶桑略記』では或記(引用した)として「秦巨勢大夫」とあり、『伊呂波字類抄』では「信濃国人若麻續東人」と相違がある[33]。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある[34]。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある[35]。天平勝宝8年(756年)、唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の『大般若経』を奉納させたという伝承が残る。
当時の信濃国という辺境の地なのにも関わらず、仏教が受け入れられたのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる[36]。
8世紀に記されたとされる『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、出土した瓦の様子から、平安時代になる頃には既にある程度の規模の瓦を用いた寺院が形成されていたと考えられる。善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏や他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる[36]。
また、善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部や名代などの王権や中央豪族の部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる[36]。
善光寺縁起は、『扶桑略記』で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった[33]。院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年(神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている[37]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている[38]。
治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年7月28日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び執権北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった[39]。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が「夢で見た」とされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の『とはずがたり』には半年余にわたり、善光寺付近の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。文永2年(1265年)にはそれまで在地の有力者に任されていた善光寺警固のための奉行人制度が廃止されて和田石見入道仏阿、窪寺左衛門入道光阿、原宮内左衛門入道西蓮、諏訪部四郎左衛門入道定心の4氏が解任され鎌倉幕府が直接統制に乗り出した[40]。またこの時代には現在につながる門前町が形成された。
鎌倉幕府の崩壊後は建武政権側と反対勢力に地元豪族達が分かれて争った。中先代の乱、観応の擾乱といった南北朝戦乱に続いて、室町時代の大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなど、内続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。
戦国大名による善光寺如来の争奪[編集]

戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり(川中島の戦い)、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺如来は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、上杉氏による戦災からの保護を口実として、武田信玄により善光寺は善光寺別当の栗田氏と共に、寺ごと武田氏居館のある甲斐国甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の山梨県甲府市にある甲斐善光寺であるとする。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、上杉景勝の米沢藩への国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。
善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、上記を契機として、甲斐国・信濃国を占領下(影響下)に置いた戦国大名はこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させるようになった。善光寺如来は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって岐阜(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。自領内の寺院に善光寺如来を遷座させた武田氏や織田氏は没落したこと、とりわけ織田氏が善光寺如来を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部へ持ち出すと祟られるとする噂がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康が甲斐善光寺に善光寺如来を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われる(この頃家康は背中の腫れ物で苦しみ、一時重篤になったという)。ただし『家忠日記』には美濃から甲斐へ直接移すとする記述があり、少なくとも家康が遠江に置いたとするのは事実ではないる。
1597年(慶長2年)には、豊臣秀吉の命令により、甲斐から京都の方広寺大仏殿へと移された[43]。これは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向によるものである(地震で大仏は損壊したが、大仏殿は損壊を免れた)[43]。秀吉はまず損壊した大仏の解体を命じた。『義演准后日記』慶長2年(1597年)5月23日条には「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があるほか、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録される[44]。大仏を取り壊したのち、平内吉政に命じてその台座上に宝塔(厨子のようなものか?)を造らせ、そこに善光寺如来が安置された[45]。また無傷であった大仏の光背はそのまま残されていた[45]。これ以後方広寺大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという[46]。相国寺の僧西笑承兌は自身の日記の中で、方広寺の本尊が巨大な大仏から小振りな善光寺如来に替わったことは、天下人が織田信長から豊臣秀吉に替わったことの如くだと評した[43](秀吉は小人物に過ぎないとする皮肉とも言われる)。
善光寺如来の遷座の翌年の1598年(慶長3年)に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになった。これは善光寺如来の祟りであるという噂が民衆の間で流布したため、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末、ようやく善光寺如来は信濃へ戻った[43](善光寺公式HPでは、秀吉の死の間際、善光寺如来が夢枕に立ち信濃へ戻りたいと告げたためとしている)。しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった。同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた[47][48]。
武田信玄による善光寺如来の遷座から、秀吉によって信濃善光寺に返還されるまでの数十年間に渡り、善光寺如来は各地を流転したが、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが善光寺如来に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。秀吉が善光寺如来を無理矢理方広寺に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国(山梨県)から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国(山梨県)に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国(長野県)に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる源頼朝の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた。豊臣秀頼の代には彼の寄進で信濃善光寺の伽藍の復興がなされたが、寛永19年(1642年)に火災があり烏有に帰した。先述の通り現存の本堂は宝永4年(1707年)に再建されたものである[49]。
江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった[50][51]。
年表[編集]
- 三国渡来の秘仏である一光三尊阿弥陀如来像が天竺から百済を経て、欽明天皇13年(552年)に日本へ伝えられたとされている[6]。
- 皇極天皇元年(642年) - 本尊が現在の地に遷座。
- 皇極天皇3年(644年) - 本堂創建。
- 白雉5年(654年) - 本尊が秘仏とされる。以上の縁起#転用が平安時代後期になってから『扶桑略記』『伊呂波字類抄』などに示された。なお10世紀中頃の『僧妙達蘇生注記』に「水内郡善光寺」と見え、『吾妻鏡』文治2年(1186年)条には園城寺(現在の三井寺)の末寺としての存在で文献に登場する。
- 永久2年(1114年) - 信濃国善光寺別当の従者らが京都法勝寺の四至内で濫行を働く。
- 治承3年(1179年) - 焼失。
- 文治3年(1187年) - 源頼朝が信濃国の御家人に再興を命じる。
- 承元4年(1210年) - 善光寺地頭職であった長沼宗政が園城寺の請により更迭。同6年にも宗政の代官の非法を住僧が幕府に訴える。
- 嘉禎3年(1237年) - 五重塔完成。
- 延応元年(1239年) - 鎌倉幕府執権北条泰時が小県郡室賀郷を寄進。弟の名越朝時が善光寺に金堂建立。
- 弘長3年(1263年) - 執権北条時頼が水内郡深田郷を寄進。
- 文永2年(1265年) - 在地の有力者に任されていた善光寺近辺警護の奉行人制度が廃止。鎌倉幕府が直接統制に乗り出す。
- 文永5年(1268年) - 須坂の豪族井上盛長によって焼き払われ、盛長は誅殺された。
- 正安3年(1299年) - 鎌倉八幡宮との結合強化が図られた。
- 応安3年(1369年) - 戦火で焼失。この時、本尊は土中に埋められて難を逃れた。
- 応永34年(1427年) - 焼失。本尊を横山(現在の城山)に遷座。
- 応仁3年(1468年) - 善光寺住職の善峰が対馬の宗貞国を通じて李氏朝鮮と交渉。
- 文明9年(1477年) - 焼失。前立本尊が破損(首を残して焼失したため再鋳)。
- 文明16年(1484年) - 焼失。前立本尊に損傷。
- 明応4年(1495年) - 北信濃支配勢力者の村上政清と高梨政盛、澄頼とが善光寺を巡って争い焼失。高梨氏が本尊を本拠地に持ち去る。
- 天文24年(1555年) - 武田信玄により、善光寺ごと甲府に移動(武田氏滅亡後に織田氏によって本尊が外部(美濃国など)に一時持ち出されるが、本尊を譲り受けた徳川家康によって甲府へ返還される)。
- 慶長2年(1597年) - 豊臣秀吉により、本尊が甲府から方広寺へ移座する。
- 慶長3年(1598年) - 豊臣秀吉により、本尊が信濃善光寺に還る。
- 寛永19年(1642年) - 本堂焼失。
- 慶安3年(1650年) - 本堂(仮堂)完成。
- 寛文6年(1666年) - 本堂完成。
- 元禄5年(1692年) - 秘仏の本尊を検分する使者が江戸幕府から派遣され実測された。
- 元禄13年(1700年) - 本堂再建という幕府の特命で、柳沢吉保の甥・慶運が別当、吉保の娘・智善が大本願上人で入山[52][53]。
- 宝永4年(1707年) - 慶運により本堂再建、現在に至る。この造営が創建以来12回目と伝えられている。
- 寛延3年(1750年) - 香雲により山門完成。
- 宝暦9年(1759年) - 経蔵完成。
- 天明4年(1784年)2月 - 等順が浅間山の天明大噴火の被災者救援活動に尽力[54]、融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成して授与[22][26][27]、善光寺に戻り天明の大飢饉における民衆救済のため善光寺の貯蔵米を全て蔵出しして施す。
- 天明4年(1784年)7月 - 善光寺本堂にて浅間山大噴火の追善大法要を執行[25][55]。
- 天明5年(1785年) - 等順が浅間山大噴火三回忌の年に大開帳法要、念仏堂において御回向。善光寺本堂における御開帳の始まり[56]。
- 寛政10年(1798年) - 4年にあたる全国回国開帳から等順が帰着[24]。
- 弘化4年(1847年)5月8日 - 善光寺地震により被害を受け[57]、仁王門など焼失。本堂、山門、経蔵は焼失を免れる。
- 元治元年(1864年) - 仁王門再建。
- 昭和21年(1946年)5月15日 - 大勧進と大本願の二住職制導入。
- 昭和24年(1949年)4月20日 - 雲上殿落慶。
- 昭和28年(1953年) - 本堂が国宝に指定。
- 昭和35年(1960年) - 本堂で約1000年ぶりに瑠璃壇の法義公開。
- 昭和40年(1965年) - 山門と経蔵が重要文化財に指定。
- 昭和54年(1979年) - 火災により奥書院などが焼失[58]。
- 平成10年(1998年) - 冬季オリンピックでは、開会式に善光寺の鐘楼の鐘の合図で始まり、続いてパラリンピックも開催された。五輪開催中、ドイツ選手団の選手村として利用された。
- 平成14年(2002年) - 当時の田中康夫県知事の発案で2002年に行ったのが始まり、毎年4月下旬から5月上旬のゴールデンウィークに行われる、長野駅から善光寺までの街角を花で彩るイベント。
- 平成16年(2004年) - 長野オリンピックのメモリアルイベントとして2003年に行われた「善光寺ゆめ常夜灯」を元に、翌2004年から始まったイベント。例年2月上旬から中旬にかけて行われる。
- 平成19年(2007年)- 文化庁が推進する「ふるさと文化財の森」事業の一環として、将来の建て替えを想定した建築資材育成目的で、「善光寺の森」植林を実施[59]。
- 平成20年(2008年)- チベット騒乱を受けて、善光寺は同じ仏教徒としての反対の意味とそれに伴う参拝客への危害が及ぶなどの混乱回避を理由に、当初予定していた北京オリンピックの聖火リレーの出発式会場に善光寺境内の不使用を長野市に求めた[60]。2008年4月18日には、善光寺は出発式会場から辞退を表明した[61][62]上、聖火リレーの時間に合わせてチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を実施した。同年11月、出発式会場辞退への感謝の印として、ダライ・ラマ14世より釈迦像が贈られた[63]。この像は、翌2009年3月から、忠霊殿で一般公開されている[63]。)
- 令和2年(2020年)- 善光寺大勧進が、栢木寛照副住職を導師とした僧侶17人による新型コロナウイルス沈静法要を、天明の大飢饉や浅間山大噴火で苦しむ民衆に手を差しのべた等順大僧正の命日である3月25日に合わせて実施[64][65][66]。
資料館[編集]
善光寺大勧進宝物館[編集]
善光寺に関する史料や宝物が三千点以上あり、季節により展示替えをして、常時150点程度を展示している[67]。
展示室は1号館と2号館に別けられ、天台宗開創の地である天台山を描いた「天台山図」や「南無阿弥陀仏」と書かれた歴代住職の書、文殊菩薩や観音菩薩の像、奈良時代の善光寺の古瓦、土佐派や狩野派などの仏画、江戸時代の善光寺縁起絵などを展示している。特に「五鈷杵」や「源氏物語事書」は国の重要文化財となっている。また聖武天皇をはじめ各時代の天皇や、高僧、公卿、善光寺を信仰した武将など120人余りの筆跡を張り込んだ屏風「古筆大手鑑」や、武田信玄、上杉謙信の位牌などもある。
善光寺大本願宝物館[編集]
宝物殿では歴代皇室の御物や、浄土宗の宝物、仏像、書画など、大本願に伝わる資料や宝物を展示している[68]。
第1展示室では、276玉を2連につなげた大念珠、鎌倉時代の善光寺の模型、阿弥陀聖衆來迎図や、木造聖徳太子像、木造伐折羅大将像、木造将軍地蔵騎馬像などを展示し、皇室関係では明治天皇や大正天皇の礼服を展示している。第2展示室では、明治維新の折に廃仏毀釈から善光寺並びに大本願を守り抜いた第117世・伏見宮誓圓上人をはじめ、歴代上人の紹介や所縁の品々を展示、本誓殿から奥書院への渡り廊下の天井には、大本願中庭に植えられた植物を描いた「四季草花図」がある。また2007年に明照殿の新築工事の際に出土した、善光寺創建当時のものと推定される軒丸瓦も展示している。
福祉施設[編集]
善光寺大勧進養育院[編集]
1883年(明治16年)、善光寺大勧進副住職の奥田貫照が救貧施設の設立を発案し、門前町の篤志家を回って資金を集め、善光寺大勧進養育院が誕生した[69]。1925年(大正14年)には内務省から許可を受けて「財団法人大勧進養育院寄附行為」が決定され財団法人となった[69]。戦後、社会福祉法人となり、社会福祉法人大勧進養育院が運営する児童養護施設「三帰寮」となっている。
善光寺大本願乳児院[編集]
1962年(昭和37年)、善光寺大本願法主の一条智光が社会福祉事業の経営を発案して乳児院が設立された[70]。1981年(昭和56年)には社会福祉法人善光寺大本願福祉会が設立されて設置運営が移管された[70]。
門前町[編集]
善光寺町[編集]
長野市は、鎌倉時代以降に形成された、善光寺の門前町を起源として発展した都市で、古くから長野盆地を「善光寺平」とも称していた。
元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年(慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに、徳川家康の寺領寄進による善光寺領(1000石)とされ、戦国時代の荒廃から復興した。
善光寺門前の参道は1611年(慶長16年)に、北国街道の経路に定められ、伝馬役を担う宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現・長野市大字南長野)、権堂村(現・長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。
善光寺町は、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。
さらに、隣接する松代藩および幕府領の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。
宿場町としての善光寺宿は、本陣、脇本陣、問屋が大門町に置かれ、西町と東町がこれに付属し、境内の宿坊とは別に旅籠が30軒ほどあった。また伝馬宿の特権として九斎市の立つ市場町としても公認された[71]。本陣・脇本陣や問屋は当初交代制であったが、本陣は安永5年(1776年)以降、藤井平五郎家が、脇本陣は臼井清五郎家が世襲し、問屋は延享5年(1748年)以降、中澤与三右衛門家が世襲した[71]。本陣や脇本陣は、参勤交代で北国街道を通行する諸大名が宿泊した。
地名の変遷[編集]
善光寺町内の各町は、明治維新以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したりしたもの(旭町、県町、南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村(1881年{明治14年}に南長野町)、鶴賀村(1885年{明治18年}に鶴賀町)内の通称地名として、さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町(1897年{明治30年}に長野市)の大字長野、大字南長野、大字鶴賀内の通称地名として現在も使用されている。
文化[編集]
牛に引かれて善光寺参り[編集]

思いがけないことが縁で、偶然、よい方に導かれることの例えとして用いられる。以下のような伝説が伝わっている。
むかし、善光寺から東に十里の村里に欲張りで信心薄いおばあさんが住んでいた。ある日、川で布をさらしていると、どこからか一頭の牛が現れ、角にその布を引っかけて持っていってしまった。布を取り戻したいおばあさんは、牛の後を一生懸命追いかけ、ついに長野の善光寺まで辿りついた。ところが牛の姿を見失い、日も暮れて途方にくれたおばあさんは、仕方なく善光寺の本堂で夜を明かすことにした。するとその夜、おばあさんの夢枕に如来様が立ち、不信心をお諭しになった。目覚めたおばあさんは、今までの行いを悔いて信心深くなり、たびたび善光寺に参拝に訪れるようになった。そして、ついに極楽往生を遂げた[73]。
長野県小諸市にある布引観音を発祥地とする伝説が有名だが、市内仏導寺付近からとする戦国時代末の実話とも伝えられている。
善光寺にまつわる慣用語[編集]
- 「遠くとも一度は詣れ善光寺」
- 「堪忍信濃の善光寺」 おそれ入谷の鬼子母神などと同様、「堪忍しなさい」に掛けた言葉遊び。
- 「胴上げ」の発祥は長野市善光寺とする説がある。善光寺において、12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」で、仕切り役を胴上げする習慣がある。この行事は江戸時代初期には記録があり、少なくともその頃から胴上げが成されていたことは確かである[74]。「ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる」と書かれている。
善光寺を舞台にした作品[編集]
- 柏崎 (能)
- 長門有希ちゃんの消失 - 涼宮ハルヒが企画した、合宿と称した旅行で登場する。
- お血脈(落語)
スポーツ・芸能[編集]
交通[編集]
長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。
- 長野駅(JR・しなの鉄道・長野電鉄)
- 善光寺口1番バス乗り場よりアルピコ交通の路線バス
- 「善光寺」方面行きに乗り、「善光寺大門」バス停下車。
- 善光寺口1番バス乗り場よりアルピコ交通の路線バス
- 長野電鉄長野線 善光寺下駅下車、徒歩約10分。
- 東京新宿を結ぶ高速バス長野線の一部便は「善光寺大門」バス停を発着する。
拝観[編集]
- 9-16時 本堂内陣・戒壇めぐり・経蔵・史料館共通500円
出典・脚注[編集]
- ^ 無宗派…公式サイト「善光寺とは」
- ^ 御本尊 善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像) 善光寺(2019年11月18日閲覧)
- ^ 善光寺御開帳を知る > 御開帳とは善光寺御開帳奉賛会(2019年11月18日閲覧)
- ^ 長野・善光寺の新貫主に栢木寛照氏
- ^ 説話として天竺・如是姫(善光寺本尊を鋳写したとされる月蓋長者の娘)病気救済、百済・入水女官救済、皇極天皇の地獄救済がある。
- ^ a b 重要文化財 善光寺如来縁起絵 文化遺産オンライン、文化庁 2013年11月
- ^ 善光寺公式サイト
- ^ 長野市文化財データベース
- ^ 本堂の説明は別途脚注を付した箇所以外は『日本の国宝』85、pp.134 - 137による。
- ^ 爪彫如来-境内のご案内 | 信州善光寺
- ^ a b c 小林計一郎『善光寺さん』銀河書房発行昭和48年3月5日全289頁中188頁
- ^ 本品は重要文化財指定時点(昭和63年/1988年)には巻子装であったが、平成3年(1991年)6月21日文部省告示第84号で員数を「1巻」から「8幅」に変更している。
- ^ a b 令和2年8月17日文部科学省告示第106号
- ^ a b “文化審議会の答申(登録有形文化財(建造物)の登録)について”. 文化庁. 2020年3月20日閲覧。
- ^ 御松はやし 善光寺歳時記-鏡善坊
- ^ 堂童子日程 善光寺歳時記-鏡善坊
- ^ 元禄の善光寺御開帳
- ^ 回向院ホーム > 被災地支援の取り組み > 善光寺出開帳両国回向院
- ^ 信州善光寺御開帳奉賛全国善光寺如来同時御開帳 全国善光寺会
- ^ "長野の観光打撃長引く 善光寺御開帳2022年春に延期で". 日本経済新聞. 3 June 2020. 2020年6月13日閲覧。
- ^ "善光寺の御開帳、期間延長で「密」回避 最長の88日間". 朝日新聞. 23 June 2021. 2022年1月7日閲覧。
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- ^ a b 『上毛新聞』2018年8月7日9面(文化)「善光寺の名僧、等順」天明の浅間山噴火 鎌原で被災者救済
- ^ 『続日本石仏図典』(日本石仏協会)P171
- ^ 善光寺本坊大勧進「お血脈」
- ^ 御開帳に等順を思う-浅間山の大噴火と等順- 麻績村ポータル
- ^ “『いわき市の文化財』”. いわき市. 2019年10月7日閲覧。
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- ^ 「善光寺御開帳は自然災害から始まった 民衆救済に身をささげた学僧・等順」読売新聞オンライン「今につながる日本史」2022年3月30日
- ^ 善光寺本堂に残る地震の痕
- ^ 公式サイト 「善光寺について」、信州大学工学部情報工学科基礎研究室 [「善光寺の歴史」を参照。
- ^ https://www.city.nagano.nagano.jp/uploaded/attachment/9189.pdf 「善光寺の森」植樹祭] - 長野市役所 (PDF)
- ^ NHK[リンク切れ]
- ^ “トップページ”. 善光寺 (2012年4月19日). 2008年5月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年1月10日閲覧。 “4月26日に善光寺境内で開催される予定だった「北京2008オリンピック聖火リレー〈長野〉」の出発式について、4月18日、諸般の事情により会場提供を辞退させていただくこととし、同日、聖火リレー長野市実行委員会へその旨申し入れました。”
- ^ “善光寺、北京五輪の聖火リレー出発地を辞退 チベット問題を理由に”. AFP. (2008年4月18日) 2012年11月12日閲覧。
- ^ a b “お礼の仏像を公開、善光寺 ダライ・ラマから贈呈”. 共同通信社. 47NEWS. (2009年3月6日) 2012年11月12日閲覧。
- ^ 信濃毎日新聞2020年3月26日
- ^ 毎日新聞2020年3月26日
- ^ 読売新聞2020年3月26日
- ^ 「長野県ミュージアムガイド」p.26
- ^ 「長野県ミュージアムガイド」p.27
- ^ a b 中村 英三「信州善光寺大勧進養育院の経営力 明治・大正期の財団法人化施設」日本社会福祉学会 第60回秋季大会 日本社会福祉学会 2021年1月1日閲覧。
- ^ a b 施設紹介 善光寺大本願乳児院 2021年1月1日閲覧。
- ^ a b 「街道の日本史 25」p.28-29
- ^ 『共進会と善光寺』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “伝説「牛に引かれて善光寺詣り」”. ながの観光コンベンションビューロー. 2022年6月12日閲覧。
- ^ 善光寺鏡善坊の行事解説
- ^ 【カヌー】リオ代表は善光寺大勧進の僧侶と「二足のわらじ」矢沢一輝 『スポーツ報知』(2016年6月1日)
- ^ お坊さん矢沢一輝は11位で準決勝敗退 カヌー 『日刊スポーツ』(2016年8月11日)
参考文献[編集]
- 中村元、福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野達 編 『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
- 宮島潤子 『信濃の聖と木食行者』角川書店、1983年。
- 『週刊朝日百科』「日本の国宝」85(朝日新聞社、1998)
- 『街道の日本史 25 北国街道』吉川弘文館、2003年。
- 『朝日ビジュアルシリーズ 仏教新発見「善光寺」』朝日新聞社、2007年。
- 長野県立歴史館[編集・発行]『開館15周年春季企画展 善光寺信仰 -流転と遍歴の勧化-』2009年
- 平成21年度春季企画展図録 善光寺信仰-流転と遍歴の勧化- 長野県立歴史館HOME ≫ 刊行物のご案内 ≫ 企画展図録(2019年11月18日閲覧)
- 牛山佳幸『善光寺の歴史と信仰』法藏館、2016年
- 長野県博物館協議会『長野県ミュージアムガイド』 2017年
関連項目[編集]
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- 善光寺 (曖昧さ回避)
- 国宝一覧
- 中部地方の史跡一覧
- 日本の寺院一覧
- 得浄明院(善光寺大本願京都別院) - 京都府京都市東山区にある。無宗派の寺院だが浄土宗鎮西派の特別寺院でもある。尼寺。善光寺より善光寺如来を勧請して創立。
- 北向観音 - 善光寺と向き合うために北向きに作られているという。
- 釈尊寺 - 牛に引かれて善光寺詣り
- 西国三十三所
- 坂東三十三観音
- 秩父三十四箇所
- 信濃三十三観音霊場
- 西山国師遺跡霊場
- 真盛上人二十五霊場
- 日本百観音
- 善光寺地震
- 長野盆地 - 別称:善光寺平。信濃国の四つの平の一つ、善光寺がある平野に由来。
- 善光寺ロープウェイ - 1961年(昭和36年)3月開業、1974年(昭和49年)6月に廃止されたロープウェイ。
- 西光寺 (長野市)
- 北国街道 (信越) - 善光寺に至る街道という意味で、善光寺街道と呼ばれた。
- 北国西街道 - こちらも善光寺街道、あるいは善光寺西街道と呼ばれた。
- お血脈 - 「御印文」をめぐって物語が展開する古典落語
- 等順 - 善光寺別当大勧進第79世貫主
- 寛慶寺 - 善光寺山内寺院の一つ。善光寺別当を世襲していた栗田氏の菩提寺で栗田寺と言われていた。
- 善光寺七福神
- 善光寺七名所
外部リンク[編集]
- 【信州 善光寺】 公式ウェブサイト
- 信州善光寺 本坊 大勧進
- 大本山 善光寺大本願
- 善光寺平ライブカメラ(長野市のお天気カメラ)
- 善光寺びんずる市 - 毎年4月から11月まで(2022年は12月まで)毎月第2(または第4)土曜日 善光寺周辺で行われる市場