金刺部氏

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金刺部氏(かなさしべし)は日本の古代氏族の一つ。

概要[編集]

奈良県桜井市にある磯城島金刺宮の碑

起源は、部民制における名代の一つである金刺部にあるとされる。金刺部は欽明天皇皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。信濃国駿河国に多く分布していた。

「金刺部舎人」と記された木簡が発見されているが、これは磯城嶋金刺宮に地方から出仕して雑役や警備の任に従事することを求められた一族の名と考えられている。奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。

貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓宿禰を賜与された。さらに翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され3年後には三河に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後諏訪大社特に下社神官として残り政治の舞台からは遠のく。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家正倉から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。