コンテンツにスキップ

回向院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
両ごく回向院元柳橋(歌川広重「名所江戸百景」のうち)

回向院(えこういん)は、東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院、および過去にその別院であった東京都荒川区南千住五丁目にある寺院。

両国回向院

[編集]
両国回向院


両国回向院正門

地図
所在地 東京都墨田区両国二丁目8番10号
位置 北緯35度41分36.24秒 東経139度47分31秒 / 北緯35.6934000度 東経139.79194度 / 35.6934000; 139.79194 (両国回向院)
山号 諸宗山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来[1]
創建年 1657年明暦3年)[2]
開基 江戸幕府
正式名 諸宗山 無縁寺 回向院
別称 本所回向院
札所等 江戸三十三観音札所 第4番
公式サイト 回向院
法人番号 6010605000314 ウィキデータを編集
テンプレートを表示

東京都墨田区両国二丁目にある寺。山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す[1])無縁寺回向院。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。

振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火1657年明暦3年))の焼死者10万8千人を江戸幕府第4代将軍徳川家綱の幕命によって葬った万人塚が始まり。のちに江戸時代には手厚く葬ることすら認められなかった死罪受刑者や水死者、焼死者など横死者、宝永富士山噴火安政大地震をはじめとする天災地変で亡くなった者の無縁仏も埋葬する。

あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。江戸三十三所観音参りの第4番札所であり[注釈 1]、この馬頭観世音菩薩も徳川家綱の愛馬を供養したことに由来している。

1793年寛政5年)、老中松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とされている。2月第一土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養を、その他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っている。

著名人のとして、山東京伝竹本義太夫鼠小僧次郎吉など。参拝客のために両国橋が架けられた。

また、千葉県市川市国府台八千代市上高野に別院が建立されている。市川別院は浅草松葉町(現・東京都台東区松が谷)にあった別院・源光寺が関東大震災による焼失を受けて郊外の市川に移転したものである[3]

2013年に同寺院に建てられた念仏堂が、2016年度グッドデザイン賞受賞[4]

勧進相撲

[編集]
歌川広重『東都両国回向院境内相撲の図』
歌川広重『東都名所 両国回向院境内全図』。回向院の境内に設けられた相撲小屋を描く(画面中央)。

1768年明和5年)以降には、境内で勧進相撲が興行されるようになり、1909年明治42年)旧両国国技館が建てられるまで続いた。これが今日の大相撲の起源となり、国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年昭和11年)1月には大日本相撲協会(現・公益財団法人日本相撲協会)が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した[5]

文化財

[編集]
墨田区登録文化財
  • 石造海難供養碑 6基 - 江戸時代から明治時代にかけての海難事故犠牲者の供養碑[6]
    • 勢州白子参州平坂溺死者供養塔 - 1814年(文化11年)8月
    • 紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓 - 1857年(安政4年)4月20日
    • 海上溺死群生追福之塔 - 1827年(文政10年)6月(1856年(安政3年)6月再建)
    • 溺死四十七人墓 - 1869年(明治2年)3月
    • 勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔 - 1895年(明治28年)2月
    • 勢州白子三州高浜船溺死一切精霊 - 1789年(寛政元年)11月

ギャラリー

[編集]

南千住回向院

[編集]
南千住回向院

地図
所在地 東京都荒川区南千住五丁目33番13号
位置 北緯35度43分56.04秒 東経139度47分52秒 / 北緯35.7322333度 東経139.79778度 / 35.7322333; 139.79778 (南千住回向院)
山号 豊国山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1667年寛文7年)
開基 弟誉義観
正式名 豊国山 回向院
別称 小塚原回向院
法人番号 8011505000286
テンプレートを表示

東京都荒川区南千住五丁目にある寺で、過去は両国回向院の別院。現在は独立して正称は豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも。

1651年慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年寛文7年)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことに始まる。

この寺には、安政の大獄により刑死した橋本左内吉田松陰頼三樹三郎ら、「毒婦」と云われた高橋お伝鼠小僧などの歴史上の有名人物が葬られている。他には、二・二六事件首謀者の一人である磯部浅一や、新日本プロレスの技術の基礎を築いた米国出身のプロレスラーカール・ゴッチの墓がある。

1771年明和8年)、後に『解体新書』としてまとめられる刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)が行われる。この席に立ち会った蘭学杉田玄白中川淳庵前野良沢の業績を記念した観臓記念碑(建立は1922年)がある。

明治維新後、JR常磐線の前身の日本鉄道海岸線が敷設された際に本仏閣の敷地は南北に分断される。その後分断された南側部分が独立して延命寺となる。延命寺敷地内には3.6m余の延命地蔵尊(俗称は首切り地蔵)がある。ちなみに延命地蔵尊は2011年平成23年)3月11日東日本大震災東北地方太平洋沖地震)で左上腕部分接合部が破損したが、翌2012年(平成24年)に修復された[7]

大東亜戦争太平洋戦争第二次世界大戦後の日本国における代表的な誘拐殺人事件とされる吉展ちゃん事件1963年昭和38年)で一命を奪われた幼児村越吉展(享年4歳)の供養のために建立された「吉展地蔵尊(よしのぶじぞうそん)」がこの寺の入り口にある(なお、殺害後に村越の遺体が一時遺棄された同じ荒川区の円通寺にも「吉展地蔵尊」がある)。

2006年(平成18年)に全改装工事済(会館・永代供養塔の新設及び墓地内改装)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「江戸砂子拾遺」によると、享保年中の「江戸三十三観音」では二十六番札所と記されている

出典

[編集]
  1. ^ a b 江戸名所図会 1927, p. 54.
  2. ^ 回向院 開創.
  3. ^ 回向院ホームページ「関連施設」より
  4. ^ 受賞対象名 - 建築物 [回向院 念仏堂] - GOOD DESIGN AWARD
  5. ^ 回向院相撲関係石碑群(力塚)”. 墨田区教育委員会. 2025年3月20日閲覧。
  6. ^ 石造海難供養碑”. 墨田区教育委員会. 2025年3月8日閲覧。
  7. ^ 47News 2012年10月20日

参考文献

[編集]
  • 斎藤幸雄「巻之七 揺光之部 國豊山回向院」『江戸名所図会』 4巻、有朋堂書店、1927年、54-59頁。NDLJP:1174161/32 
  • 開創”. 回向院. 2021年2月19日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
全ての座標を示した地図 - OSM