方広寺

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方広寺
Hokoji Kyoto01bs1920.jpg
現在の方広寺本堂。妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭に移築したものである。建物の創建は17世紀とされ、方広寺本尊を安置するため改変を受けているが、天台門跡寺院の客殿建築としては京都最古と考えられている[1]
所在地 京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
位置 北緯34度59分31.58秒 東経135度46分19.43秒 / 北緯34.9921056度 東経135.7720639度 / 34.9921056; 135.7720639座標: 北緯34度59分31.58秒 東経135度46分19.43秒 / 北緯34.9921056度 東経135.7720639度 / 34.9921056; 135.7720639
山号 なし
宗派 天台宗
本尊 盧舎那仏
創建年 文禄4年(1595年
開山 古渓宗陳
開基 豊臣秀吉
別称 大仏殿
文化財 梵鐘(重要文化財
大仏殿跡及び石塁・石塔(国の史跡
法人番号 2130005001912 ウィキデータを編集
方広寺の位置(京都市内)
方広寺
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日本の各大仏の存立期間(時系列)
絵図に描かれた往時の方広寺2代目大仏殿。右隣に見えるのが三十三間堂。かつては方広寺大仏殿が日本最大の木造建築であった。(「花洛一覧図」京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ 一部改変)
エンゲルベルト・ケンペルの方広寺3代目大仏のスケッチ。ケンペルは方広寺を訪れ、大仏についての記録を残した。大仏は八角形の金剛垣(柵)で囲まれていたという。ケンペルの遺した手稿や収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているが、歴史学者のボダルト=ベイリーが、膨大な所蔵品の中からこの大仏のスケッチを発見した[2]。なおスケッチの通り大仏の正面には賽銭箱が置かれていたが、江戸時代に度々盗難(賽銭泥棒)の被害に遭ったことが史料に記録されている[3]
現存する方広寺大仏下回りの指図(設計図)。外側から順に「金剛垣(柵)」「下の蓮台」「上の蓮台」が描かれている。『甲子夜話』の記述によると、台座(石座)の側面に、別材で蓮弁の装飾を施すことで「下の蓮台」にされていたという。なお台座(石座)は円形に近い多角形で、八角形であったとするのは誤り[4][5]。台座ではなく金剛垣(柵)が八角形に配されていた。京都市埋蔵文化財研究所は当初、発掘調査報告書で「大仏の台座は八角形」とする見解を提示していたが、誤認であったとして撤回し、「大仏の台座は円形に近い多角形」とする見解に変更した[4][5]

方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗寺院山号はなし。本尊盧舎那仏。通称は「大仏」または「大仏殿」。方広寺鐘銘事件の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。本稿では方広寺の概略を記述する。方広寺鐘銘事件の詳細については「大坂の陣」の記事を、かつて方広寺に存在し 日本一の高さ・規模を誇っていた大仏及び大仏殿の詳細については「京の大仏」の記事をそれぞれ参照のこと。東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709年)から、方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。

概要[編集]

豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として、古渓宗陳を開山として木食応其によって創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には(3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは)日本三大大仏の一つに数えられた[6]。なお3代目大仏の焼失後に、規模が縮小されつつも再建された、江戸時代後期に造立の4代目大仏は、昭和48年(1973年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに、

地震(文禄5年(1596年)の慶長伏見地震寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震)

雷(寛政10年(1798年)の落雷)

火事(寛政10年(1798年)の落雷による火災、昭和48年(1973年)の失火による火災)

の被害に見舞われ、損壊(滅失)を繰り返したことから、「悲劇の大仏」として紹介されることもある。日本では恐ろしいもののたとえとして、地震・雷・火事・親父を挙げられることがあるが、京都ではかつてその全ての災難を受けた存在として、京の大仏が引き合いに出されることもあったという[7](ここでの「親父」は、方広寺鐘銘事件を引き起こし、「狸親父」と渾名された徳川家康を指す)。

なお「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず[8][9]、単に大仏(殿)、もしくは新大仏(殿)、京大仏(殿)、東山大仏(殿)、京東大仏(殿)、洛東大仏(殿)などと呼称されていた。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)もしくは方広会から採ったといわれ[9]、またそれらにかこつけて豊臣秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。

かつて存在した大仏についての概略[編集]

  • 種類:毘盧遮那仏(びるしゃな-ぶつ)
  • 形式:木製漆塗金張坐像(初代)、銅製金張坐像(2代目)、木製金張坐像(3代目)、木製胸像(4代目)
  • 高さ:63 約19m (初代~3代目)、47 約14m(4代目) [10][11]
  • 像の存続期間:誤差を考慮しても、少なくとも、延べ300年以上は存在していた。創建以来、昭和後期の焼失までの間で、存在しなかったのは、50年より若干長い程度の期間でしかない(ただし、天保年間に造立の4代目大仏は上半身のみの大仏で高さが低い)。
    • 初代:1595年 - 1596年(約1年間):慶長伏見地震で損壊
    • ( - ):完成前に鋳造工事中の事故で焼失 膝部分まで鋳造が完了していた[12]
    • 2代目:1612年 - 1662年(約50年間):寛文近江・若狭地震で損壊?(地震発生前から経年劣化などで既に2代目大仏は損壊しており、建て替えのため2代目大仏解体工事の最中に地震に遭遇したとする説もある[13][14]。上記説の根拠は浅井了意の『かなめいし』の記述に基づく。詳しくは「京の大仏」の記事を参照の事)
    • 3代目:1667年 - 1798年(約131年間):落雷で焼失
    • 4代目:1843年 - 1973年(約130年間) :失火で焼失

かつて存在した大仏殿についての概略[編集]

  • 建物の存続期間
    • 初代:1595年 - 1603年(約8年間):大仏鋳造工事中の事故で焼失
    • 2代目:1612年 - 1798年(約186年間):落雷で焼失
    • 3代目:1843年 - 1973年 (約130年間):失火で焼失

大仏と同じく、天保年間に造立の3代目大仏殿は規模が縮小されている。あくまで将来に大仏・大仏殿を再建するまでの仮堂という扱いである。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた。

  • 建物の平面規模
    • 初代・2代目:間口(正面幅) 南北45間(約88m)、奥行 東西27間(約55m)、柱92本

『愚子見記』の2代目大仏殿についての記述による。ここでの「間」は柱間の数ではなく、長さの単位である。この寸法は考古学的知見からも正しいと見なされている。発掘調査報告書に、2代目大仏殿再建時は、創建時の礎石をそのまま使用し、柱位置は同じであったとみられると報告されていることから[15]、初代大仏殿も同様の平面規模であろうと考えられている[9]。なお現存の東大寺大仏殿の平面規模は、間口(正面幅)約57.5m、奥行約50.5mであるので、初代・2代目方広寺大仏殿の方が平面規模で上回っていた。

歴史[編集]

秀吉による大仏造立の発願[編集]

豊臣秀吉天正14年(1586年)に、松永久秀焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願[16]。当初は東山東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で[17]小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され、遣迎院の移転も途中で中止された(遣迎院は南北に分立されてしまった)。のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開した[18]。佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転させられた[19]瀧尾神社も方広寺大仏殿造立のため、遷座させられたという。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山木食応其を造営の任にあたらせた[20][21]。大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした[22]

小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという(愚子見記)。また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため(既に50代になっていた秀吉が、自身の生前に落慶を間に合わせるためか)、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造乾漆造り(木造で躯体を作り,漆喰で固めた上,さらに漆を塗って金箔を貼る)で造られた(『太閤記』)[21]。また初代大仏殿は南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろうと考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査の結果、後述の秀頼再建の2代目大仏殿は創建時の礎石をそのまま使用しているとみられ柱位置は同じと思われること[15]、『愚子見記』に再建大仏殿の規模について、上記寸法が記載されていることによる。初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが、大林組が広報誌『季刊大林』にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』)。なお秀吉は大仏殿造立にあたり、諸大名に大仏殿の建材に適した材木(巨木材)を提供するよう命じた。徳川家康は富士山麓の巨木を黄金千両もはたいて方広寺へ運搬したとされ、島津義弘屋久島屋久杉を伐採して、秀吉に提供したという [23]。現在屋久島にはウィルソン株という、巨大な杉の切り株が残されているが、これは大仏殿造立のため伐採された屋久杉の切り株であるという[24]。なおこの時日本国内の、木造大規模建築に適した建材(巨木)はほとんど伐採され尽されてしまった。そのため2代目方広寺大仏殿及び、3代目東大寺大仏殿造立の際には、建材不足に悩まされ、苦肉の策として、柱は寄木材が採用されることになった。

同年9月25日には秀吉自身の亡父母や先祖の菩提を弔うため、寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った[25]天台宗真言宗律宗禅宗浄土宗日蓮宗時宗浄土真宗一向宗)の僧が出仕を要請された(日蓮宗不受不施派は出仕を拒否した[26])。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。

慶長伏見地震による初代大仏の損壊[編集]

文禄5年7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏は損壊した[27][25]醍醐寺座主の義演が著した『義演准后日記』によると、胸が崩れ、左手が落ち(日記の原文は「左御手崩落」で、拝観者から見て左の手、すなわち大仏の右手が落ちたとする解釈もある)、全身にひび割れが入ったという[27][28]。ただし大仏の光背は無傷で残ったという[29]。大仏損壊の原因について、工期短縮のために銅造ではなく、木造としたことが裏目に出たとされる[30]。しかし銅造にしていたとしても大仏の巨大さゆえの自重過多のため、別の問題が生じ、いずれ損壊したであろうとする指摘もある。後述のように2代目大仏は銅造であったが、結局損壊してしまった原因について、地震などの外圧によるものではなく、経年劣化で大仏に傾きや亀裂が生じたためではないかとする説がある[31]。なお初代大仏の被災現場のシーンを漫画などで描く場合、大仏の頭部が落下したように描かれることもあるが(石ノ森章太郎作『マンガ日本の歴史』、宮下英樹作 『センゴク』など)、地震で初代大仏の頭部が落下したとの記述は『義演准后日記』には見られない。

秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、一説には大仏の眉間に矢を放ったとされる。このような不遜な態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、自らの権力を誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある[32]。上記逸話について、いくつかの二次史料に記録されることから信憑性を疑問視する向きもあるが、歴史地震研究者の西山昭仁は、地震後の秀吉の動向を分析し、実際に「秀吉が方広寺を訪問し大仏に矢を放った」とすれば、それがなされたのは閏7月15日のことではないかとしている[30]。なお大仏とは対照的に、初代大仏殿は地震による損壊を免れた[29][25]。先述の大林組の論文『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』では、初代大仏殿復元案に対し慶長伏見地震の揺れに対する構造計算(時刻歴応答解析)を行った結果が掲載されており、極めて軽微な損壊に留まるとしている。方広寺大仏殿の架構構造はを多用する大仏様であったが、それが地震抵抗に極めて有益であるとする。

初代大仏は損壊したとは言え全壊ではなかったので、その後しばらくそのまま残されていた。ただし大仏は畳表で覆い隠され、人目につかないようにされていたという[33]。『義演准后日記』には、修復までの間、見苦しいので畳表で隠されているのではないかとする記述があり、初代大仏は修復工事がなされるのではないかとする観測があったことが分かる[33]。しかし『義演准后日記』慶長2年(1597年)5月23日条に「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があり、最終的に秀吉の命令で、初代大仏は解体されることが決まった[33]。この大仏解体の命令は、秀吉が方広寺での千僧供養会に訪れた際になされたものである[33]。なお宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録されるほか、『当代記』には秀吉が「かように我が身を保てえざる仏体なれば、衆生済度は思いも寄らず」と発言したと記述される[34]。「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」の話のくだりについて、『義演准后日記』の記述については、秀吉が解体の命令を下した際に、義演ないしは配下が立ち会っていたと思われ、信憑性があると考えられているが、云々(うんぬん)で端折られてしまっているので記述がない。ぺドウロ・ゴーメスの書簡と『当代記』の記述は、当時流布していた風説を記録したものと思われ、秀吉が大仏の解体を命じたのは事実だが、「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」の部分は、実際に秀吉がそのような発言をしたかは不明である[34]。秀吉ならそのようなことを発言するだろうとの憶測による、後付けの作り話の可能性もある(大仏に対して不敬なので、義演が書き記さなかった可能性もある)。ただ秀吉が損壊した大仏を目前に、大仏を取り壊すよう命じた事実は、当時かなりの衝撃をもって一般大衆に受け取られたようで、先述の「秀吉が怒りのあまり大仏の眉間に矢を放った」とする真偽不明の逸話のように、さまざまな風説が流布していたようである。

秀吉は、夢のお告げと称して、損壊した大仏に代わり、新たに由緒ある信濃善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来は大名の意向で各地を流転し、当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎え、開眼法要を行うことを計画する[28]。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された。善光寺如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという[35]。先述の同年5月23日の秀吉による初代大仏の解体の命令は、善光寺如来を安置するため、初代大仏を取り除け、その台座上に空いた空間を作ることが目的であったと考えられている[36]。なお無傷であった光背はそのまま残されていたという[35]。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった[37]相国寺の僧西笑承兌は自身の日記の中で、方広寺の本尊が巨大な大仏から小振りな善光寺如来に替わったことは、天下人が織田信長から豊臣秀吉に替わったことの如くだと評した [28]。また大仏が慶長伏見地震という不慮の出来事で損壊したことを、信長が本能寺の変という不慮の出来事で落命したことにもなぞらえている[28]

秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥した。これは善光寺如来の祟りではないかという風説が京都民衆の間で広まったことで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国善光寺へ戻されることになった[28]。しかし秀吉は8月18日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた[38]

2代目大仏の再建と豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件[編集]

「国家安康」の梵鐘(重要文化財)とその銘文
明治再建の鐘楼の天井画

秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、今度は耐震性のある銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年12月4日(新暦では1603年1月15日)に、鋳物師(いもじ)の過失により大仏の膝部分の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる[39]。これにより先に損壊した初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失し、大仏・大仏殿の造立は振り出しに戻った。通常銅造の大仏と大仏殿を造立する場合、まず大仏を完成させた後に、大仏殿を築くものだが、この工事の際は大仏殿は既にあったので、既設の大仏殿の内部で大仏の鋳造工事を行っていたようである(『義演准后日記』『鹿苑日録』)。木造建築物の内部で鋳造工事を行うのは危険極まりない行為であり、起こるべくして起きた事故とも言える。ただし歴史学者の河内将芳は、火災の危険はあるが、風雨の影響を受けることなく大仏の鋳造工事を行うことができる利点もあったので、上記工事手法が採用されたのではないかとしている[40]。『義演准后日記』には「日本六十余州の山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ。太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(建材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した。秀吉公の数年の苦労も水の泡となった)」と記録される。また日記の中で義演は、そもそもこのような事態になったのは、初めから耐震性のある良材で大仏を造立しなかったためだと批判している[12]。なお『義演准后日記』によれば、この時の未完成の大仏は自重軽減のため、東大寺大仏のように全身純銅造でなく、頭部と腕は木造とした、銅造と木造の混構造で造立される予定であったという[41][42]

慶長13年(1608年)10月には徳川家康の勧めもあり、豊臣秀頼により、豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図された[12]。家康が秀頼に方広寺大仏・大仏殿の再建を勧めたのは、それにかかる出費で豊臣家の財力を削ぐための謀略であったとする俗説があるが[12]、家康の真意は定かではない。慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には2代目大仏殿と、銅造の2代目大仏が完成した。先述のように、初代大仏殿造立時に、日本国内の柱材に適した巨木は伐採され尽くされたようであり、2代目大仏殿の柱は(現存する東大寺大仏殿のように)寄木柱となっていた。このことは『当代記』の「(2代目大仏殿は)みな接ぎ柱なり」という記述[43]及び、方広寺鐘楼と京都国立博物館の庭園に保存されている、寄木柱を束ねていた巨大な金輪(鉄輪)から伺い知ることができる。なお2代目大仏は銅造であるとするのが定説であるが、東大寺大仏のように全身純銅造であったのか、もしくは事故で未完成のまま焼失した従前の大仏の計画のように、銅造と木造の混構造であったのかは定かでない[44]

慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして、同年7月26日に開眼供養の延期を命じる[45]。特に家康が問題にしたのは、上記の梵鐘の銘文(東福寺南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国」「君臣豊楽」の2句で、前者には徳川家康の「家」と「康」を分断する呪詛、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているという点だった。これに対し、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のために駿府へ赴いたが、家康は全く耳をかさなかった。それどころか家康は、豊臣家の大坂城への浪人雇用を責め、秀頼に対し国替えを強要する。しかし、秀頼がこれに応じなかっために大坂冬の陣が勃発。そして冬、夏の2回に渡る大坂の陣を経て、豊臣家は滅亡する(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意を責めないわけにはいかない」とする指摘もある[46]。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。

大阪の陣の後から3代目大仏の焼失まで[編集]

本居宣長像。江戸時代中期には、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に大仏と大仏殿が双立していた。本居宣長は双方の大仏を実見し、感想を日記に書き残した。宣長の感想からも、方広寺大仏の方が、東大寺大仏より高さが上回っていたことが伺える。
雨森芳洲像。第9回朝鮮通信使一行は、秀吉の造立した寺であるとして、方広寺での饗応を拒絶した。一行に随行していた雨森芳洲は一行の感情を理解しつつも、日本側の外交官という立場から調停に努めた。
江戸時代に方広寺を管理下に置いていた妙法院の門主 真仁法親王像(妙法院蔵)。真仁法親王の門主在任中に方広寺大仏及び大仏殿が落雷で焼失してしまった。大仏再建に尽力するが、以降往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。心労が祟ったためか、文化2年(1805年)に38歳で薨去。薨去の直前に、重体の病床の中から、大仏再建を求める嘆願書を江戸幕府へ提出している[47]

大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた[23]。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からで、これは大坂の陣豊臣氏江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に馬塚として遺る。当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお「国家安康」の鐘について、江戸時代においては懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが[48]、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を回廊に囲まれていたが、鐘楼は南側の回廊外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった。このことは名所図会や[49]、花洛一覧図などの江戸時代の方広寺境内を描いた絵図からも確認できる。「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され [50]、没収地にあった鐘楼が取り壊され[50]、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され[51]、今日に至っている。

時は下って寛文2年(1662年)に地震(寛文近江・若狭地震)が方広寺を襲う。5月1日(新暦では6月16日)に寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で2代目大仏が損壊したとするのが通説である[32]。ただし地震発生前から経年劣化などで既に2代目大仏は損壊しており、建て替えのため2代目大仏を解体していた最中に地震に遭遇したとする異説もある[52][53](上記説の根拠は浅井了意の『かなめいし』の記述に基づく)。2代目大仏から3代目大仏への建て替えの経緯については、何があったのかの記録史料が非常に混乱、錯綜しており、不明確な点が多いが(京の大仏の記事を参照のこと)、2代目大仏は取り壊され、寛文7年(1667年)に木造で3代目大仏が再興された[32]。大仏殿は引き続き、豊臣秀頼の代に造立された2代目大仏殿を使用していた。

取り壊された2代目大仏の躯体の銅材は、それを銭貨にし貨幣流通量を増やすべしとする、松平信綱による時の将軍徳川家綱への建議に基づき、亀戸銭座に運び込まれ、寛永通宝(文銭)の鋳造に用いられたという風説が流布した(新寛永(文銭)項目も参照)。この風説の真偽については、以下の説がある。江戸文化研究者の三田村鳶魚は「大仏躯体の銅材を銭貨にした」とする逸話は作り話としている。その逸話は享保年間以降の史料から散見されるようになり、寛文年間の史料にはその記述が見られないこと、文銭の生産量から考えて大仏躯体の銅材では量が少なすぎて、それを賄いきれないことを根拠とする。よって松平信綱の建議とする逸話も作り話であるとする。また『日本新永代蔵』で紹介される「大仏躯体の銅材は競売に掛けられたが、商人は皆恐れ多いとして落札しようとしなかった。しかし大坂の中島屋が落札し、それを元手に巨万の富を得たが、人々から罰当たりだとして指弾された」との逸話から、大仏躯体の銅材は銭貨にされたのではなく、商人に払い下げられたのではないかとしている[54]。経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は、「大仏躯体の銅材を銭貨にした」話は真実であるとしている[55]。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている[56]日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、大仏の鋳造がなされた秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に方広寺大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している[57]

上述のように「大仏躯体の銅材を銭貨にした」か否かについては諸説あり真偽は不明である。しかし真偽は別として、この風説は人々に広く知られており、文銭は大仏の化身であるとしてお守りとしても使用されたほか、文銭を鋳潰して、仏像・仏具にすることも行われたという[56]

戦国時代に兵火で損壊していた東大寺大仏も江戸時代中頃に再建が行われた。貞享元年(1685年)、公慶江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。 宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、感想を日記に残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[58]」、東大寺大仏・大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う[59]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[59][東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也[59]」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍が安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。

江戸時代には、方広寺を巡る日本側と朝鮮側の歴史認識の相違などから、トラブルを生んでしまったことがある。享保4年(1719年)の第9回朝鮮通信使は、江戸幕府の組んだ旅程に方広寺大仏(京の大仏)の拝観と、そこでの饗応の予定が組まれていたが、朝鮮通信使一行は、方広寺は秀吉の造立した寺であること、また秀吉の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることを理由に、訪問を拒絶した。一行に随行していた雨森芳洲は、「現在の方広寺は徳川の世(江戸幕府成立後)に再建されたもので、豊臣秀吉とは無関係である」との弁明を行ったが、詭弁だとして一蹴されてしまった[60]。この時の双方の歴史認識を巡る議論は丁々発止なものとなり、芳洲は怒りをあらわにし、鬼のような形相で、日本側の主張を熱弁したという[60]。方広寺での饗応を巡るトラブルは、朝鮮側の正使と副使が饗応に儀礼的に参加し、他の一行は不参加とする、饗応の間は耳塚に囲いを設けて見えなくするということで最終決着が着いた。第10回朝鮮通信使以降は、方広寺が旅程に組み込まれなくなった。なお芳洲の上記の弁明は、日本側の外交官としての立場上行ったもので、芳洲の意に反したものであったようである[61][62]。後に芳洲が著した『交隣提醒』では、方広寺での饗応を計画したことは、朝鮮通信使一行に無配慮であったとしている [61][62]。またその著作の中で芳洲は、方広寺での饗応の目的は、江戸幕府が一行に巨大な方広寺大仏・大仏殿を見せつけ国威発揚を図る狙いがあったと思われるが、日本の一般大衆に「方広寺は秀吉の寺」と認知されているにもかかわらず、「方広寺は秀吉と無関係」とする嘘を重ねた事で朝鮮通信使一行の感情を逆撫でしてしまったこと及び、仏の功徳は大小によらないのに巨額な財を費やして無益な大仏を作ったと、一行に嘲られる事につながってしまったことを批判している。なお朝鮮通信使の旅程に方広寺が組み込まれた経緯について、芳洲は日本側の国威発揚が狙いではないかとしているが、寛永20年(1643年)の第5回朝鮮通信使一行が方広寺大仏の拝観を希望し、それ以降慣行化したためではないかとする反論もある。九州国立博物館は膨大な対馬宗家文書を所蔵しているが、その中に松平信綱から対馬藩主宗義成への書状があり、「朝鮮通信使が京へ着いた際に大仏見物をしたいとのこと。将軍の耳に入れたところ、許可を得たので通信使に伝えるように。また京都所司代にも伝えた。」と書き記されている[注釈 1]。上記が第5回朝鮮通信使一行が方広寺大仏の拝観を希望したことの証左とされる。ただ第5回朝鮮通信使一行は、方広寺大仏を発願したのが秀吉だということを知らずに、大仏見物を希望した可能性もある。

寛文年間に再興された木像の方広寺3代目大仏は、従前の大仏よりも長命であったが、寛政10年(1798年)の旧暦7月1日 (新暦では8月12日)の深夜に大仏殿に落雷があり(2日に日付が変わってから落雷があったとする史料もある)、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した[63]。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した[63]。落雷による焼失の過程は大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』や、平戸藩藩主の松浦清が著した『甲子夜話』に記述されるほか、絵図資料として『洛東大仏殿出火図(国際日本文化研究センター所蔵)』があり、それは大仏殿が落雷で焼失した過程を、時系列に沿って絵図にして記録してある[注釈 2]。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也[64]」「衆口斉唱南無仏[65]」などと記録した文献類もあり、それらによれば、焼けた柱棟が堂内に落下して3代目大仏像に寄りかかり、大仏は鼻から出火[66]。火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、恐らく大仏殿外部から扉・観相窓越しに、焼け落ちゆく大仏を目撃して、涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏[注釈 3]」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた[66]。なお治承4年(1181年)の平家による南都焼討での東大寺大仏殿火災では、大仏殿に取り残された者や、東大寺大仏に殉じて炎に飛び込んだ者が落命したとするが[67]、方広寺大仏殿の火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して、負傷した者があったという[68]

甲子夜話』によると方広寺大仏殿焼失の経過は以下の通りである[69](方広寺大火を記録した史料ごとに、時系列に若干の相違がある点は留意の事)。それは東福寺の僧印宗より聞いた話としている。7月1日夜は雷鳴がとどろいていたが、落雷は2日八つ時(午前1時)にあり、大仏殿の北西隅に落ちたとする。消火が追い付かず、2日の朝六つ半(午前5時)過ぎ頃、(屋根に火が回ったためか)屋根瓦の一部が落ち、火の勢いがますます盛んになったが、組物や垂木は直ぐには焼け落ちなかった。しかし屋根材の堂内への落下が起こり始め、この頃大仏は燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。大仏殿に落雷があってから雨が降り始めたとし、それは大変な豪雨であったが、大仏殿屋内側で火が燃え広がってしまったので火の勢いを弱めることはできなかったとする。朝五つ時(午前6時半)頃に雨が小降りになり、四つ時(午前9時)頃に雨が止んだ。四つ半(午前10時半)頃に大仏殿の屋根が焼け落ち、九つ半(午後1時)過ぎには大仏殿が崩れ去ったとしている。ただ大仏殿が崩れ去った後も直ぐに鎮火とはならず、完全な鎮火までには時間を要したという。なお『甲子夜話』を著した平戸藩藩主の松浦清はその著作の中で、方広寺大仏が焼失したことについて、釈迦の入滅時にはその亡骸から火が自ずと出火して、焼き尽くしたとも言われているので、今回の落雷で大仏が焼失したことは、人知を超えた出来事で仏力によるものなのだろうとの感想を述べている[70]。(焼失の詳しい経緯は京の大仏の記事を参照のこと)

長沢芦雪は『大仏殿炎上図(個人蔵)』と題される、方広寺大仏殿が炎上する様を描いた抽象的な絵を残している[71]。落款に「即席漫写 芦雪」とあり、実際に方広寺大仏殿が焼け落ちゆくのを眺めながら、それを描いたとされる。

当時京都のランドマークになっていた大仏の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。水木しげるの『幽霊画談』では、大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている (「仏の幽霊」ただし出典が明記されていないため、文献記録に残る逸話か、もしくは水木が伝聞した口承の逸話を描いたものかは不明)。また京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている[72][73][74]

方広寺を管理していた妙法院の、時の門主の真仁法親王は、大仏を焼失させてしまったことに管理者として罪悪感を抱いていたとされ、焼失の翌日より毎日大仏の焼跡に参詣して供養を行い、大仏再建の御祈祷を行い、自身の食事量も減じて、大仏に対し懺悔の意を表した[47]

3代目大仏の焼失後から現在に至るまで[編集]

文久2年(1862年)の方広寺境内の絵図。赤矢印で指し示す建物が3代目大仏殿。2代目大仏殿の基壇と3代目大仏の台座は再建を見越して残されている[75]。3代目大仏殿とは別に、基壇跡前方に建つ建物は、現在の方広寺本尊である、往時の大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像を安置していた堂か?(現存せず) (「再撰花洛名勝図会」文久2年(1862年)作。(立命館大学ARC古典籍データベース 一部改変)
明治期撮影 規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘。 大仏殿の入り口に頭部のみの仁王像が置かれる(1973年焼失)。先述のように「国家安康」の梵鐘が地面に置かれているのは、明治新政府により方広寺境内の大部分が収公され、収公地にあった鐘楼が取り壊され、残った寺領に梵鐘が移設されたためである。「方広寺鐘銘事件」の懲罰的措置として、江戸幕府によって鐘楼が壊され、梵鐘が地面に置かれ鳴らないようにされていたとする俗説は誤り。(ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)

大仏及び大仏殿全焼後、まず灰塵の清掃作業が行われた。『甲子夜話』には火災から数日後に火災現場を訪れた東福寺の僧印宗の話が記録されている[76]。印宗によると火災現場には仮屋が2棟建てられ、そこに大仏殿の柱の鉄輪、その他諸々の巨金物が運び込まれたという。積まれたものは丘陵のようであったという。またかつて大仏があったと思われる場所に、台座(石座)が表れた。その仕様について「縦横十間ばかりと見ゆる円形なる石垣の、高さ二間ほどづゝなるを三段に築たり」としている。大仏の台座(石座)は何らかの他の部材で蓮弁の装飾が施されていたと考えられているが、その装飾で石座は覆い隠され、焼失前は人目に触れることがなかった。そのため印宗は「堂跡の灰塵を除けたれば、平坦と覚しきに是はいかに」と現場の者に質問した所、「ここは仏坐の下、蓮台の中の地形」との回答を受けたという。

文化元年(1804年)には現在の方広寺本尊である、往時の大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像(座高約2m)の、開眼供養が行われた[47]。この像は3代目大仏焼失後に開眼供養が行われたため、3代目大仏の模像とされるが、豊臣秀頼造立の2代目大仏の模像であるとする伝承もある[77]。時同じくして仮本堂も落慶し、そこに上記の盧舎那仏坐像が安置された[47]。この時の仮本堂は現存していない。

文政13年(1830年)は3代目大仏の三十三回忌に当たるので、遠忌供養が行われた[78]。しかし何の因果か、同年の3代目大仏の命日(焼失日)にあたる旧暦7月2日に文政京都地震が発生した。『甲子夜話』によると、この地震で大仏跡の台座が残らず崩れたという[79]。妙法院に残る史料によれば、寛政年間の段階で3代目大仏・2代目大仏殿はかなり経年劣化が進んでいたとされており、仮に寛政10年(1798年)の落雷での焼失を免れていたとしても、文政13年(1830年)のこの地震の揺れに耐え抜けたかは定かでない。この地震ののち京都市街は、1854年の安政南海地震、1927年の北丹後地震の被害に見舞われているが(いずれも震度5程度とされる)、3代目大仏・2代目大仏殿が今日まで伝世するには、上記の地震を耐え抜く必要があった。なお文久2年(1862年)作の『再撰花洛名勝図会』には方広寺の境内図が掲載されているが、それには大仏跡の台座が描かれている。この絵図に誤りがないとすれば、地震後に崩れた台座の復旧工事がなされたものと思われる。

江戸時代後期には方広寺を管理していた妙法院により大仏・大仏殿の再建が企図され、宝物の開帳を行い資金集めを行うなどするものの、往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態を憂い、尾張国(現在の愛知県西部)の商人を中心とする有志が、上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を造り、寄進した[80]。落慶は天保14年(1843年)とされる[80]。尾張商人による寄進の経緯は以下の通りである。名古屋方面より三木棟工郎、水谷清八、伊藤与八、花屋利八、尾張屋市蔵の5名が、方広寺を管理する妙法院に挨拶のため参上し、が結成された[80]。その後大仏造立の申し出があり、資金調達のため名古屋栄国寺で、妙法院より宝物の貸与を受け、天保12年(1841年)に出開帳を行うことになった [80]。天保造立の4代目大仏の頭部は名古屋で先行して作られ、栄国寺で公開されたという[80]。出開帳を知らせる立札は、尾張国に29ヶ所、三河国伊勢国遠江国駿河国に各18ヶ所も立てられ宣伝されたほか、出開帳の期間も当初より会期延長が図られた[80]。尾張商人が方広寺大仏再建に積極的だったのは、尾張国が、大仏を発願した豊臣秀吉 の故地(出身地)ゆえとも言われる。出開帳等の結果、仮大仏造立の用材を調達でき、先行して作られた大仏頭部と合わせて、船で大坂を経由して、方広寺へ運び込まれた[80]。落慶した4代目大仏の像容(容姿)について、従前の大仏と異なり、民衆の手で造立され、著名な仏師が造立に参加しなかったためか、お世辞にも容姿端麗な美仏とは言い難く、拝観者におどろおどろしいとの印象を持たれることが多かった。郷土史家の田中緑紅は「グロテスクな木像半身像」と評している[72]。なお4代目大仏は高さが47 (約14m) あり[81][11]東大寺大仏に比肩する高さを有していた(上記は両者の像高のみの高さを比較した場合の話で、台座や光背の高さ寸法を加えれば、東大寺大仏の方が圧倒的に高さが高い)。

4代目大仏の造立と時同じくして、大仏を安置する仮大仏殿(3代目大仏殿)も造立された[82]。上述の天保造立の大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿を再建するまでの仮のものという扱いである[82]。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた。

明治時代になると、新政府の廃仏毀釈の政策から、1870年明治3年)方広寺境内の大部分は収公され、現在の敷地規模となった[83]。「国家安康」の梵鐘を安置する鐘楼は取り壊され(後に再建)[83]、方広寺西門は東寺へ移築された[83]。寛政10年(1798年)の大仏焼失後も、2代目大仏殿の基壇と3代目大仏の台座は、明治初頭まで残されていたようであるが[84]、それに使われていた花崗岩の石材の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に築造された6基の石造アーチ橋(堀川第一橋など)の建材として転用されたと伝わる[85]。石材を剥がされたのち、土地の整地も行われたとされ[84]、これにより往時の基壇と台座は完全に消失した[84]。なお収公された方広寺旧境内には、歴代天皇や皇族の位牌等を安置する恭明宮(数年で廃絶)や[86]豊国神社の社殿が建てられた[83]

経緯は明らかでないが、明治期に方広寺は妙法院の管理下から脱し、独立したとされている。

昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れた。「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れた。

1973年昭和48年)の火災により、上述の天保再興の4代目大仏・3代目大仏殿は焼失した[注釈 4]。京都市消防局は見分の結果、その原因について「大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱してくすぶり出火。自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火となった」としている(京都市消防局公式HP・朝日新聞1973/3/30の記事より)。方広寺4代目大仏が焼失してしまったことで、近世以前に日本で造立された木組下地で木張の大仏(巨大さゆえ寄木造で造立できなかった木造大仏)は現存するものが無くなってしまった(岐阜大仏は木造ではあるが乾漆仏で上記仕様ではない)。京都市消防局のHPで公開されている4代目大仏の被災写真[注釈 5]のように、大仏焼失後の大仏胎内の木組が露わになった状態を捉えた写真類について、4代目大仏に不謹慎ではあるが、かつて日本に存在した木造の大仏(東福寺大仏、雲居寺大仏、方広寺初代・3代目大仏など)がどのような構造であったかを検討する上での貴重な写真資料と見なされている[87]

前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿跡地は、2000年平成12年)から発掘調査が行われている。

江戸時代に門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となっていた。門前の餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚があり、今日まで残っている。

境内[編集]

文化財・その他現代に残る遺物遺構[編集]

大仏殿跡緑地
豊国神社の参道。参道に敷かれる石材は、かつて方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用したものであると考古学的知見から断定されている[89]

重要文化財[編集]

  • 梵鐘 - 慶長19年(1614年)京都三条釜座の名越三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。前述の銘は撞座の左上にある。

国指定史跡[編集]

  • 方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔 - 石塁は方広寺旧境内を区切っていた石積みで、京都国立博物館西門から北に遺存している。石塔は豊国神社西方にある通称「耳塚」と、同神社境内東南にある通称「馬塚」(2基とも五輪塔)である。1969年昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」の名で国の史跡に指定。2014年平成26年)に大仏殿跡が追加指定され、指定名称を現在のものに変更した[90]

その他[編集]

  • 方広寺大仏殿遺物9点 - 焼失を免れた方広寺遺物として、京都市指定有形文化財の「方広寺大仏殿遺物9点」が方広寺に保存されている。上記遺物は大仏殿関連が銅製風鐸・銅製舌各1点、鉄製金輪4点で、大仏関連が銅製蓮肉片・銅製蓮弁・鉄製光背金具各1点からなる。風鐸と舌には銘文が刻まれており、「国家安康」の鐘を製作した名越三昌らによって、慶長17年(1612年)に製作されたことが分かる。他の7点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられている[91]。上記遺物の一部は鐘楼に置かれており、それについては通年見ることが可能である。柱の金輪については京都国立博物館の庭園にも展示されている。
  • 方広寺本堂 - 方広寺本堂は、もともと日厳院の客殿であった建物を、明治に移築したものである[1]。日厳院はかつて方広寺を管理下に置いた妙法院の脇寺で、いまの京都国立博物館本館の位置にあった[1]。移築にあたり、 1/10の盧舎那仏座像(現在の方広寺本尊)が当該建物に安置(移座)されることになり、建物の改造がなされた。仏間等を打ち抜いて空間を広げ、天井高も改変し、座高約2mの盧舎那仏座像を安置できるようにした[1]。方広寺本堂建物の造立時期について、妙法院門主尭恕法親王の日記に、寛文10年(1670年)10月11日条で、日厳院の客殿指図(図面)があり、これが現在の方広寺本堂の構造と一致することから、寛文10年(1670年)には存在したことが分かる[1]。京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』では、「日厳院の建物が方広寺と関連するとすれば、秀頼による大仏殿造営の時期、すなわち慶長19年(1614年)前後という可能性も考えられる」としている[1]
  • 盧舎那仏坐像 - 現在の方広寺本尊で、往時の大仏の1/10サイズの模像とされる坐像。文化元年(1804年)に開眼供養が行われた。座高約2m[47]。往時の大仏の造形を伝えるものは数が少なく、貴重なものである。普段非公開だが、外からガラス戸越しに若干は見られるよう配置されている。
  • 眉間籠り仏 - 方広寺大仏の眉間(白毫)に納められていたとされる仏像。普段非公開。何代目の大仏から眉間籠り仏が納められるようになったかは定かではないが、3代目大仏には眉間籠り仏が納められていたことが文献記録に残っている。妙法院に残る文献記録には以下の記述がある。寛政10年(1798年)の大仏殿焼失前の建物の状況について、創建から百数十年が経過していたので、大仏殿はかなり経年劣化が進んでいた。妙法院から京都所司代に大仏殿改修費用の工面を要望したが、色よい返事はなかった。そのため妙法院及び方広寺の所有する宝物の開帳を行うことで、改修費を工面することが企図され、安永5年(1776年)にそれを行うことになった。その開帳の目玉品として眉間籠り仏を大仏から取り外し、展示することが計画されていたが、取り止めとなった。眉間籠り仏の展示が取り止められた理由について、歴史学者で妙法院史料研究者の村山修一は妙法院門主の反対に遭ったためではないかとしている[92]。その後大仏殿の経年劣化はさらに進み、大仏殿北東部の屋根瓦が大風で崩れ落ち、雨漏りが生じるようになった。このような状況にあっても改修工事費調達の目処がたたず、背に腹は代えられないということになったためか、寛政4年(1792年)の宝物開帳では、眉間籠り仏を大仏より取り外しの上、展示された。同年の開帳では豊臣秀吉の装束や、雪舟筆龍虎図などの宝物も展示されており、多数の参詣者が訪れ、大変好評を博したという[93]。また『半日閑話(街談録)』には以下の記述がある。寛政10年(1798年)の落雷での火災の際に、火消し達が大仏殿の消火にあたっていたが、火が燃え広がってしまい、もはや大仏殿及び大仏を焼失から救う手だてがないことを覚った。火消し達は消火を諦め大仏殿から退避することになったが、胎内仏は取り外して搬出されたという[68]。なお大仏焼失後も、眉間籠り仏は霊験あらたかなもので安易に開帳すべきではないとされていた。妙法院史料によれば、嘉永元年(1848年)に大坂住吉神宮寺で企図された出開帳に眉間籠り仏を貸し出すことが計画されていたが、妙法院門主の反対に遭い、取り止めになったという[94]
  • 大黒天像 - 桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため比叡山登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられているもの。それと併せ、その像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ、手元に置いていたとする像も大黒天堂に安置されている。普段非公開。

現代に残る遺跡・遺構[編集]

  • 大仏殿跡緑地公園 - 大仏殿の中心部分の遺構が保存されている。平成12年(2000年)に発掘調査がなされたが、保存のために埋戻し、緑地公園化された。公園整備の際に、来訪者がかつての大仏殿のイメージを掴めるようにとの意図から、柱の礎石跡には円形の石のベンチを設置し、また「検出された大仏の台座の遺構から、大仏の台座は八角形と推定できる」とする京都市埋蔵文化財研究所の当初見解に基づき、推計台座部分の舗装と、推計台座の端分にコーナー型の石のベンチを設けることで、八角形の推計台座範囲を視認できるようにした。「大仏の台座は八角形」とする見解について、後に京都市埋蔵文化財研究所は誤認であったとして撤回し、「台座は円形に近い多角形」とする見解に改めた[4][5]。誤認が発生してしまった原因について、現存する大仏殿の指図(設計図)の読み間違えがある。発掘調査では台座端部の一部分が検出され、またその廻りの床石材(四半敷床石材)も検出された。台座と床石材の切り合い関係から台座は多角形(角数までは特定できず)であろうことが判明した。現存する方広寺大仏殿指図(設計図)の中央には八角形のものが描かれているが、それを大仏の台座の外郭線と解釈し、発掘調査の成果及び指図(設計図)を総合的に勘案し、「大仏の台座は八角形」とする当初見解を提示した[95]。しかしそれは台座の廻りに設けられていた八角形の金剛垣(柵)を描いたものではないかとの指摘を外部より受け、台座と床石材の切り合い関係を再検証した結果、その切り合い関係は八角形に取り付く角度ではないことが分かり、「台座は円形に近い多角形」とする見解に変更するに至った[4][5]。上述のように京都市埋蔵文化財研究所は既に「大仏の台座は八角形」とする見解を撤回しているが、現地案内看板には上記説が表記されたままとなっている。なお先述のように文献記録(甲子夜話)では、台座の仕様について「縦横十間ばかりと見ゆる円形なる石垣の、高さ二間ほどづゝなるを三段に築たり」とされ、それには蓮弁の装飾が施され、寛政10年(1798年)の焼失前は人目に触れることがなかったと記録されている。
  • 豊国神社参道の敷石 - 豊国神社の参道に敷かれる石材は、かつて方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用したものであると考古学的知見から断定されている[89]。転用時期については、方広寺境内が新政府に収公された明治初頭であろうとされる(先述のように明治初頭まで、台座・基壇などはそのまま残されていた)。この石材が作られた年代、すなわち初代大仏殿造立時のものか、もしくは2代目大仏殿造立時のものか、もしくは両者が混在しているかについては、特定できるだけの手掛かりがなく、現段階では不明としている[96]

方広寺が描かれた作品[編集]

1683年刊行のマレーの著した『世界誌』に掲載される方広寺大仏(DAIBVTH)の挿絵。方広寺大仏の存在は世界的に知られていたようである。作者のマレーは一度も来日したことがなく、伝聞した事や想像で著したとされる。アルノルドゥス・モンタヌス作による1669年刊行の『東インド会社遣日使節紀行』に掲載された方広寺大仏の挿絵(こちらも想像で描かれたもの)を一部改変の上で、転載したとも言われる。

既述。慶長11年(1606年) 作。方広寺大仏殿が描かれているが、現存する2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿を描いた江戸期の他の絵図と、破風等の大仏殿の細部の形状が異なることから、(絵師のミスでなければ)初代大仏殿の造形を描いたものとされる。

2代目方広寺大仏殿が描かれている。なお大英博物館には、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチが所蔵されている。

五条大橋と市中の街並み、2代目大仏殿がそれぞれ描かれ、大仏殿の巨大さが分かる。観相窓から3代目大仏が顔を覗かせている[注釈 6]

2代目大仏殿が落雷で焼失する過程が絵図で克明に記録されている[注釈 7]

2代目大仏殿焼失後の文化5年(1808年)の出版であるが、2代目大仏殿があえて描かれている[注釈 8]

  • 「再撰花洛名勝図会」

1862年の作で、規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)が描かれている。野ざらしの大仏殿基壇と台座(1798年焼失の3代目大仏のもの)が描かれており、この頃はまだ残されていたことが分かる。 [注釈 9]

  • 「大仏の食い逃げ」

京都に伝わる昔話。京都のむかし話研究会著『京都のむかし話』にも収録される。話のおちが大仏躯体の材料と絡めて語られる点が注目される。この話の成立年代は不明だが、木像の方広寺3代目大仏造立後と思われる。昔話の概略は以下の通りである。京の大仏と奈良の大仏は揃って伊勢神宮へ参拝に行くことにした。道中で腹が減ったので、蕎麦屋に立ち寄った。両大仏は銭を持っていなかったが、いずれかがおごってくれるだろうと思い込み、たらふく蕎麦を平らげた。両大仏はいずれも銭を持っていないことに気がついたので、食い逃げをすることにした。両大仏は蕎麦屋から走って逃げたが、食い逃げに気が付いた店主が彼らを追いかけ、遂に追い付かれてしまった。店主が蕎麦打ち棒で奈良の大仏の頭を叩くと、奈良の大仏は銅像であるのでクワーン、クワーンという音がした。店主は「あれだけ食べておきながら、食わん食わんとは何事か」と激怒した。続いて京の大仏の頭を叩くと、京の大仏は木像であるのでコツコツという音がした。店主は「蕎麦代をこつこつ返すというなら、何故初めからそう言わないのか」と言い、両大仏は赦免された。両大仏は自身に供される賽銭で、こつこつと蕎麦代を返済したという。なおこの昔話は『まんが日本昔ばなし』でアニメ化されて放送された(1993年10月16日放送分 No.1424)。


漫画、とりわけ戦国時代を扱った歴史物では、豊臣秀吉による方広寺大仏造営と地震による損壊、徳川家康による方広寺鐘銘事件が描かれることが多い。

仏の幽霊の項で、1798年落雷による大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている。

方広寺造営と地震による大仏の損壊、怒った秀吉が損壊した大仏に矢を放つ場面、方広寺鐘銘事件等、桃山時代から江戸時代初頭までの、一連の方広寺にまつわる事柄が描かれている。

交通アクセス[編集]

注釈[編集]

  1. ^ https://collection.kyuhaku.jp/souke/introduce/02_4.html 九州国立博物館 対馬宗家文書 松平信綱の書状の紹介
  2. ^ https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832/ 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図
  3. ^ 当時の一般大衆が方広寺大仏に対する念仏をどのように唱えていたか詳細は不明である。浅井了意『かなめいし』で、寛文近江・若狭地震での方広寺大仏の被災を描いた部分では、「南無釈迦如来」との記述がある。本来方広寺大仏は毘盧遮那仏であって釈迦如来ではないが、妙法院の公的文書でも方広寺大仏を釈迦大像と表記することもあったので、「南無釈迦如来」もしくは「南無釈迦仏」と唱えられていた可能性もある。
  4. ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159532.html 京都市消防局:昭和48年3月27日 東山区方広寺大仏殿炎上(写真提供:京都新聞社)
  5. ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159532.html 京都市消防局:昭和48年3月27日 東山区方広寺大仏殿炎上(写真提供:京都新聞社)
  6. ^ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412635 文化遺産オンライン 高解像度版
  7. ^ https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図
  8. ^ https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 高解像度版 花洛一覧図 オンライン
  9. ^ https://kyotokoteisa.hatenablog.jp/entry/daibutu-mound 「再撰花洛名勝図会」に分かりやすいよう一部着色の上、公開されている

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c d e f 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  2. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  3. ^ 村山(2003) p.149 p.153
  4. ^ a b c d 京都市埋蔵文化財研究所『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡』2010年(2009-8) p.67
  5. ^ a b c d 長宗繁一「大仏殿復元試案―発掘調査成果からのアプローチ―」(『日本史研究』698号、2020年10月) p.59
  6. ^ 薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる』西東社 2016年 p.170
  7. ^ 黒田正子 『京都の不思議』2002年 p.23
  8. ^ 河内(2008) p.56
  9. ^ a b c 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  10. ^ 田中緑紅『なつかしい京都』1970年 p.4
  11. ^ a b 『大仏殿方広寺の拝観の栞』(4代目大仏焼失前に方広寺が拝観者に配布していたパンフレット)
  12. ^ a b c d 村山(2003) p.116
  13. ^ 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』注釈書 1999年 p.22-24
  14. ^ 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
  15. ^ a b 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査報告 平成25年度』2014年 p.147
  16. ^ 河内(2008) p.19
  17. ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.21
  18. ^ 河内(2008) p.26
  19. ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.141
  20. ^ 河内(2008) p.44
  21. ^ a b 村山(2003) p.113
  22. ^ 『日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名』平凡社、1979年 p.837
  23. ^ a b 京都市埋蔵文化財研究所 網伸也『方広寺』2010年
  24. ^ 京都市埋蔵文化財研究所『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡』p.6
  25. ^ a b c 村山(2003) p.114
  26. ^ 河内(2008) p.104
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  28. ^ a b c d e 村山(2003) p.115
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  30. ^ a b 西山昭仁「文禄5年(1596)の伏見地震の被害実態 伏見城 方広寺大仏について」(『歴史地震』1996年)
  31. ^ 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
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  33. ^ a b c d 河内(2008) p.115
  34. ^ a b 河内(2008) p.116
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  36. ^ 河内将芳『東山大仏と豊臣政権期の京都』2018年
  37. ^ 河内(2008) p.130-131
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  40. ^ 河内(2008) p.205
  41. ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.22
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  44. ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.23
  45. ^ 村山(2003) p.118
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  71. ^ 榊原悟『江戸の絵を愉しむ』2003年
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  74. ^ 資料によっては、このわらべ歌の「天火(てんび)」を「兵火(へいび)」とし、「戦さで焼けた」と解説しているものがあるが、そのような史実はなく、誤りである。
  75. ^ 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査概報』2003年 p.38
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  86. ^ 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館『明治時代の恭明宮』2018年
  87. ^ 山崎隆之 西村公朝「近世仏像の技術的再検討 木寄と雛型」(『東京藝術大学美術学部紀要』1983年 収録)
  88. ^ 東寺『東寺の建造物 古建築からのメッセージ』1995年 p.60
  89. ^ a b 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査報告 平成25年度』2014年 p.148
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  92. ^ 村山(2003) p.154
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参考文献[編集]

  • 『京都市の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1979年。 
  • 碓井小三郎 『京都坊目誌』1915年。 
  • 菅原信海; みうらじゅん 『妙法院・三十三間堂』淡交社〈新版 古寺巡礼 京都18〉、2008年。 
  • 田中緑紅 『京の京の大仏っあん』1957年。 
  • 三上隆三 『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。ISBN 978-4-492-37082-7 
  • 村山修一 『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年。 
  • 河内将芳 『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年。 
  • 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年。

季刊大林No.57初代大仏殿の復原案を提示した「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」がPDFで公開されている。

関連項目[編集]