釈尊寺

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釈尊寺
Nunohiki kannon.jpg
観音堂(本堂前より)
所在地 長野県小諸市大久保2250
位置 北緯36度19分51.9秒 東経138度23分10.7秒 / 北緯36.331083度 東経138.386306度 / 36.331083; 138.386306座標: 北緯36度19分51.9秒 東経138度23分10.7秒 / 北緯36.331083度 東経138.386306度 / 36.331083; 138.386306
山号 布引山
宗派 天台宗
本尊 聖観世音菩薩
創建年 伝・神亀元年(724年
開基 伝・行基
正式名 布引山 釈尊寺
文化財 観音堂宮殿(重要文化財)
白山社社殿(長野県宝)
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観音堂より望む

釈尊寺(しゃくそんじ)は、長野県小諸市にある天台宗寺院。山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。 信濃三十三観音霊場の第29番札所。「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩

沿革[編集]

寺伝によれば、奈良時代神亀元年(724年)に行基が開き、聖徳太子が作ったとされる聖観音を祀ったと伝えられている。

戦国時代天文17年(1548年武田信玄東信地方に進攻し楽巌寺入道雅方・布下仁兵衛雅朝を攻略した際に焼亡した。永禄元年(1558年)に望月城主・望月左衛門佐信雅によって再建された。しかし、江戸時代中期の享保8年(1723年)に再度、野火のため焼亡した。

江戸時代後期に小諸藩牧野康明によって、現存する堂宇の大半が整備された。

逸話[編集]

  • 観音堂へ登る山道の途中に洞窟がある。この洞窟は長野市の善光寺と繋がっているとされ、善光寺で火災があった際にこの洞窟からも煙が出たと言い伝えられている。
  • 昔、このあたりに、信心のない老婆が、布をさらしていると、牛がやってきてその布を角にかけて走り去った。老婆は牛を追いかけ、ついに長野の善光寺に至り、厚く信仰したので「布引」の地名が残る。また、思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえを牛にひかれて善光寺参りというようになった。ところでこの老婆は帰宅し、その家族12人みな善男善女となった。釈尊寺の近くに12の祠があり、「十二権現」と呼ばれるが、その家族12人を祀っている。さて、老婆は心置きなく世を去って、乳母の姿の石になったので、その石を「乳母石」という。また付近の川原を「十二河原」と呼び、「大子原」という地名もある。なお布を引いた牛は布引観音の仮の姿で、角にかけた布は風に吹かれ、釈尊寺近くの岩にかかったので、今も岩に白斑がある。また布引の下にある集落を「布下」と呼ぶ。なお、「乳母石」の頭部と胸部を権助という男が破壊したところ、権助は死に、家も絶えてしまった。また、布下集落に「牛池」がある。角に布をかけて善光寺へ走る牛がここで水を飲んだという伝説が残っている[1]
  • 釈尊寺の内陣に三体の木造がある。本来は四体の四天王だった。この四体を川に入れれば干ばつ時に降雨があるとされていた。ある時、村人が四体を川に入れ祈っていたら豪雨となり、一体が流されてしまった[2]
  • 昔、布引の「通らずの沢」に大蛇がいて、人畜を害した。布引観世音はこれを憂い、岩穴に封じこめてしまった。その穴を蛇骨穴(だこつあな)と呼ぶ[3]
  • 釈尊寺に聖徳太子廟がある。廟の台座にいつも清水がある。この水で洗眼すれば眼病が完治すると言われ、それを「霊眼水」と呼ぶ[4]

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)
観音堂内にある仏殿形の厨子で、「建造物」として国の重要文化財に指定されている。入母屋造、板葺、懸造(舞台造)。棟札により鎌倉時代正嘉2年(1258年)の造立と判明する。軒下の蟇股(かえるまた)や、地長押の下の格狭間(ごうざま)など、細部の形式に鎌倉時代建築の特色を示す。

長野県宝[編集]

  • 白山社社殿

所在地[編集]

信濃三十三観音霊場第二十九番札所天台宗布引山釈尊寺「布引観音」から浅間山・小諸市を望む。

〒384-0071 長野県小諸市大久保2250

交通アクセス[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  1. ^ 『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』長野県佐久市教育委員会全434中52P昭和53年11月15日発行
  2. ^ 『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』長野県佐久市教育委員会全434中53P昭和53年11月15日発行
  3. ^ 『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』長野県佐久市教育委員会 全434中54P 昭和53年11月15日発行
  4. ^ 『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434中42~75P昭和53年11月15日発行