金刺氏
| 金刺氏 | |
|---|---|
| 氏姓 | 金刺舎人(カバネは直?)→金刺?[注釈 1] |
| 始祖 | 称・神八井耳命(初代天皇神武天皇皇子) |
| 出自 | 科野氏(カバネは直?) |
| 氏祖 | 科野某=金刺舎人某(実名不明、欽明天皇時代(539–571年)) |
| 種別 | 称・皇別 |
| 本貫 | 磯城嶋金刺宮(欽明天皇の宮殿) |
| 著名な人物 |
|
| 後裔 |
大氏 諏訪大社下社大祝家(下社系諏訪氏) 諏訪大社上社大祝家(神氏)? 伝・手塚氏 称・今井氏(武居祝家) |
| 凡例 / Category:氏 | |
金刺氏(かなさしうじ)は、日本の古代氏族としての氏(うじ)の一つ。信濃国(長野県)を中心に活躍した。大きく4時代に分かれている。このうち、2と3が同族なのは確かだが、1と4が史実として2・3系に繋がるのかは諸説ある。1. 古代(6世紀〜9世紀):金刺舎人(かなさしのとねり)氏。欽明天皇(6世紀)の時代以降に信濃で権勢を誇った大豪族だが、やがて姿を消した。2. 鎌倉時代(13〜14世紀):諏訪氏の名字を名乗り、諏訪大社の大祝(最高神職)を務めた氏族。下社だけとする説と、鎌倉期は上社も下社も同じ金刺氏だったとする説がある。3. 南北朝時代〜戦国末(14〜16世紀):下社の大祝家で、上社の諏訪氏(当時の自称本姓:神氏)と争ったが敗北して滅んだ。鎌倉時代とは違い、この時代の下社は諏訪の名字を使用せずに本姓の金刺氏で通した。4. 戦国末〜明治時代(16〜19世紀):下社祠官の次席だった武居祝家が、滅亡した大祝家の分家を自称して下社の祭祀を司った。
古代:金刺舎人氏、金刺部氏
[編集]伝説的始祖
[編集]始祖に関しては、『古事記』中巻によると、(金刺舎人氏の本流と推測される)科野国造は、初代天皇神武天皇皇子の神八井耳命を祖とする一族の一人だという[1]。ほか、『先代旧事本紀』中の『国造本紀』によると、崇神天皇の時代に神八井耳命の孫の武五百建命が科野国造に任命されたという[2]。
実際、9世紀の信濃国諏方郡の金刺舎人貞長は、神代の伝説的皇子である神八井耳命の子孫を称し、朝廷からその主張と「大朝臣」のウジとカバネを公式に認められて大貞長となっている(『日本三代実録』貞観5年(863年)9月5日条)[3]。
しかし、関晃によると、金刺舎人貞長の例はおそらく『古事記』『国造本紀』の記事に影響されて氏姓の授与が行われただけで、神八井耳命や武五百建命は伝説時代の人と言わざるを得ない、という[2]。『国造本紀』の内容は7世紀後半より古いものとは思えず、また、科野氏(と分家の金刺舎人氏など)が皇別(天皇の傍系子孫)の氏族というのは歴史的事実としては誤りで、実際は科野国(長野県)の土着の豪族であろう、としている[2]。
前身
[編集]金刺舎人氏の前身は、科野国造(しなののくにみやつこ、長野県知事)を務めた科野氏(しなのうじ)だと思われる[4][5]。
『日本書紀』の継体天皇や欽明天皇の時代の記録に、百済への外交官と思われる「斯那奴阿比多」(しなののあひた)や、百済に帰化した日系百済人「斯那奴次酒(科野次酒)」「科野新羅」などが書かれているため、これが科野国造を務めた科野氏の末裔だと思われる[4]。なお、坂本太郎は単に出身地の科野(信濃)を書いただけではないかとしていた[4]。しかし、関晃は、百済使臣で氏が言及されないというのは用例がないこと、倭系百済官僚として百済宮廷に仕える次酒と新羅が正式な氏を称さないというのは考えにくいこと、などから非氏族名説に反論した[4]。
その後、筑摩郡の大領(郡司の長)の「他田舎人国麻呂」(正倉院宝物調庸白布銘、天平勝宝4年(752年)10月)や、水内郡出身の女嬬(宮廷の下級女官)の「金刺舎人若島」(『続日本紀』宝亀元年(770年)10月23日条)などの名前が見える[4]。金刺舎人氏と他田舎人氏は郡領層の人間が多く、氏族名も原則として国造一族が務める御名代が由来なことから、この二氏は科野氏の末裔と思われる[4]。
なお、20世紀後半には、「科野国造」(職名)を務めた氏族の名前は「科野国造」(職名と同名)だと考えられていたことがあったが、その後、論拠となる『阿蘇氏系図』の信憑性が疑われている[5]。既に述べた通り、氏族名としては(「国造」がない)「科野」であると考えられている[5]。
氏族名
[編集]金刺氏のウジの名前の起源は欽明天皇(在位539–571年)の宮殿である磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)にちなむ[5]。磯城嶋金刺宮造営の際、科野氏が分家を中央に舎人(下級役人)として送り、それに応じて以下のような氏族が発生した[5]。
- 金刺舎人(かなさしのとねり) - 科野氏の分流で、磯城嶋金刺宮造営の警備・雑役などの下級役人を務める「金刺舎人」を担当した一族[5]。カバネは「直(あたい)」と思われる[5]。
- 科野氏系の金刺部(かなさしべ)もしくは金刺舎人部 - 科野氏の庶流で、中央役人の金刺舎人の生活費用をまかなうため、金刺舎人氏の私有民である金刺部を監督した一族[5]。姓は「直」と思われる[5]。
- 非・科野氏系の金刺部(かなさしべ)もしくは金刺舎人部 - 科野国(長野県)の農民層で、中央役人の金刺舎人氏の経済的負担を支えるために働いた私有民たち[5]。科野氏・金刺舎人氏の一族ではないが、のちに氏族名として名乗った[5]。カバネはなし[5]。
このほかさらに、欽明の子の敏達天皇(在位572–584年)の宮殿の訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)が造営された時には、他田舎人(おさだのとねり)氏などの氏族が同様に生まれた[5]。
なお、平成6年(1994年)の長野県千曲市の屋代遺跡群の発掘調査で、7世紀後半から8世紀前半の木簡が発見され、上記の氏族が再確認されたほか、様々な豪族の氏族名も新発見された[5]。
カバネ
[編集]信濃国の金刺舎人ウジ(および氏祖の科野氏と同族の他田舎人氏)のカバネは正確には不明だが、関晃の説によると、「直(あたい)」の可能性が最も高いという[2]。
はっきりと金刺舎人氏のカバネは「値」であると書いているのは『阿蘇氏系図』だが、この系図は来歴に疑問点があり信用できない[6](#『金刺氏略系図』も参照)。
同時代史料をあたる限りでは、まるで「舎人」がカバネであるかのように(実際はウジの名前の一部)、不自然なほど、金刺舎人氏および同族の他田舎人(おさだのとねり)氏のカバネは記載されない[6]。唯一の例外は、『続日本紀』養老7年(723年)正月丙子(1月10日)条の「他田舎人値刀自売」という女官である[6]。この人物が信濃出身だったならば、信濃の科野一族のカバネは「値」だった可能性がきわめて高くなるが、他田舎人氏は同名別族が駿河国(静岡県)にもいたので確定ではない[6]。
結局確実な証拠はないものの、他田舎人値刀自売の例や、当時の国造層は直のカバネが多い(1990年時点で判明しているうちの90氏近くのうち50例)ことから、可能性としては値が最も妥当ではないか、という[2]。
その後
[編集]奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと思われ、伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領の金刺舎人八麻呂がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ、翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。
貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が大朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓で宿禰を賜与された。さらに翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に叙され、3年後には三河の介に任ぜられている。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家の正倉から20束の稲を貸し与えた記述のものがある。
鎌倉期:金刺姓諏訪氏
[編集]
平安時代最末期から鎌倉時代に入ると、「金刺」の本姓(ウジ・カバネ制度のウジとして用いられた古代の家名)と「諏訪」の名字(領地に基づく家名)を持つ諏訪社(後の諏訪大社)の祠官家が歴史に現れる。この諏訪大社は一つの神社ではなく、実際には上社と下社に分かれている。そのため、両社の大祝(最高神職)は古代から別氏族なのだとするのが伝統説である(事実、南北朝時代以降には明確に分かれる)。
ところが現存文献上では、鎌倉時代の諏訪社祠官家は、名字については諏訪を用いた例しか残っておらず、逆に本姓については金刺を用いた例しか残っていない。そのため、上社も下社も当時は同族だった、もしくは少なくとも同族意識があったのではないか、とする説が、確定ではないものの比較的有力である。
下社の神宝で重要文化財の「売神祝印」(めがみほうりのいん)は、社伝では大同年間(806年頃)に平城天皇から下賜されたものとするが、藤森栄一によると、様式からして実際は平安時代末期の作ではないか、という[7]。
南北朝〜戦国期:下社大祝金刺氏
[編集]南北朝時代に諏訪大社上社側の人である諏訪円忠が著した『諏方大明神画詞』(正平11年/延文元年(1356年))は、上社諏訪氏の本姓は「神」であると宣言しており、遅くともこの時点までに下社の金刺氏とは別族意識が生じていたと思われる。
以降、下社の金刺氏(名字なし)と上社の神氏(名字は諏訪)は領地と主導権を巡って対立関係が徐々に生じたようである。
南北朝時代の正平23年/応安元年(1368年)6月3日、下諏訪町慈雲寺で竣工した梵鐘の銘に「大旦那 大祝豊久」の名が見える(年号は北朝の「応安」を使用)[8]。
実在が確実かつ名前がわかる最後の下社大祝は、金刺昌春である。永正15年(1518年)12月18日に上社の諏訪頼満に大敗し、一族と領地の大半を喪失した。ただし、下社大祝家はこの直後に滅んだ訳ではなく、50年強程度はまだ小勢力として残り続けたらしい。しかし、結局は時代を乗り越えることができず、天正(1573–1592年)ごろに断絶した。
戦国末以降:武居祝金刺氏
[編集]下社大祝の消滅後、下社の二番手である武居祝(たけいほうり)が事実上の下社の長となり、代々武居祝を務める今井氏(旧称は山田氏?)が本姓金刺氏を名乗り始めた。
天正18年(1590年)、武居祝金刺氏によって下社神宝「売神祝印」がなぜか「鹿食免」(かじきめん、肉食の免罪符)に使われた例が残る(『新編会津風土記』所収)[9]。上社の主祭神「諏訪法性大明神」による許可を下社の売神祝印で出しており、発行人は「神主武居諟」「金刺」である[9]。
鹿食免は基本的に狩猟神である上社が司るはずで不審だが、他にも地域によって上社諏訪氏と無関係と思われる自称諏訪氏集団が発行している例もある[9]。ここから、千葉徳爾は、おそらく近世に上社が専売体制を確立する以前は、それぞれの地域の諏訪信仰のまとめ役が独自に鹿食免を販売していたのではないか、と推測した[9]。
特に、下社の鹿食免を所持していた小森家はおそらく信濃小笠原氏に仕えていた武士の子孫と思われる人である[9]。当時の信濃国(長野県)の情勢だと、上社と敵対する勢力にいた場合は正式な鹿食免を発行してもらうのが難しいため、そのときには下社の武居祝など別の主体からもらうしかなかったのではないか、という[9]。
系図
[編集]『金刺氏略系図』
[編集]『金刺氏略系図』は、『修補 諏訪氏系図 続編』(1921年)所収の系図である[10]。乙頴(おとえい)などの古代人物が登場する[10]。
間枝遼太郎によると、同系図ははやくとも『先代旧事本紀大成経』(1679年)以降の成立であり、古代人物の部分などに『大成経』の影響が見られるため、古代部分に関しては近世以降の作であって、歴史的事実としては全く信用できないという[11]。たとえば、多祁許呂命(たけころのみこと)という人物の名前を系図中の傍注で「許々意命」と表記しており[10]、これは『先代旧事本紀大成経』に見られる独特の表記法である[11]。近世の諏訪大社下社社家が、金刺氏の末裔であるというアイデンティティや系図そのものを確立するために、『先代旧事本紀』や『先代旧事本紀大成経』を参考にして近世以降に創作されたのであろう、としている[11]。
また、間枝によると『阿蘇家略系譜』諏訪氏部分は、本系図と大祝本『神氏系図』を元に創作されたものではないか、という[11]。
『諏方下社大祝武居祝系図略(写)』
[編集]『諏方下社大祝武居祝系図略(写)』は、『諏訪史料叢書 巻28』(1938年)が採録した金刺氏の系図である[12]。原本は武居祝家(諏訪大社下社祠官の次席)の子孫である今井安良のもとにあり(1938年当時)、今井家に依頼した結果、原本ではなく写しを得てそれを掲載したものである[13]。
この系図の主張によると、実在が確実な平安時代前期の金刺舎人貞長(大貞長)から、実在が確実な鎌倉時代前期の諏訪盛澄までの系譜は、大貞長→大長清→大長頼(諏方長頼)→大盛友→大輔頼(植田輔頼)→手塚輔光→手塚光頼→諏方盛澄(手塚盛澄)となっている[14]。
また、下社大祝の諏訪盛澄の弟の手塚光盛の子の手塚光家が武居大祝家になったとしている[14]。さらに同系図によると、戦国時代の下社大祝の金刺昌春の後は、昌春の子の金刺豊保が、ついで豊保の子の堯存が下社大祝を継いだが、堯存はあるとき信濃を出奔してどこか(一説に薩摩)に行ってしまい、下社大祝家が絶えた[15]。そこで、金刺豊保の次男の金刺善政が竹居祝(武居祝)のままでありつつ、大祝を兼ねる慣習ができたのだという[15]。手塚光家系の武居大祝家がどうなったかは書かれていない[15]。
『増訂 下諏訪町誌 上巻』の伊藤富雄の説によると、この文書は幕末〜明治初頭に国学者によって偽作された系図であり、そこに書かれた系譜は信頼に値しないという[16]。その一方、同系図中で引用されている「秋社神庫篋銘」という文については、系譜そのものは偽造だが引用された文自体は確かだとするなど、部分的には一定の史料的価値は持っているとする判断を取っている[17]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 中世以降の「金刺」氏が実際に古代の「金刺舎人」氏の末裔なのかは不明。
出典
[編集]- ↑ 幸田 1932, p. 55.
- 1 2 3 4 5 関 1990, pp. 3–7.
- ↑ 経済雑誌社 1897, p. 135.
- 1 2 3 4 5 6 関 1990, pp. 7–11.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 田島 2000, 科野国造氏と金刺舎人氏・他田舎人氏.
- 1 2 3 4 関 1990, pp. 11–14.
- ↑ 藤森 1961, pp. 704–705.
- ↑ 信濃史料刊行会 1955, pp. 490–491.
- 1 2 3 4 5 6 千葉 1963, pp. 55–57.
- 1 2 3 延川 & 飯田 1921.
- 1 2 3 4 間枝 2023, pp. 11–12.
- ↑ 諏訪教育会 1938, pp. 73–78.
- ↑ 諏訪教育会 1938, 書目解題 p. 3.
- 1 2 諏訪教育会 1938, p. 74.
- 1 2 3 諏訪教育会 1938, p. 75–76.
- ↑ 伊藤 1985, p. 585.
- ↑ 伊藤 1985, pp. 807–808.
参考文献
[編集]- 伊藤富雄 著「第四編 上代の下諏訪・第五編 中世の下諏訪」、下諏訪町誌増補版編纂審議会 編『増訂 下諏訪町誌 上巻』甲陽書房、1985年、561–884頁。NDLJP:9539619。
- 経済雑誌社 編『国史体系 第四巻 日本三代実録』経済雑誌社、1897年。NDLJP:991094。

- 幸田成友 編『古事記』岩波書店〈岩波文庫教科書版1〉、1932年。NDLJP:1031649。

- 信濃史料刊行会 編『信濃史料 巻六』信濃史料刊行会、1955年。

- 諏訪教育会 編『諏訪史料叢書 巻28』諏訪教育会、1938年。NDLJP:1185913。

- 関晃 著「信濃国造の氏姓と氏族的展開」、黒坂周平先生の喜寿を祝う会 編『信濃の歴史と文化の研究(二)』黒坂周平先生の喜寿を祝う会、1990年、1–24頁。NDLJP:13229715。
- 田島公 著「第一編第二章第三節 シナノのクニから科野国へ」、長野市誌編さん委員会 編『長野市誌 第二巻 歴史編 原始・古代・中世』長野市、2000年、251–311頁。

- 千葉徳爾「諏訪の鹿食免について」『信濃』第165巻、信濃史学会、1963年、53–59頁、NDLJP:6069647。

- 延川和彦; 飯田好太郎「金刺氏略系図」『修補 諏訪氏系図 続編』飯田好太郎、1921年。NDLJP:927368。

- 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考 : 再構成される諏訪の伝承」『国語国文研究』第161巻、北海道大学国語国文学会、2023年、1–16頁。

- 藤森栄一「売神祝印と上社御宝印――諏訪神社の考古学的研究(一)――」『信濃』第13巻第11号、信濃史学会、1961年、703–714頁、NDLJP:6069626。
