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観応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

観応(かんおう/かんのう、旧字体: 觀應)は、日本南北朝時代元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇後光厳天皇。南朝方が後村上天皇室町幕府将軍は足利尊氏正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。

改元

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出典

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荘子』の「玄古之君、天下無為也、疏曰、以虚通之理、観応物之数、而无為」から。

観応年間の出来事

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元年(南朝正平5年、1350年)
2年(南朝正平6年、1351年)
  • 1月、桃井直常が北国より入京し、尊氏らを播磨国へ駆逐する。高師冬が南朝に攻められ甲斐国で自殺する。
  • 2月、直義が摂津国打出浜で尊氏方を破り、高兄弟の引退を名目に和睦する。上杉能憲が高兄弟を護送中に謀殺する。
  • 3月、足利直冬を鎮西探題に任命する。
  • 10月、尊氏が南朝へ降伏し、南朝から直義に対する追討令が出る。
  • 11月、崇光天皇を廃位、「観応」が廃され、正平一統が成る。
  • この頃高麗国沿岸で倭寇が活動し始める。
3年(南朝正平7年、1352年)
  • 閏2月、尊氏の将軍職を解く。北畠親房はじめ南朝方の諸臣・諸将が入京し、正平一統が破談。北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と崇光の皇太子直仁親王を南朝の本拠地へ拉致する。
  • 6月、光厳・光明両上皇の国母・広義門院治天の政務代行を承諾し、「観応」元号の回復を宣言する。
  • 8月、崇光上皇の弟・弥仁親王が践祚する(後光厳天皇)。

死去

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西暦との対照表

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※は小の月を示す。

観応元年(庚寅一月※二月三月※四月五月※六月七月八月※九月十月※十一月十二月※
正平五年
ユリウス暦1350/2/83/94/85/76/67/58/49/310/211/111/3012/30
観応二年(辛卯一月二月※三月四月※五月※六月七月八月※九月十月十一月※十二月
正平六年
ユリウス暦1351/1/282/273/284/275/266/247/248/239/2110/2111/2012/19
観応三年(壬辰一月※二月閏二月※三月※四月五月※六月七月※八月九月十月十一月※十二月
正平七年
ユリウス暦1352/1/182/163/174/155/146/137/128/119/910/911/812/81353/1/6

関連項目

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