和光寺

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和光寺
Wakoji (Nishi, Osaka)hondo.jpg
本堂
所在地 大阪府大阪市西区北堀江3-7-27
位置 北緯34度40分26.64秒
東経135度29分19.74秒
山号 蓮池山
院号 智善院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 元禄11年(1698年
開基 智善上人
正式名 蓮池山智善院和光寺
別称 阿弥陀池、あみだ池
札所等 摂津国八十八箇所3番
法人番号 7120005001792
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和光寺(わこうじ)は、大阪府大阪市西区北堀江にある浄土宗仏教寺院。尼僧住職をつとめる。山号は蓮池山。院号は智善院。摂津国八十八箇所第3番札所。

あみだ池(あみだいけ)の通称で知られ、大阪市の南北幹線道路のひとつであるあみだ池筋の名称は当寺院に由来する。

歴史[編集]

院号の「智善院」は開基者である智善上人から。

この地にある阿弥陀池は、後に信濃善光寺本尊となる阿弥陀如来像が捨てられ、また引き上げられた場所として有名であり、江戸時代の初期には念仏修行者の精舎が建てられていた。そこに、元禄11年(1698年堀江新地の開発に合わせて智善上人が信濃善光寺の本尊が出現した霊地として新たに寺院を建立、蓮池山智善院和光寺と称した[1]

江戸幕府の命令で境内地は1800坪とし、また永代寺地と定められた[1][2]。そして信濃善光寺から全長約45cmの金銅製阿弥陀仏像を迎え、元禄12年(1699年)に本尊として祀った[3]。迎えられた阿弥陀仏というのは善光寺の本尊である一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊を、承久3年(1221年)に浄蓮上人にお告げが下り、同年5月に模して制作されたものである。光背には七仏薬師が付いており、現当二世のご利益があるとされるものである。

智善上人は大和国郡山藩大和郡山市)の柳沢氏の出身で、信濃善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人である。享保12年(1727年)7月21日に没した。

江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵(まっこうじぞう)・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現(こんぴらごんげん)・金銅地蔵・鐘堂があった。周辺で参詣人を目当てとした「いろは茶屋」と称する47軒の茶屋が遊所として商いを行なっていたほか、境内にも浄瑠璃の席、講釈の寄席、軽業等の見世物や物売りの店が並び、特に富くじと植木市が有名であった[4]

1945年昭和20年)3月14日、米軍による第1回大阪大空襲で本堂・諸堂などが焼失した[2][5]

戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立[5]。放光閣も再建された[5]1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。

「浪華百景」 「あみだ池」芳瀧(石川屋)

阿弥陀池(あみだ池)[編集]

境内に阿弥陀池(あみだいけ)がある。堀江新地の開発以来、和光寺の東西一帯は阿弥陀池に由来した御池通(みいけどおり)という町名となり、明治の一時期を除いて1978年(昭和53年)に現在の町名に変更されるまで存在した。池の中央には放光閣(ほうこうかく)という宝塔がある。上方落語の演目の舞台にもなっている(尼寺であることも、ネタの中で触れられている)。

信濃善光寺本尊[編集]

長野県の善光寺本尊である一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊欽明天皇13年(552年)、百済国より仏教伝来とともに伝わり、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏・廃仏の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられた。

本田善光[編集]

信濃国国司本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来をこの池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、皇極天皇元年(624年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。

墓・碑[編集]

伏屋素狄顕彰碑[編集]

境内に伏屋素狄(ふせやそてき)の顕彰碑がある[6]1967年(昭和42年)11月に日本医師学会日本生理学会が発起、日本医師会が賛助し、「実験生理の祖 伏屋素狄」の碑が建てられた[6]。伏屋素狄の墓が失われたため、境内に顕彰碑が建てられた[7]

伏屋素狄は河内国丹南郡西村(大阪府堺市東区日置荘西町)に生まれ、14歳のときに和泉国和泉郡万町村(大阪府和泉市万町)の旧家伏屋氏の分家に養子となった[6]漢方医学を学んで、大坂に移り開業したが、西洋医学を学び、生理学上の動物実験を何度も行い、「和蘭医話」を著した[6]腎臓墨汁を注入した実験で、「腎は小便の漉(こ)し役」であることを発表したが、この業績は西洋の医学界より、かなり早い発見であった[6]文化8年(1811年)に没した。

其角句碑[編集]

其角句碑

あみだ池のほとりの白龍大明神を祀った祠の近くに宝井其角の碑がある。碑文は以下である。

「化(あだ)なり[注釈 1]と花に五戒のさくらかな 晋其角翁」

この句の意味は「五戒とは在家の人が守る殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の五つの禁戒をいい、桜の花を折り盗むのは五戒にひっかかるが、それほど桜の花が美しいのもあだであるなあ」[8] また、この碑が建てられたのは嘉永6年(1853年)。其角没後146年である[8]

吉田多市墓[編集]

鍼聖 大阪府立盲学校創始者 昭和12年没[9]

了解墓[編集]

説法上手で多くの貧窮者に白米施工した傑僧 享保4年没[9]

大空襲碑[編集]

1945年(昭和20年)3月の大空襲でこの一帯も焦土と化し、和光寺にも無数の死体が運びこまれ、そのうち引き取り手のない150人余は墓地に埋葬された[9]。 25回忌の1969年(昭和44年)和光地蔵尊をつくって建碑された[9]

その他[編集]

「秀の山」「猪名川」などの力士、天保山沖での水難者などの墓、日清日露戦役の忠魂碑などがある[9][10]

仏像・仏画[編集]

和光寺には、戦火をのがれた仏像、仏画が伝来している[11]

  • 銅造阿弥陀三尊立像 91.6cm 本尊
  • 木造地蔵菩薩立像 94.1cm
  • 木造釈迦涅槃像 167.7cm
  • 絹本著色釈迦誕生図 315.7cm * 257.3 cm

年中行事[編集]

アクセス[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「あだなり」とは、「はかない・もろい」「誠実でない・浮気だ」「疎略だ」「無駄だ」などの意味(Weblio古語辞典-学研全訳古語辞典)。

出典[編集]

  1. ^ a b 大阪のなかの寺, p. 81.
  2. ^ a b 大阪の寺, p. 196.
  3. ^ 今昔じまん, p. 14.
  4. ^ 大阪府史, p. 131.
  5. ^ a b c 大阪のなかの寺, p. 82.
  6. ^ a b c d e 大阪のなかの寺, p. 84.
  7. ^ 大阪のなかの寺, p. 85.
  8. ^ a b 大阪史蹟辞典, p. 641.
  9. ^ a b c d e 大阪春秋, p. 36.
  10. ^ 今昔じまん, p. 15.
  11. ^ 和光寺の仏像・仏画, p. 11.
  12. ^ a b 國史大辭典, p. 6.

参考文献[編集]

  • 友田俊治 『大阪のなかの寺』 コマ文庫、1991年
  • 荒木傳 『大阪の寺 近代こぼれ話』 東方出版、1992年
  • 吉川圭三 『國史大辭典 第2巻』 吉川弘文館、1980年
  • 三善貞司 『大阪史蹟辞典』 清文堂、1986年
  • 西区「わがまち百科」作成委員会 『大阪市西区わがまち今昔じまん』 大阪市西区役所、1995年
  • 大阪府史編集専門委員会 『大阪府史 第7巻』 大阪府、1989年
  • 大阪市教育委員会生涯学習文化財保護課 『大阪市文化財総合調査報告書四五 大阪市内所在の仏像・仏画 和光寺の仏像・仏画について』、2003年
  • 『大阪春秋』 No.134 特集堀江 大阪春秋編集部 新風書房 平成21年4月1日発行 p.36

関連項目[編集]

外部リンク[編集]