北白川

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北白川(きたしらかわ)は、京都府京都市左京区の東部に存在する地域(広域地名)である。ここではおおよそ、左京区内の「北白川」を町名に冠する地区の総称として用いる。かつては志賀越道(山中越)の街道集落として栄え、明治時代からは白川水車を利用した工業も発達する。その他特産品としては花崗岩およびその加工物としての白川石白川砂が著名。またかつては花の栽培・行商も盛んであり、その行商人は「白川女」(しらかわめ)と呼ばれていた。2012年現在は住宅地としての趣が強い。

概要[編集]

左京区の東に位置し、おおよそ東を東山、西を高原通、南を今出川通、北を東鞍馬口通に囲まれた一帯。西部は京都大学のある吉田および田中、南部は浄土寺、北部は一乗寺、東部は銀閣寺前町及び銀閣寺町、さらに県境に位置するため、滋賀県大津市とも隣接する。また、厳密には南東部、大文字山(如意ヶ嶽)山中で鹿ヶ谷とも隣接している。かつての愛宕郡白川村である。

南部、西部は白川による「北白川扇状地」と呼ばれる谷口扇状地帯となっており、主に黒雲母花崗岩砂礫で形成されている。東山の西麓(京都側)では最も規模の大きな物であり[1]東大路通あたりまでが範囲に含まれる。また、追分町近辺は縄文時代には低湿地帯であったと推察されている[2][3]

地域の北東部は白川と京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線(志賀越道、山中越えなどと呼ばれる)に沿った山間部であるが、西部、南部は平坦な土地である。東山(特に比叡山、大文字山)の山裾に拡がる地域で、地域内に瓜生山(うりゅうざん、うりゅうやま。標高301m)と呼ばれる山が存在する[* 1]

そのほか「北白川山」[* 2]がある[* 3]

また、古くは(現)瓜生山の一部が「茶山」と呼ばれており、叡山電鉄の駅名にその名を残している[* 4]。大文字山 (466m)、如意ヶ嶽 (472m) との関わりも深い[* 5][4]

洛外平安京の外)であるため、照高院御殿跡の他には特に著名な史跡が多いというわけではないが、縄文時代遺跡石器縄文土器も見つかっており、居住地としての歴史は長い。また、京都盆地の東端に位置する、京都の中でもかなりの郊外ということで、少なくとも1880年代には、四条京極へ出かけることを「京へ出る」と表現していた[5]

特産品として白川砂という、花崗岩質の白い砂があり、庭園など向けに使用されている。また、古くは「白川女」(しらかわめ)と呼ばれる、女性による花の行商の風土が存在した。

国勢調査を元とした推計によれば、その人口は2010年(平成22年)4月時点で、5660世帯、10270人とされている[6][* 6]

なお、地域の南西部の一部は京都大学の敷地内でもある。ただし、京都大学の所在地は北白川の西に隣接する「吉田」であり、その施設の多くは吉田に存在し、北白川に存在するものは極一部にとどまっている。

沿革[編集]

「北白川」の名称の由来は、「白河」の北に在ったことから[7]。『愛宕郡村志』に曰く、「白川とは渓谷の称なり、蓋し山谷花剛石多く其碎(砕)沙白くして美なるにより名つけし」(現代語訳は綱本逸雄 2013 『京都盆地の災害地名』p.40より引用)が白川の名称の由来。また、かつては鴨川以東の、北白川から九条辺りまで、かなりの広域が「白河」と呼ばれていた。文献に北白川との地名が出てくるのは藤原公任拾遺抄』の「北白河の山庄に花のおもしろくさきて侍りける、見るとて人人まうできたりければ」(同じく綱本 2013 より引用)から。

古くは愛宕郡上粟田郷白川村と呼ばれ[8]天正時代(1573年 - 1593年)は稲作のほか、花売り、水車、石屋(石工)などの産業があった[* 7][9]。なお、1929年(昭和4年)からは左京区の大字[7]

比較的市街化の遅れた地域であったが[10]1918年の京都大学理学部の移転、1923年の農学部の設立を経て、1930年頃以降より住宅地としての発展を見[* 8][* 9][10]、京都の内でも高級住宅地とされる。 1985年(昭和60年)の年齢別人口比の資料では、20代の人口が群を抜いて多くなっている[11]1918年(大正7年)に京都市上京区に編入、1929年(昭和4年)に新設された左京区に編入された[12]。ちなみに山間部に関しては、1990年(平成2年)の資料では各町1 - 4世帯、南ヶ原町や外山町は0世帯となっている[13]

河川[編集]

白川[編集]

地域の北東、山間部である地蔵谷町近辺を流れる白川。道路は志賀越道。
身代わり不動尊。複数有るがこれは最も街道に近いもの。

地域内を、北東の山間部から南東部(浄土寺から岡崎)へ流れる一級河川。比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の間、東西約5km、南北5 - 7kmの花崗岩地帯を流れ、その浸食により現在の山並みを形作った[14]。川砂が白いことから、白川と呼ばれるようになったとされている[15]。地域住民は、大川、天王(てんのう)の川、裏の川などとも呼んでいた[16]。なお白川についてはかつて、鴨川に流入するおおよそ三条通以北を北白川、以南を南白川と呼んだという[17]

地元では相当な荒れ川とされ、かつては度々氾濫を起こしており、1889年(明治22年)には北白川小学校の校舎も流失するなどの被害が発生した[* 10]。そのため、かつては堰堤には鉄砲水対策の土嚢が積み上げられ[* 11]、水門も二重、三重に設けるなどの洪水対策が成されていた[18]1970年代からは近代的な改修工事が望まれ、現在、北白川の琵琶町以下では相当に掘り下げられた上で三面がコンクリート仕上げとなっており、さらに地下には河川のバイパスともいうべき今出川分水路が今出川通の地下に設けられ、琵琶町には砂沈池も備えられている。ただし「京都市情報館」(京都市公式Webサイト)によれば、2010年(平成22年)6月時点で、改修進捗度は計画の半分にも達していない。なお、北白川天神宮前に「萬世橋」という石組みのアーチ橋がかかっており、改修工事時には一端分解し、後に組み直すことが検討されたが、爾後の復元に不安を覚えた氏子会の要望により、困難ながらも橋を保全したままで改修工事が行われた[19]

また、流域では水車による産業が発達していた[* 12]。山間部には重石、蛇石など特徴的な形をした岩があり(文献には残るが現存していないものも多い)、白川の滝と共に、旅人の目を楽しませた。白川の滝は白川石の切り出しの結果、現存していない[* 13]。なお、地域には白糸の滝という別の滝もあるが、これは後に人工的に造られたものである[20]

地獄谷ともいわれる山間部の地蔵谷町では、1956年(昭和31年)にラドン温泉が発見され、京都北白川不動温泉、北白川天然ラジウム温泉の2施設で有料で入浴が可能である。近くに、旅人に降りかかる災厄を代わって受ける「身代わり不動さん」が祀られていたことから[* 14]、「おたすけ水」とも呼ばれる[21]。ちなみに、飲用も可能であり、入浴・飲用が許可された温泉の中で、ラドン含有量は全国第2位となっている[* 15][22]

ちなみに、白川村とその南隣、白川の下流に当たる浄土寺村との間では、白川の用水、水車の設置などでたびたび諍いがあり、『史料京都の歴史 8』 p.206、p.211では、奉行所への訴状などが紹介されている。

琵琶湖疏水[編集]

地域の南東部から北西部(高野方面)へ向け、南禅寺を起点とした琵琶湖疏水の分線が流れる(1890年(明治23年))。京都盆地は基本的に南西方向へ向けて傾斜しているが、この分線は人工の水路であるため、北へ向けて流れている。疏水に沿って桜並木が続き、特に南東部(東久保田町)は哲学の道の一部として、銀閣寺道のバス停留所から銀閣寺へ足を向ける観光客の通り道となっている。なお、琵琶湖疏水は北白川の南東端である東久保田町と、隣接する銀閣寺前町との境目において、白川と立体交差している。

交通[編集]

白川通[編集]

北白川の平野部を南北に縦断する主要な道路であり、山科区を除いた京都市内では最も東に位置する大通りである。現在、北白川地域内では道の両側の銀杏並木のみならず、中央分離帯にもケヤキの並木が続く4車線道路となっている[23]。道路といえば志賀越道だけで、あとは田畑が拡がっていた北白川に1934年(昭和9年)前後に区画整理で整備され、かつては12間道路と呼ばれ[24]、今出川通以南では京都市電の路面電車も通っていた[* 16]

今出川通[編集]

北白川の南端を東西に横断する主要な道路であり、ほぼ浄土寺、吉田との境界ともなっている。かつては北白川のほぼ全域に渡って路面電車が通っていた。また2010年(平成22年)現在、北白川地域内では4車線道路であるが、白川通との交差点より東の部分においては、2車線である。東端、白川通に近い区間は「銀閣寺道」とも呼ばれ[25]、今出川通と白川通の交差点に存在するバス停留所の名称にもなっている。

御蔭通[編集]

東蔦町から南東の堂ノ前町方面を望む。御蔭通と琵琶湖疏水分水路が交差する。

地域のほぼ中央部を東西に、御蔭通が横断している。1934年(昭和9年)前後の区画整理で整備された道であり、かつては「バス通り」と呼ばれていた。2車線道路ながら、白川通以西には並木が備えられている[26]

志賀越道[編集]

下池田町付近
東久保田町の道標。「往来安全 左 滋賀の山中越 右 慈照寺哲学の小径」

読みは「しがごえみち」。鴨川添いの荒神口から北白川地域を通過し、白川に沿って遡り、琵琶湖西岸地域に至る街道。山中越え、白川街道と呼ばれたほか、古くは志賀の山越[* 17]、琵琶街道とも呼ばれており、明治時代の地図で確認できるほか、琵琶町という地名も残っている[27]1928年(昭和3年)には市営バスの運行が開始された[28]。 現在は、間道であった比叡平(ひえいだいら)を経由して滋賀県大津市石山近辺に至る経路を、片側1車線の主要地方道である京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線が通っており、この路線の別名として「山中越」、「志賀越道」が用いられている。比叡山ドライブウェイとも接続しており、比叡山山頂への道ともなっている。また、北白川では仕伏町で分岐する御蔭通のほうが京都府道30号下鴨大津線として指定されている。

後述する北白川縄文遺跡群の出土物と、南滋賀の遺跡からの出土物との関連性から、先史時代にはすでに交通路として確立していたともいわれている[29]。その交通の利便さゆえに要衝と捉えられ、将軍山城での攻防などが発生したと考えられている。また、『兼見卿記』[* 18]では、織田信長により、この街道の整備が命じられたと記されている。

しかしその後の海上交通の発達により内陸交通路としては衰退に向かい、幕末における尾張藩下屋敷の新築により、吉田の部分が途切れてしまった(そして明治以降同地には第三高等学校、次いで京都帝国大学(京都大学)が設置され現在の京大吉田キャンパスに継承されている)[30]。またこの頃より志賀越道には商店が建ち並び活況を呈し、「北白川京極」とも呼ばれたという[10]。なお、下別当町、東山東一条などに多数の道標が現存するほか[31]、街道沿いに数体の石仏が見られる(後述)。

  • 東山東一条の道標 「右 さかもとからさき 白川乃道」「左 百万辺乃道」
  • 北白川東久保田町の道標 「右 慈照寺哲学の小径 馬頭観音像 往来安全 左 志賀の山中越」(右図。志賀越道に存在する道標ではなく、志賀越道への案内のもの)

その他、山間部にも多くの道標が見られるほか、北白川小学校敷地内に移設されたものもある[32]

公共交通機関[編集]

京都市営バス京都バス京阪バスが主である。最寄り駅は叡山電鉄元田中駅茶山駅が挙げられ、地域の北西部からは徒歩で移動が可能。京阪電気鉄道出町柳駅も最寄り駅といえるが、銀閣寺道からは2km程度、最も近い追分町からでも1km以上の距離がある。

観光名所である銀閣寺が近いため市営バスの路線は充実しており、3、5、17、32、65、203、204、急行100、急行102各系統などが利用可能。京都駅三条京阪四条河原町金閣寺などへの直通系統がある。北白川地域内では南北は白川通、東西は今出川通、御蔭通を通過している[* 19]。また、出町柳駅へは今出川通にある各バス停留所からの17系統、203系統、急行102系統、および御蔭通を通る3系統が、元田中駅へは御蔭通を通る3系統と65系統が直通便となっている。

仕伏町より北東の山間部には市営バスは通っておらず、京都バスの51系統[* 20]と京阪バスの56、56A号経路[* 21]のみとなっている。なお、積雪時は運行が中止されることもある[33]

風俗・産業[編集]

白川女[編集]

時代祭行列での白川女(2012年)

かつては白川女(しらかわめ)と呼ばれる女性の行商人が、洛中で花の行商を行っていた。江戸時代より商業化されたもので、最盛期は明治時代であったとされ[34]、その時期にはほとんどの女性が15歳になると白川女になったともいわれる[35]。現在は時代祭でその出で立ちを確認できる[36]。純白の下着、紺の着物前掛け、頭に手ぬぐい[* 22]手には手甲、足には脚絆草鞋、という出で立ちである[37]。なお、襷(たすき)は年齢によって色分けがされていたという[38]。古くは頭に花を入れた藤蔓製の籠を乗せて行商していたが[* 23]大正時代頃からは、荷車なども用いられるようになった。平安時代三善清行の発案により北白川の女性が京都御苑に花を届けたのが始まりであると伝えられている[17][39][* 24]。花畑では、キクキンセンカなどが栽培されていたほか、山で摘み取った花も販売しており[* 25]、明治以降は若干ながら番茶も販売され[40]お盆正月の飾り物なども取り扱われていたようである[17]。京都盆地の特性上、洛中から北白川への帰り道は登り坂になるため、学業の終わった子供が途中まで母親を迎えに行き、荷車引きを手伝う光景も見られた[41]21世紀初頭の現在では、わずかな老齢者が伝統を受け継いでいるのみとされ[42]、毎年行われていた京都御所への花の献上も1970年(昭和45年)頃に途絶えている[43]。また、白川女は世襲的色合いが強いとされる[44]

花畑は北白川には多く見られ[* 26]、風景の一つとなっていた。以下参考文献[45]からの引用の歌であるが、

  • 春と言えばさえゆく風にたつ波の 花にうずめる白川の里(藤原定家)
  • 百草の花のかげまでうつしつつ 音もかわらぬ白川の水(貫之)

などと詠まれていた。1965年(昭和40年)前後の地図でも、地域内にかなりの花畑が確認できるが[46]昭和に入ってからは、住宅地が増え、花畑が減少したこともあり、北白川だけでは需要を賄い切れず、花市場が開設され、1965年(昭和40年)頃には大部分が他地域よりの購入によって賄われるようになった[47]

京都には、その他にも大原女によるの行商、桂女(かつらめ)による魚の行商、高雄の畑のおば(姥)、なども見られた。大原女と白川女の出で立ちは比較的類似しているが、着物の裾や前掛けの長さの違いなどが明確であるとされる[48]

ちなみに北白川の女性は男勝りの働き者で、昔はかなり乱暴な言葉使いをしていたとされるほか、北白川地域独特の方言も存在した[49]。また、花売り、花市場は旧街道(志賀越道)沿いに多く分布していた[50]

注連縄[編集]

北白川は注連縄(しめなわ)の産地としても、明治末期以降、京都では有名であった。お歳暮用の宝船というものは、京都では北白川でしか作られていなかった。主に冬場に、花売りに関わる住民がこの仕事に当たったという[51]。また、北白川小学校ではわら細工教室という科目を行っており、ホームページでその様子が確認できる[35]

白川砂[編集]

白川の上流には花崗岩が多く見られ、白川の川砂はその白さの際だつ白川砂として京都の特産品となっており、各地の神社仏閣京都御所天皇陵などに古くから利用されてきた。ある時期より以降は、川砂を採取するのではなく、山を切り崩しての採取となっている[52]

白川石[編集]

花崗岩そのものである白川石も特産品であり、その品質の評価も高かったとされ、京都の石といえば白川石、ともいわれ、鎌倉時代には三大名石の一つにも数えられた[53]。『都名所図解』にも「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出し…」との記述が見られ、『東北歴覧之記』では「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」とされている[* 27]。白川灯籠手水鉢(ちょうずばち)などの加工品も名物であった。だが、大正時代以降、石造の衰退、採石容易な花崗岩の枯渇や京都市の条例による切り出しの禁止という要因により、北白川での石の切り出しは次第に行われなくなり、現在は主に瀬戸内産の花崗岩を使用している。しかし、最盛期には200人以上を数えた石工[* 28]はその後もその技術を生かし、京都府庁京都市役所の建築などにも携わったとされているほか、その末裔は京都市内にて石材商を営んでおり、京都市内の石屋の7 - 8割は北白川出身であるともいわれ[* 29]、出身者は他府県にも移り住み、技を受け継いでいるという[54]。また、北白川愛郷会の策定した「北白川史跡と自然の道」の経路には石切場跡も組み込まれており、現在も見学が可能である。なお、石屋はその多くは旧街道(志賀越道)沿いに分布していた[55][56]

屋号[編集]

屋号としては鍛冶屋、桶屋、滝元屋など、家業や立地を元とした一般的といい得るものが有ったが、先祖の名前に「さん」を付けたものを、代々呼び継ぐ風習もあった。一例としては「善七さん」、「卯兵衛さん」などがある。この風習は、少なくとも1960年(昭和35年)前後には、まだ存続していたとの資料がある。その他にも「どてら」「大男」などの屋号もあった[57]。ちなみに、この地域では、内田、西村、倉貫、中山などの姓が多く見られる[58]

水車[編集]

かつては白川沿いに多数の水車が見られ、各種の製粉精米金粉制作や伸銅など、様々に利用され、水車産業に従事する労働者として福井県石川県から移り住んだ者が、そのまま北白川に住みついた例も多く見られた[59]。初めての水車は1698年元禄11年)に設置されたとされ、1907年(明治40年)頃には38軒の水車が有ったとされるが、琵琶湖疏水による水力発電の影響などでその数は減少し、1958年(昭和33年)頃にはさらに7軒にまで減少、その上比叡平の宅地開発による土砂の流入などが止めとなり、1968年(昭和43年)8月に、最後に残った水車が廃止された。なお、京都市南区の大手伸銅会社である三谷伸銅も北白川が発祥地の一つであり、その水車は「三谷車」と呼ばれたほか、かつては北白川小学校も固有の資産として2基の水車を所有しており、その収入が運営資金に充てられていた[60]

その他[編集]

  • 1912年(大正元年)の『校下実際調 本村の長所と欠点並に之が教育上注意すべき要件』という、北白川小学校での教育方針に関する文書では、白川村の住民は非常に勤勉で人情深く、石工における収益も赫々足るものがあるが、反面、純粋すぎるがゆえに都会からの破廉恥な文化侵略に抗し得ない可能性がある点が指摘され、石工にまつわる実用的な教育に力を入れつつ美点を伸ばしていく様な教育を心がけるべし、としている。また、北白川は都の発展の利益を享受するに至極有利な地勢を得ており、今後は農業ではなく工業に力を注いでいくべきだと指摘している[61]
  • かつては久保田町の北白川サービスセンター、隣接する浄土寺東田町の丸銀市場といった屋内の市場が住民の食の多くを賄っていた(1974年(昭和49年)頃に行われたアンケートでは、両市場合計で60%との資料がある)。ただし、2010年(平成22年)現在では、どちらの市場も、スーパーマーケットとなっている[62]

教育機関[編集]

京都市立北白川小学校[編集]

北白川小学校正門前

京都市立北白川小学校1874年(明治7年)開校という、長い歴史を持つ小学校である。開校当時は乗願院の隣に存在し、従来寺子屋として使用されていた「毘沙門堂」という寺院跡を借りて授業を行っていたが、1877年(明治10年)に北白川天神宮側に移転。この時期は北白川村役場も敷地内に併設されていた。しかし生徒数の増加から、1904年(明治37年)、さらに現在地に移転した。開校当時は北白川の地域性を考慮し、読み書きの他に、石工に特化した授業も行われていた[63]。また、1889年(明治22年)には白川の氾濫で校舎が流失した[* 30]太平洋戦争大東亜戦争)中は疎開児童を多く受け入れ、教室に70人以上の生徒が入った、などのエピソードも有る[64]。後述するが、敷地内に遺跡も存在している。

かつては仕伏町という平野部の東端に位置していたが、現在はやや平野部の中央に近い、別当町70番地に置かれている[65]。明治時代においては生徒数の増加に合わせ、各所から建物を移設し、校舎として利用していた。昭和に入ってからも校舎の増築は続き、昭和30年代の航空写真では現在運動場として利用されている部分の中央に迫るほどに、二重、三重に校舎が設置されている模様が確認できる[66]。『愛郷』によれば、2004年までに校舎建築5回、増改築および移設が15回行われたという[67]

北白川に隣接する銀閣寺町や銀閣寺前町も学区となっている。2010年(平成22年)現在は敷地内に京都市北白川児童館も併設されている[68]

また、北白川地域の中学校の学区は京都市立近衛中学校となっているが、山間部からの通学は、徒歩で1時間以上を要する[69]

2010年(平成22年)現在の生徒数は、教育調査統計資料(平成21年度)[70]によれば、360人となっている[* 31]

なお、尋常小学校時代の校章は六角形の中に「白」の字をあしらったものであったが、現在は桜の花の中に「白」の字をあしらったものとなっている[71]

年中行事[編集]

  • 4月 - 修学旅行(6年生)
  • 5月 - 野外教育センター奥志摩みさきの家[36]での林間学校(4年生)
  • 8月 - 盆踊り(鉄仙流白川踊)
  • 2月 - 創立記念日(10日)

京都造形芸術大学[編集]

瓜生山町にある私立芸術大学。かつては「京都芸術短期大学」であり、「芸短」(げいたん)と呼ばれていた。地域の子供向けに「ピッコリー図書館」が解放されている[72]

史跡・遺跡[編集]

照高院御殿跡[編集]

北白川宮、北白川御殿、古くは雪輪御所とも。仕伏町 - 丸山町に1619年(元和5年) - 1875年(明治8年)まで存在。元々は聖護院の退院所であったが、明治に入り、当時の聖護院門跡の附弟である信仁入道親王が復飾し照高院宮智成親王と改名し、ついで聖護院宮を継承したのち「北白川宮」と改名[* 32]して東京へ移ったため、取り壊されることとなった[73]。取り壊し後、総門日吉神社に移設されたほか、建物の一部は妙法院に移され、国宝とされている[要検証][74]。「照高院宮跡」と刻まれた石碑は、土地所有権の都合上、かなり離れた北白川山、北白川幼稚園の近くに建っている[75]

北白川廃寺跡[編集]

1934年(昭和9年)、区画整理の折に、別当町から上終町にかけての区域で羽館易らの手により遺跡が発見された。現在の北白川では、北白川小学校北部一帯に相当し、後述する小倉町別当町遺跡と、一部重なり合っている。奈良時代のものと思われるや瓦窯跡(北白川瓦窯阯)も発掘され、出土した瓦の様式から、奈良時代前期から平安時代中期、もしくは鎌倉時代にかけて存在していたとされる[* 33][2][76]。相当に大規模な寺院であり、北白川地域が粟田郷の一部であったとされることもあり、粟田神社に名を残す粟田氏の氏寺(いわば粟田寺)であったとも推察されている[* 34]。また、現存する「堂ノ前」という地名のほか、古くは「堂ノ後」「鐘杵」という地名もあり、この寺に因んでいるとの説がある。なお、主な基壇が離れ過ぎていることから、あるいは並立する2つの寺院だったのではないかとも考えられている[77][78]

北白川追分町遺跡[編集]

1923年(大正12年)に、追分町の京都大学農学部構内の工事現場で濱田耕作により、発見された[* 35]縄文時代の遺跡である。竪穴式住居跡、墓地跡(集石土壙)などのほか、当時の植生を垣間見られるものも出土している[* 36]1991年(平成3年)時点で発掘調査回数は十数次を数えている[79]

小倉町別当町遺跡[編集]

1934年(昭和9年)、区画整理の折に、小倉町から別当町にかけて、羽館易と地元住民の手により発見された縄文時代の遺跡。2010年(平成22年)現在では、追分町遺跡より若干後の時代のものとされる。石器、縄文式土器などが発掘された。その範囲は北白川小学校敷地内にも拡がっている。戦前に調査された遺跡として、考古学史上著名であるともされる[80]

北白川上終町遺跡[編集]

1934年(昭和9年)に発見。2010年(平成22年)現在までの所小規模な調査しか行われていないが、住居跡が発見されている[81]

北白川縄文遺跡群[編集]

北白川追分町遺跡、上終町遺跡、吉田上大路町遺跡を合わせた北白川扇状地の一連の縄文遺跡は、「北白川縄文遺跡群」または比叡山西南麓遺跡群などと呼ばれ、西日本の代表的な遺跡群であり、発見された土器は「北白川式土器」と呼ばれる。また、西日本の先史遺跡は軟弱な地盤に築かれることが多いため、本遺跡群のように多数の遺構が見つかる例はあまり多くはないとされ[* 37]、そういった視点からも重要性が認められている。ちなみに、上終町遺跡から出土した竪穴式住居跡は、京都府内で見つかったものの中で最も古い物であるとされている。なお、縄文遺跡は北白川地域のみにとどまらず、白川のより下流に相当する吉田や聖護院、岡崎などや[* 38]、白川の北に位置する河川である一乗寺川、音羽川流域でも発見されている[2][82]

子安観音[編集]

西町の子安観音

西町、今出川通と志賀越道の交差点(旧吉田村との村境で、白川口と呼ばれる)に安置されている、高さ2メートル程度の石仏(観世音菩薩)。『拾遺都名所圖會』にも「北白河の石佛は希代の大像にして…」と、図版入りで紹介されている。江戸時代末期に発生した北白川での大火後に[* 39][83]、村の中ほどから現在の場所に移設された。その際に両腕が失われており、首も一度落ちたものを接いだものである[* 40]。さらに1996年(平成8年)にはトラックの衝突により、またしても首が落ちるという災厄に見舞われている[84]。背部が石塊のまま残されており、鎌倉時代[* 41]の作といわれているほか、豊臣秀吉にまつわる伝説もあり、太閤地蔵とも呼ばれる[* 42][85]

その他[編集]

二王
  • 小沢芦庵墓 - 山ノ元町、日本バプテスト病院内[86]
  • 北白川宮智成親王墓 - 丸山町。
  • 聖護院法親王墓 - 地蔵谷町[87]
  • 将軍山城跡(勝軍地蔵山城、北白川城とも)- 清沢口町、瓜生山に存在する。
  • 将軍地蔵(勝軍地蔵) - 高さ約72センチメートルの石造の将軍地蔵である[88]。元来は瓜生山[* 43]に在り、「東山将軍地蔵」と呼んだ。堂は細川高国(1484年 - 1531年が建立した。『愛郷』51号によれば、台座には「延文六年」(編注:1361年)と記されている。竹村俊則『京のお地蔵さん』によれば標高300メートルの瓜生山は足場が悪かったため、参拝者の便を図るため[88]1762年 (宝暦12年) に麓の丸山に移し、瓜生山の名も移したとのこと。その後は天然痘平癒の信仰も集めたという。『都名所図解』、『雍州府志』、古地図にも記述が見られる。詳しくは「将軍山城」も参照。その後長年北白川山ノ町、北白川山(将軍山、丸山…前述の通り、北白川では小さな山の名前には混乱が見られる)に在ったが、2010年11月ごろ、上終町の禅法寺に移され、堂も新たなものに変えられた[* 44][88]。なお、『愛郷』51号によれば、2010年11月時点では、非公開とされている。
  • 後二条天皇北白河陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ) - 追分町に存在。
  • 二王(ふたつおう) - 子安観音の南側、吉田本町で祀られている石仏大日さんと呼ばれているが、阿弥陀如来だという言い伝えもある。元々は子安観音と対面して設置されていたが、市電開通に伴う今出川通の拡張に伴い、現在の場所に移設された[89][* 45]。なお、この石仏も秀吉との逸話が伝えられているほか[90]、「北白川の石仏」と呼ぶ場合、子安観音だけではなく、この二王も含まれるか[91]、もしくは主にこちらを北白川の石仏と呼ぶ[90]。また地元では「なかよし地蔵」との呼び名もみられている。

なお、2010年(平成22年)6月現在、「リーフレット京都 No.166」[37]にて、遺跡群の地図が参照可能であり、古墳跡なども確認できる。

施設[編集]

北白川天神宮[編集]

北白川天神宮。石橋は萬世橋。

仕伏町にある天神宮。天満宮とされることもある。千古山明神の森ともいわれる小山に造営されており、133の石段が特徴[92]。境内の木々の内3本は、京都市区民誇りの木(左京区)に選定されている[93]

元々は「天使大明神」といった。現地では天神さんと呼ばれているが、祭神は菅原道真ではなく、少彦名命である。以前は久保田町宮ノ前、「久保田の森」に存在していたが、1460年代に、足利義政の手によって、現在地に移設(遷座)されたといわれている[94]。また、道晃法親王とのゆかりも深い。

10月には天神祭(神幸祭)が催され、境内には夜店が立ち、御輿が地域を練り歩く。1月には御弓式、縄引という行事も行われる。御所から授けられた黒鉾などもあり、祭りに言及した古い文献資料もあるほか、滋賀里からの参加者が見られていたという資料もある[95]、北白川高盛御供、通称「高盛」という北白川独特の儀式や、鉄仙流白川踊という盆踊りもあり、いずれも京都市指定・登録文化財に登録されている[38]

なお、『拾遺都名所図会』(1787年(天明7年))では、白川村の南部に存在すると記されているほか、「北白川廃寺の問題」では、上述の移転の事実について疑問が投げかけられている。

その他[編集]

地域内の町名[編集]

伊織町、岩坂町、瓜生山(うりゅうざん)町、追分(おいわけ)町、小倉町、重石(かさねいし)町、上(かみ)池田町、上終(かみはて)町、上別当町、清沢口町、久保田町、小亀谷町、仕伏(しぶせ)町、下(しも)池田町、下別当町、地蔵谷町、瀬ノ内町、大堂町、蔦(つた)町、外山町、堂ノ前町、中山町、西伊織町、西瀬ノ内町、西蔦町、西平井町、西町(にちまち)、東伊織町、東小倉町、東久保田町、東瀬ノ内町、東蔦町、東平井町、平井町、琵琶町、別当町、丸山町、南ケ原町、向ケ谷(むこうがだに)町、山田町、山ノ元町(50音順)[99]

住所の表記は一般に「郵便番号 606-○○○○ 京都府京都市左京区北白川○○町○番地」となっている。

災害および地名[編集]

2013年現在、瓜生山町、上終町、山田町、山ノ元町、丸山町の一部、外山町の一部、仕伏町の一部、下池田町の一部は急傾斜地崩壊危険箇所[7]。琵琶町、山ノ元町の谷などについては土石流による被害想定箇所[7]

綱本逸雄は上池田町、下池田町、久保田町(窪処、くぼた)、東久保田町はかつての氾濫と関わる地形ではないかとしている[7]。 また琵琶町は水輪(みわ、川の湾曲)のことではなく、ひび割れが割れ目が入る「ひはる」の意味ではと、仕伏町については渋瀬から(渋は沼地・湿地の意)[7]、ではないかとしている。

脚注[編集]

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  1. ^ 『新撰京都名所圖會』によれば、八坂神社祭神である牛頭天王が、かつてしばしば立ち寄った山であり、この神が胡瓜を好んだことから。平安時代にはすでにこの名称が用いられていたとされる。本来は近隣の別の山(旧瓜生山とも)を指していたが、本来の瓜生山が「将軍山」と呼ばれるようになったため、本来の瓜生山とは別の山である。なお、一乗寺の狸谷不動尊も現在の瓜生山(洛中から見れば瓜生山の裏側)にある。現在瓜生山山頂の住所は隣接する一乗寺であるが、本山の歴史的経緯から、この北白川の項で述べるものである。なお、将軍地蔵はもともとこの山にあったことから、現地では「元将軍」という呼び名もある(史跡探訪 東山三十六峰)。
  2. ^ 標高130m程度。将軍山、地域では丸山とも。北白川幼稚園が設けられているほか、2010年11月頃まで将軍地蔵安置されていた場所でもある。
  3. ^ 北白川山の一部がすべり山と呼ばれる[要出典](2010年6月現在、北白川幼稚園のホームページに記述が有る)、現在の瓜生山は元々は丸山である(『新撰京都名所圖會』)、かつては北白川地域の山々の総称として白川山という名称が使われていた(『雍州府志』のほか、『古今都細見之図』、『京都指掌図 文久改正』などの古地図で確認可能)、など、地域の山々の呼称は複雑である。将軍地蔵の移設がこの混乱の大きな原因といわれる。上記のほか『東山三十六峰を歩く』によれば、現地住民でさえも山名に対して混乱が見られ、また、各種文献に当たっても判然としない場合がある。
  4. ^ 『新撰京都名所圖會』によれば、茶山の由来は「茶屋四郎次郎」という豪商の別荘が有ったことから。彼の本名が「中村情延」であることから、情延山とも呼ぶ。元々は織田信長とその家臣に受け継がれていた地域である。すでにこの一体が茶山と呼ばれていたことは現地住民の間でも忘れ去られつつあり、茶山といえば(かなり距離のある)叡山電鉄茶山駅の辺りを指すとの意識が強いという。また近辺には「滅苦寺跡」の石碑が、麓にある禅法寺の境内には「茶山」の文字の確認できる石碑がある(『東山三十六峰を歩く』 p.63 -)。
  5. ^ ただし、五山送り火の運営・作業は北白川(かつての白川村)ではなく、浄土寺(かつての浄土寺村)が受け持っている。また、如意ヶ嶽と大文字山は明治以降、正式には別の山であるが、『こども風土記』によれば、現地住民は同一視する場合がある。古くは正式には如意ヶ嶽(もしくは如意嶽、如意ヶ岳、如意山)であり、大文字山は通称であった。また、古くはこの近辺の山々を総じて如意ヶ嶽と呼んだ(『雍州府志』によれば、東山の頂を如意ヶ嶽と呼んだとある)。かつては如意寺と呼ばれる寺も存在したと伝えられる。なお、如意ヶ嶽の山頂はかなり滋賀県寄りであり、京都市内から視認することはできない(『東山三十六峰を歩く』 p.86)。また、東山三十六峰では如意ヶ嶽と大文字山は区別されていないが、そもそも東山三十六峰の定義自体が不確かなものである点に注意を要す(『東山三十六峰を歩く』 p.20)。
  6. ^ ちなみに『こども風土記』によれば、1955年(昭和30年)の国勢調査では、3426世帯、12962人。『北白川百年の変遷』によれば、1970年(昭和45年)で6224世帯、14452人。
  7. ^ 345戸中、専業農家はわずか15戸と、農業の比率は高くない。また、1888年(明治21年)の愛宕郡白川村役場調べでは、305戸1488人中、農業70戸、工業74戸(内、石工66戸)、商業40戸、雑業108戸(主に労働者)、その他5戸、不就業8戸となっている。この資料では専業・兼業の扱いは不明である。
  8. ^ 1907年に鐘紡の子会社が白川村小倉地区の土地を取得したが不況により施設の建設は行われず、1925年に日本土地商事株式会社により開発・分譲が開始されたのが、北白川の住宅地開発の嚆矢となった。その後暫時開発は進み、1940年には京都市による区画整理がなされる(『京・まちづくり史』 pp.191-195)。
  9. ^ 『北白川と嵯峨野』では、あるアパートでは戦前までは学生が入居者の大部分を占めていたが、戦後は大部分がサラリーマンになったとの証言が紹介されている。
  10. ^ 『京都盆地の災害地名』によれば、近年では1941年6月に氾濫し下流に隣接する浄土寺町石橋町で決壊、1959年8月水害では東西は白川通以西から叡電沿線、南北は北大路通から御影通までが浸水。1967年7月には台風7号と梅雨前線の影響で丸山町で山崩れ。
  11. ^ 流れ橋の橋脚のように、堰堤の基本構造自体に致命的な損傷を被らないための策。
  12. ^ ちなみに、水車による伸銅産業の排水による公害で、白川に棲む生物が激減したとの説が、『こども風土記』 p.219で述べられているが、『120周年記念誌』 p.15によれば、最後の水車が廃止されてから30年近く経った1994年(平成6年)に至っても、やはり魚などはほとんど見られないようである。この部分を執筆した氏子会会長は、後述するラジウムが影響している可能性を示している。
  13. ^ 『東北歴覧之記』では1681年延宝9年/天和元年)の時点で「何れを白河の瀑と云えることを知れず」と、場所が分からなくなっている(1686年貞享3年)の『雍州府志』も同様である。なお、現代文訳はウィキペディア編集者による)。
  14. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、寛政年間の作であり、高さ1.8メートル程度、かたわらには大日如来を従えている。
  15. ^ 泉質としては20度の放射能泉で、無味、無臭、無色。神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、腰痛、貧血などに効果があるとされている。
  16. ^ ただし、路線は今出川通以南までであり、駅は地域の南端のみである。詳しくは京都市電#路線データの図を参照。
  17. ^ 『東北歴覧之記』(1681年(延宝9年/天和元年))では、古くは志賀の山越、現在は山中越という、とされている。『中古京師内外地図』[1]でその記述を確認できる。
  18. ^ 1575年天正3年)『史料京都の歴史 8』 p.310より
  19. ^ 3系統は御蔭通を通る便と、一つ北の東鞍馬口通を大回りし、京都造形芸術大学にアクセスできる便が存在する。また、仕伏町の志賀越道と御蔭通の交差点で終点、Uターンして折り返し運転となっている。
  20. ^ 京都駅前 - 出町柳 - 銀閣寺道 - 比叡山頂
  21. ^ 三条京阪 - 百万遍 - 銀閣寺道 - 北白川仕伏町 - 比叡平
  22. ^ 血痕を模した意匠とされる。すでに怪我をしているので、これ以上の危険はご容赦ください、の意。
  23. ^ 『京都民俗誌』によれば、頭より高く掲げることで、お上に渡す花に自らの息をかけない、表敬の意も有った。
  24. ^ 『京都故事物語』によれば、白川女の装束もこの当時のものを受け継いでいるかたちであるという。
  25. ^ 『北白川と嵯峨野』によれば、山向こうに当たる滋賀県でも、白川女に卸すために菊などの栽培がなされていた。ちなみに、p.61には、菊と小菊が合計5万本で、全出荷量の7割とされている。このことから、全出荷量は7万本程度と推察されるが、いずれにしても1965年(昭和40年)の資料である。他には菜種クラジオラスナデシコなど、様々な花を取り扱っていた(pp.61-64)
  26. ^ ただし花畑ばかりというわけではなく、北白川には水田も多数存在していたほか、牧場なども見られている。
  27. ^ 原文からの現代文訳はウィキペディア編集者による。
  28. ^ 「共和組」という組合があった。『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、将軍地蔵(この当時は丸山または北白川山あるいは将軍山)の近くに祈念碑が建っている。
  29. ^ 1974年(昭和49年)頃の時点で80数店あるとされる。
  30. ^ ちなみに、現在地に移転するまでの2つの跡地は、いずれも白川の河畔という立地である。
  31. ^ ピークは1958年(昭和33年)前後と思われ、1650人の在校生がいたが、1974年(昭和49年)時点で900人、1993年(平成5年)時点で454人、と、減少の一途を辿っている。かつて日本バプテスト病院内に設けられていた養育学級も既に廃止された(『北白川百年の変遷』、『120周年記念誌』 p.4、p.44、『こども風土記』 p.313)。
  32. ^ 宮号が旧門跡と区別しがたいとの理由により、照高院の所在する北白川を新たな宮号とした。
  33. ^ 『史料京都の歴史 8』では、「岩倉幡枝窯跡群」もしくは「ケシ山窯跡群」からも同様の瓦が発掘され、北白川廃寺に用いられたことが確実視されている (p.24)。
  34. ^ 地元住民の間では、以前に存在したといわれる「めっく寺」の跡ではないかという説もある。なお、本来は「滅苦寺」といい、将軍山城の北西に存在していたとされるが、地元民は「目抉寺」と勘違いしており、その勘違いを真に受けた人物が、六波羅密のために自らの目を抉ったという逸話が「雍州府志」で紹介されている(『史料京都の歴史 8』 p.323)。ただし『東山三十六峰を歩く』で紹介されている『京都府愛宕郡村誌』内「白川村名所旧跡」によると、本来は「滅苦寺」でさえなく「苦滅寺」である。この資料によればこの寺は地域の菩提寺とされる。
  35. ^ 『こども風土記』 p.33、および『先史時代の北白川』 p.3によれば、10月17日、農学部北部構内を散歩していた濱田が、石斧の破片を偶然に拾ったのがきっかけとのことである。
  36. ^ この地域は堅果類(ドングリの類)が多く、居住に向いていたとされる。また、琵琶湖畔の遺跡との関連性も指摘されている。
  37. ^ 『先史時代の北白川』においては、遺跡の密集度、京都大学近辺という立地から研究者の興味を引きやすかったという要因も指摘されている。
  38. ^ 『史料京都の歴史 8』では、「白川扇状地上のほとんどに遺跡が存在する」とまでいわれている。
  39. ^ 享保9年4月8日(グレゴリオ暦1724年4月30日)に、焼失212件、焼け残ったのは52件に過ぎない大火が記録されているが、江戸時代末期ともいい切り兼ねる年代であり、時期を変えて複数の大火が有った可能性もあり、現在の所、どの時期の大火により首が落ちたのかを明確に示す史料は(ウィキペディア編集者には)見つかっていない。
  40. ^ そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。
  41. ^ 『京都大事典』によれば鎌倉中期。
  42. ^ この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。
  43. ^ 『愛郷』51号によれば、現在の狸谷不動尊の奥の院あたり。
  44. ^ 従前の場所については地図に掲載されている場合があり、参考文献に挙げた『街の達人 京都 大津 便利情報地図』(2011) などでも明記されている。北白川幼稚園の東隣辺りである。
  45. ^ 移設されたといっても数十メートル程度である。

出典[編集]

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  1. ^ 『史料京都の歴史 8』 p.16
  2. ^ a b c 社団法人京都市埋蔵文化財研究所のホームページ 「小倉町別当町遺跡発掘調査報告書(第6次調査)」[2](pdfファイル)、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、『先史時代の北白川』 p.14
  3. ^ 参考文献の各所において、水はけの良い、居住にも農業にも適した地質であるとの記述が見られる。なお、北白川の北方の修学院地域には音羽川、一乗寺川によって形成された扇状地と、やはり遺跡が存在している。
  4. ^ 『新撰京都名所図会 巻の1 東山の部』、『東山三十六峰記』、『雍州府志』山川門 愛宕の郡(白川山、白川、瓜生山)、『東山三十六峰を歩く』、『こども風土記』 p.15、p.293
  5. ^ 『こども風土記』 p.304
  6. ^ 京都市情報館 「京都市の統計情報」 [3]推計人口・人口動態/直近の国勢調査以降の推計結果 平成22年4月のxlsファイル
  7. ^ a b c d e f 『京都盆地の災害地名』 pp.40-42 「北白川」
  8. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1』 p.138
  9. ^ 『こども風土記』 p.213、『北白川百年の変遷』 p.55
  10. ^ a b c 『京・まちづくり史』「6.郊外の発見」 pp.191-195
  11. ^ 『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.7
  12. ^ 『北白川百年の変遷』 pp.54-56、『続・京都大路小路』 p.90
  13. ^ 『120周年記念誌』 p.28
  14. ^ 『京都の地学図鑑』 p.178、『史料 京都の歴史 8』 p.14、『先史時代の北白川』 p.73。ただし、浸食だけではなく、風化も強く作用している。いずれにしても、現在、東山のこの地域で、比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の山容が目立っているのは、その間の部分が削れてしまった結果である。両山頂はホルンフェルスでよく浸食に耐えるのと比較して、その間の地帯は比較的風化、浸食に脆弱な花崗岩であったためである。また、大文字山登山道にて容易にボロボロに風化した花崗岩を手に取ってみることが可能である。ちなみに山頂までの所要時間は一時間半程度とのことである(『フィールドガイド大文字山』 p.137)。
  15. ^ 『北白川百年の変遷』口絵などではカラー写真と共に確認ができる。
  16. ^ 『こども風土記』 p.210。ちなみに北白川天神宮を天王と呼ぶ場合もある。
  17. ^ a b c 『京都故事物語』 p.328「白河の花」
  18. ^ 『北白川百年の変遷』 p.88、『こども風土記』 p.209、『雍州府誌』神社門 愛宕郡
  19. ^ 京都市情報館[4](2010年6月閲覧)、『120周年記念誌』 p.16、日経タイムス「京都市、白川放水路完成」2008年05月14日 [5](2010年6月閲覧)
  20. ^ 『東山三十六峰を歩く』 p.75、『こども風土記』 p.102、『白川地誌』(『こども風土記』 p.339)
  21. ^ 『こども風土記』 p.107
  22. ^ 『とっておきの日帰り温泉 関西・中国・四国編』 pp.79-80、京都観光Navi 北白川天然ラジウム温泉[6]、ぐるなび 京都北白川不動温泉[7] 京都府薬務課 府内温泉一覧[8] 、『日本百名湯一軒宿の湯 西日本編』 p.97、『温泉・宿ガイド 関西』 p.102
  23. ^ 『続・京都大路小路』 p.90。ちなみに『120周年記念誌』 p.18に1957年(昭和32年)頃の写真が掲載されているが、並木は確認できない。写真が白川通のどの辺りなのかは記述無し。
  24. ^ 『北白川百年の変遷』 p.28、p.64『こども風土記』 p.323 『北白川と嵯峨野』 p.49 ただし、北白川地域住民以外も12間道路と呼称していたかどうかは不明であり、北白川地域に限定された通称である可能性もある。なお、整備は南から北へ向けて行われ、1951年(昭和26年)の地図では上終町が北端となっている。区画整理は「都市計画法」(1919年(大正8年))に基づき、「北白川土地区画整理組合」によって実行された。
  25. ^ 『北白川百年の変遷』 p.76
  26. ^ 『北白川百年の変遷』 p.23
  27. ^ 『こども風土記』 p.57、p.282。1959年(昭和34年)時点では旧道の跡も残っていたとされる。2010年(平成22年)現在は不明。
  28. ^ 『北白川百年の変遷』 p.64
  29. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.26
  30. ^ 京都大学百年史編集委員会『京大百年』京都大学、1997年、p.45
  31. ^ 『北白川百年の変遷』 p.75
  32. ^ 『北白川百年の変遷』 pp.95-101。この文献では多数の道標が写真付きで紹介されている。
  33. ^ 2010年(平成22年)現在。参考文献の各バス運行団体のwebサイトを参照
  34. ^ 『北白川百年の変遷』 p.84、同書によれば明治、大正年間で約290人、『こども風土記』によれば、1958年(昭和33年)頃は、300人程度の白川女が居たとされる。
  35. ^ 『北白川百年の変遷』 p.85
  36. ^ 京都市観光堂[9] 時代祭の白川女の写真(2010年5月閲覧)
  37. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.140
  38. ^ 『京都民俗誌』 p.15
  39. ^ 『京都故事物語』 p.107「白川女」
  40. ^ 『こども風土記』 p.248
  41. ^ 『北白川百年の変遷』 p.85
  42. ^ 『続・京都大路小路』 p.93。京都新聞 「ふるさと昔語り33 北白川の子安観世音」[10]によれば、2007年(平成19年)時点で10人程度。京都新聞 「大八車の白川女 引退京の風習半世紀支えた花売り」[11](2009年12月19日、2010年6月閲覧)によれば、2010年(平成22年)現在、荷車で昔ながらの行商を行っている白川女はすでに存在しないということとなる。
  43. ^ 宮内庁京都事務所の弁。『新 京の魁』(1989年)によれば、10年ほど前。
  44. ^ 具体的な資料としては具体的には1942年(昭和17年)と1963年(昭和38年)の白川女の名字の比率の変化が少ない点が『北白川と嵯峨野』 p.63で紹介されている。ただし、この間に集計対象の白川女の総数が250名から104人と激減しており、また、長期的に取られたデータは現在の所確認していない。
  45. ^ 『こども風土記』 p.196
  46. ^ 『北白川百年の変遷』 p.58
  47. ^ 『北白川百年の変遷』 p.86
  48. ^ 『こども風土記』 p.193
  49. ^ 『こども風土記』 p.275
  50. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.63
  51. ^ 『こども風土記』 p.250
  52. ^ 『雍州府志』、『京都の地学図鑑』 p.181
  53. ^ 『週刊京都を歩く 17』 p.24
  54. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.27
  55. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.60
  56. ^ 『雍州府志』白川山、『こども風土記』 p.220、p244、『北白川百年の変遷』 pp.90-91、『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.4、『120周年記念誌』 p.46、『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.139、『新 京の魁』
  57. ^ 『こども風土記』 p.255
  58. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.79
  59. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.28
  60. ^ 『北白川百年の変遷』 p.11、pp.87-89、『こども風土記』 p.228、『新 京の魁 』
  61. ^ 『こども風土記』 p.348
  62. ^ 『北白川百年の変遷』 p.94、メルシーマルギン[12]。北白川サービスセンター跡の大黒屋北白川店の資料は2010年(平成22年)現在確認できず。
  63. ^ 『こども風土記』 p.299
  64. ^ 『こども風土記』 p.305
  65. ^ とはいえ、移転の行われた時期にはまだ周囲に田畑が拡がっており、当時の村の中央というわけではない。
  66. ^ 『こども風土記』 p.312、または『120周年記念誌』 p.13
  67. ^ 『愛郷』 第44号 p.7
  68. ^ 京都市情報館 広報資料 「京都市北白川児童館の開館」[13]
  69. ^ 『こども風土記』 p.296-313、『北白川と嵯峨野』 p.85。近衛中学校は徒歩通学が原則であり、自転車通学は禁止であるが、山間部の生徒に限ってはバスによる通学が認められている。
  70. ^ 京都市情報局「教育委員会のご案内」[14]
  71. ^ 『120周年記念誌』 pp.8-9
  72. ^ 京都造形芸術大学 ピッコリー図書館[15]
  73. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141
  74. ^ 『こども風土記』 p.85
  75. ^ 『こども風土記』 p.91
  76. ^ 「北白川廃寺の問題」
  77. ^ 京都市情報館 「遷都以前の古代寺院」[16]、『北白川百年の変遷』 p.43、「平成18年左京ボイス7月15日号」[17]、「北白川廃寺の問題」、『史料 京都の歴史 8』 pp.21-24(並立説が紹介されている)、『京都日出新聞』1934年11月3日(『史料京都の歴史 8』 p.319)、『こども風土記』 p.45、p.285、京都市情報館掲載の地図[18]の397、社団法人京都埋蔵文化財研究所 現地説明会資料[19][20](pdf)、京都大学学術情報リポジトリ 「京都大学埋蔵文化財調査報告 第1冊 京大農学部遺跡BG36区」[21]
  78. ^ 『京都大事典』
  79. ^ 『探訪 縄文の遺跡』 p.113 - 、『考古学 その見方と解釈 上』 p.87 - 95、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、p.208、京都市情報館掲載の地図[22]の401および400-03、『京都ポイントレッスン』 p.11、京都大学学術情報リポジトリ 「京都大学構内遺跡調査研究年報 昭和58年度」[23]
  80. ^ 『こども風土記』 p.29、p.43、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、p.208、『先史時代の北白川』 p.24、『探訪 縄文の遺跡』 p.113 - 、『京都ポイントレッスン』 p.11、「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第16」(『史料京都の歴史 8』 p.318より)、京都市情報館掲載の地図[24]の400-2、社団法人京都埋蔵文化財研究所 発掘調査報告書[25][26](pdf)、現地説明会資料[27](pdf)
  81. ^ 『先史時代の北白川』 p.22、京都市情報館掲載の地図[28]の400-1
  82. ^ 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳、『考古学 その見方と解釈 上』 p.97-p.102、『先史時代の北白川』 p.34、p.35、p.68、p.69、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府埋蔵文化財情報 104号』[29](2007年)
  83. ^ 「月堂見聞集」、『史料京都の歴史 8』 p.312より。
  84. ^ 京都新聞 「ふるさと昔語り33 北白川の子安観世音」[30] 子安観音の写真も確認できる。
  85. ^ 『こども風土記』 pp.69-73、『京都ポイントレッスン』 p.205、『京都の伝説』 p.15、『京都の大路小路』 p.125
  86. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141
  87. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141
  88. ^ a b c d 『愛郷』51号 p.20
  89. ^ 『こども風土記』 pp.69-73
  90. ^ a b “京のこばなし 55 太閤の石仏”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.20. (1980年2月22日) 
  91. ^ 『京都の伝説』 p.15
  92. ^ 北白川天神宮のホームページ[31]
  93. ^ 『区民の誇りの木 左京区』
  94. ^ 北白川天神宮のホームページ、『北白川天神宮御造営記念誌』、『こども風土記』 p.121、p.361
  95. ^ 『北白川百年の変遷』 p.79、『北白川と嵯峨野』 p.29、p.78、北白川天神宮のホームページ、国際日本文化研究センター 『都年中行事画帖』北白川天神祭[32]、出典元不明[33]
  96. ^ 『こども風土記』 p.93
  97. ^ 『北白川百年の変遷』 p.70
  98. ^ 『こども風土記』 p.77、p.364、『東山三十六峰を歩く』 p.66
  99. ^ 日本郵便 [34]内、京都府京都市左京区北白川の郵便番号案内。正確な読み方などを参照。「町」は特記の無い場合は「ちょう」。なお、『120周年記念誌』の世帯数と人口の表では、粟田口如意ヶ嶽町の世帯数・人口数も北白川の他の町と同時に掲載されている。

出典の詳細[編集]

  • 2002-8、『温泉・宿ガイド 関西』、山と溪谷社〈Jguide 日本の温泉シリーズ、増補改訂版〉 ISBN 4-635-01178-X
  • 2007年10月、『とっておきの日帰り温泉 関西・中国・四国編』、ジエエーエフ出版社 ISBN 978-4788623590
  • 2011、『街の達人 京都 大津 便利情報地図』、昭文社 ISBN 978-4-598-60156-8 - 地図帳。詳細な地図上で従来将軍地蔵が安置されていた位置が確認できる。ただし前述の通り、2013年現在は禅法寺境内に場所を移している。
  • 井上頼寿、1968、『改訂 京都民俗誌』、平凡社
  • 角田文衞、1970 / 1985、「北白川廃寺の問題」、『国分寺と古代寺院』、法蔵館〈角田文衛著作集 第2巻〉 - 初出は『日本古文化論攷』(1970年、吉川弘文館)とされるが、本稿で参照したのはこの文献に収録されたもの。
  • 加藤哲弘、中川理、並木誠士、2005-11-5、『京都ポイントレッスン』、新星出版社 ISBN 4-405-03631-4
  • 篠藤清定、北白川愛郷会、山崎和夫(編)、2004、「北白川小学校一三〇年」、『愛郷』44、 北白川愛郷会、山崎和夫 - 京都府立図書館蔵 同総合資料館にも蔵書の可能性あり。
  • 澤田保男、北白川愛郷会、吉村元男(編)、2011、「将軍地蔵善法寺庭内に安置」、『愛郷』51、 北白川愛郷会、吉村元男 - 京都府立図書館蔵 同総合資料館にも蔵書の可能性あり。
  • 北白川小学校(編)、1959年、『北白川こども風土記』、山口書店 - 巻末資料として、北白川に因んだ和歌も20数歌紹介されており、ドキュメンタリー映画も存在している。
  • 北白川小学校創立百周年記念委員会(編)、1974-12-1、『北白川百年の変遷』、地人書房 - 京都府立図書館蔵
  • 北白川小学校120周年記念委員会(編)、1994-2、『北白川小学校創立120周年記念誌』、北白川小学校120周年記念委員会 - 京都府立図書館蔵
  • 京都市、2001、『区民の誇りの木 左京区』、京都市
  • 市バス路線図”. 京都市交通局. 2010年9月17日閲覧。 - 北白川地域内の路線図等を参考とした。
  • 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳”. 京都市文化財保護課. 2011年9月17日閲覧。
  • 京都市HOPE計画、1991-3、『北白川の暮らし・すまい・まち』、地域すまいづくり研究会 - 京都府立図書館蔵
  • 京都大学文学部考古学研究室、京都大学埋蔵文化財研究センター(編)、1991、『先史時代の北白川』、京都大学文学部博物館 - 京都府立図書館蔵
  • 京都地学会、和田寛治、1993-6-26、『京都の地学図鑑』、京都新聞社 ISBN 4-7638-0320-4
  • 京都バス株式会社”. 京都バス. 2011年9月17日閲覧。 - 北白川地域内の路線等を参考とした。
  • 京阪バス株式会社”. 京阪バス. 2011年9月17日閲覧。 - 北白川地域内の路線等を参考とした。
  • 黒川道祐、宗政五十緒(校訂)、1686年 (原著) / 2002年3月、『雍州府志 上』、岩波書店 ISBN 4-00-334841-9 - 『史料京都の歴史 8』 p.321などにも一部掲載。
  • 黒川道祐、1681、『東北歴覧之記』 - 『史料京都の歴史 8』 p.320。
  • 講談社総合編集局、株式会社エイジャ(編)、2003-11-4、『修学院・北白川』、講談社〈ヴィジュアル百科 週刊 京都を歩く 第17号〉 - (雑誌 25881-11/4)
  • 明治京都”. 国際日本文化研究センター (1897年頃). 2011年9月17日閲覧。
  • 京大絵図”. 国際日本文化研究センター (1686年). 2011年9月17日閲覧。 - 貞享3年の地図。
  • 古今都細見之図”. 国際日本文化研究センター. 2011年9月17日閲覧。 - 平安時代 - 鎌倉時代の地図。
  • 都名所図解”. 北白川. 国際日本文化研究センター. 2010年6月23日閲覧。
  • 都名所図解”. 白川. 国際日本文化研究センター. 2010年6月23日閲覧。
  • 都名所図解”. 白川. 国際日本文化研究センター. 2010年6月23日閲覧。 - 以上の図絵では石工、牛を牽く白川女、牛石、白川の滝が確認できる。
  • 都名所図解”. 北白川の石仏. 国際日本文化研究センター. 2010年6月23日閲覧。
  • 駒敏郎、中川正文、1976、『京都の伝説』、角川書店〈日本の伝説 1〉
  • 佐和隆研 他、1984、『京都大事典』、淡交社 ISBN 978-4473008855 - pp.242-243「北白川小学校」、「北白川石仏」、「北白川天神宮」
  • 潮見浩編、1985、『探訪 縄文の遺跡(西日本編)』、有斐社
  • 杉田博明 三浦隆夫 著 京都新聞社 編、1989-12、『新 京の魁』、京都新聞社 ISBN 4-7638-0253-4
  • 千宗室、森谷尅久監修、1994年4月、『京都の大路小路』、小学館 ISBN 978-4093871051 - 今出川通の情報のほか、p.252に白川女についての記述がある。
  • 千宗室、森谷尅久監修、1995-10、『続 京都の大路小路』、小学館 ISBN 978-4093871587
  • 平良泰久、奥村清一郎、久保哲正、1986-4-30、『日本の古代遺跡』27 京都 1、 保育社 ISBN 978-4586800278
  • 髙橋康夫、中川理(編)、2003、「6.郊外の発見 (石田潤一郎)」、『京・まちづくり史』、昭和堂 ISBN 4-8122-0314-7 pp. 186-197
  • 竹村俊則、1994、『京のお地蔵さん』、京都新聞社
  • 竹村俊則、1958-10-1、『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』、白川書院
  • 綱本逸男、2013、『京都盆地の災害地名』、勉誠出版
  • 奈良本辰也(編)、1967、『京都故事物語』、河出書房 - 「白川女」「白河の花」
  • 奈良本辰也(編)、1978、『史跡探訪 東山三十六峰』、京都新聞
  • 野口悦男、2000-8、『日本百名湯一軒宿の湯 西日本編』、山と溪谷社 ISBN 978-4635012065
  • 林屋辰三郎 他、1985-11-30、『史料京都の歴史 8 左京区 京都市編』、平凡社 - 『都名所図解』、『東北歴覧之記』、『雍州府志』など、著名なものからそうでないものまで、多くの史料が引用、紹介されている。
  • 久山喜久雄 他、1991-8、『フィールドガイド大文字山 法然院森の教室』、ナカニシヤ出版 ISBN 978-4888481502
  • 藤岡謙二郎西村睦男、1965-8-28、『北白川と嵯峨野』、他人書房 - 出版当時の北白川の生活(人口増加率、職業、土地活用など)について詳しい言及があるが、直接的な出典として用いた部分は少なく、参考文献としての意味合いが強い。
  • 本渡章、2008-4、『京都名所むかし案内 絵とき「都名所図会」』、創元社 ISBN 978-4422250526 - 「都名所図会」は2010年6月現在では、上記、国際日本文化研究センターのWebページで閲覧が可能であるが、本書でも参照が可能である。各項目ごとに、読み取り方の解説もなされている。
  • 三浦隆夫、1995-7、『東山三十六峰を歩く 面白の花の都や』、京都新聞出版センター ISBN 978-4763803795
  • 森浩一 編、1991年6月、『考古学 その見方と解釈 上』、筑摩書房 ISBN 978-4480855015

参考文献[編集]

  • 国際日本文化研究センター 地域別索引 京都[39] 明治時代の古地図などを参考にした。
  • 国際日本文化研究センター 『拾遺都名所図会』照高院、瓜生山[40] 2010年6月閲覧。
  • 国際日本文化研究センター 『花洛名勝図会』 白河、北白河殿[41] 2010年6月閲覧。
  • 国土地理院 地図閲覧サービス[42] 2万5千分1地形図。2010年6月閲覧。
  • 白慧(坂内直頼)『山州名跡志』1711年(正徳元年)。『史料京都の歴史 8』 p.321

関連文献[編集]

  • 北白川愛郷会 『愛郷』 各号(主に50周年特集号である46号) 北白川在住の有志の手による年刊の会報。京都府立図書館蔵。
  • 北白川天神宮社殿修復奉賛会編 『北白川天神宮御造営記念誌』 1988年、北白川天神宮社殿修復奉賛会 京都府立図書館、京都市立右京図書館蔵。
  • 南部調理會 『東山三十六峰記』1933年11月、南部調理会

関連項目[編集]

外部リンク[編集]