白川石

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白川石(しらかわいし)は、白川の上流域である京都府京都市左京区北白川付近に分布する黒雲母花崗岩。白色の中粒で緻密な石材で、比叡山などは白川石の岩山である。京都市付近の近世までの建造物のほとんどに使われ、灯籠手水鉢墓石などにも広く利用された。昭和初期に石切場が閉山され、現在は採石されていない。

北白川天神宮の白川石で出来た萬世橋。

白川石[編集]

白川周辺の石畳

花崗岩そのものである白川石は、白川の上流域である京都・北白川の特産品であり、その品質の評価も高かったとされ、京都の石といえば白川石ともいわれ、鎌倉時代には三大名石の一つにも数えられた[1]。『都名所図解』にも「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出し…」との記述が見られ、『東北歴覧之記』では「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」とされている[2]。白川灯籠手水鉢(ちょうずばち)などの加工品も名物であった。大正時代以降は、石造の衰退、採石容易な花崗岩の枯渇や京都市の条例による切り出しの禁止という要因により、北白川での石の切り出しは次第に行われなくなり、現在は主に瀬戸内産の花崗岩を使用している。しかし、最盛期には200人以上を数えた石工[3]はその後もその技術を生かし、京都府庁京都市役所の建築などにも携わったとされているほか、その末裔は京都市内で石材商を営んでおり、京都市内の石屋の7 - 8割は北白川出身であるともいわれ[4]、出身者は他府県にも移り住み、技を受け継いでいるという[5]。また、北白川愛郷会の策定した「北白川史跡と自然の道」の経路には石切場跡も組み込まれており、現在も見学が可能である。なお、石屋はその多くは旧街道(志賀越道)沿いに分布していた[6][7]

京都市祇園白川公衆便所

白川砂[編集]

白川の上流に多く見られる花崗岩の白川石が風化した白く美しい砂利で、白川の川砂はその白さの際だつ白川砂として京都・北白川の特産品となっており、各地の神社仏閣京都御所天皇陵などに古くから利用されてきた。ある時期より以降は、川砂を採取するのではなく、山を切り崩しての採取となっている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『週刊京都を歩く 17』 p.24
  2. ^ 原文からの現代文訳はウィキペディア編集者による。
  3. ^ 「共和組」という組合があった。『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、将軍地蔵(この当時は丸山または北白川山あるいは将軍山)の近くに祈念碑が建っている。
  4. ^ 1974年(昭和49年)頃の時点で80数店あるとされる。
  5. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.27
  6. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.60
  7. ^ 『雍州府志』白川山、『こども風土記』 p.220、p244、『北白川百年の変遷』 pp.90-91、『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.4、『120周年記念誌』 p.46、『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.139、『新 京の魁』
  8. ^ 『雍州府志』、『京都の地学図鑑』 p.181

参考文献[編集]

関連項目[編集]