結城宗広
| 時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
|---|---|
| 生誕 | 文永3年(1266年) |
| 死没 | 延元3年/暦応元年11月21日(1339年1月1日)[1] |
| 改名 | 宗広→道忠(法名) |
| 別名 | 孫七(通称)、上野入道[2] |
| 墓所 |
福島県白河市愛宕町の関川寺 三重県津市藤方の結城神社 三重県伊勢市岩渕の光明寺 |
| 官位 | 上野介、贈正四位[3] |
| 幕府 | 鎌倉幕府 |
| 主君 | 守邦親王→後醍醐天皇 |
| 氏族 | 白河結城氏 |
| 父母 | 父:結城祐広、母:熱田範広娘 |
| 兄弟 | 宗広、片見祐義、田島広堯、栃本広政 |
| 子 |
親朝、親光、桑山親治、 高明院(伊達宗遠正室) |
結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。
生涯[編集]
当初は鎌倉幕府の忠実な家臣として陸奥国南部方面の政務を任された。鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「結城上野入道」の名があるが[4]、諸根樟一や御橋悳言はこれを宗広に比定している[2][5]。
だが、元弘3年(正慶2年、1333年)に後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に 鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした[6][7]。その功績により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された[8]。建武3年(1336年)、足利尊氏が京都に攻め入り一時支配下に置くと、顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め、朝廷軍の京都奪還で大功を挙げた[9]。3月、後醍醐天皇に謁見し宝刀鬼丸を授けられる[10]。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共に足利軍と懸命に戦ったが、延元3年(暦応元年、1338年)に顕家が高師直と戦って敗死したために軍は壊滅し、宗広は命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れた。その後、宗広は南朝方再起のために、義良親王を奉じて伊勢より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難して伊勢国安濃津で立往生し、間もなく同地で発病して病死した[11]。
津市には遭難した海岸に結城神社が有り、梅祭りで有名である。『太平記』は宗広の死に関して、常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず毎日2,3人の首を切ってわざわざ目の前に縣けせるほど、生来暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい地獄に堕ちるという凄惨な描写をしている。宮城県多賀城市の多賀城神社に祀られている。
宗広は南朝に最後まで忠実な武将であったが、その息子・親朝が北朝に通じて親房を攻めるという皮肉な事態が発生する事になった。なお、家督は当初親朝が分家していたために親朝の子・顕朝を後継者としていたが、宗広の死後に顕朝が白河結城氏の家督と所領を父に献じたために親朝が継承している。
贈位[編集]
脚注[編集]
- ^ 『大日本史料』第6編之5 223頁
- ^ a b 結城宗広大勤王論(諸根樟一)
- ^ 国会図書館明治以降の贈位者
- ^ 『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」
- ^ 神皇正統記注解索引(御橋悳言)
- ^ 『史料綜覧』第5編之905 783頁
- ^ 『史料総覧』第5編之905 785頁
- ^ 『大日本史料』第6編之1 233頁
- ^ 『大日本史料』第6編之3 54頁
- ^ 『大日本史料』第6編之5 補遺1頁
- ^ 『大日本史料』第6編之5 223頁
- ^ 『官報』第32号「叙任」1883年8月7日。
出典[編集]
- 『伊勢光明寺結城道忠霊牌』
- 『光明寺墓碑銘』
- 『白河證古文書』
- 『楓軒文書纂』
- 『光明寺残篇』
- 『結城文書』(元弘3年10月5日条、延元1年3月20日条)
- 『白河結城文書』(延元1年2月2日条)
- 『太平記』
- 『光明寺文書并残篇』
- 『結城小峯文書』
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