関東申次

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関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・と幕府の間の連絡・意見調整を行った。

沿革[編集]

関東申次には、初めは幕府側の私的な指名を受けて特定の貴族が就任していた。寛元4年(1246年)に九条道家が失脚した以後は、幕府による指名によって任命される正式な役職となり、源頼朝と婚姻関係(姪の嫁ぎ先)があった西園寺家当主による事実上の世襲となる。

承久の乱以後、原則として朝廷の重要事項の決定には関東申次を経由して幕府の許可を得ることになった。大覚寺統持明院統による皇位継承争いの激化に伴って、皇位継承問題や宮中の人事の是非も関東申次の一存がその帰趨を握るようになり、その権威は大きくなっていった。なお、近年においては関東申次(西園寺家)の政治的影響力を過大視しているとする本郷和人の説も提示されているが、これに対して天皇家などの諸権門が関東申次を無視して使者を鎌倉に派遣することはあっても、鎌倉幕府から朝廷に対して派遣される使者(東使)は一貫して関東申次(西園寺家)に取次を依頼しているとする溝川晃司らによる反論も出されている。また、白根靖大は九条道家の前に近衛家実を関東申次として追加して承久の乱以後、寛元4年の西園寺家の世襲による常設化までは、鎌倉幕府の政治力の増大を背景として、関東申次を摂関が兼務する慣例が存在していたとする説を唱えている。

だが、西園寺家当主の個人的関係(大覚寺統側との不仲)から次第に持明院統よりの態度を取るようになると、大覚寺統は申次を無視して幕府との直接交渉を展開するようになり、14世紀に入ると急速に求心力を失っていく。やがて、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと西園寺家への風当たりが強くなり、最後の関東申次であった権大納言西園寺公宗は謀反の疑いで処刑されている。

歴代の関東申次[編集]

寛元4年(常設化)以前、複数人いた時期もある
寛元4年(常設化)以後、西園寺家当主による世襲
  1. 西園寺実氏(公経の子)
  2. 西園寺実兼(実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
  3. 西園寺公衡(実兼の子)
  4. 西園寺実兼(公衡病死に伴い、復職)
  5. 西園寺実衡(実兼の孫、公衡の子)
  6. 西園寺公宗(実衡の子、鎌倉幕府滅亡により廃止)

参考文献[編集]

  • 森茂暁「「東使」とその役割」:『鎌倉時代の朝幕関係』思文閣出版、1990年
  • 白根靖大「関東申次の成立と展開」:『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館、2000年
  • 溝川晃司「鎌倉幕府派遣の対朝廷使者と朝幕交渉」:中野英夫 編『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年

関連項目[編集]