藤原良房
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
生誕 | 延暦23年(804年) |
死没 | 貞観14年9月2日(872年10月7日) |
別名 | 染殿、白河殿 |
諡号 | 忠仁公(諡)、美濃公(国公) |
官位 | 従一位、摂政、太政大臣、贈正一位 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 |
父:藤原冬嗣 母:藤原美都子 |
兄弟 | 長良、良房、良方、良輔、順子、良相、良門、良仁、良世、古子 |
妻 | 源潔姫(嵯峨天皇の皇女) |
子 |
明子 養子:基経 |
特記 事項 | 人臣初の摂政 |
藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。
皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。
経歴[編集]
嵯峨天皇に深く信任された優秀な廷臣で、左大臣に昇った藤原冬嗣の次男として生まれる。弘仁14年(823年)選ばれて嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁される。当時、天皇の皇女が臣下に降嫁する事は禁じられていたが、潔姫は既に臣籍降下していたため規定の対象外であった。それでも、天皇の娘が臣下に嫁ぐという事は前代未聞であり、9世紀において他にこの待遇を受けたのは源順子(宇多天皇皇女。一説には実父は光孝天皇)を降嫁された藤原忠平のみである。
天長3年(826年)淳和天皇の蔵人に補せられ、天長5年(828年)従五位下に叙爵。妹・順子は皇太子・正良親王(後の仁明天皇)の妃として道康親王を生んでいた一方、良房自身も天長7年(830年)に正良親王の春宮亮に任ぜられており、正良親王に非常に親しい存在であった。また、父に引き続いて嵯峨上皇と皇太后・橘嘉智子にも深く信任されていた。
仁明朝に入ると、天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて急激に昇進する。天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴って従五位上・左近衛少将兼蔵人頭に叙任されると、同年末までに一挙に従四位下・左近衛権中将まで昇進し、翌承和元年(834年)に参議に任ぜられ公卿に列す。翌承和2年(835年)に上席参議7名を超えて従三位・権中納言に昇進すると、その直後から太政官政務を主催する機会が散見されるようになり、早くも他公卿が良房の権勢を憚っていた様子が窺われる[1]。
承和7年(840年)中納言、承和9年(842年)正月に正三位。同年7月に嵯峨上皇が重病に伏すと、淳和上皇の皇子・恒貞親王に仕える春宮坊の諸官人に動揺が走ったとみられるが、良房はこれを察知して橘氏公に代わって右近衛大将を兼任して武力を掌握する。嵯峨上皇が崩御するとまもなく、阿保親王から密告を受けて皇太后・橘嘉智子が春宮坊における恒貞親王を東国へ遷す計画を良房に報告する。橘嘉智子も国母として権力を有していたが、良房の権勢と職能を踏まえてこの密告を知らせたものと見られる。また、この際に恒貞親王の廃太子が合意され、仁明天皇に上奏された可能性もある[1]。結局、恒貞親王は皇太子を廃されて新たに道康親王が立太子された(承和の変)。これにより良房は皇太子の外伯父となると共に、大納言に昇進する。また、変により大納言・藤原愛発と中納言・藤原吉野が失脚して、太政官の上席は老齢の左大臣・藤原緒嗣と大納言・橘氏公、及び嵯峨天皇皇子の若い右大臣・源常のみになっており、良房はこの変を通じて朝廷での影響力を一挙に強めた。
変後しばらくは、源常と良房の二人が太政官政務を領導していたが、承和10年(843年)藤原緒嗣、承和14年(847年)橘氏公が没して、承和15年(848年)良房が右大臣に昇るとほぼ独裁体制を確立した[2]。またこの間、周忌斎会の日程[3]や嵯峨上皇の祟りの認否[4]に関連して嵯峨上皇の遺志を否定し、その影響力の排除に努めている[5]。
嘉祥3年(850年)に道康親王が即位すると(文徳天皇)、良房は潔姫が生んだ明子を女御として入内させる。同年、明子は第四皇子・惟仁親王を生み、良房は僅か生後8カ月で直ちに立太子させるが、これは先例のない事だった。嘉祥4年(851年)正二位に昇り、斉衡元年(854年)左大臣・源常が没したために良房は一上となる。さらに同年左近衛大将も兼ねる。斉衡4年(857年)にはついに従一位・太政大臣に叙任され、道鏡以来約90年ぶりの太政大臣として位人臣を極めた。良房は太政官政務を弟の右大臣・藤原良相に委ね、自らは後の摂政と同様に天皇大権を掌握し、事実上の詔勅の発出主体となったとみられる[2]。またこの頃、国史(『続日本後紀』)編纂の責任者も務めている。
文徳天皇は第一皇子・惟喬親王(母は紀名虎の娘)を愛し、惟仁親王が幼すぎる事を案じて、まず惟喬親王を立て、惟仁親王の成長の後に譲らせる事を考えた。しかし、良房を憚って決しない内に天安2年(858年)に崩御してしまい、良房は9歳の惟仁親王を即位させた(清和天皇)。『公卿補任』ではこの時に摂政に就任して貞観6年(864年)に清和天皇の元服と共に摂政を退いたとするが、正史である『日本三代実録』の清和天皇即位の記事には摂政に関する記述がないことから、良房は太政大臣として天皇を後見したと考えられている(当時、太政大臣の職掌には摂政と同様に天皇の後見する役目が含まれており、当時皇族しか就けなかった摂政の職務を太政大臣として行っていた可能性がある。両者の職掌が明確に分離されたのは基経の時代である[6])。清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を終始深く信任していた。
貞観6年(864年)冬に良房は大病を患って政務を退いたとみられ[7]、翌貞観7年(865年)秋までに回復したが、源信・源融・源勤らが謀叛を謀っているとの噂が広まり、信と対立していた大納言・伴善男はあからさまに讒言するなど、政情は不安定な状況にあった[8]。この状況の中で、貞観8年(866年)閏3月に応天門が焼失する。右大臣・藤原良相と大納言・伴善男が左大臣・源信に対して応天門放火の嫌疑で遣使を行いその邸宅を囲ませる。しかし、これを知った良房が清和天皇に奏聞した結果、勅によって慰諭の遣使が行われて源信の嫌疑は晴れた[9]。その後8月になって、大宅鷹取が応天門放火犯として伴善男を告発したため、伴善男に対する訊問が行われるが、この最中に清和天皇は良房に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とする摂政宣下の詔を与えた。これが人臣最初の摂政である。その後、事件の犯人として伴善男が失脚し、藤原良相は連座を逃れたものの政治的影響力を失った(応天門の変)。同年12月には数度に亘る致仕の上表を行った藤原良相を横目に[10]、養子・藤原基経の妹の高子を清和天皇の後宮に入内させている[11]。
法制の整備に力を入れて、『貞観格式』を完成させた(格は貞観11年(869年)、式は貞観13年(871年)に公布)。
貞観13年(871年)准三宮を宣下されるが、それから数ヵ月後の貞観14年(872年)9月2日薨去。享年69。没後正一位を追贈され、忠仁公と諡された。
官歴[編集]
注記のないものは『六国史』による。
- 弘仁14年(823年) 日付不詳:嵯峨天皇皇女の源潔姫が降嫁[12]
- 天長3年(826年) 1月:蔵人[13]。2月:中判事[13]
- 時期不詳:正六位上
- 天長5年(828年) 1月7日:従五位下。閏3月9日:大学頭[13]
- 天長7年(830年) 5月:春宮亮(春宮・正良親王)[13]。11月:兼越中権守[13]。閏12月:兼加賀守[13]
- 天長10年(833年)2月30日:左近衛権少将。2月:蔵人頭[13]。8月8日:正五位下。11月1日:左近衛権中将、加賀守如元。11月18日:従四位下
- 承和元年(834年) 7月9日:参議、左近衛権中将如元[13]
- 承和2年(835年) 1月7日:従四位上。4月7日:従三位、権中納言。4月16日:兼左兵衛督
- 承和6年(839年) 1月11日:兼陸奥出羽按察使、左兵衛督如元
- 承和7年(840年) 8月8日:中納言
- 承和9年(842年) 1月7日:正三位。7月11日:兼右近衛大将。7月25日:大納言。8月11日:兼民部卿、右近衛大将陸奥出羽按察使如元
- 承和15年(848年) 1月10日:右大臣、右近衛大将如元
- 嘉祥2年(849年) 1月7日:従二位
- 嘉祥4年(851年) 11月7日:正二位
- 仁寿4年(854年) 8月28日:兼左近衛大将
- 斉衡4年(857年) 2月19日:太政大臣。4月19日:従一位
- 貞観8年(866年) 8月19日:摂政
- 貞観13年(871年) 4月10日:准三宮
- 貞観14年(872年) 9月2日:薨去。9月4日:贈正一位
系譜[編集]
生母について[編集]
藤原良房の生母については通説では藤原美都子とされるが、請田正幸は以下の点から藤原良世の生母でもある大庭王の娘が正しいとする説を唱える。
- 『公卿補任』の天長11年条の良房の項目において良房の母は大庭王の娘と記され、異説として藤原美都子が追記されている。また、『尊卑分脈』においても、良房の欄では母は藤原美都子とされている一方で、良世の欄では大庭王の女、忠仁公(良房)同母、と矛盾した内容になっている。
- 良世が著した『興福寺縁起』の長講会の部分において良房が両親の為に長講会を始めたとある。この中で良世は自分が続けなければならないところ高齢で無理なため寺領を寄付した事、また順子が先考(亡父・冬嗣)の為に寄進したことが記されているが、これを良房の母親は良世とは同じであるが順子とは違う事を意味する(順子は父親のみを供養の対象としているため)。また、先妣(亡母)は尚侍正二位に叙せられたとあるが、美都子は没後の贈位で従三位から正一位になっているので二位に叙せられた事実はない。
- 良房・清和天皇共に舎人親王系王氏ゆかりの宗像神を特に信仰していたが、これは良房の母方が王氏であった事を示す傍証となる。
なお、請田は良房の母に関する系図の改竄は藤原摂関家がその始祖と言うべき良房と自分達の血縁上の祖である美都子所生の長良(基経の実父)が異母兄弟である事実を不都合と捉えた事によるものであり、『大鏡』が編纂された11世紀には行われていたとする。また、請田説を取ると、良房と良相及び文徳天皇(順子所生)との対立の背景の1つとして良房と彼らの血縁的結びつきの弱さがあり、それが良房をして外孫である清和天皇の即位を推し進める一因になったと解される[14]。
脚注[編集]
- ^ a b 吉川[2002: 57]
- ^ a b 吉川[2002: 58]
- ^ 『続日本後紀』承和10年7月14日条
- ^ 『続日本後紀』承和11年8月5日条
- ^ 遠藤慶太「『続日本後紀』と承和の変」『古代文化』52-4、古代学協会、2000年
- ^ 天皇が幼少時に摂政が任命されるという慣例は930年の藤原忠平(朱雀天皇摂政)の時に確立したと考えられているが、『公卿補任』はその原則が最初からのものと思い込んで後世に加筆されたとする和田英松の説が今日では通説とされている。
- ^ 『日本三代実録』貞観8年8月22日条
- ^ 吉川[2002: 59]
- ^ 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条、『大鏡裏書』文徳天皇
- ^ 『日本三代実録』貞観8年12月8日,11日,13日条
- ^ 『日本三代実録』貞観8年12月27日条
- ^ 栗原弘『藤原良房と源潔姫の結婚の意義』(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年(平成20年)) ISBN 978-4-7517-3940-2 第二部第三章)P203 - P204
- ^ a b c d e f g h 『公卿補任』
- ^ 請田正幸「良房の母」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3)
参考文献[編集]
- 吉川真司編『日本の時代史 5 平安京』吉川弘文館、2002年
- 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
- 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
- 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
関連項目[編集]
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