三条実美

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三条 実美
さんじょう さねとみ
Sanetomi Sanjo formal.jpg
三条実美(『近世名士写真 其1』より)
生年月日 1837年3月13日
天保8年2月7日
出生地 日本の旗 日本山城国京都
(現:京都府京都市
没年月日 (1891-02-18) 1891年2月18日(53歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市麻布区麻布市兵衛町
前職 公卿
所属政党 無所属
称号 正一位
大勲位菊花大綬章
公爵
配偶者 三条治子
子女
親族

内閣 三條暫定内閣
在任期間 1889年10月25日 - 1889年12月24日

日本の旗 初代 内大臣
内閣 第1次伊藤内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1891年2月18日

在任期間 1871年9月13日 - 1885年12月22日

在任期間 1869年8月15日 - 1871年9月13日

在任期間 1868年2月10日 - 1868年2月18日

その他の職歴
日本の旗 貴族院議員
1890年2月 - 1891年2月18日)
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若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より)

三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美天保8年2月7日1837年3月13日) - 明治24年(1891年2月18日)は、日本公卿政治家位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉

幕末には尊王攘夷討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣太政大臣内大臣貴族院議員などを歴任した。また内閣総理大臣を一時兼任している。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

天保8年(1837年)、公卿三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。正室の子であったが、三男であったため、三条家庶流である花園公総の養子となる予定であった[1]。幼い頃から聡明であると知られ、また福麿の教育係であった儒者富田織部の影響で、尊皇意識が高かった[2]

安政元年(1854年)2月、次兄で三条家の嗣子であった三条公睦が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、4月に嗣子となった[3]。8月には元服し、実美と名乗った[4]。「美」の字を使った名乗りは本来「よし」や「はる」と読むが、実万はこれを忌み、儒者池内大学の勧めにより「実美」は「さねとみ」と読むこととなった[5]。またこの際に公恭を養子として迎えている[5]

実万は攘夷達成のため、戊午の密勅発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなる。安政5年(1854年)10月23日、父・実万が隠居・蟄居し、富田織部など三条家の侍も多く逮捕された(安政の大獄[6]。このような状況下で実美は正式に三条家の家督を相続したが、翌安政6年(1855年)4月には実万は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去した[7]

尊攘派公家の代表[編集]

文久2年(1862年)、島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始めることとなる。5月10日には久光の意見を入れるとともに、関白九条尚忠をすみやかに退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出している[8]。翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷の中枢に触れる事ができるようになった[9]。実美を引き立てたのは実万の教えを受けた中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった[9]。本来実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた[10]。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた[11]

7月から8月にかけては、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった[12]。さらに父実万の養女を妻としていた土佐藩山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた[13]。 この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった[14]

8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した[15]。6月には大原重徳が薩摩藩の運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動きは薩摩藩の影響力を削ぐねらいもあった[15]。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月には勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いている[16]。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった[17]。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった[18]

朝廷の掌握[編集]

この頃、実美は近衛忠房に対し、「(江戸のある武蔵国は)昔は野でしたから、また『武蔵野』となってもよいでしょう。」と放言し、近衛の怒りを買っている。また薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどし、両者の不信を買った[19]。実美は武市半平太土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた[20]。当時、大久保利通は「長士の暴説に酔った」と評している[20]

文久3年(1863年)正月23日、親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせていたため「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった[20]。2月20日には学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許されるようになり、公家たちが尊攘派の影響をさらに強く受けるようになった[21]。2月22日には尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなった。この交渉役に選ばれた実美は、慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった[22]

鷹司関白は高齢で自信に欠けるところもあったために、実美ら尊攘派公家に抵抗することができず、実美は「関白殿下ですら時に屈従する」といわれる程の権勢を誇った[23]。この状況を憂いた青蓮院宮は山内容堂に実美の説得を依頼したが、効果はなかった[24]。当時は尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている[24]。2月21日に実美は議奏に任ぜられ、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった[24]

3月4日には将軍家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。3月11日には上賀茂神社下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった[25]。石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという[26]。ついに5月10日を持っての攘夷決行を約束させ、その当日には孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された[27]。しかしこの状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった[26]

姉小路公知暗殺事件[編集]

幕府は攘夷派公家の筆頭である実美と姉小路公知の懐柔を図ったが、実美については効果がなかった。一方で姉小路は大坂で勝海舟と議論したこともあり、開国に傾いたという噂が立つようになった[28]。5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、実美は輿で青蓮院宮邸に向かうために別れた。その後まもなく、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺された。実美は青蓮院宮邸を目指して東に向かっていたが、家臣が不審な人物を目撃した。家士の戸田雅楽(後の尾崎三良)は実際の時間より遅い時間を告げて実美に訪問を諦めさせ、帰邸させた[28]。自宅で姉小路遭難の報を聞いた実美は、すぐに姉小路邸に見舞いに向かっている[28]

姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛であった。長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった[29]。しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは「偽勅」であり、早々に実美と徳大寺実則を「早々取除」くべきであると青蓮院宮に伝えている[30]。権勢の頂点にあった実美だったが、薩摩藩の調査によれば、実美は過激派の言動に引きずられて今更意見を変えることもできないと嘆き、脚気がひどくなったこともあって邸に引きこもりがちとなり、「出家遁世したい」とこぼしていたという[31]

失脚[編集]

6月、久留米藩より尊攘派のイデオローグである真木保臣(和泉)が上洛して学習院御用掛となり、実美らに直接影響を与えるようになった[32]。真木は「百敗一成」を唱え、攘夷のための準備が整わない状態であっても、天皇が先頭に立って攘夷親征を行うことによって、世の中の動きが変わると主張していた[32]。真木を謀臣とした実美は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて、朝廷の方針となった[33]

しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮[注釈 1]と薩摩藩に対して救いを求めた[34]。青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のためのクーデター計画を進めた[31]

8月13日、攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出された。ところが8月18日朝、薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。実美の邸には久坂玄瑞宮部鼎蔵土方久元と御親兵[注釈 2]が駆けつけた[35]。実美は状況を把握するため関白鷹司邸に向かい、三条西季知四条隆謌東久世通禧壬生基修錦小路頼徳澤宣嘉と出会ったが、肝心の鷹司関白は参内したまま戻っていなかった[35]。やがて彼らは参内を停止されたことを知り、長州藩も御所の警備から排除されたことが伝わった[35]。真木や長州藩士と協議したのち、一旦妙法院に移り、ここで七卿は長州藩に向かうこととなった[35]

8月19日未明、七卿は京都を出発し、長州藩に向かった。慣れない徒歩のために三条は足から出血し、戸田雅楽らは住民を脅しつけて駕籠を用意させた[36]。一方で徳島藩広島藩津和野藩に対し、義兵を挙げるため長州に有志を募る檄文を送っている[36]。8月21日には湊川楠木正成の墓に参拝した後、兵庫湊から船で長州を目指した[36]。8月24日、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った[37]。長州藩の上層部は当初七卿を迎え入れることは望んでおらず、藩境で抑留して帰京を勧告するつもりであったが、8月26日と8月27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港した[38]。このため長州藩は七卿を賓客として迎え入れることとなり、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を彼らの居館とした[39]。この頃土佐藩士の中岡慎太郎は、土佐藩で土佐勤王党が排斥されたこともあり、七卿の傘下として動くこととなる[37]

長州藩の賓客[編集]

三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。9月28日には平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。協議がまとまらないうちに、澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗することとなる[40]

元治元年(1864年)正月、長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田にうつった[注釈 3][41]。ここで当初は草刈藤太の邸に滞在し、間もなく井上聞多(後の井上馨)の実家[注釈 4]に移った。ここでは実美のために離れが建設され、「何遠亭」と名付けられた[42]

正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。これは実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を行おうとしたとし、長州藩の尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されていた[43]。長州藩は藩主父子と五卿[注釈 5]の赦免を求め、朝廷に働きかけていた。実美ら五卿もこの動きを支持し、7月の藩主父子の上京と時を同じくして、京を目指した。7月21日には讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するためにに向かったが出会えなかった[44]。長州藩士の野村靖は内訌必至の長州藩に戻るよりは勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は藩主世子定広とは進退をともにすると約したと言って謝絶し、上関を目指した[45]

第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられた。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めていたが、恭順派が台頭した藩内では五卿を引き渡すことも検討されていた[46]。高杉晋作らは一時五卿を外国に留学させようとし、実美も一時応諾したが翌日になって断りを入れている[47]。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。五卿は条件として藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉していたが、次第に藩内でも五卿の立場は悪化していった[48]。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった[49]。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた[50]

太宰府での幽居[編集]

慶応元年(1865年)正月15日、五卿は福岡藩に上陸し、宗像唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊をへて、2月13日に太宰府に到着した[51]。五卿の身柄は福岡藩が預かるが、薩摩藩・久留米藩熊本藩佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていた[51]。五卿の幽閉先は太宰府天満宮の別当延寿王院であり、ここで学問や身体の鍛錬をおこたらず日々を過ごすこととなる[52]。また福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えている[53]。桂は薩摩藩を信用するかを「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後も坂本龍馬伊藤俊輔・井上聞多らと面会して薩長同盟成立の立役者の一人となった[54]

慶応2年(1866年)には幕府から使者が訪れ、五卿を大坂に移すよう求めてきた。しかし実美らは死を賭してもでも動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対したため幕府は手が出せなかった[55]。この頃になると幕府の失墜は明らかであり、延寿王院は多くの訪問者で賑わいを見せるようになった[56]。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索していたが、その候補となったのがかつての政敵である岩倉具視であった。実美は岩倉がかつての「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れることとなった[57]

明治維新[編集]

慶応3年10月27日、大政奉還が成立し、12月8日には五卿の赦免と復位が達成された[58]。12月14日にこの知らせを受けた五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられた[59]。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった[60]。翌慶応4年(1868年)には岩倉とともに新政府の事実上のトップである副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねた[61]。この時期堺事件の対応にあたることとなり、「開国和親の布告」の作成にも携わるなど、かつての攘夷方針を完全に捨てることとなった[61]戊辰戦争においては、関東観察使として閏4月10日に江戸へ赴き、彰義隊の討伐を目指す大村益次郎を支持した[62]。明治2年(1869年)5月24日右大臣・関八州鎮将となり[62]、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となった[63]。7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ねた[64]。実美は岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し、これを実現させた[65]。実美は東国と奥州を重視しており、「たとえ京摂を失(うしなう)とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べている[65]

徳川宗家(静岡藩)や奥羽越列藩同盟参加藩への処罰では厳罰を主張し、戦後の石高を低いものに抑えた[66]。また箱館に籠もる榎本武揚を討伐する総督として前将軍徳川慶喜を起用する策が検討された際には、奇策を用いるべきではないと反対している[67]

太政大臣[編集]

明治4年(1871年)には制度改革により、太政大臣となった。この太政大臣は律令下のものと異なり天皇の代行者としての役職であり、「万機条公に決」される体制を目指したものであった[68]。ただし実美の役割は自ら政策を主導していくと言うよりも、調整役やバランサーとしての面が大きくなる[69]伊藤博文は実美が百官に尊重され、一度も悪評が起こったのを聞いたことがないと回想している[70]。この年の11月21日には岩倉使節団の派遣が行われ、実美は留守政府のトップとして島津久光からの圧力、太政官制の改革、台湾出兵問題、朝鮮との国交問題などの様々な問題に取り組むこととなった[71]

明治六年政変[編集]

明治6年(1873年)6月、参議板垣退助が朝鮮への出兵を求め、西郷隆盛は大使を派遣することを主張した。西郷は7月頃から自らを使節として派遣するよう要求を始めたが、実美は必ず殺されると反対した[72]。しかし西郷は自ら実美を訪問するなど圧力をかけ、8月17日には閣議で西郷の派遣が決定された[72]。しかしこれは実美が後に「初発僕等の軽率」と認めるように、征韓反対の立場に立つ実美としては失策であった[73]。実美は明治天皇の元を訪れ、「岩倉帰朝の後に熟議」して決定するという「聖断」を受けた[74]内藤一成はこれは実美の主張をなぞっただけではないかとみている[74]

岩倉の帰朝後には征韓反対派と西郷らの争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた実美は、10月15日の閣議で西郷の案を決定し、派遣時期については軍備が整うまで決定しないという形で引き伸ばしを図った[75]。しかし征韓反対派の岩倉・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった[76]。心身共に疲弊した実美は10月18日朝に倒れた。実美は胸の痛みを訴えており、家近良樹狭心症か心筋梗塞、内藤一成は脚気からくる心臓病(脚気衝心)ではないかと見ている[76]

これをうけて大久保は、岩倉を太政大臣摂行(代理)とするよう働きかけた。岩倉は征韓論争を解決する方法として、明治天皇の「聖断」を仰いだ[77]。10月24日には宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷らは政府を去った[77]。実美も辞意を伝えたが許されず、12月23日に参内して辞表を提出した却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった[78]

島津久光との対立[編集]

明治7年(1874年)4月27日、西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた[79]。久光は幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、明治8年(1875年)には太政大臣の権限を左右大臣に譲らせるよう働きかけた[80]。この動きは失敗し、10月19日にはついに久光は実美を辞職させるよう上奏した[81]。久光は親しい有栖川宮熾仁親王に裁定させることで実美の辞職を勝ち取ろうとしたが、宮内卿徳大寺実則は右大臣岩倉に裁定させるべきであるとした[82]。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった[83]。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、10月25日の閣議で正式に免官となった[84]内田政風海江田信義奈良原繁も三条を弾劾したが、いずれも退けられた[84]

一方この頃三条家の家令達が事業に失敗し、実美は莫大な負債を抱えることとなった。毛利家の支援で破産は免れたものの、三条家が負債を完済するのは明治38年(1905年)のことであった[85]

久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。参議の間で意見がまとまらない時には大久保はほとんど黙っており、実美に議論の内容を伝えると、実美は大久保の意見はどうかと問うのが常であった。大久保の意見を実美がよしとすると、大久保は実美の意見であると言って参議をまとめていたという[86]。明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤と大隈重信が実力者となったが、明治十四年の政変で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。

明治15年(1882年)、大勲位菊花大綬章を受章する。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。この際実美の旧臣尾崎三良は太政大臣辞任の撤回を実美に訴えたが、国家将来のためであり、他に策はないと伝えて撤回しなかった[87]

内大臣[編集]

内大臣職はしばしば実美を処遇するための名誉職と取られるが正確ではない[88]。天皇親政の建前が取られた明治政府では、宮中において天皇を輔弼する重要な役割であった。薩長のバランサーとして自らを位置づけていた実美は、藩閥内部の混乱時に調整役としての力を発揮した[89]。また政変や重要人事に関する天皇の下問に応じたが、内大臣としての職責ではなく、実美個人の人格に基づくものであった[89]。また実美は伊藤らの動きを阻害しないためあえて主体的な動きは取らず、宮中の保守派が政治に介入しないための重しとなった[90]

内閣総理大臣を兼任[編集]

明治22年(1889年)、折からの条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、外務大臣の大隈重信が国家主義団体・玄洋社の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが、明治天皇は、黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させた[91][92]。実美は総理大臣の職権の強さが条約改正交渉問題の混乱を招いたとして、内閣職権内閣官制に改めて当面の課題を解決した。同年12月24日内務大臣山縣有朋が総理大臣に任命され、第1次山縣内閣が成立した。実美は「病痾」を理由とする辞表を提出し、兼任していた内閣総理大臣を免ぜられ、内大臣専任となった[93]

この期間、ひとつの内閣が存在したものとして、これを「三条暫定内閣」と呼ぶことがある。以降内閣総理大臣の「臨時兼任」や「臨時代理」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は、次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヵ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが研究の趨勢となっている。首相官邸等で歴代内閣を表す際、山縣は伊藤・黒田に次ぐ第三代総理大臣とされる[94]

死去[編集]

護国寺(東京都文京区)内 三条実美墓

明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布式典では明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を負っている[92]。以降も臣下では最高の席次を持ち、最高位の功臣として遇された[95]

明治24年(1891年)2月18日、インフルエンザ罹患により53歳で死去[96]。死の直前である2月17日には天皇が自ら見舞いに訪れ、正一位に叙せられた[注釈 6]。天皇は三日間の廃朝を宣言し、2月25日に国葬が行われることになった[97]。当日の天候は晴天で、気温も暖かった。明治天皇は以降このような日のことを『三条日和』と呼んでいたという[97]。また国葬以外に各地で自発的に追悼行事も行われた[97]

史跡[編集]

東京の旧居は目黒区目黒1丁目(現ホテルプリンセスガーデン)であるが、京都御所に隣接した三条邸跡にあり、父実万を祀っていた梨木神社に、大正時代になって合祀された。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。

七卿落ちの途中、長州藩に匿われていた折の歌碑が萩市の明神池にある。井上公園には実美が使用した「龍尾の手水鉢」などが残る。また、宗像市の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した記念に、赤間には「五卿西遷の碑」がある。太宰府天満宮の延寿王院前に「七卿落ち」碑、邸内に「五卿遺跡」碑があるが、太宰府市、筑紫野市周辺には実美に関係するものが残っている。

人物[編集]

  • 14、5歳の頃、公家の子弟の間では「軍さ事(いくさごと)」という遊びが流行っていた。他の子供が有名な武将の紋を旗印にしていたが、実美は日の丸の紋を用いた。「お日様が戦をするのはおかしい」と言われた実美は、「これは国の印である。国と国と軍さする時はこの印でなければならぬ」と返したという[2]
  • 内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の1つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって三条は初代内閣総理大臣になり損ねたのである。
  • 事典等では常用漢字体で「三条実美」と表記されることが多いが[98]内閣官房内閣広報室が運営する総理大臣官邸ウェブサイトでは「三條實美」[99]と表記している。
  • 養嗣子であった公恭には海外留学をさせるなど世話をしているが、公恭は遊興にふけり、度々金銭問題を起こした。明治19年(1886年)6月25日に廃嫡している[100]

評価[編集]

歴史家の評価[編集]

本多辰次郎は三千年に一人の大人物であるが、賢明であるかと思えば凡庸であるなどその輪郭は補足が難しく「最も論評の困難な標本である」としている。また出処進退が鮮やかであることや、西郷隆盛や大久保利通といった優れた英傑を操縦したことを評価している[101]

同時代人物の評価[編集]

  • 伊藤博文
    • 「公の資性は寛仁大度にして誠によく衆を容るるの量があった。しかして外は温厚の君子であったが、内はまた自ら大義を守って、いやしくも屈すべからざるの節を持って居られた御方である。その平素の行状は方正にして謹直、少しも人と争議するようのことはなかった。蓋し完璧無瑾の人であった。長州琉寓の当時、毛利家は非常に公の一行を優遇したので、幕府から嘩ましく云われたことがある。七卿の中でも公は第一位の席を占めて居られた御方である」[102]
    • 「その徳望はもとより世人の知る所であって、公が在世中は朝野共に重望を寄せ、公に向っては一回も悪しき批評をするものはなかった。ソコが條公の條公たる所以である」[103]
    • 「三条公は立派な玉を見るような人物で、是は勿論別格だ」[104]
  • 渋沢栄一
    • 「三条公は智力に秀でて居られたけれども、略のなかった人」とし、性質は温厚で寛大であったが、後年には「聊か決断力に欠くる憾みがないでもなかった」と評している[105]
    • 「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条公はまったく無定見であらせられた。今日ある者から意見を申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見を申し上げると、やはりまたその気にならせられる。いつもご自分のご意見はフワフワして、どっちにでもなるという具合の方であったのである。とくに経済上の問題となると、この無定見が一層はなはだしかったように私には思われたのである。三条公はもともと位の高い公家のご出身であらせられたから、経済のことなどに精通していられるはずもなく、したがって財政上の知識も乏しく、このように無定見に陥られたものでもあろう。それにしても太政大臣をしていられた頃、太政官の参議から、『かくかくの事業のために経費を支出するように』との依頼をお受けになれば、それだけの支出をする財源が果たしてあるか否かをきちんと調査もせられずに、これに承諾を与えられてしまったものである。しかしそれが大蔵省の方に回ってきてから、私たちが、『とてもそんな事業のために支出するだけの財源がないから』といって跳ねつけてしまえば、『なるほどそれももっともだ』という気になり、少しも確固たる定見があって決済を与えられたのではなかったのである。したがって三条公は太政大臣の職に在らせられるあいだ、常に太政官の参議側と各省の当局者との間にはさまって、非常に困られていたものらしい」[106]

系譜[編集]

藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ・三条家の生まれ。

父 贈右大臣・実万

土佐藩主・山内豊策の女・紀子

関白鷹司輔煕の九女・治子(1848年 - 1924年

男子 三条公美三条公輝河鰭実英

女子 閑院宮載仁親王妃智恵子毛利元昭公爵夫人・美佐子、大谷光演伯爵夫人・章子[107]、平松時陽子爵夫人・高子[107]高倉篤麿子爵夫人・篤子[107]

養子 東三条公恭(兄・公睦の子)、明治19年(1886年)6月25日に廃嫡[108]

官歴[編集]

栄典[編集]

位階
爵位
授章

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 青蓮院宮は8月27日に還俗し、中川宮朝彦親王を称する
  2. ^ 実美の建議によって十万石以上の大名から差し出させた天皇護衛の兵。
  3. ^ 他の五卿は氷上山真光院にうつっている
  4. ^ 現在の井上公園
  5. ^ 元治元年4月25日に錦小路頼徳が病死している
  6. ^ 生前の正一位叙位は史上6人目で、源方子以来745年ぶりで、男性としては藤原永手以来1121年ぶり。また生前に正一位を叙位された最後の例である。(内藤一成 2019, p. 223)

出典[編集]

  1. ^ 笹部昌利 2001, p. 26.
  2. ^ a b 内藤一成 2019, p. 11-12.
  3. ^ 笹部昌利 2001, p. 26-27.
  4. ^ 内藤一成 2019, p. 13.
  5. ^ a b 内藤一成 2019, p. 13-14.
  6. ^ 内藤一成 2019, p. 28-29.
  7. ^ 内藤一成 2019, p. 30-32.
  8. ^ 内藤一成 2019, p. 36-37.
  9. ^ a b 内藤一成 2019, p. 38.
  10. ^ 内藤一成 2019, p. 47.
  11. ^ 内藤一成 2019, p. 41-42.
  12. ^ 内藤一成 2019, p. 42-43.
  13. ^ 内藤一成 2019, p. 45-46.
  14. ^ 内藤一成 2019, p. 43-44.
  15. ^ a b 内藤一成 2019, p. 51-52.
  16. ^ 笹部昌利 2001, p. 34-38.
  17. ^ 内藤一成 2019, p. 54.
  18. ^ 笹部昌利 2001, p. 60.
  19. ^ 内藤一成 2019, p. 62.
  20. ^ a b c 内藤一成 2019, p. 63.
  21. ^ 内藤一成 2019, p. 65-66.
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  25. ^ 内藤一成 2019, p. 68.
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  28. ^ a b c 内藤一成 2019, p. 72.
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  34. ^ 内藤一成 2019, p. 78.
  35. ^ a b c d 内藤一成 2019, p. 80.
  36. ^ a b c 内藤一成 2019, p. 82.
  37. ^ a b 内藤一成 2019, p. 84.
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  39. ^ 内藤一成 2019, p. 83-84.
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  94. ^ 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ
  95. ^ 内藤一成 2019, p. 219-222.
  96. ^ 内藤一成 2019, p. 222.
  97. ^ a b c 内藤一成 2019, p. 224.
  98. ^ 例:国会図書館サイト
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  100. ^ 刑部芳則 2016, p. 28-27.
  101. ^ 内藤一成 2019, p. ii.
  102. ^ 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』
  103. ^ 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』
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  108. ^ 刑部芳則 2016, p. 28.
  109. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  110. ^ 『官報』第1694号「彙報」1889年2月25日。
  111. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

演じた人物[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
(新設)
日本の旗 内大臣
初代:1885年12月22日 - 1891年2月18日
次代:
徳大寺実則
先代:
鷹司政通
日本の旗 太政大臣
1871年 - 1885年
次代:
(廃止)
先代:
大炊御門家信
日本の旗 右大臣
1869年 - 1871年
次代:
岩倉具視
先代:
中山忠能
日本の旗 神祇伯
1871年
次代:
(廃止)
日本の爵位
先代:
叙爵
公爵
三条家初代
1884年 - 1891年
次代:
三条公美