三条公忠

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本来の表記は「三條公忠」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
 
三条公忠
時代 南北朝時代
生誕 正中元年(1324年
死没 永徳3年/弘和3年(1383年)12月24日
別名 後押小路内大臣
官位 従一位内大臣
主君 後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家閑院流三条家
父母 父:三条実忠、母:左中将藤原公直の娘
兄弟 公忠公音、権大納言今出川実尹の室となった女子、関白九条経教の室となった女子
実冬藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅
特記
事項
後小松天皇の外祖父。
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三条 公忠(さんじょう きんただ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅がいる。


経歴[編集]

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

元亨4年(1324年)9月2日、従五位下に叙される。嘉暦元年(1326年)9月4日、従五位上に昇叙。嘉暦2年(1327年)9月21日、正五位下に昇叙。嘉暦3年(1328年)9月30日、従四位下に昇叙。嘉暦4年(1329年)1月13日、侍従に任ぜられる。元徳3年(1331年)1月5日、従四位上に昇叙。元弘2年(1332年)1月5日、正四位下に昇叙。元弘3年(1333年)6月、従四位上に戻されるが、同月12日には改めて正四位下に昇叙される[1]。同年8月23日、少将を経ず左中将に任ぜられる。建武元年(1334年)1月13日、播磨介を兼ねる。

建武4年/延元2年(1337年)12月4日、従三位に叙せられる。左中将は元の如し。暦応2年/延元4年(1339年)1月13日、甲斐権守を兼ねる。暦応3年/興国元年(1340年)12月27日、正三位に昇叙。康永2年/興国4年(1343年)3月19日、権中納言に任ぜられる。4月6日には母の喪に服す。7月20日、復任した。貞和2年/正平元年(1346年)2月21日、従二位に昇叙。貞和3年/正平2年(1347年)1月4日、前内大臣の父実忠が薨去したため喪に服す。6月28日、復任した。9月16日、権大納言に昇進。文和4年/正平10年(1355年)8月13日、正二位に昇叙。延文5年/正平15年(1360年)9月30日、内大臣に任ぜられる[2]康安2年/正平17年(1362年)12月、内大臣を辞退。同月27日、従一位に叙せられる[3]永徳3年/弘和3年(1383年)12月24日、薨去。享年59。

日記『後愚昧記』の記者[編集]

足利義満時代の状況を記した『後愚昧記』の記者として知られている。

後小松天皇の外祖父[編集]

娘の藤原(三条)厳子(通陽門院)は後円融天皇の後宮に入り後小松天皇の生母となったため、公忠は後小松天皇の外祖父である。しかし、厳子が薨去の折、足利義満が後小松天皇准父として上皇の礼遇を得るため諒闇を避けようとする計略を三条家は受けてしまうのである[4]

脚注[編集]

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  1. ^ 後醍醐天皇が隠岐から戻り、光厳天皇時代の任官を否定したため。
  2. ^ 仰せにより饗禄について沙汰に及ばなかった。また、客座を設えなかったなど。
  3. ^ 任大臣節会により、陣において従一位宣下があった。
  4. ^ 今谷 明、『室町の王権』。

参考文献[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 今谷 明、『室町の王権 ー 足利義満の王権簒奪計画』、中公新書