岩倉使節団

岩倉使節団(いわくらしせつだん、英語: Iwakura Mission)は、明治維新期の明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)から新暦1873年(明治6年)9月13日まで、アメリカ合衆国及びヨーロッパ諸国(計12か国)に派遣された、岩倉具視特命全権大使を代表とする使節団。
明治政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、欧米近代文明の実情を視察し、明治政府のその後の近代的国家建設に大きな影響を与えたことから[1]、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[2]。
概要
[編集]背景
[編集][3]幕末明治の開国により欧米各国が交際之礼をもって日本に公使を派遣してきていることから日本からも勅使を派遣して答礼とすべきである事は明治2年(1869年)の段階で岩倉具視から提案されており、オランダ系アメリカ人のフルベッキも大隈重信に対して西洋文明の理解のため調査委員会の派遣を提案していた。また、安政5年(1858年)の五カ国条約の改定時期が明治5年5月(1872年7月)であったため、伊藤博文は明治4年(1871年)に「外国交際・条約・貿易規則等を調査させ、翌年の改定交渉に備える」べく特命理事官の海外への派遣を建言した。
このように、外国交際、海外視察、条約改正など様々な観点から欧米への使節派遣が提議されており、廃藩置県により国内諸改革が一区切りを迎えた明治4年(1871年)秋には具体的な使節の派遣が検討されるようになった[4][5]。
人選
[編集]選定の過程が学術的に全て明らかになっているわけではないが、8月20日に木戸孝允と大久保利通の参加案が三条実美と板垣退助によって一旦反対されており、9月初旬から10日までの間に岩倉が大使に内定した点に異論はない。大隈重信自身の提案による「大隈使節団」の構想があったが条約改正外交権の奪取を狙う薩長派が策動して岩倉に代えたものと考えられており、経緯ははっきりしていない。大久保は大蔵卿として廃藩置県後の地方財政に重大な課題を抱えており、大蔵省内では井上馨と渋沢栄一が財政方針を巡って対立していた。また大久保と木戸の間にも薩閥と長閥を背景とした緊張があり、彼らを一旦隔離することで内政の重要案件を棚上げにし、融和を図るという思惑もあったと考えられ、12日には木戸・大久保を副使とする使節団の具体化が始まり、19日には岩倉・大久保・山口尚芳・木戸・伊藤の5人による使節団の輪郭が定まった[6]。
出発
[編集]明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出帆、太平洋を横断し、1872年1月15日にカリフォルニア州 サンフランシスコに入港。アメリカ大陸を横断し、2月29日にワシントンD.C.に到着したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。

使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。イギリスでは日本研究者のジェイムス・サマーズが使節団を支援した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにハイランド地方へ足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れ、ロンドンに戻った。1872年12月5日にはウィンザー城でヴィクトリア女王に謁見し、世界随一の工業先進国の実情をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間、独語版)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの11か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地や半植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われた。これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものであったが、西欧列強諸国と植民地・半植民地との有り様の圧倒的な格差は、使節団に強烈な記憶と使命感を植え付けることとなる。
全権委任状
[編集][7]使節団は、最初の寄港地アメリカで大歓迎を受け、不平等条約の改正は意外と簡単に実現するものと楽観的に考えていた。ところがワシントンD.C.で一行と面会した国務長官ハミルトン・フィッシュは一行が全権委任状[8]を持たないことを指摘し、この外交プロトコルについて理解している者が一人もいない日本側代表団を困惑させることになった。岩倉使節団から大久保と伊藤が急遽帰国することとなり、二人は鉄道で大陸を横断し、船に乗って日本に戻り、明治天皇から全権委任状(「国書御委任状」)を賜り[9]、再び同じルートを東海岸まで、計4か月をかけて往復したのである。しかしアメリカ側は日本の司法制度が前時代的であるとの理由で条約改正には応じず、岩倉使節団は結局、アメリカとの条約改正に失敗することとなった[10]。
[11]大久保・伊藤の帰国とアメリカとの単独交渉の情報は他の条約国に懸念を生んだ。使節団は出発前に、条約の改定は使節の帰還後まで延期すると各国政府に通知しており、英国代理公使アダムスは対米交渉の事実を知ると「他の締約諸国への侮辱となり、使節を歓迎しようとしないであろう」と外務卿副島種臣に懸念を示した。伊藤は翌日アダムスを訪問し条約調印のための全権委任であることを認めたうえでワシントンでは諸問題を討議する予定で、そしてもし英国政府が快諾するなら会議は必ずヨーロッパで行い、この構想はみな使節から出たもので、ワシントン政府の発想ではないと言明した。アダムスは任期切れとなり本国に帰還する途上、ドイツ駐日公使マックス・フォン・ブラントと共にワシントンへ赴き、岩倉や木戸らと4日間にわたり会談した。この席でフォン=ブラントから最恵国条項の存在を指摘され岩倉は驚愕させられる。岩倉は最恵国条項について完全に無知であり、その含意する「片務的最恵国条項の存在という、きびしい外交上の現実を知らされた。」こうして使節団は対米交渉中止へと傾斜した[12]。
帰国
[編集]当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の1873年(明治6年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が高まっており、使節帰国後に明治六年政変となった。
[13]なお大久保と木戸については1873年1月19日付で明治天皇[14]から帰朝を命じられ[15]、この通信は3月19日にベルリンの使節団に到達した。アメリカでの条約改正問題以降、木戸と大久保の関係が不仲となっており、岩倉にも両者を同時に帰国させる説得は困難であったようで[16]、両者が同行を好まず別々に帰途につくこととなる。大久保は3月28日に帰途につき5月26日に横浜に帰着、木戸は本隊と欧州視察を続け4月16日に別行動となり、フランス(マルセイユ)から7月23日に帰国した[17]。
総括
[編集]元々大隈重信が発案した使節団は小規模なものの予定だったが、政治的思惑などから大隈自身は留守政府を預かる一人となり、使節団自体は大規模なものとなる。政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだった[18]が、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。
しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる各国外交団や留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こした。さらに外遊中の1872年11月には、ボールズ兄弟商会銀行と子会社のアメリカン・ジョイント・ナショナル・エイジェンシーの破産に使節団員の一部と留学生を含む滞在日本人40人が巻き込まれる事件が発生した。一行はちょうどスコットランド巡遊からロンドンに戻ってきたときであり、公金・私金の預金総額は約2万2800ポンド、うち債権債務処理後の配当金約4300ポンドを引いた約1万8500ポンド[19]が損害となった。使節団員の公私金目当ての預金の勧誘を行ったのはア社の社員になっていた長州人南貞助であり、彼は高杉晋作の義弟であり、国際結婚第一号として知られている。当時「女房を持つか持たぬに分散はミナミに出た錆にぞ有ける」「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした[20][21]。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪[22]。以後は洋装に改めた。
目的
[編集]使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである[24]。だが、法制度が整っていないことやキリスト教禁教政策などを理由に不成功に終わった。
謁見した国家元首
[編集]- アメリカ合衆国 大統領ユリシーズ・グラント
- 大英帝国 女王ヴィクトリア
- フランス共和国 大統領アドルフ・ティエール
- ベルギー王国 国王レオポルド2世
- オランダ王国 国王ウィレム3世
- ドイツ帝国 皇帝ヴィルヘルム1世
- ロシア帝国 皇帝アレクサンドル2世
- デンマーク王国 国王クリスチャン9世
- スウェーデン王国 国王オスカル2世
- イタリア王国 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
- オーストリア=ハンガリー帝国 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
- スイス連邦 大統領ポール・セレソル
派遣使節団
[編集]使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれた。
使節
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- 特命全権大使
- 副使官
- 一等書記官
- 二等書記官
- 三等書記官
- 四等書記官
- 大使随行
- 理事官
- 理事官随行
宮内省
司法省
文部省
陸軍省
大蔵省
工部省
留学生
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留学生のほとんどは士族だが、清水谷公考、坊城俊章、万里小路正秀(万里小路正房八男)、武者小路実世(武者小路実篤の父)、錦小路頼言は公家出身。以下、それぞれ50音順。
- イギリス留学
- イギリス・フランス留学
- アメリカ留学
- ドイツ留学
- ロシア留学
- 留学
随員
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- 随員
ほか。
キリシタン禁制の高札撤去と信教の自由の保障
[編集]岩倉具視は使節団として不平等条約改正の予備交渉を進める中で、各国から浦上キリシタンへの非人道的行為(浦上四番崩れ)や当時進めていた外海と長崎湾周辺におけるキリスト教徒の大規模な捕縛などについて厳しく非難されることとなり、日本において信仰の自由を認めるよう迫られた。キリスト教徒への弾圧が条約改正の障壁になっていると判断した使節団はその旨を日本へ打電通達するが、その結果、政府は1873年(明治6年)2月24日に太政官布告第68号により高札制度を廃止する一環として、キリシタン禁制の高札を撤去することとなり、江戸時代初期以来つづけられてきたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた[32][33]。
同年3月14日には、関係各県に流配されていた浦上のキリスト教徒を帰還させる命令が政府から出され、5年の流刑を経て、1,930人が浦上に帰ることが許された。その後、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法により、国によって信教の自由が保障されるに至った[32]。
理事功程
[編集]岩倉使節団には、グイド・フルベッキの提案により、司法省、大蔵省、文部省など各省から専門別の調査官が同道派遣されており、帰国後に報告書として「理事功程」がまとめられた。使節団帰国直後の明治6年(1873)9月、太政官に大使事務局が開設され、太政大臣三条実美の名前で佐々木高行ほか8名に報告書の提出が通達され(9月18日)同年中に第一基の理事功程が提出された。次いで明治8年(1875)2月に田辺太一、久米邦武らが大使事務局書類取調御用を命じられ、翌明治9年3月31日に使節団の24名に対し報告書の提出が命じられた。これは「一片之報告書モ不差出、此儘御差置相成候テハ実効之有無乃派出中之労逸勤惰モ不相見、甚タ不可然事ニ有之」との理由によるものである。しかし最終的に報告書を提出したのは岩山、阿部、高崎ほか7名の、都合10名に過ぎなかった[34][35]。しかしこれらの報告はその後の日本の近代化に寄与することとなる。文部行政に関する田中不二麿の理事功程はアメリカの中等・高等教育を実際に経験した新島襄により原案が執筆され15巻にまとめられ文部省に提出されたことが判明している[36]。
1873年5月5日の皇城炎上
[編集]5月5日の未明頃、皇居内の紅葉山長局から火災が発生し常御殿や小御所代、学問所などへ飛び火し、太政官、宮内省の各庁舎と類焼が及んだ。この結果多くの公文書が焼失し、岩倉使節団に関わる文書も多くが失われることになった[37]。
備考
[編集]使節団のアメリカ滞在の際、明治政府が金貨を鋳造・発行するにあたり必要な資金を調達する契約をカリフォルニア州のバンク・オブ・カリフォルニアと結んでいる。 これは明治政府がアメリカの企業と結んだ最初の契約であると言われている。 [38]
なおバンク・オブ・カリフォルニアは1984年に三菱銀行により買収され、さらに1996年の東京三菱銀行誕生に伴い東京銀行傘下となっていたユニオン・バンクと合併し、MUFGユニオン・バンクとして現存している。 また明治政府とバンク・オブ・カリフォルニアの間で締結された契約書は現存しており、サンフランシスコにあるMUFGユニオン・バンクの博物館に収蔵されている。 契約書には伊藤博文および大久保利通の署名が残されている。
関連書籍
[編集]※は電子書籍版も刊
- 久米邦武 編著『米欧回覧実記』5冊組全100巻、博聞社、1878年。
- 復刻版『特命全権大使米欧回覧実記』全5巻、宗高書房、1975年。
- 『米欧回覧実記』全5巻、田中彰 校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1977–1982年初版(函入り単行判、1985年)
- 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』全5巻、水澤周 訳注、慶應義塾大学出版会、2005年(函入り単行判)
- 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』全5巻 普及版(選書判)、2008年。別巻・総索引も刊、企画:米欧亜回覧の会
- 大久保喬樹 編訳『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2018年。※
- 〔専門的な編著・単著〕
- 久米美術館 編『特命全権大使「米欧回覧実記」銅板画集』1985年。
- 久米美術館 編『岩倉使節団関係 久米邦武文書 3』吉川弘文館、2001年。
- 久米美術館 編『銅鐫にみる文明のフォルム:「米欧回覧実記」挿絵銅版画とその時代展」資料集』2006年。
- 田中彰・高田誠二 編著 『「米欧回覧実記」の学際的研究』北海道大学図書刊行会、1993年。
- 西川長夫・松宮秀治 編 『「米欧回覧実記」を読む:1870年代の世界と日本』法律文化社、1995年。
- 岩倉翔子 編著 『岩倉使節団とイタリア』京都大学学術出版会、1997年。
- 田中彰『岩倉使節団の歴史的研究』岩波書店、2002年。
- イアン・ニッシュ 編『欧米から見た岩倉使節団』麻田貞雄ほか 訳、ミネルヴァ書房〈MINERVA日本史ライブラリー〉、2002年。
- 芳賀徹 編『岩倉使節団の比較文化史的研究』思文閣出版、2003年。
- 米欧回覧の会 編『岩倉使節団の再発見』 思文閣出版、2003年。
- 山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』思文閣出版、2006年。
- 米欧亜回覧の会 編『世界の中の日本の役割を考える:岩倉使節団を出発点として』芳賀徹・松本健一・齋藤希史ほか、慶應義塾大学出版会、2009年。
- 米欧亜回覧の会・泉三郎 編 『岩倉使節団の群像:日本近代化のパイオニア』ミネルヴァ書房、2019年。
- 芳賀徹『文明の庫Ⅱ 夷狄の国へ』中央公論新社、2021年。第2部に関連論考
- 〔一般向けの書籍〕
- 田中彰『岩倉使節団 「米欧回覧実記」』(改訂版)、岩波書店〈岩波現代文庫〉、2002年。(初刊は講談社現代新書、1977年)
- 宮永孝『アメリカの岩倉使節団』筑摩書房〈ちくまライブラリー〉、1992年。
- 古川薫『新・米欧回覧 歴史紀行:岩倉使節団の旅を追う』毎日新聞社、1993年。
- 高田誠二『維新の科学精神:「米欧回覧実記」の見た産業技術』朝日新聞出版〈朝日選書〉、1995年。
- 泉三郎『岩倉使節団:誇り高き男たちの物語』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2012年。※
- 旧版『誇り高き日本人:国の命運を背負った岩倉使節団の物語』 PHP、2008年。各・ 入門書
- 高田誠二『久米邦武:史学の眼鏡で浮世の景を』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2007年。
脚注
[編集]- ↑ “明治150年 インターネット特別展 -岩倉使節団 〜海を越えた150人の軌跡〜-”. アジア歴史資料センター. 2024年5月23日閲覧。
- ↑ 岩倉使節団 米欧亜回覧の会 岩倉使節団とは?『明治維新政府首脳による西洋文明調査旅行』 2017年2月4日
- ↑ この項、国立公文書館アジア歴史資料センター「明治150年 インターネット特別展 岩倉使節団」の解説コラムより抜粋起筆。詳しくは該当リンク先を参照。
- ↑ 引用抜粋ここまで
- ↑ 『大久保利通日記』明治4年9月2日『今朝井上子入来伊藤子進退之ヿ楮幣一條ニ付一人外國行之ヿ等示談之九字参...』、同16日『今朝十字津田子入来寛話を遂候四字頃ゟ岩公江参昇洋行云々之事切迫及論破候次西郷子江訪同断議論先々安心二至テ候』
- ↑ 長谷川栄子「岩倉使節団成立過程の再検討」(熊本学園大学論集『総合科学』、2013.6.30)
- ↑ この項目、岩崎雅弘「岩倉使節団はなぜアジア最初の近代化をもたらしたか」(DIAMOND ONLINE、2016.8.1)より引用起筆。
- ↑ 外交使節が条約を結ぶにあたって、その条約について交渉し署名する権限を持つ者であることを正式に証明する公文書。小学館精選版日本国語大辞典「全権委任状」
- ↑ (参考)国立公文書館デジタルアーカイブ「国書委任状」。14カ国向けの全権委任状とその草稿。
- ↑ 岩崎雅弘(2016.8.1)引用ここまで
- ↑ ここから、奥田和彦「岩倉使節団の文化的帰結」(国際交流研究、国際交流学部紀要19 2017.3、フェリス女学院大学国際交流学部紀要委員会)P.P.129-130、PDF-P.P.13-14より引用起筆した
- ↑ 奥田和彦(2017)引用ここまで。
- ↑ ここから辻岡正己「大久保利通の「富強化」構想」(広島経済大学経済研究論集、1988.6)より大久保・木戸の帰国事情を解説するため引用。
- ↑ この太政大臣三条実美による岩倉大使宛公簡には「先便縷々申述候通本朝国事多端不得止之要用も有之候」とある。これは具体的には明治5年(1872年)になって噴出した留守政府内部における予算決定をめぐる大蔵省と各省庁間のトラブル、内閣と大蔵省の不和、陸軍省汚職事件をめぐる軍内部の混乱、徴兵令施行による士族層の反政府熱の高揚、樺太問題や台湾事件、琉球王国併合問題、征韓論などである。
- ↑ 宮内庁「明治天皇紀」第三(1969年)、P.14
- ↑ 岩倉から三条に宛てた3月26日付の書簡に「何卒進退同一に相成候様と存候得共小生力には難行届何共遺憾」とある。
- ↑ 辻岡(1988.6)引用ここまで
- ↑ 牧原憲夫, p. 102.
- ↑ これは平成・令和の価値で約44億円程度に相当する。ただし令和期の金価格の高騰を評価すれば75億程度の可能性がある。
- ↑ 菅原彬州「岩倉使節団と銀行破産事件」(2015.3.16、中央大学、2014年度講演会・公開研究会)、菅原彬州『岩倉使節団と銀行破産事件』(中央大学学術図書96、2018.10)
- ↑ 『木戸孝允日記』に依れば使節団が英国に到着した翌日の1972年8月18日(旧暦7月15日)には木戸は南貞助や林董らと馬車に乗り市中を巡視しており(2巻P.215)、22日(旧19日)には2時頃より南の案内で彼の銀行に行き食事をしている(同書2巻、P.217)。ところが11月10日(旧10月10日)北部の視察からロンドンに帰った直後、「6時過ぎに伊藤が来て、南貞助の寄留しているアメリカンジョイントナショナルバンクの困難を通報され、南貞助と同居の英国人何某に面会してその経緯の説明を受けた。経緯は如何ともし難く、使節の者と談合の上、吉田少補に調査と分析を託した。そのため伊藤は吉田の所へ行く。この銀行は日本の留学生と使節一行のうち金を預けている者が少なくなく、私もまたその一人である」(同書2巻、P.P.273-274)。揶揄した狂歌がすぐに作られたようで、木戸は翌日の日記に鹽田三郎と久米邦武の分を記している。鹽田「鬼の目に涙バンクの御分散」、久米「白はきに見とれもせぬに百ポンドとんと落ちたる久米の仙人」 林田治男「モレルの経歴に関する所説」(大阪産業大学経済論集11巻1号)P.63脚注、なお部分的に現代語訳したうえで引用している。妻木忠太編集『木戸孝允日記(第二)』(木戸侯爵家蔵版、昭和8年3月25日)
- ↑ 平松隆円 『黒髪と美女の日本史』2012年、水曜社、pp.120-122
- ↑ アメリカではグラント大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスではティエール大統領、ベルギーでは国王レオポルド2世、オランダでは国王ウィレム3世、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世と謁見した。
- ↑ 宮永孝「アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉」『社會勞働研究』第38巻第2号、法政大学、1992年1月、43-93頁、NAID 110000184475。
- 1 2 3 30年前の洋行者 記念の会合新聞集成明治編年史 第十一卷、林泉社、1940
- ↑ 阿部潜国立公文書アジア歴史センター
- ↑ 岩倉使節団メンバー(出発時)米欧亜回覧の会
- ↑ 吉雄永昌国立公文書アジア歴史センター
- ↑ 瓜生震(読み)うりゅう しんコトバンク
- 1 2 “津田塾大学デジタルアーカイブ「津田梅子 4, 五人の女子留学生たち、シカゴにて」”. 津田塾大学. 2022年10月24日閲覧。 “津田塾大学デジタルアーカイブのファイル名:PH011_001”
- ↑ 亀田帛子『津田梅子:一人の名教師の軌跡』双文社出版 2005, p. 14
- 1 2 国土交通省 観光庁 『高札撤去―信教の自由獲得へ―』 (PDF) 地域観光資源の多言語解説文データベース
- ↑ 国立公文書館 公文書にみる日本のあゆみ 『キリスト教禁止の高札が撤廃される』。この「キリスト教解禁」は高札の撤去を指令することによる事実上のものであり、太政官からキリスト教解禁に関する官令が出されることはなかった。穂積陳重『続法窓夜話』七八「切支丹邪宗門」にこの経緯の記述がある。
- ↑ 友田清彦「岩倉使節理事官「理事功程」と日本農業」(東京農業大学農業経済学会「農村研究」1996.9)
- ↑ 国立公文書館「岩倉使節団の記録」理事功程
- ↑ 竹内力雄「文部省『理事功程』覚え書」(同志社大学学術リポジトリ、2018)
- ↑ 国立公文書館アジア歴史資料センター「明治150年 岩倉使節団 解説コラム」
- ↑ 三菱UFJフィナンシャルグループ (2009年1月8日). “MUFGのある暮らし 5号” (PDF). 2021年4月18日閲覧。 p.23
参考文献
[編集]- 牧原憲夫『幕末から明治時代前期 文明国をめざして』小学館〈全集日本の歴史 第13巻〉、2008年12月。ISBN 9784096221136。
- 菅原彬州 『岩倉使節団と銀行破産事件』「中央大学学術図書96」中央大学出版部、2018年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]
ウィキソースには、岩倉公実記の原文があります。
- 『岩倉使節団』 - コトバンク
- 『岩倉遣外使節』 - コトバンク
- 国立国会図書館 憲政資料室 岩倉使節団文書(MF:国立公文書館蔵)
- 『特命全権大使米欧回覧実記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション[リンク切れ]
- -明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~ - アジア歴史資料センター