慶長遣欧使節

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慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、慶長18年(1613年)に仙台藩初代藩主・伊達政宗がキリスト教の西方教会(自称,ローマ・カトリック教会)における教派の一つ,イエズス会(修道会)に次ぐ第2教派,フランシスコ会(修道会)の宣教師ルイス・ソテロに仙台藩士・支倉常長を使節団の使節としてつけて、スペイン王国(スペイン帝国)国王・フェリペ3世、およびローマ教皇パウロ5世のもとへ派遣した使節である。

背景と目的[編集]

大航海時代にスペイン(イスパニア)とポルトガルが世界各地に植民地をつくり始めると、ローマ教皇は「世界地図上の」両国の勢力範囲(征服対象地域)が衝突しないよう二等分して線引きしそれぞれの征服対象地域を仲裁した(トルデシリャス協約)。こうした状況のなか、スペインはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。更にスペイン、ポルトガルに続いてキリスト教・ローマカトリックの新宗派であるプロテスタント(新教)のイギリスオランダも積極的な活動を開始し、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号豊後国(現・大分県)の水先案内人として漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を徳川幕府の外交顧問として抜擢していた。

これより先、「天下人」(日本の事実上の支配者)・豊臣秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度で臨んだが、秀吉の次に「天下人」になった徳川家康は貿易の利益に着目して禁令を緩めた。こうしたなか、慶長14年(1609年)、「太陽の沈まない帝国」と謳われた「世界最大の植民地保有国」であるスペイン王国の植民地の一つ、前フィリピンフィリピン総督ドン・ロドリゴとキリスト教ローマ・カトリックのイエズス会の宣教師であるスペイン,セビリア市の貴族、ルイス・ソテロらが乗ったサン・フランシスコ号上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件が発生した。翌慶長15年(1610年)、「天下人」徳川家康は前フィリピン総督ロドリゴの代理人(スペイン王国の使節)であるルイス・ソテロと交渉をして、日本とスペインの通商を約束した。翌慶長16年(1610年)、徳川家康はフィリピンの前総督ロドリゴと、病気になったルイス・ソテロの代わりのスペインの使節としてアロンソ・ムニョスを、および家康の代理人である京都の商人・田中勝助を、フィリピンと同じスペインの植民地の一つであるメキシコ(ノビスパニア(新スペイン))へ送り届けた。しかし、家康は外交顧問である三浦按針(ウイリアム・アダムス)から、カトリックの布教を許せばスペインがそれをてこにして日本を植民地にしかねないという進言を受け、スペインと通商条約の締結をしなかった。同慶長16年(1611年)4月、スペイン国王フェリペ3世は徳川家康が前フィリピン総督ロドリゴらをメキシコまで送り届けてくれたお礼とし、スペイン提督セバスティアン・ビスカイノのを答礼使として、スペインの軍艦に田中勝助を乗せて日本へ送り届けた。

こうした状況のなか同慶長16年(1611年)、江戸の仙台藩邸にいた(仙台と江戸を1年おきに交代で住んでいた)仙台藩初代藩主(仙台藩祖)伊達政宗が、自分が寵愛していた侍女の病気を治すため、江戸にいたルイス・ソテロに修道士の医師を紹介させて侍女を治療させ、愛妾である侍女の病気を治した。これをきっかけに伊達政宗とソテロは親しくなり、同1611年5月、政宗が仙台藩の居城である仙台城に戻ると、ソテロも政宗の後を追って仙台藩へ向かい、政宗とソテロは仙台城で再び対面した。以後政宗は、ソテロの庇護者となる。一方、田中勝助を家康の元へ送り届けたスペイン提督ビスカイノは、国王フェリペ3世から「日本にあると言われている金銀島を発見せよ」との密命を受けていた。そのためビスカイノは徳川家康から「金銀島発見」の目的地である仙台藩沖(宮城県沖)の南三陸(金華山周辺)で測量をすることを願い出て、家康に南三陸沖での測量を認めさせた。ビスイノが率いるスペイン将兵の一行は仙台藩の伊達政宗のもとへ向かい、ビスカイノも仙台城で政宗と対面した(10月から金華山周辺で測量を開始)。このときビスカイノは「仙台城は江戸城より大きくて立派な城だ」と書き遺している。伊達政宗はもともと、「豊臣秀吉の天下獲りに1年間対抗」した「奥羽の覇者(東北地方の王者)」である。更に伊達政宗は、「織田信長の(子分的な)同盟相手」だった徳川家康が豊臣秀吉の死後に豊臣家から政権を奪い取ろうとした際に、「豊臣秀吉の遺言に初めて背いて」お互いの子供同士(伊達政宗の長女・五六八姫と徳川家康の六男・松平忠輝)を政略結婚させて事実上の軍事同盟を結んだ、家康にとって「豊臣家から政権を簒奪するための最初で最大の協力者だった。関ヶ原の戦いが終わった翌年の慶長6年(1601年)4月、新たな居城・仙台城に移った政宗は、同年9月、徳川家康から江戸に仙台藩邸を与えられ、翌慶長7年(1602年)、政宗は江戸に移り住んだ。更に翌慶長8年(1603年)、政宗は妻子,愛姫および嫡男(跡取り息子、次男)・虎菊丸(第2代仙台藩主・伊達忠宗)らと共に足かけ14年に及んだ首都・京都での生活に完全に別れを告げ、江戸に移り住んだ。翌々年の慶長10年(1605年)には政宗は、徳川家康の嫡男(三男)・徳川秀忠が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるため京都へ向かう日本軍の先頭に立って進軍し、翌慶長11年(1605年)、政宗は江戸幕府征夷大将軍・徳川秀忠を江戸の自宅に招き、更に同1605年12月、伊達政宗は長女・五六八姫を徳川家康の六男・松平忠輝と結婚させ「家康の親戚(娘・息子を結婚させた父親同士)」になった。更に翌慶長12年(1607年)、政宗は「前征夷大将軍」である「大御所」として「大御所政治」を始めた「天下人」徳川家康を江戸の自宅に招いて囲碁を打ち、同年1607年、政宗は嫡男(次男)・虎菊丸(第2代仙台藩主)を家康の側室の娘・市姫と婚約させて、家康から「松平」の姓を与えられた。このように豊臣秀吉からも恐れられて「五大老にあえて選ばれなかった」伊達政宗は「事実上の副将軍」であり、「無冠の帝王」だった。このような「天下の副将軍」伊達政宗は徳川家康に「日本の外交権を委任」すよう求め、「天下人」徳川家康は日本の外交権を伊達政宗に任せた。もちろん、このようなことが出来た大名は、日本全国の諸大名の中で伊達政宗の他にはいない。こうして伊達政宗は「天下人」徳川家康に代わって「世界最大の植民地保有国」であるスペイン帝国を相手に、「天下人外交」を行うことになった。更に伊達政宗は、徳川家康によるスペインとの通商政策を引き継いだだけではなく、家康とは異なり、太平洋と大西洋を自らが造った軍艦で横断してスペイン本国、すなわち「ヨーロッパまで日本初の外交使節を派遣する」、という英断を下した。それだけではなかった。実は伊達政宗はスペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を江戸湾の中まで呼び寄せて、スペイン軍と共に「徳川家康を倒して天下人になる」という戦略を立てていた、とも言われている。そのために伊達政宗は、義理の息子でキリスト教徒の松平忠輝(徳川家康の息子)を「倒幕の旗頭」として擁立し、松平忠輝の補佐役である「徳川幕府の財政を握る」金山奉行の代官・大久保長安を既に抱え込んでいて、松平忠輝を慕う全国のキリスト教信者30万人、および大坂城にいる「豊臣秀吉の嫡男」豊臣秀頼および「秀頼の母」淀殿(淀君)と密かに手を組み、仙台軍・スペイン軍・キリスト教徒勢力・幕府内の寝返り(反乱)勢力・豊臣秀頼の大坂勢、の6つの勢力によって幕府を滅ぼすという計画を立案しそれを実行に移した、とする倒幕説もある[1][2]が、この説への反対意見もある[3][4])。一方、この使節はルイス・ソテロが自らの宣教師兼通訳と言う立場を利用して布教上の目的から企てたものであり、政宗らの権威がそれに利用されたに過ぎないとの主張もある[4]

伊達政宗は仙台藩の領民たちに命じ、仙台領内の石巻(宮城県石巻市)に近い雄勝湾(宮城県石巻市(旧雄勝町))において、スペイン提督セバスティアン・ビスカイノたちの指導のもと、500トンを超す巨大な軍艦(ガレオン船)サン・ファン・バウティスタ号を建造した。この造船には、江戸幕府から派遣された船大工も参加していたが、山から木材を切り出して運搬したりすることなども含めて、巨大軍艦を造った人々の大半が仙台藩の地元の大工などの、仙台藩の人々であった[5]。当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地を保有する大帝国であった。スペインは、ガレオン船の建造技術を国家の最高機密としており、造船技術を外国に漏洩した者を死刑に処していた。伊達政宗は仙台藩の「課長クラス」である「働き盛りの年齢」の家臣・支倉常長を「史上初のヨーロッパへの外交使節」に任命し、協力者であるルイス・ソテロや常長を中心とする慶長派遣欧使節団・180余人をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、スペインおよびローマへと派遣した。

使節の旅程[編集]

使節団は、慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサン・ファン・バウティスタ号で牡鹿半島月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。

出航から3か月後の1614年1月28日、アカプルコ入港。3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし、常長ら10人を除き武器を取り上げられた。3月24日、常長らがメキシコシティ入り。5月8日、メキシコシティを出発。6月10日、使節団はスペイン艦隊のサン・ホセ号でヌエバ・エスパーニャ大西洋ベラクルスサン・フアン・デ・ウルアを出港した。

7月23日キューバハバナに到着。8月7日、ハバナを出港した[6]

10月5日、スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着。セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入った。10月27日、常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べた。11月25日、使節団はセビリアを出発した。

12月20日、使節団はスペインの首都マドリードに入った。1615年1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見した。2月17日、常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受けた。8月22日、使節団はマドリードを出発した[7]

10月25日、使節団がローマに到着。10月29日、使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を行った。11月3日、常長、ソテロらが、ローマ教皇パウロ5世に謁見。11月20日、常長らにローマ市民権証書が授与される。1616年1月7日、使節団はローマを出発し再びスペインのセビリアへ。

1617年7月4日、使節団はセビリアを出発しヌエバ・エスパーニャまで戻り、1618年4月2日、迎えのサン・ファン・バウティスタ号でアカプルコを出港。同年8月10日フィリピンマニラに到着。

サン・ファン・バウティスタ号をマニラで売却し、常長は便船で元和6年8月24日1620年9月20日)日本へ帰国。元和8年7月1日1622年8月7日)、常長死去。

ソテロは、元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日1624年8月25日大村火刑により殉教した(49歳没)。


関係者のその後[編集]

しかし日本でのキリスト教取り締まりに伴い、この外交交渉は成功しなかった。元和6年(1620年)遣欧使節の副使であった常長はマニラ経由で帰国したが、その2年後に失意のうち没し、その墓は宮城県仙台市の光明寺にある。遣欧使節の正使のソテロも、元和8年(1622年)キリスト教禁止下の日本に潜入を図るが捕らえられ、寛永元年(1624年)火刑に処せられた。常長がスペイン、ローマから帰国したとき、日本は幕府の方針によって、キリスト教禁止の時代になっていた。

常長の息子の時代、家来のキリスト崇拝が露顕し支倉家は一時「お家断絶」の憂き目を見ている。この事実から、ローマで洗礼を受けてキリシタンになった常長は、生涯キリスト教に執着していたと考えられている。

結果と意義[編集]

伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡

政宗は仙台藩がスペインと貿易を行うとの理由で、家康からガレオン船の建造と使節をスペインへ派遣する許可を獲得した。ただ、海流と偏西風の関係で太平洋を横断する基地として最も適当なのが現在の石巻付近であったこと、かつ既に避難寄港のためにスペイン船により当地付近の測量が済んでいたことから、家康がかの地での造船と出航にまつわる仕事を領主である政宗に命じたに過ぎないとの見解もある[4]

この慶長遣欧使節の目的は、仙台藩とスペインとの貿易(太平洋貿易)交渉にある[1]。その意味で、この使節はこれに先んじた天正遣欧少年使節が「キリシタンの本山詣で」であったこととはその意義が異なる。天正遣欧少年使節が大友宗麟大村純忠有馬晴信らキリシタン大名によって主に宗教上の理由から行われたのに対し、政宗には自らがキリシタンとなったり領内でキリスト教を広めようとしたりする意図はなかったとみられるため、同じ西洋へ派遣された使節といっても両使節の目的は根本的な点で異なったものである。

この使節はスペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世宛ての書状を携行していた[8]。この書には政宗自身の署名捺印と花押が記入されているが、その文中にはスペイン語で政宗自身も洗礼を希望しており奥州領内にキリスト教を広めるつもりであり、そのために宣教師を派遣していただきたくその場合には宣教師の生活援助も行いたい、といった旨が記載されていた。しかし政宗が既存の神社仏閣を手厚く保護し、キリスト教を信仰しようとしたとされる傍証も存在しないため、これらの内容は貿易のための方便であったか、スペイン語で書かれた内容を政宗自身が把握していなかった可能性がある。のちに政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧したため、結果的に虚偽の内容の国際文書を発行したことになった[4]

ローマ市公民権証書(仙台市博物館蔵)

慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。

政宗がローマ法王へ宛てて書いた芸術的な親書、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証、常長がスペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った品々などは、現在仙台市博物館に収蔵されている。これらは「慶長遣欧使節関係資料」として、歴史資料としては日本で初めて国宝に指定された。2013年6月18日、「慶長遣欧使節関係資料」は、御堂関白記とともにユネスコ記憶遺産に登録された[9]。これらの品々を見たスペインやローマ法王庁の人々は、自分達とは遠く離れた国に高度な文化と技術を持った国があるという事実を知った。また、支倉常長らの姿、彼らの堂々とした言動も、ヨーロッパ人を感心させた。常長らが和紙(白石和紙)で鼻をかみそれを投げ捨てると、ヨーロッパ人はその鼻紙を得ようとして群がったという[10]

「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館蔵、国宝)の画像


コリア・デル・リオのハポン姓[編集]

慶長遣欧使節団はスペイン南西の都市セビリア近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在した。この小さな港町には常長を記念する銅像が建てられている。また、この町にはハポン(Japón=日本)姓もしくはXapón姓の人が数百人住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に留まり移住したキリスト教徒の仙台藩の藩士や使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われている。ハポンの表記は、スペイン北方のガリシア州におけるガリシア語では現在もXapónである。

1996年に、駐スペイン日本国大使の坂本重太郎ラジオで呼びかけ、ハポン姓を持つ650人や、使節ゆかりの東北地方の裏千家メンバーなどを集めた「ハポン・パーティー」を、セビリアで開催した[11]

交流[編集]

日本・スペイン国交400年[編集]

2013年6月、日本とスペインとの国交400年を記念して、日本の皇太子がコリア・デル・リオを訪問し、植樹式を行なった[12][13]

慶長遣欧使節出帆400年[編集]

2014年7月、慶長遣欧使節出帆400年記念事業の一環として宮城県内の高校生10人らで構成する「平成青少年遣欧使節団」がスペインを訪問する[14]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』など。
  2. ^ 箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、明治34年(1901年
  3. ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、平成20年(2008年)、239頁
  4. ^ a b c d 松田(1987)
  5. ^ 松田(1987)。政宗から幕府の船手奉行向井将監に宛てた、船大工派遣についての礼状が史料として残っている。
  6. ^ この年の9月から10月にかけ、日本では修道会士や高山右近らの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。
  7. ^ 同年(1615年)の6月4日(慶長20年5月8日)に「大坂夏の陣」で激戦の末大坂城が落城した。
  8. ^ これに先立ち徳川秀忠がムニョス神父に託した手紙の宛先は、実際に国政を担当していたレルマ公爵である。これは「披露状」と呼ばれる形式で、高貴な身分の人物を直接宛名とするのは失礼に当たるという考えから、側近を宛名として、側近から主君に披露させるという形式を取る。(松田(1987))
  9. ^ 「御堂関白記」及び「慶長遣欧使節関係資料」のユネスコ記憶遺産登録審議結果について”. 文部科学省 (2013年6月19日). 2013年6月19日閲覧。
  10. ^ このエピソードは事実ではあるが、常長達の持ち物なら何でもほしがったという意味ではなく、当時の西洋では懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。常長が鼻をかんだ懐紙は、その後バチカンの人類博物館にしばらく展示されていた。
  11. ^ 1994年12月2日 朝日新聞
  12. ^ 皇太子さまのスペイン訪問決定、時事通信社、2013/05/21
  13. ^ 皇太子さま、スペインで桜植樹 支倉常長ゆかりの地、共同通信, 2013/06/14
  14. ^ “平成遣欧使節団いざ出帆 大使に抱負”. 河北新報. (2014年7月24日). http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140724_13037.html 2014年7月24日閲覧。 

参考文献[編集]

史料[編集]

研究文献[編集]

  • 松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、昭和62年(1987年9月25日ISBN 4-404-01448-1
  • 大泉光一『支倉六右衛門常長 慶長遣欧使節を巡る学際的研究』文眞堂、平成11年(1999年
  • 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中公新書、平成11年(1999年)
  • 太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、平成11年(1999年)
  • 松田毅一『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』(新装版) 朝文社、平成14年(2002年
  • 五野井隆史『人物叢書 支倉常長』吉川弘文館、平成15年(2003年
  • 田中英道『支倉常長 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房、平成19年(2007年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]