支倉常長

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支倉 常長
HasekuraPrayer.jpg
仙台市博物館蔵、国宝、クロード・デリュエ作)[1][† 1]
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀2年(1571年
死没 元和8年7月1日1622年8月7日
改名 山口与市、支倉長経、常長
別名 六右衛門
霊名 ドン・フィリッポ・フランシスコ
墓所 光明寺仙台市青葉区
西光寺黒川郡大郷町
円福寺柴田郡川崎町
主君 伊達政宗
陸奥国仙台藩
氏族 山口氏支倉氏
父母 父:山口常成
養父:支倉時正
兄弟 常長
義兄弟:久成常次
支倉常頼支倉常道
支倉常長の行程
「支倉常長像」 1面 油彩・キャンバス 17世紀 アルキータ・リッチ筆 イタリア・個人蔵(パラッツォ・ボルゲーゼ(ボルゲーゼ宮、en:Palazzo Borghese)保管)ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。
円福寺の常長の墓(1900年代初期の絵葉書)

支倉 常長(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ

生涯[編集]

元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする山口常成[2]の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした[3]。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。

文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また葛西大崎一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。

慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康ウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している[4]

慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある[5]

出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した[6]。慶長20年1月2日1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日1620年9月20日)に帰国した。

こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。

その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町[7] 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。

常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。また、常長自身が記録した訪欧中の日記文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を古典ラテン語表記で FAXICVRA とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。

諱「常長」について[編集]

この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼のを「常長」と記述した例はない。自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。

「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある[8]

家紋について[編集]

支倉家の家紋は「右卍」とされる。『仙台古文記』には「三幅四方浅黄白卍」とあり、古くから右万字が使われていたことは確かである。

しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆氏が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右万字の家紋が使われている姿が残っている。

五つ割右万字

支倉常長が登場する、あるいは彼をモデルにした作品[編集]

ギャラリー[編集]

1615年に出版された、ローマ生まれの歴史学者シピオーネ・アマティ (Scipione AMATI) の著書 "Historia del regno di Voxv[† 3] del Giapone, dell' antichita, nobilta, e valore del svo re Idate Masamvne[† 4]"(題名和訳:『日本奥州國伊達政宗記并使節紀行[10]』または『伊達政宗遣欧使節記[11]』)、支倉常長の肖像画など。

アマティの著作の最初のページ 
法王にひざまづいて謁見する常長。アマティの著作のドイツ語版より。 
"Don Filippo Francesco Faxicvra" の肖像画。アマティの著作のドイツ語版より。 
"Philippvs Franciscvs Faxicvra" の肖像画 
"Philippo Francisco Faxecvra Rocvyemon" のローマ市公民権証書(仙台市博物館蔵、国宝[1] 
ローマ・クイリナーレ宮殿の王の間にある慶長遣欧使節を描いたフレスコ画。アゴスティーノ・タッシ(en:Agostino Tassi)作。常長は前列左、ソテロは前列右。後列4名の日本人は、常長とともにローマ公民権を与えられた、山城の滝野加兵衛、摂津の商人・伊丹宗味、尾張の野間半兵衛、奥州の小寺外記だと考えられる。 
支倉常長の西洋式の紋章は盾の中に右卍をあしらったものだった。左はローマ市民権の認定の中に描かれた紋章、中はドイツの記録に残る紋章、右は常長の船の旗 

パウルス5世に拝謁した際、常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがある。当時の西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。

2013年から2014年にかけてはスペインと日本の国交400周年を記念して様々なイベントが行われた。支倉常長が最初に着いたサンルーカル・デ・バラメダシェリー酒の産地として有名で、これを記念して日本におけるシェリー酒専門家中瀬航也による企画で、サンルーカルにあるイダルゴ・ラ・ヒターナ社と日本の正規輸入代理店ユニオンリカーズによって「サン・フアン・バウティスタ・パロ・コルタド・VOS・シェリー」が限定で造られた。(ラベルの肖像画に関しては仙台博物館の許可を得ている。)

支倉常長の立体像[編集]

各地の支倉常長の立体像の多くは、青葉山公園仙台城二の丸にある佐藤忠良制作の銅像を基に鋳造されている[12]。足跡順に記載。

  • スペインの旗 スペインアンダルシア州セビリア県コリア・デル・リオ[12] カルロス・デ・メサ公園(地図
    • 1992年(平成4年)6月設置。慶長遣欧使節団渡航380年記念事業による。グアダルキビール川に面したカルロス・デ・メサ公園に川に向かって建つ。
    • 常長像建立後にコリア・デル・リオを訪問した日本人たちが、像の一部が破壊され、落書きがされていると報告していたが、2008年(平成20年)2月28日に仙台から訪問した青葉城資料展示館主任学芸員らがその惨状を確認した[12][21]。その後、コリア・デル・リオ当局が台座を黒く塗って落書きを消したが、2010年(平成22年)1月時点では破壊された太刀や持ち去られた航海図のプレートの修復は行われていなかった[12][22]
チヴィタヴェッキアにある常長像(2008年8月)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 本作品中央に走る縦の剥落および無数の横皺は、藩に没収されたか支倉家で秘匿する際、枠から外され、2つ折りされた上で巻かれたため生じたと推測される。
  2. ^ MASTERキートン』10巻の「CHAPTER 7 祈りのタペストリー」に支倉常長がもたらしたとされるタペストリーが出てくる
  3. ^ ラテン語の "Voxv" を現代のローマ字表記に改めると Ōshū となる。これは「奥州」(陸奥国)を指す。
  4. ^ ラテン語の "Idate Masamvne" を現代のローマ字表記に改めると Idate Masamune となる。これは「伊達政宗」を指す。伊達がかつて「いだて」と発音されていたことについては「伊達氏」を参照。

出典[編集]

  1. ^ a b 慶長遣欧使節(仙台市博物館)。
  2. ^ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780468
  3. ^ 支倉常長隊”. 支倉常長隊. 川崎町役場 地域振興課. 2016年7月6日閲覧。
  4. ^ 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』など。
  5. ^ 樫山巌『支倉常長の謎』
  6. ^ “常長思いハポンの地へ遡る…コリア・デル・リオ(スペイン)”. 読売新聞. (2015年1月15日). http://www.yomiuri.co.jp/life/travel/writer/20150610-OYT8T50592.html 2016年7月6日閲覧。 
  7. ^ http://keizouji.p-kit.com/page240587.html
  8. ^ 松田(1987)。このような例は内藤如安の内藤家系図にも見られる。
  9. ^ 声清らかに常長たたえ 昭和初期の歌が65年ぶり復活 大郷河北新報 2010年8月25日)
  10. ^ 日本奥州國伊達政宗記并使節紀行(国立情報学研究所)
  11. ^ アマティ 『伊達政宗遣欧使節記』京都外国語大学付属図書館)
  12. ^ a b c d e f g h 常長像が〝泣いている〟 三陸河北新報社 2010年1月4日(2010年11月28日時点のアーカイブ
  13. ^ a b 石巻市の歴史年表社団法人石巻観光協会)
  14. ^ a b c d e メキシコの常長像 立ち往生(三陸河北新報社 2007年7月25日)
  15. ^ a b c d e 常夏のアカプルコ②-姉妹都市の象徴「支倉常長像」は今?(青葉城本丸会館「支倉常長の足跡を追う旅」 2008年5月9日)
  16. ^ 来夏メキシコ友好行事(三陸河北新報社 2008年1月26日)
  17. ^ 海上自衛隊練習艦隊のアカプルコ市及びタパチュラ市寄港(在メキシコ日本大使館
  18. ^ a b 常長像が海辺に“帰還” 13年ぶり、移設工事完了河北新報 2010年6月23日)
  19. ^ 御宿第600号(2012年8月), p. 4.
  20. ^ 交流発展へ「友好の証し」 メキシコに記念碑寄贈 御宿町”. 千葉日報オンライン版 (2012年7月11日). 2016年7月18日閲覧。
  21. ^ 南スペイン①-コリア・デル・リオにてハポン姓を想い、支倉常長像を憂う- 青葉城本丸会館「支倉常長の足跡を追う旅」 2008年7月10日(2012年5月26日時点のアーカイブ
  22. ^ 大沢慶尋(青葉城資料展示館学芸員) (2013年6月19日). “皇太子殿下、ハポン姓の町コリア・デル・リオをご訪問!”. 学芸員・大沢の研究ノート~支倉常長の足跡を追う旅 Second Season(ブログ). 2016年7月6日閲覧。
  23. ^ 大郷町のあゆみ(略年表)(大郷町)

参考文献[編集]

資料
研究文献
  • 松田毅一『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』朝文社、1992年
  • 松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、1987年
  • 大泉光一『支倉六右衛門常長 慶長遣欧使節を巡る学際的研究』文眞堂、1999年
  • 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中公新書、1999年
  • 太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、1999年
  • 五野井隆史『人物叢書 支倉常長』吉川弘文館2003年
  • 田中英道『支倉常長 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房、2007年
図録
  • 仙台市博物館編集・発行 『仙台市博物館収蔵資料図録 国宝「慶長遣欧使節関係資料」』 2001年
  • 仙台市博物館編 『伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化』 慶長遣欧使節出帆400年・ユネスコ世界記憶遺産登録記念特別展「伊達政宗の夢-慶長遣欧使節と南蛮文化」実行委員会発行、2013年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]