島原の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島原の乱
原城跡
一揆軍が籠城した原城址
戦争:島原の乱
年月日1637年12月11日 - 1638年4月12日
場所原城
結果:幕府軍の勝利
交戦勢力
幕府側 一揆軍
指導者・指揮官
Maru ni Mitsu Ōgi inverted.png 松平信綱
Kuyō-domoe inverted.jpg 板倉重昌  
Gold Christian Cross no Red.svg 天草四郎(益田時貞)  
No image available.svg 有家監物入道休意  
戦力
125,800 37,000(幕府側記録)[注 1]
損害
死傷者8,000人以上[注 2] 全滅[注 3]

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった江戸幕府キリシタン弾圧に対する反乱。日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)、島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)[1]とも呼ばれる。寛永14年10月25日1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日1638年4月12日)終結とされている。

島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な内戦である。

鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。この内戦以降、禁門の変までの約230年間、死者数が3桁に及ぶ内戦は記録されていない。これは19世紀以前の世界の他の国々では他に例がない平和の世である。

勃発まで[編集]

島原[編集]

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタンカトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業漁業手工業商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルポルトガル船長の記録に残っている[2]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。

天草[編集]

天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

上述のように宗教弾圧以外の側面もあることからかは不明であるが、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままである。

1630年と1637年のフィリピン侵略計画[編集]

1630年松倉重政ルソン島侵略幕府に申し出ていた。将軍徳川家光マニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたが、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許した。1630年12月14日、重政は長崎奉行竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせた[3]。彼らは商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島に渡航した。それぞれ10人の足軽を従えていたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡した[4]マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた[5][6]。重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたという[7]。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫したが[8]日本によるフィリピン侵略1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[9]

その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[9]

オランダ人1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[10]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[11]フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[12]

島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであった)マニラ要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべきとの分析がなされた[12]

乱の勃発[編集]

首を落とされた地蔵。蜂起した信者が切り落としたと伝わる。
天草四郎が使ったとされる旗印天草切支丹館所蔵)

島原の一揆[編集]

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた[13]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官林兵左衛門を殺害[14]、ここに島原の乱が勃発する。

この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった[15]。反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。

島原藩の対応[編集]

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った[16]。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた[17]。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという[15]。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する[18]

天草の一揆、島原と合流、原城篭城[編集]

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った[19]。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退[20]有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる[21]。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

篭城した一揆軍の竪穴建物群[編集]

原城の本丸西側からは立て籠もった一揆軍が使用したと推測される竪穴建物跡群が検出された[22]。一辺が約2~3mを測る方形の竪穴建物跡である。竪穴建物跡群は規格性があり、同一集落を基本とした家族単位で使用したと考えられている。さらに冬場の籠城であるにもかかわらず、竪穴建物では、個別に炉やカマドといった暖房や煮炊きにかかわる遺物や遺構の痕跡が見つかっていない。それらのことから、籠城中に失火で火災を起こさないようにした大名軍勢並みの軍規の存在を物語るといえる[22]

ポルトガルの援軍期待説[編集]

一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタンを蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる[23]。実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており[24]、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていた。これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた[25]。この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であった。乱後、天草四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされた[26]。もっとも、この当時ポルトガルは同君連合でスペインの支配下にあり、ポルトガルへの働きかけなど無駄だったことは日本では知られていなかった。

原籠城戦[編集]

戦闘の推移[編集]

海から見た原城の遺跡
「島原御陣図」
原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した[27]。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた[28]。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく[注 4]、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。『常山紀談』には重昌が派遣される際、柳生宗矩が”小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5,000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗する”と考えて反対したという話がある[29]

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中松平信綱[注 5]、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった[30]。この報せに接した幕府は1月10日2月24日)、増援として水野勝成小笠原忠真に出陣を命じる。

新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。大目付中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し[31]、さらにデ・ライプ号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った[32]。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している[33]。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。

このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争英語版(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している[34][注 6]

討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが、成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している[36]。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという[37]

2月24日4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続を、水野勝成は総攻撃を主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定した。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した[注 7]兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子の水野勝俊と有馬直純嫡子有馬康純が争ったという。

幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。 わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・栖本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(栖本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。また、島原及び天草地方の全ての住民が一揆に参加したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった[38]

幕府軍[編集]

原城虎口遺構(長崎県南島原市)
原城瓦片(長崎県南島原市)

幕府討伐軍側は総勢13万近くの軍を動員。死傷者数は諸説あるが、『島原記』には死者1130・負傷者6960、『有馬一件』には死者2800・負傷者7700、『オランダ商館長日記』には士卒8万のうち死者5712と記されている。

籠城軍[編集]

総計 約37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢を除き27,000人とするなど異説あり)。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったと言われる[41]

ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにも関わらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった[42]。一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例[43]、正月晦日の水汲みの口実で投降した例[43]などがあることが各種史料から確認されている。そして、幕府軍の総攻撃の前には、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとされ[要出典]、また、幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中に脱出に成功した者や、殺されずに捕縛された者も決して少なくはなかったとする見方もある。幕府軍への投降者の数は、1万人以上と推測する説があるが[43]、記録がなく実数は不明である。

処分[編集]

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされたのは、この1件のみである[注 8]。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。

また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。当初の上使・板倉重昌の嫡子である板倉重矩は父の戦死という悲運に見舞われたが、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際に勝手に参戦し奮闘した。ただし軍令違反と父親の戦死の不手際を問われ、同年12月までの謹慎処分を受けている。

この一件で幕府はポルトガルと国交を断絶することとなるが、オランダとの貿易がポルトガルとの貿易を完全に代行できるか不明であったこともあり、国交断絶までにはなお1年半が必要であった。

影響[編集]

幕府ローマカトリック系のキリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。1639年には鎖国政策を引き締めて[44]キリスト教の禁教令を強化した。日本のキリスト教徒は生存のために地下に潜伏した[45]。全住民は地元の寺院に登録され、仏教によって宗教的所属が保証されることが必要とされた[46]。島原の乱後、寛永17年(1640年)、幕府宗門改役を設置してキリスト教の迫害を強化したが、アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[47][48]

島原の乱以後の天草[編集]

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことと、天草の実情を無視した統治を行った事にある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。その後の是正には、島原の乱の鎮圧から30年以上の年月が必要となる。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となり、富岡藩が成立したが、3年で讃岐国丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成はの教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。 鈴木重辰が畿内に転出した後、三河国田原藩から移封された戸田忠昌を藩主に戴いて再び富岡藩が立藩された。忠昌は寺沢広高が構築した富岡城を破却し、残した三の丸に機能を移した陣屋造りとした。これは、領主の藩庁を石高相応に簡素化することによって、城の維持管理からくる領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、天草は温暖ではあるが離島が多く農業生産力が低いため私領には適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。その後も、天草は幕府の直接の統治下に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに他藩への編入が行われる事はなかった。一方で、島原藩は松倉氏の後に入った徳川氏譜代の家臣である高力・松平・戸田の3氏によって統治されることとなり、安永3年(1774年)に深溝松平家を藩主に頂いたあと、廃藩置県を迎えた。

島原半島天草諸島では島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた[49][50]1643年には5000人[51]程度だった天草諸島の人口は1659年(万治2年)には16000人に増加した[52]1805年には12万人[53]1829年には14万人に増加していた[54]

天草の場合は、乱の平定後も下島の一部などにキリシタンが残存した[55]これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコフカヒレなどの海産物の乾物(俵物)が同じく幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。[要出典]1805年(文化2年)に天草地方の4村に対してキリシタンの取り調べがおこなわれ、5200人に嫌疑がかけられたが村民はキリシタンであることを否定、幕府側は踏み絵と誓約だけで赦免している(天草崩れ[55][56][57]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 非戦闘員含む。異説もある。
  2. ^ 諸説あり。
  3. ^ 山田右衛門作を除く。1万人以上が落城前に幕府軍に投降していたという説もある。
  4. ^ 副使の石谷は旗本であり、大名ですらない。
  5. ^ 将軍徳川家光の異母弟で幕府の大政参与だった保科正之の派遣も検討された。
  6. ^ 1637年9月、幕府の榊原職直馬場利重は当時オランダ商館のフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまっている。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志はなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも海外遠征に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。彼らは危険を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[35]
  7. ^ 元の副使・石谷貞清も、板倉重昌の嫡子重矩と共に突入している。
  8. ^ 旗本では江島生島事件の中心人物絵島の兄・白井平右衛門勝昌などの例がある

出典[編集]

  1. ^ 煎本増夫「島原・天草一揆」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。
  2. ^ オランダ商館長日記 p116-118、1637年12月17日。[信頼性要検証]
  3. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 98. The Nagasaki bugyō were the chief representatives of the Tokugawa regime in the city. Following Hideyoshi’s confiscation of Nagasaki from the Jesuits in 1587, the place was not given to a daimyō (the normal procedure elsewhere in Japan) but retained as “crown property” under the bugyō, a word best translated as “commissioners.” For most of the period under discussion there were two bugyō in office at the same time. As part of their duties involved the supervision of international trade, it was only appropriate that Takenaka was involved in the espionage.
  4. ^ Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p. 7
  5. ^ “Events in Filipinas, 1630–32,” 2 July 1632, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 24, pp. 229–30.
  6. ^ Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p. 8
  7. ^ Hayashi, Shimabara Hantō-shi, p. 980;Nagasaki-ken shi, p. 246.
  8. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 101.
  9. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., pp. 8-9
  10. ^ Hirofumi Yamamoto, Nihon Rekishi Sōsho,vol. 39, Kanei Jidai (Tokyo: Yoshikawa Kobunkan, 1989), pp. 54–55.
  11. ^ The perceived status of the Dutch as the shogun’s “loyal vassals” is brilliantly analysed in Adam Clulow, The Company and the Shogun: The Dutch Encounter with Tokugawa Japan (New York: Columbia Univ. Press, 2014).
  12. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.10-11
  13. ^ 神田 2005, p. 125.
  14. ^ 神田 2005, p. 14.
  15. ^ a b 神田 2005, p. 24.
  16. ^ 神田 2005, p. 18.
  17. ^ 神田 2005, pp. 18–22.
  18. ^ 神田 2005, pp. 125–126.
  19. ^ 神田 2005, pp. 134–136.
  20. ^ 神田 2005, pp. 145–148.
  21. ^ 神田 2005, p. 159.
  22. ^ a b 松本2004、284・286頁
  23. ^ 服部、P194
  24. ^ 服部、P184
  25. ^ 服部、P185
  26. ^ 服部、P196
  27. ^ 神田 2005, p. 131.
  28. ^ 神田 2005, pp. 162–164.
  29. ^ 常山紀談19巻、388条[信頼性要検証]
  30. ^ 神田 2005, pp. 167–169.
  31. ^ オランダ商館長日記 p146、1638年1月10日。[信頼性要検証]
  32. ^ オランダ商館長日記 p159-173、1638年2月26日-3月13日。[信頼性要検証]
  33. ^ 服部、P194。原史料は「綿考輯録」第五巻p409。
  34. ^ 服部、P195-P196
  35. ^ Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., pp. 9-10
  36. ^ 神田 2005, pp. 184–187.
  37. ^ 神田 2005, p. 197.
  38. ^ 神田 2010, p. 199.
  39. ^ 武田昌憲「寛永十四・十五年(島原の乱)当時の藩と島原の乱出兵状況(稿):島原の乱の使者の戦い(3)」『尚絅学園研究紀要 A.人文・社会科学編』第6巻、学校法人 尚絅学園 尚絅学園研究紀要編集委員会、2012年、 A1-A24、 doi:10.24577/sgba.6.0_A1ISSN 1881-6290NAID 1100095858072022年2月22日閲覧。
  40. ^ 武田昌憲「島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合 (尚絅学園創立百二十五周年記念号) (PDF) 」 『尚絅語文』第2号、尚絅大学、2013年、 1-7頁、 ISSN 2187-5952NAID 1100095911482022年2月22日閲覧。
  41. ^ 天草四郎History 全てを知る唯一の生存者 山田右衛門(2010年7月22日時点のアーカイブ[信頼性要検証]
  42. ^ 神田 2010, p. 197.
  43. ^ a b c 神田 2010, p. 198.
  44. ^ Mason, A History of Japan, pp. 204–205.
  45. ^ Morton, p. 122.
  46. ^ Bellah, Tokugawa Religion, p. 51.
  47. ^ George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
  48. ^ José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
  49. ^ 鶴田倉造『天草島原の乱とその前後』熊本県上天草市、上天草市史編纂委員会編、2005、p235-240
  50. ^ 井上光貞『年表日本歴史 4 安土桃山・江戸前期』筑摩書房、1984、p106-107
  51. ^ 天草郡記録
  52. ^ 万治元戌年より延享三年迄の人高覚
  53. ^ 高浜村「村鑑」122298人
  54. ^ 『天草郡総人高帳』141588人
  55. ^ a b 「天草崩れ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク
  56. ^ 「天草崩れ」『ブリタニカ国際百科事典』ブリタニカ・ジャパン(コトバンク
  57. ^ 「天草崩れ」『世界大百科事典』平凡社(コトバンク

参考文献[編集]

  • 神田千里 『島原の乱』中央公論新社、2005年。ISBN 978-4121018175 
  • 神田千里 『宗教で読む戦国時代』講談社、2010年。ISBN 978-4062584593 
  • 東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 『オランダ商館長日記 訳文編之三(上)』。ISBN 978-4130927208
  • 服部英雄「原城の戦いを考え直す - 新視点からの新構図」『歴史を読み解く―さまざまな史料と視角』青史出版、2003年 ISBN 978-4921145194 https://hdl.handle.net/2324/17117
  • 松本慎二「原城跡の検出遺構について」『中世城郭研究』第18号、2004年、 282-287頁、 ISSN 0914-3203 - 第20回 全国城郭研究者セミナー(2003年8月2日開催、中世城郭研究会主催)における同タイトルの報告を活字化したもの。
  • 湯浅常山常山紀談』。最近の現代語訳注版は大津雄一、田口寛訳注、勉誠出版(2010-2013年)。ISBN 978-4585054412(1〜7巻)、ISBN 978-4585054429(8〜15巻)、ISBN 978-4585054436(16〜25巻)
  • Senkichi Hayashi, ed., Shimabara Hantō-shi (Shimabara, Japan: Minamitakaki-gun Shi Kyōikukai, Shōwa 29, 1954), vol. 2.
  • Seiichi Iwao, “Matsukura Shigemasa no Ruzonto ensei keikaku,” Shigaku Zasshi 45, no. 9 (1934), pp. 81–109.
  • Nagasaki-ken shi [History of Nagasaki Prefecture] (Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, Shōwa 48, 1973),
  • Bellah, Robert N. (1957). Tokugawa Religion. (New York: The Free Press).
  • Bolitho, Harold. (1974). Treasures Among Men: The Fudai Daimyo in Tokugawa Japan. New Haven: Yale University Press. 978-0-300-01655-0; OCLC 185685588
  • Borton, Hugh (1955). Japan's Modern Century. (New York: The Ronald Press Company).
  • DeBary, William T., et al. (2001). Sources of Japanese Tradition: From Earliest Times to 1600. New York: Columbia University Press.
  • Doeff, Hendrik (2003). Recollections of Japan. Translated and Annotated by Annick M. Doeff. (Victoria, B.C.: Trafford).
  • Harbottle, Thomas Benfield (1904). Dictionary of Battles from the Earliest Date to the Present Time. (London: Swan Sonnenschein & Co. Ltd.)
  • Harris, Victor (1974). Introduction to A Book of Five Rings. (New York: The Overlook Press).
  • Mason, R.H.P. (1997). A History of Japan. North Clarendon: Tuttle Publishing.
  • Morton, William S. (2005). Japan: Its History and Culture. (New York: McGraw-Hill Professional).
  • Murray, David (1905). Japan. (New York: G.P. Putnam's Sons).
  • Perrin, Noel (1979). Giving Up the Gun: Japan's Reversion to the Sword, 1543–1879. (Boston: David R. Godine, Publisher)

関連項目[編集]