ウィレム3世 (オランダ王)
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ウィレム3世 / ギヨーム3世 Willem III / Guillaume III | |
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オランダ国王 ルクセンブルク大公 | |
![]() ウィレム3世(1874年撮影) | |
在位 |
1849年3月17日 - 1890年11月23日 1849年3月17日 - 1867年5月11日(リンブルフ公) |
就任式 | 1849年5月12日 |
全名 |
Willem Alexander Paul Frederik Lodewijk ウィレム・アレクサンダー・ポール・フレデリック・ローデウェイク |
出生 |
1817年2月17日![]() |
死去 |
1890年11月23日(73歳没)![]() |
埋葬 |
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配偶者 | ソフィー・ファン・ウュルテンベルフ |
エンマ・ファン・ワルデック=ピルモント | |
子女 |
ウィレム マウリッツ アレクサンダー ウィルヘルミナ |
家名 | オラニエ=ナッサウ家 |
父親 | ウィレム2世 |
母親 | アナ・パウローナ・ファン・ルスラント |
宗教 | キリスト教改革派教会 |
ウィレム3世(Willem III, 全名:Willem Alexander Paul Frederik Lodewijk van Oranje-Nassau, 1817年2月17日 - 1890年11月23日)は、第3代オランダ国王、ルクセンブルク大公(ドイツ語名でヴィルヘルム3世: Wilhelm III.、フランス語名でギヨーム3世: Guillaume III)。ウィレム2世とその妃でロシア皇帝パーヴェル1世の娘であるアンナ・パヴロヴナの長男(第1子)。
生涯[編集]
父ウィレム2世の死去により1849年に即位した。王としての権威を振るおうとしたが、父王の時代に王権を制限する憲法改正がなされていたため、国民からは嫌われた。家庭ではヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の娘ゾフィーを妃に迎え、3人の王子を得た。長男オラニエ公(王太子)ウィレム・ニコラスは39歳で死去、次男マウリッツ王子は7歳で夭折、三男で長男に代わってオラニエ公となっていたアレクサンダーも33歳で死去と、いずれも若くして亡くした。以後、オランダ王家では現国王ウィレム=アレクサンダーが生まれるまで、直系の男子が生まれることはなかった。そしてゾフィーも1877年に死去、深い悲しみを抱いていたが、親子ほど歳の離れたエンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモントと再婚し、1880年に王女ウィルヘルミナが誕生した。
1890年にウィレム3世が死去した後、オランダ王位はウィルヘルミナが継承した。一方、歴代のオランダ国王が兼ねていたルクセンブルク大公位は、エンマの伯父に当たるナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフが継承し、オランダとルクセンブルクの同君連合はウィレム3世を最後に解消された。
日本との関係[編集]

父王ウィレム2世は1844年に徳川幕府に書簡を送り、福祉の増進を勧告するなどしていたが、ウィレム3世は1855年、徳川家定の江戸幕府の長崎港に蒸気外輪船スームビンク(Soembing)を贈呈した。6つの砲門を持つ軍艦である。
不平等条約である日蘭修好通商条約の開市開港延期を求め、江戸幕府は1862年に文久遣欧使節を派遣した。
出典[編集]
関連項目[編集]
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