征韓論

征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略[注釈 1]論をいい、一般的には、1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。
1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契[注釈 2]を発送した。 しかし、朝鮮政府は書契の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されたが、これを「征韓論」という。1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが辞職した。 この事件は明治6年政変と呼ばれるが、政変の背景に朝鮮出兵議論があり、征韓論政変ともいわれる[1]。
名称
[編集]当時の朝鮮半島を治めていた国家は『朝鮮』の国号であったが、この場合は古称である「韓」が用いられる。元産経新聞記者の大野敏明は、現在では伝説とされる神功皇后の『三韓征伐』のイメージから名付けられたとしている[2]。
江戸時代の征韓論
[編集]日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた[3]。幕末には対外進出の一環として朝鮮進出が唱えられ[4]、吉田松陰は欧米列強に対抗するために「取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と[5]、橋本左内は日本の独立保持のために「山丹・満洲之辺・朝鮮国を併せ、且亜墨利加州或は印度地内に領を持たずしては迚も望之如ならず」とそれぞれ主張した[6]。
幕府においても安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス(海外の諸蛮(ここでは朝鮮半島やその他の外国)をこの手中に納めることは、三韓を掌握した(高句麗、百済、新羅を支配下に置いた)往古(古代)の状態に戻る)」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる[7]。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた[8]。勝海舟は、欧米列強に対抗するために「我邦より船艦を出だし、弘くアジア各国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究」しなければならないとして、「まず最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後、支那に及ばんとす」とアジア連合論を主張した。[注釈 3][10]。
慶応2年(1866年)12月には、清国広州の新聞に、「日本名儒 八戸順叔」という名義で「征韓論」の記事が掲載された。清国政府は日本に警戒を抱いて朝鮮に通報し、朝鮮側から幕府に照会が行われる事態となった。幕府は征韓を否定し、「八戸順叔」なる人物は関知していないと回答した(八戸事件)[11]。
幕末の対朝鮮外交と対馬藩の征韓計画
[編集]江戸幕府は江戸時代を通じて対朝鮮外交を対馬藩に委任していたが、文久元年(1861年)のロシア軍艦対馬占領事件によって朝鮮に対するロシア帝国の関心を察知したことで、対朝鮮外交の再構築を求める動きが幕府内で始まった[12]。これを受けた対馬藩でも初めは朝鮮に対して信義をもって説得し、朝鮮が応じないようであれば武力行使するといった朝鮮進出論が唱えられた[13]。対馬藩士の積極派であった大島友之允は朝鮮に対して「御恩徳」を先にし、もし徳化に服さないようであれば「其節赫然膺懲之勇断」に出るべきだという願書を幕府に提出した[14][15]。対馬藩は長州藩と連携し、十万石の支給と武器援助を要請したが、財政難であった幕府は5000両の貸与しか行わなかった[16]。しかし大島の要求を受けた軍艦奉行勝海舟は「征韓の御沙汰」を行うよう申し出たことで、文久3年(1863年)5月26日には老中板倉勝静が対馬藩に対し、朝鮮を欧米諸国から防御するために出兵し、場合によっては占拠を行う許可を出し、3万石を三回に分けて支給するという命を下した[17]。しかしその後の禁門の変による長州藩の失脚などの急変もあり、元治元年11月(1864年)には、朝鮮政策の一時棚上げが決定されている[18]。
朝鮮では国王高宗の実父である大院君が実権を握っていたが、朝鮮内で増加していたキリスト教徒の大弾圧に踏み切った[17]。これに伴って発生した丙寅洋擾やシャーマン号事件で外国軍に攻撃をおこなっていた[17]。幕府は朝鮮とフランス・アメリカの調停を行おうとし、朝鮮に遣使しようとし、大政奉還後には朝廷の派遣許可を得たが、鳥羽・伏見の戦い発生による国内事情の急変で中止された[11]。
日朝国交問題と征韓論の台頭
[編集]明治の新政が開始され、日本は朝鮮に対して対馬藩を介して新政府発足の通告と国交を望む親書を送付したが[注釈 4]、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否され[19][20]新政府の対朝鮮外交は最初から行き詰った(書契問題)。明治元年12月に木戸孝允は「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残しており[21]、木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうと記している[21]。
明治2年(1869年)[22]日本政府内部では2つの路線[23]が形成され、1つは「皇使」派遣論であり天皇の国書を持つ正式使節の派遣であり、これは朝鮮側が拒めば開戦に至る方法である。もう1つは「穏健」路線であり、宗氏ルートと並行して宗主国である清と先に交渉したうえで朝鮮問題を打開していくという路線である。この2つの路線は主張者も時期も固定したものではなく、木戸の場合は明治3年までの間に、強硬→穏健→強硬→穏健論と移行している[24]。
明治3年(1870年)2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、朝鮮宮廷は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出しており、釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。[25][26]。
佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した[注釈 5]。
日本政府は朝鮮を一旦棚上げにして、並行して交渉させていた日清関係のほうを先行させ、明治3年6月29日(1870年7月27日)に外務権大丞柳原前光(公家出身)および外務権少丞花房義質(旧岡山藩士)を清国に派遣し[27]、清国との国交樹立と通商開始の予備交渉および貿易状況の調査にあたらせることとした[28]。
9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年(1872年)1月には、旧対馬藩主の宗義達を外務大丞に任じたが5月には対馬と朝鮮との関係を断ち外務省の専管とし、8月には、外務大丞花房義質を釜山草梁館に派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。太政大臣の三条実美は当面陸海の兵を送り日本人居留民を保護し、使節を派遣して公理公道を朝鮮政府に説くことを提議した[29]。
征韓論政変
[編集]政変の概要
[編集]三条の即時出兵の提議に対して、参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず、自ら使節になろうとし、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信、大木喬任の諸参議が賛同して一旦内定したが、正式決定は岩倉使節団の帰国を待つこととした。しかし岩倉使節団の帰国後も、遣使問題は延引され、大久保利通と副島種臣の参議就任を待って賛否両論が闘わされた[30]。岩倉具視、大久保、木戸孝允らは遣使に反対し、病に倒れた太政大臣三条実美に代わって閣議を主導した太政大臣代行の岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、10月24日、閣議決定は無期延期とされた。同日、西郷が参議と近衛都督を辞任し、翌25日、板垣、副島、後藤、江藤が下野した[31]。
政変の経緯
[編集]明治6年(1873年)、釜山の大日本公館駐在の外務省七等出仕である広津弘信が外務少輔である上野景範に宛てた5月31日付の報告書が契機[注釈 6]となって、閣議で朝鮮問題が取り上げられた[33]。この閣議には、太政大臣の三条実美及び参議の西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、大木喬任、江藤新平、後藤象二郎が出席した[33]。 板垣は居留民保護のために一大隊の兵を送り、その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張したが、西郷はそれに反対して、まずは責任ある全権大使を派遣して交渉すべしと主張した[34]。三条は使節は軍艦に搭乗し護衛兵を帯同すべきだと主張したが、西郷はそれにも反対し、烏帽子直垂の正装で非武装の使節を派遣することを主張した[35]。 板垣も自説を撤回して西郷の提案に賛成し、後藤象二郎、江藤新平らも賛成し、西郷は自らその使節に当りたいと提議したが、この日は決定には至らなかった[34]。
その後、清国に出張していた外務卿の副島種臣が帰国すると、西郷は板垣に宛てた書簡で使節就任への強い思いを伝え、三条にも閣議開催を要求した[32]。8月上旬には、西郷と同じく朝鮮使節に志願していた副島を訪問して自身の使節就任実現へ向けた協力を求め、その同意を得た[36]。 8月17日、閣議において西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることも決まり、明治天皇の裁可を得た[37]。しかし、西郷の使節派遣は西郷自身も失敗を予想した上で開戦を期した主張であり[37]、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければならないものだった[37]ため、遣欧使節団の岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、三条や参議大木らもその意見に同調するようになった[38]。
10月14日、朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、大久保や岩倉と対立した。この日は決定には至らず、10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、参議を引き取らせた上で三条・岩倉の間で協議が行われた。西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した[39]。しかしこれに反発した岩倉は三条に対し辞意を表明、大久保と木戸は辞表を提出し[40]、まともに閣議が開催できる状況には無くなった。収拾に窮した三条は病に倒れ[41]。10月19日、明治天皇の行幸啓を受け岩倉が太政大臣代理となり[42]、10月23日に三条の裁断による即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した[43]。これを受けて10月24日に天皇は遣使を延期するという裁断を行った[44]。
[45]岩倉の採ったこの上奏は宸断を求める異例のものであり、上奏の前日10月22日に西郷ら5名の参議は岩倉の私邸を訪問して彼と激論を戦わせていた。岩倉の計画では「三条の決する所(10月15日決定、征韓)」と「岩倉の決する所(遣使延期論)」の両方を上奏し、天皇に選択させようとするものであり、これは異例の方法であり閣議の意見対立が露呈する事であり、天皇が一方を選択する事は反対派の立場を失わせることであって、政変が不可避であった。岩倉と大久保がこの方法の採用を確定した10月21日には政変後の新組織についても相談がなされていた。この情報を察知した征韓派は閣議が正式に開かれないため岩倉邸に乗り込んだのであり、岩倉も彼らの訪問を拒絶しなかった。この場で江藤は、岩倉は三条の代理(太政大臣代理)であり三条の意思と異なる行為をなすべきではない点、また政策の是非を三職で決せず責任を天皇に帰属させようとする行為は不臣ではないか、との一種の天皇機関説的主張を展開した。政府の運営から見れば明らかに江藤に分があったが、岩倉は意見が両端に別れ是非が決せられないのだから宸断に依るより外はない、の形式論で結局は彼らを引き取らせた[46]。結果として政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった[47]。
政変後の動き
[編集]台湾出兵と江華島事件
[編集]明治政府はこの政変で西郷らを退けたが全ての征韓派が下野した訳ではなく、また西郷遣使は「中止」されたものの公式には内外情勢を理由とした「延期」と発表されたために後日に征韓論が再燃する可能性を残した。
翌年の明治7年(1874年)には宮古島島民遭難事件を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵を行った(木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した)。また、翌々年の明治8年(1875年)には朝鮮国に軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。
士族反乱・自由民権運動
[編集]明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動が起こった。
研究史
[編集]征韓論ならびに明治六年政変については当時から様々な議論や憶測が行われてきた[48]。日清戦争・日露戦争の後には征韓論者としての西郷が大陸経綸の先駆者として称揚され、内治優先を唱える側からは大久保らの開明性が強調されていた[48]。戦後になると、大久保らも朝鮮侵略の方向性においては征韓派と根本的に違いがなかったと言う指摘が行われている[48]。その中でも基本的に、西郷が征韓を主張したことと、西郷ら留守政府派と、内治を優先する使節団派の対立の原因となり、政府を分裂させるに至ったという認識は基本的に疑われなかった[48][49]。一方で煙山専太郎は1907年の著書『征韓論実相』において「征韓論」という名称に語弊があると指摘している[50]。西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立した[51]。
1970年代後半、毛利敏彦は一連の著作において、征韓論の中心的人物とされていた西郷隆盛は征韓を意図しておらず[49]、明治六年政変の主因も朝鮮問題ではないと主張した[49]。毛利は、西郷が板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める平和的な遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、大久保利通らとも決定的に決裂したわけではなく[48]、明治六年政変の主因も司法卿江藤新平ら反長州藩派の追い落としが目的で、征韓論は口実に過ぎないとしている[48]。この発表は従来の定説の事実認識を根底から覆すもので近代史研究の大きな争点の一つとなった[49]。
これ以降研究は活性化し[49]、2000年頃には毛利説の当否が征韓論争研究の中心となっていた[48]。一方で高橋秀直は毛利の研究の意義を高く評価しながらも、朝鮮問題が政変の実質的争点でなかったという毛利説の核心は否定している[49]。田村貞雄は毛利説を批判し、西郷の征韓論者説を再確認しようとしている[52]。
石田徹は[53]従来着目されることの少なかった征韓論争における外務省の影響について検証し、日本を父兄、朝鮮を弟とする家族関係に模した朝鮮観の存在を指摘し、侵略の自覚や悪意がないまま、ともすれば善意によって朝鮮に過干渉になっていた点、いわば感謝してもらいたい、頼ってもらいたいとう願望が根底にあり、そこから何等かの満足感や威信(国家としての矜持)を得ようとしていた点を適示し、朝鮮問題が他の外交問題・政治課題と比べ相対的に低い位置づけがなされていたにも関わらず、外務省が常に朝鮮にこだわり続けた事を指摘する。
家近良樹は2018年の著書で「死に場所を求めて征韓論を提唱したといった評価が、学界では次第に支配的になりつつある。」としている[54][注釈 7][注釈 8]。
落合弘樹は西郷が「島津久光の新政府批判と、近衛兵の不満という大きな悩みを抱えていた」との立場を説明した上で、「西郷は、丸腰で交渉に行くつもりだった。武力より使節の考えだった」「陸軍大将の西郷が軍備を増強し、韓国に攻め込む発想は全くなかった」としている[56]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 小学館 精選版日本国語大辞典、同日本大百科全書ニッポニカ(中塚昭)、平凡社マイペディア、同改訂新版世界大百科事典(田中彰)は「侵略」と表記する。小学館デジタル大辞泉は「対朝鮮強硬論」、ブリタニカ国際大百科事典は「強硬出兵論」、旺文社日本史事典は「朝鮮征討論」、山川出版日本史小辞典改訂新版は「武力行使も辞さないとする強硬方針」と表記する。侵略という漢字表記自体は幅をもった複数の含意があり、「征韓論争」という歴史上の論争を要約する際に利用するのが適切な表現であるかどうか、といった議論が存在する。石田徹「明治初期外務省の朝鮮政策と朝鮮観」(早稲田政治経済学雑誌No.364. 2006.7)[1]。「征韓論」という語を明治初年の書契問題に端を発する対朝鮮外交問題と捉える研究者がある一方で、江戸時代より存在する、朝鮮半島や満州に対する領域支配論までを包含する議論と定義する研究者もあり、Wikipedia記事では前者を特に明治六年政変で、後者を含めた概説については本記事で扱う。江戸期から行われていた議論が明治6年の政変における議論にどのような影響を与えたかについての研究は十分に行われている状況にはない。
- ^ 文字を書きつけたもの。文字で書かれたもの。「契」は「きざむ」意味。文字や符号などを彫りつける意味から。コトバンク「書契」[2]
- ^ 勝を征韓論者と位置付けるか否かは研究者の間でも見解の相違がある[9]
- ^ 1868年3月に新政府から対馬藩に朝鮮政府への王政復古通告を命令され、文案や書式は7月3日に与えられ、11月17日に完成した。12月18日に釜山で写しを取らせ東莱府に謄本を届け、27日に返答を持ってくるよう約束させたが26日に容易に返答できない主旨の回答があり、早春(来年春)に回答する旨から翌1869年2月25日に受け取り拒否の書面を日本側に渡した。牧野雅司「維新期の書契問題と朝鮮の対応」(待兼山論叢史学編2010)[3]、P.P.4-5
- ^ 「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:
すなわち、「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑
覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力蒞焉、則不爲我用
也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於
皇國、君辱臣死、實不戴天之寇也、必不可不伐之、不伐之
則
皇威不立也、非臣子也」。「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、
之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ蒞(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、
況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、
君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の寇(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば
則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。
- ^ 『征韓論実相』は外務省六等出仕である森山茂が伝令書を入手して直ちに帰国し、外務省に報告したとしている。[32]
- ^ このような説の先駆としては、明治六年政変当時の参議であった大隈重信が、政界で行き詰まった西郷が最後の光明として朝鮮の宮廷で華々しく散ることを求めたという評価を行っている(坂本多加雄 1998, p. 55)
- ^ 『西日本新聞』によれば、原口泉は「西郷はロシアの脅威に連携して対抗しようと考えた遣韓論だった」と主張し、落合弘樹は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している、という。[55]
出典
[編集]- ^ 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号、奈良大学史学会、2011年1月、1-37頁、ISSN 02894874。
- ^ 大野敏明『日本語と韓国語〈文春新書 233〉』文藝春秋、2002年 (平成14年) 3月20日 第1刷発行、ISBN 4-16-660233-0、97頁。
- ^ 吉田松陰の『幽囚録』 「責朝鮮納質奉貢如古盛時(圧力で朝鮮に質を納めさせ、貢を奉らせていた古代の盛時のごとく・・)」云々
- ^ 石田徹 2000, p. 269.
- ^ 石田徹 2000, p. 272-273.
- ^ 石田徹 2000, p. 272.
- ^ 藤村(1970)、13頁
- ^ 島田(1999)、11頁
- ^ 瀧川修吾 2003, p. 85-90.
- ^ 石田徹 2000, p. 270.
- ^ a b 沈箕載 1994, p. 122-123.
- ^ 沈箕載 1994, p. 103-105.
- ^ 木村直也 1993, p. 28.
- ^ 木村直也 1993, p. 30.
- ^ 沈箕載 1994, p. 107.
- ^ 沈箕載 1994, p. 107-108.
- ^ a b c 沈箕載 1994, p. 108-109.
- ^ 沈箕載 1994, p. 115.
- ^ [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952871 伊藤博文言行録 秋山悟庵 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:33
- ^ 「将軍に代わって天皇との直接の交際になるからには、朝鮮は日本の下位に位置づけられなければならないというのが、明治政府の理念に関わる..基本認識であった。」しかし日本が「皇」「勅」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。吉野誠「明治六年の征韓論争」(東海大学紀要 文学部、2000年)[4]
- ^ a b 坂本多加雄 1998, p. 55.
- ^ ここから高橋秀直「<論説>征韓論政変と朝鮮政策」(史林、1992)P.P.79-80[5]
- ^ 牧野雅司2010によれば3つの路線であり、断交論、皇使派遣論、清国交渉優先論。牧野雅司「維新期の書契問題と朝鮮の対応」(待兼山論叢史学編2010)[6]、P.20
- ^ 高橋秀直1992ここまで
- ^ 伊藤博文言行録 秋山悟庵 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:34
- ^ 維新英雄言行録 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126
- ^ 名倉信敦著『航海漫録』第1巻,金港堂等,明14.9
- ^ この交渉は明治4年7月29日(1871年9月13日の日清修好条規として結実する。
- ^ 平凡社「改訂新版 世界大百科事典」(田中彰)[7]
- ^ 田中彰「征韓論」『改訂新版・世界大百科事典 第15巻』平凡社、2007年9月1日 改訂新版発行、
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『征韓論』 - コトバンク
- ^ a b 勝田政治 2011, p. 4.
- ^ a b 勝田政治 2011, p. 2.
- ^ a b 勝田政治 2011, p. 3.
- ^ 西南記伝上巻1 黒竜会 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:175
- ^ 家近良樹 2011, p. 29.
- ^ a b c 高橋秀直 1993, p. 51.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 55.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 58.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 62.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 63.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 65.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 67-68.
- ^ 高橋秀直 1993, p. 71.
- ^ ここから高橋秀直「<論説>征韓論政変の政治過程」(史林、1993)[8]、P.P.701-702から要約抜粋。
- ^ 高橋秀直1993からの要約抜粋ここまで
- ^ 高橋秀直 1993, p. 71-72.
- ^ a b c d e f g 吉野誠 2000, p. 2.
- ^ a b c d e f 高橋秀直 1993, p. 42.
- ^ 吉野誠 2000, p. 13.
- ^ 家近良樹(2018), p. 40.
- ^ 吉野誠 2000, p. 5.
- ^ 石田徹「明治初期外務省の朝鮮政策と朝鮮観」(早稲田政治経済学雑誌No.364. 2006.7)[9]、P.79、PDF-P.15
- ^ 家近良樹(2018), p. 41-42.
- ^ “西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争”. 西日本新聞. (2018年1月25日)
- ^ “西郷隆盛・敬天愛人の会 – 奄美新聞”. 奄美新聞社. (2019年5月13日)
参考文献
[編集]- リチャード・アンダーソン「征韓論と神功皇后絵馬」『列島の文化史』第10巻、日本エディタースクール出版部、1996年3月、ISSN 0289-7091。
- 『自由党史』 (上)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫 青105-1〉、1992年(原著1957年3月25日)。ISBN 4-00-331051-9。
- 島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一」『経営論集』第9巻第1号、文京学院大学総合研究、1999年12月、55-69頁、ISSN 09169865、NAID 40004951973、NDLJP:8899930。
- 藤村道生「萬国対峙論の意義と限界 : 維新外交の理念をめぐって」『九州工業大学研究報告 人文・社会科学』第18巻、九州工業大学、1970年3月30日、1-16頁、ISSN 04530349、NAID 110000151804。
- 毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年12月18日。ISBN 4-12-100561-9。
- 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想」『軍事史学』第45巻1(通号 177)、錦正社、2009年6月、43-62頁、ISSN 03868877、NAID 40016729274。 (
要購読契約) - 木村直也「幕末の日朝関係と征韓論」『歴史評論』第511号、1993年、26-37頁。
- 吉野誠「明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ」『東海大学紀要 文学部』第72輯、東海大学文学部、1999年2月、1-18頁、NAID 110000195512。
- 吉野誠「明治6年の征韓論争」『東海大学紀要 文学部』第73輯、東海大学文学部、2000年、1-18頁、NAID 110000195520。
- 高橋秀直「征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1993年、673-709頁、NAID 110000235395。
- 家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局 : 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論政変』ミネルヴァ書房、2011年、95頁。ISBN 9784623060061。国立国会図書館書誌ID:000011186085。
- 石田徹「征韓論再考」『早稲田政治公法研究』第65号、2003年、267-296頁、NAID 40004019860。
- 瀧川修吾「征韓論と勝海舟」『日本大学大学院法学研究年報』第33号、2003年、83-130頁、NAID 40006241668。
- 勝田政治「征韓論政変と大久保利通」(PDF)『国士館史学』第15号、国士舘大学日本史学会、2011年、1-31頁。
- 坂本多加雄「征韓論の政治哲学」『年報政治学』第49巻第6号、日本政治学会、1998年、55-69頁。
- 筒井清忠「家近良樹「西郷隆盛-謎に包まれた超人気者」」『人物篇』筑摩書房〈ちくま新書〉、2018年。ISBN 9784480071408。 NCID BB25854561。全国書誌番号:23068051。
- 沈箕載「<論説>幕末期の幕府の朝鮮政策と機構の変化」『史林』第77巻第2号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1994年、doi:10.14989/shirin_77_256、ISSN 03869369、NAID 120006597804。
関連文献
[編集]- 長南政義「征韓か非征韓か その真意を探る 西郷隆盛と「征韓論」」『歴史群像』第27巻第5号、学研プラス、2018年、95頁、CRID 1523388079643462784。
- 後藤新「征韓論争と台湾出兵 : 明治六年の政変から出兵の決定に至る経緯について」『法學研究 : 法律・政治・社会』第97巻第1号、慶應義塾大学法学研究会、2024年1月、385-409頁、ISSN 0389-0538、国立国会図書館書誌ID:033434977。