板垣退助

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板垣 退助
Itagaki Taisuke.jpg
1896年頃(60歳頃)
生年月日 1837年5月21日
(旧暦天保8年4月17日
出生地 土佐国 高知
没年月日 (1919-07-16) 1919年7月16日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府 東京市
所属政党 自由党愛国公党自由党憲政党
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 #家族を参照。

日本の旗 第17代 内務大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日

日本の旗 第13-14代 内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1896年4月14日 - 1896年9月20日
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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日)は、日本武士土佐藩士)、政治家幼名は猪之助。退助は元は通称は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。は無形(むけい)。栄典従一位勲一等伯爵明治維新の元勲自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

生誕地(高知県高知市

天保8年4月17日1837年5月21日)、土佐藩上士馬廻格・300乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。坂本龍馬とは親戚[1]にあたるが、退助は同じ土佐藩の中岡慎太郎のほうが気脈が通じたらしく交誼が良く知られている。しかし、龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようである[注 1]。 上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった[注 2]

少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している[3]

幕末[編集]

安政3年(1856年8月8日、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に蟄居し、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督相続を許された。

文久元年(1861年)10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日に高知を出て江戸へ向かう。文久2年(1862年)6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い勤皇に盡忠することを誓う。10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊皇攘夷を唱える。文久3年(1863年)1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日、容堂に随行して上洛の為、品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。4月12日、土佐に帰藩する。

慶応元年(1865年)1月14日、洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注 3](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[4]。慶応2年(1866年)11月、薩摩藩士の吉井友実らと交流する。慶応3年(1867年)2月、水戸浪士の中村勇吉相楽総三らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。

薩土密約を締結[編集]

退助は土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた(当時の土佐藩上士は公議政体論が主流)。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて5月18日、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次船越洋之助らと共に中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。翌日、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げる。5月27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助安岡覚之助等を釈放する。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。

戊辰戦争で活躍[編集]

迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉真辺正精、西山榮、北村重頼、別府彦九郎)
日光東照宮板垣退助像(写真は戦後に復元されたもの) 銅像題字の揮毫は徳川宗家第16代当主・徳川家達による

戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。

新選組を撃破[編集]

この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。

三春藩を無血開城[編集]

東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。

旧幕側の名誉回復に尽力[編集]

官軍の将でありながら維新後すぐから、賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であった為、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。

明治政府の要職を歴任[編集]

朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの征韓議論。(1877年明治10年)鈴木年基作)

明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令する。明治4年(1871年)に参議となる。

明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚600余名に及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。

自由民権運動[編集]

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ
大阪府大阪市中央区北浜
板垣退助の岐阜遭難事件

下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が容れられる議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。

明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 4]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際に板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[6]。 11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。

自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主には衆院選の被選挙権がない)、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

帝国議会開設以後[編集]

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治30年(1897年)3月、自由党総理を辞任している。

明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職せざるを得なくなる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

晩年[編集]

政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行なった。大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正3年(1914年)には2度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。

大正8年(1919年)7月16日、薨去。享年83(満82歳没)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は家督相続をせず、孫の守正が爵位を返上してその高潔な遺志を貫いた。

逸話[編集]

50銭政府紙幣
日本銀行券B100円券
  • 明治4年(1871年)武田信玄の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が、武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されても殆ど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は、財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
  • 少年時代、「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを信じ、後藤象二郎と一緒に、蛙を沢山捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸が出来ず、蝦蟇の油の効力が迷信であることを知る。これによって迷信を疑うようになり、実証主義に転じて、翌日今度は、神社のお守りをに捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していた時、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
  • 武市瑞山の命令で自分を斬りに来た中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。その時、中岡と意気投合し、共に倒幕に身を投じる事となった。
  • 自らの命を狙われた岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出した結果、相原は特赦となり、改心した相原は退助に謝罪に訪れている[7]
  • 家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年(1911年)頃、人を介して秘かに杉山茂丸を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある[8]。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
  • 宣教師・フルベッキが高知に宣教をするにあたって紹介をし、同郷の片岡健吉坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信しなかった。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は曹洞宗である。(菩提寺は、東京・青松寺
  • 後藤象二郎と共に日本人としてはきわめて早い時期の(1896年以前の)ルイ・ヴィトンのトランクを所持していた[9]立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる)。なお初めて顧客になったのが後藤と板垣であると長らく信じられてきたが、実際には板垣たちの渡欧よりも5年前の1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)と中野健明(一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している。
  • 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年(1869年)頃撮影と見られる板垣退助と二人の武士[注 5]が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された[10]


呑敵流[編集]

柔術呑敵流小具足術本山団蔵に学んだ。

板垣退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、咄嗟に呑敵流当身で反撃をした。

この時、敵の心臓を狙って肘で当身をしたが力が入れ過ぎた為に下にずれて腹部に当たった。

後の取り調べで相原尚褧が警察に脾腹が充血して痛みに耐えられん言ったので、調べて見ると脾腹が黒いアザになっていたという。   岐阜事件の後、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈物を贈り

この事を話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏した事を喜び呑敵流皆伝免状を授けたという。

相伝系譜[編集]

吉里呑敵齋信武 - 馬渕嘉平正保 - 本山団蔵重隆 - 板垣退助

武術[編集]

学問[編集]

赤穂山鹿流伝系[編集]

山鹿素行 - 大石良重 - 菅谷政利 - 太田利貞 - 岡野禎淑 - 清水時庸 - 黒野義方 - 窪田清音 - 若山勿堂 - 板垣退助

評価[編集]

栄典[編集]

人物評[編集]

  • 中江兆民は「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」と評価している。
  • 板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残した。彼は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさが無かった。
  • 小説家の海音寺潮五郎司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[18]
  • 有馬藤太 「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」[19]
  • 自由民権運動の思想はその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論を基盤としたものである[20]
  • 「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は自由民権運動の英雄である。その一方で、藩閥政府による懐柔や、隈板内閣内の論争などといった板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については多くの風刺画が描かれ(内務大臣は警察を管轄し、言論統制選挙干渉などを行ったことで評判の悪いポストであった)、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄した。風刺画研究者の清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信とならんで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという[21]

肖像[編集]

年代別写真[編集]

銅像[編集]

国会議事堂板垣退助像序幕式(中央:板垣正貫夫妻、右:板垣守正夫妻、左:浅野泰治郎夫妻、子:浅野房子)
岐阜公園にある板垣退助の銅像
高知城の銅像
  • 国会議事堂大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立)
    中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座となっている。
  • 岐阜県岐阜市岐阜公園金華山の麓)
    板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年(1917年)に建てられた。
  • 高知県高知市高知城登城口
    銅像の作者・本山白雲高村光雲の弟子)は退助の親族でもある。
  • 青梅市
  • 栃木県日光市日光東照宮参道へと通じる神橋入口
    日光東照宮に立て籠もる大鳥圭介ら旧幕臣達に対して板垣退助は「先祖の位牌の影に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得し、また強硬に破壊を主張する因州鳥取藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる偏額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。大東亜戦争末期に金属供出されたため、昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本を基に徳川家達の揮毫を再刻して復元された。

系譜[編集]

乾氏(板垣氏)
乾家の初代・正信は、甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫である。正信の父・板垣信憲がゆえあって改易された後に誅された事件があった為、籠居して乾氏に名を改めた。正信は長じて小田原征伐陣借りして奮戦し、その功によって山内一豊遠江国掛川に封ぜられた天正18年(1590年)に召抱えられた(掛川衆)。江戸時代代々土佐藩士で、家格は馬廻役(上士)。家紋は、甲斐板垣氏は元々「地黒菱[注 6]」を用いたが、姓を乾氏に改めた戦国時代末期頃より明治時代中期頃までは「榧之内十文字」を用いた。板垣退助は、土佐山内氏から賜った「土佐桐[注 7]」を明治中期以降は用いた。

系図[編集]

土佐板垣(乾)氏系図[編集]

  • 実線は実子、点線は養子
  • 江戸時代部分は(御侍中先祖書系圖牒)より
板垣兼光
 
 
 
 
板垣善満坊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣備州 板垣信泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣伯耆守 板垣信方 室住虎登 女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1板垣信憲 酒依昌光 板垣信安[22] 板垣信安室
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2板垣正信 板垣正寅 女子 板垣修理亮 板垣隼人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3乾正行[23] 板垣正善 酒依昌吉 半右衛門 女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4乾正祐 乾正直 乾友正 平右衛門 諸星信茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5乾正方 乾十次郎 乾正房 乾六一[24] 板垣知貞 諸星信時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾加助 6乾正清 近藤通賢室 乾十助 乾吉勝 板垣信精 諸星信職
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7乾直建 乾直強 中山秀信 乾強正 乾正英 乾正愛
 
 
 
 
 
 
8乾正聡 乾正壽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9乾信武 野本信照 女子 乾正春 本山茂良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10乾正成 平井政実室 長屋彦太夫室 乾正勝 乾正厚 乾正厚[25]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11板垣退助 乾久馬 日野成義室 女子 女子 乾正士[26]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣鉾太郎 乾正士[27] 板垣孫三郎 板垣正實 乾六一[28] 片岡兵子 宮地軍子 小川婉子 浅野千代子 小山良子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣武生 12板垣守正 13板垣正貫 川瀬美世子 中村朝子 乾一郎 宮地茂秋 本山信子 浅野一治 浅野房子 小山朝光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎正 三島拓子 板垣正明 秋山範子 14板垣退太郎 板垣直磨 川瀬勝世 杉崎光世 中村純子 髙岡眞理子 小山朝和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎公正 秋山竹生 秋山竹史 秋山百合 板垣裕子 板垣晶大 中村直敬 中村和敬 井深美香 髙岡功太郎 小山朝顯 小山朝英

家族[編集]

板垣退助と妻子の墓(品川神社裏)。
右から退助、絹子、正實、六一、清子、武生(鉾太郎長男・早世)
同じ墓域には乾信武と、正實の乳母・青木タキの墓もある。

墓所[編集]

板垣退助の墓(東京・品川神社裏)
  • 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は三番目の妻小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まで全て「榧之内十文字」の紋が付けられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)。
  • 安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地 高知県高知市洞ヶ島町5-3)
  • 品川神社 - 江戸で客死した退助の祖父・信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は四番目の妻福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、明治維新100年・板垣伯薨去50回忌を記念して、板垣退助先生顕彰会によって建てられた佐藤栄作の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地 東京都品川区北品川3-7-15。昭和53年11月22日品川区史跡に指定されている)

著作[編集]

板垣退助の墓(高知・板垣山)
  • 『板垣政法論』、板垣退助述、植木枝盛記、五古周二編、自由楼、1881年
  • 『通俗無上政法論』、板垣退助立案、植木枝盛記、和田稲積編、絵入自由出版社、1883年
  • 『板垣伯意見書』、板垣退助述、憲政党党報局、1899年
  • 『板垣南海翁之意見』、板垣退助述、郷敏儒、1890年
  • 『愛国論』板垣伯立案、出射吾三郎編、吉田書房、1890年
  • 『自由党史』(上下巻)、板垣退助監修、宇田友猪和田三郎共編、五車楼、1910年/岩波文庫 上中下巻 初版1958年、復刊1997年ほか
  • 一代華族論』、伯爵 板垣退助著、社会政策社、1912年
  • 『選挙法改正意見』、板垣退助著
  • 『板垣退助先生武士道観』、板垣退助著、高知 板垣會、1942年
  • 『憲政と土佐』、板垣會編、1941年

脚注[編集]

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補註[編集]

  1. ^ 板垣家と坂本家の関係は、坂本龍馬の実祖父・山本覺右衛門信固の実弟である宮地順右衛門信貞の曾孫・宮地茂春が退助の次女と婚姻したことによる。(宮地茂春の子・宮地茂秋は、坂本龍馬、板垣退助、両方の遺伝子を受け継いでいると言われる)また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。
  2. ^ 退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。[2]
  3. ^ 『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
  4. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。[5]
  5. ^ 板垣を中央に右が後藤象二郎と左が乾正厚との所伝がある。
  6. ^ 「花菱」紋を陰陽反転したもの。この頃は、武田氏も「四つ割菱」紋はまだ用いてはおらず「四つ割菱」紋を陰陽反転したものでは無い。
  7. ^ 俗説に、板垣の紋は「五三の桐」と言うが、品川神社裏の墓石などによれば板垣の紋は葉脈の数が三本、葉型は鬼葉(刻みの尖った葉)で、花が描かれており「五三の桐」とは形が全く異なる。

出典[編集]

  1. ^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、1985年(昭和60年)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、2006年(平成18年)。[1]
  2. ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年、『自由党史』
  3. ^ 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
  4. ^ 『迅衝隊出陣展』39頁
  5. ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
  6. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
  7. ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
  8. ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
  9. ^ ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月17日閲覧。[リンク切れ]
  10. ^ 壮年期の板垣退助の写真公開 明治初期 子孫が保管”. 高知新聞. 2015年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月13日閲覧。
  11. ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
  12. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  13. ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
  14. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  15. ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
  16. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  17. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  18. ^ たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104
  19. ^ 維新史の片鱗1921
  20. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  21. ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
  22. ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
  23. ^ 永原一照次男
  24. ^ 板垣退助五男、絶家再興
  25. ^ 乾正春の養子となる
  26. ^ 板垣退助次男
  27. ^ 乾正厚の養子となる
  28. ^ 乾友正家の絶家再興
  29. ^ 墓碑銘に「板垣退助次男 乾正士」とあり。所在地:大阪府池田市五月山(昭和46年(1971年)3月高知県高知市より移葬)
  30. ^ 墓碑銘に「板垣退助三男 板垣孫三郎」とあり。所在地:高知県高知市薊野東町 乾・板垣家歴代墓所
  31. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助四男 板垣正實」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
  32. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助五男 板垣六一」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


先代:
乾正成
土佐板垣(乾)氏当主
第10代:1860年 - 1919年
次代:
板垣守正
公職
先代:
芳川顕正
芳川顕正
日本の旗 内務大臣
第13・14代:1896年4月14日 - 同9月20日
第17代:1898年6月30日 - 同11月8日
次代:
樺山資紀
西郷従道
日本の爵位
先代:
叙爵
伯爵
板垣家初代
1887年 - 1919年
次代:
(爵位返上)