板垣退助

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板垣 退助
いたがき たいすけ
ITAGAKI Taisuke.jpg
1906年頃(70歳頃)
生年月日 1837年5月21日
天保8年4月17日
出生地 日本の旗 日本 土佐国高知城下中島町
(現、高知県高知市
没年月日 (1919-07-16) 1919年7月16日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市
前職 武士土佐藩士
所属政党 幸福安全社→愛国公党愛国社
国会期成同盟自由党
愛国公党(再興)自由党
憲政党
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 林益之丞政護妹(正妻)
中山弥平治秀雅次女(継妻)
板垣鈴(継妻)
板垣絹子(継妻)
板垣清女(権妻)
子女 板垣鉾太郎(長男)
乾正士(次男)
板垣孫三郎(三男)
板垣正実(四男)
乾六一(五男)
片岡兵子(長女)
宮地軍子(次女)
小川腕子(三女)
浅野千代子(四女)
小山良子(五女)
親族 乾正清(五世祖父)
乾直建(高祖父)
乾正聰(曾祖父)
乾信武(祖父)
乾正成(父)
片岡光房(娘婿)
宮地茂春(娘婿)
小川一眞(娘婿)
浅野泰治郎(娘婿)
小山鞆絵(娘婿)
板垣守正(孫)
板垣正貫(孫)
乾一郎(孫)
宮地茂秋(孫)
川瀬徳太郎(孫婿)
杉崎光世(曾孫)

日本の旗 第13代 内務大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日

日本の旗 第10代 内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1896年4月14日 - 1896年9月20日
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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日)は、日本武士(土佐藩士)、勤皇志士軍人政治家自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵明治維新元勲。「憲政の父・国会を創った男」として知られる[1]

概略[編集]

幕末土佐藩武力討幕派の重鎮として薩摩藩に対し「薩土討幕の密約」を結ぶ。これに基づき土佐藩の兵制を改革して近代式練兵を行った。鳥羽伏見の戦い開戦後は、天皇陛下御親征東山道総督府軍参謀・迅衝隊総督となり戊辰戦争で活躍する。また、甲州勝沼の戦い会津攻略戦に軍功著しく、日光東照宮を戦禍から守る。土佐藩陸軍総督。絶対尊皇主義者として知られ「君主」は「」を本とするので、「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[2]自由民権運動の主導者であり「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受ける。自由民権運動の思想は、尊皇思想を基礎とし、その柱を五箇条の御誓文に求めるもので、特にその第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は重視され、国内へは「国会の開設」、国外へは「不平等条約の撤廃」等を求めた[3]。さらに国民皆兵を断行するため太政官の許可を得て全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[3]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられた[4]天皇護衛のための軍隊御親兵の創設に盡力。この御親兵がのちの陸軍近衛師団の前身となる[3]。薨去後も民本政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。帝国議会ならびに現在の自民党の源流となる愛国公党自由党の創始者[5]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

生誕地(高知県高知市

天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現・高知県高知市本町通2丁目)に生まれる。幼名猪之助。退助は通称は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。無形(むけい)。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友

少年期[編集]

少年期は腕白そのもので、義侠心に富み、弱い者いじめをする者には敢然と喧嘩で応戦したという。これは母の影響が大きく、退助は晩年、この事を聞かれ自分の少年時代を振り返り次のように述懐している[6]

母が予(退助)を戒めて云ふに「喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ」、また喧嘩に負けて帰れば「男子たるもの仮りにも喧嘩をするなら必ず勝ってこい」と母は叱って直ぐに門に入れない。成長すると「卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬ」と教えられた[6]

また、真冬に乳呑み児を抱えた貧窮した女性に、着物を与えたるなど、上士と下士の身分が確立されていた徳川藩政期の中で、庶民と分け隔てなく交わった人物として知られる[7]

青年期[編集]

大叔父・谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より無双直伝英信流居合を習い、若くして後継者の一人と目されて林弥太夫政敬(第14代宗家)の孫娘を最初の妻に迎えるがのち離縁[8]。(離縁された妻は、林家に戻り、小笠原茂常(大四郎)の五男・茂平と婚し、茂平が入婿となり林姓を継ぐ。戊辰戦争の時の軍監・林茂平(亀吉)がその人である[8]。(堺事件を参照))次に親族・中山弥平治秀雅の次女を妻に娶るも、程無く離縁している[8]。退助は居合無双直伝英信流柔術呑敵流の達人であった。

神田村謫居[編集]

安政3年8月8日(1856年9月6日)、係争に加わり罪を得て、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に謫居となる。廃嫡の上、追放という重い処分であったが、ここでも身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得た[7]。この同じ時、吉田東洋岩崎弥太郎も別件で罪を得て蟄居の身にあり、吉田東洋は退助の寓居を訪れて自塾への就学を奨励したが、退助はその申し出をつぎの様に断っている[3]

苟(いやし)くも侍たる者、山野(さんや)を駈けるを以て學び、知力を養ひ、武を以て尊び、主君(きみ)の御馬前に血烟(ちけむり)を揚げて、鎗の穂先の功名に相果て、露と消ゆる覺悟あらば總て事は足れり[3]

これに対し、吉田東洋は「およそ侍たる者、忠を盡し藩公の馬前に相果てる心掛けは、申すに及ばず尋常当然である。けれども、その限りで終わるのは小兵卒(こざむらい)であって、汝(退助)は大将の器があり、大業を成すにあたって学問をせずにどうするのか」と士は「武」に限らず「文」に通じなければならないことを諭す[3]。しかし、退助は自論を曲げず、東洋の誘いを断り、東洋の開いた長浜村鶴田の少林塾に通うことは無かった[3]。(後藤象二郎福岡孝弟岩崎弥太郎などは通っている[3]) その代わり兵法書の『孫子』を独学で熟読し、暗記するほど熱中した[3]

恩赦と復職[編集]

一時は家督相続すら危ぶまれたが、藩主の代替わりの恩赦によって、廃嫡処分を解除され、高知城下へ戻ることを許された。父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督を相続[8]

藩政に復職し、免奉行(税務官)を務める。その場所は前年、騒動があり農夫たちが、藩政に抗議する人たちがいた地域であったため、藩庁は気の荒い退助を送り込んだのだが、退助は平伏して遠慮がちに話をする農夫たちを見て「万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てください」と語った[注 1]

江戸へ出向[編集]

文久元年10月25日(1861年11月27日)、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日(太陽暦12月22日)、高知を出て江戸へ向かう[8]

勤皇の誓い[編集]

文久2年6月(1862年7月)、小笠原唯八佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤皇に盡忠することを誓う[9]

幕府といえども追討して違勅の罪を問ふべき[編集]

文久2年10月17日(1862年12月8日)夜、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、退助は尊皇攘夷を唱える[10]

朝廷の御趣意、御遵奉して攘夷の議に決すべく候ふて、幕府(も)し勅命(ちよくめい)遵奉(じゅんぽう)これなき時は追討して違勅の罪を問ふ可(べ)なり。乾退助
(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條)

文久3年1月4日(1863年2月21日)、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日(太陽暦2月28日)、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日(太陽暦3月4日)、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議した場に同席。4月12日(太陽暦5月29日)、土佐に帰藩する[8]

中岡慎太郎と胸襟を開いて国策を練る[編集]

文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、退助は藩の要職を外されて失脚。中岡慎太郎は失脚した直後の退助を訪ねた。退助は中岡に「君(中岡)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君(中岡)は京都で私(退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。慎太郎は「滅相もございません」とシラを切ったが「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、乾に度胸を気にいられ「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった。その後、二人はお互いの立場を生かして尊皇攘夷を実現するために、乾退助は藩内から(上から)の活動を行うため土佐藩の要職に復帰、中岡は藩外から(下から)の活動を行うため土佐藩を脱藩して長州へ奔った[11]

再び江戸へ[編集]

慶応元年1月14日(1865年2月9日)、洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注 2](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[12]。慶応2年11月(1866年12月)、薩摩藩士の吉井友実らと交流する[7]

水戸勤皇浪士隠匿事件[編集]

慶応3年2月(1867年3月)、水戸浪士の中村勇吉相楽総三、里見某らが退助を頼って江戸に潜伏。退助は江戸築地の土佐藩邸に独断で彼等を匿う[7]。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)

薩土討幕の密約[編集]

薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、退助は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張していた。慶応3年5月(1867年6月)、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩船越洋之助らとともに中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎が、仲介して退助を薩摩西郷隆盛に会わせることとなり、中岡は以下の手紙を書いた[7]

一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。

(慶応三年)五月廿一日  清之助[13]再拝

(西郷)南洲先生[14]玉机下

これにより、同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居で、土佐藩の谷干城毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土討幕の密約を結ぶ。翌日5月22日(太陽暦6月24日)、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げた[7]。また、薩摩藩側も討幕の密約締結の翌日にあたる5月22日(太陽暦6月24日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された[7]

中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため土佐勤王党の同志に「乾退助を盟主として、薩摩土佐の間で武力討幕の密約」が締結されたことを知らせる「檄文」を飛ばし賛同者を集めた[15]

(入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結ぶ)

武器調達と軍制近代化[編集]

アルミニー銃

慶応3年5月27日(1867年6月29日)、薩土討幕の密約に基づき退助は谷干城中岡慎太郎らに大坂アルミニー銃英語版(Albini-Braendlin_rifle)300挺の購入を命じ、自身は容堂に随行して6月2日(太陽暦7月3日)に土佐に帰国。

6月16日(太陽暦7月17日)、町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告し、7月17日(太陽暦8月16日)に銃隊設置の令を発した。さらに7月22日(太陽暦8月21日)、古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織し兵制改革近代式練兵を行った(迅衝隊の前身)。8月6日(太陽暦9月3日)、乾は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。別府彦九郎、小笠原茂連らが江戸より上洛する。8月20日(太陽暦9月17日)、退助は土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。

土佐勤王党員を釈放[編集]

慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、七郡勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。同9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬らもこれに呼応して長崎より銃器を携えて帰国した。10月(太陽暦11月)、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。(この浪士たちが、のちに庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)

大政奉還により失脚[編集]

土佐藩は、退助の主導のもと、軍制近代化と武力討幕論に舵を切ったが、後藤象二郎が「大政奉還論」を献策すると、藩論は過激な武力討幕論を退け、大政奉還論が主流となる。退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した[8]

大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり[16]。乾退助

しかし、その思いも虚しく慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還が成される。

勤皇派藩士集団脱藩挙兵計画[編集]

全役職を解任されて失脚した退助は、京都で合戦が始まれば、薩土討幕の密約に基づき国元の勤皇派同志 数百名と共に脱藩して武力討幕の軍に加わるため、脱藩決意書をしたためた。以下はその全文[3]

此度、私共御下知に先だち、皇京(みやこ)の急難に趨(おもむ)き、御国(おくに)の為、死力を盡し候儀、聊(いささか)も軽挙に相当らず可きと申すやに候得ども、根元 両殿様、宇内(うだい)の形勢、御洞察あそばされ、先年ならび已來、尊攘の大義、時々御告諭おおせつけられ候を以て、義勇の御誠意、私供の心魂に相徹し、自然(じねん)一箇敵愾の気と相成り候上は、今日に当り未だ出陣おおせつけられず候得ども、従来の御本意に相基づき、眼前の変動は今更とどまり難たく、やむをえず、暫時の御暇を願いたてまつり候。抑(そもそ)も今日(こんにち)に至り、幕府の大罪は枚挙にいとまあらず候儀に相したため候。就いては、それの年 勅命、初めて幕府に下り候みぎり、奉(ほう)違(い)の二途に拠り、御去就をお定め思召しあそばされあらせられ候以来、追々世運に従い御動静も種々あらせられ候得ども、勤王の御誠意は前後とも御一貫にあらせられ候を以て、御国(おくに)の御令聞、御美名赫々(かくかく)として親父母の如く仰望たてまつり、隨て御臣下の者共感喜踊躍(ようやく)相競い罷りあり候ところ、今日(こんにち)に至り候ても御実行の相顕われ申さず候を以て、漸(ようやく)く有名無実の御虚飾と相唱え候者もこれあり哉(や)に承知致し候。然(しか)るに当今、幕府の逆炎、益々相募り、外夷に諂(へつら)い、微弱の 朝廷を凌侮(りようぶ)し、元悪大憝、苟(いやし)くも 皇国(すめらみくに)の恩(みたまのふゆ)を知る者、扼腕切歯に不堪(たへざる)場合、薩州侯と仰せ合せられ御上京の上、 皇国(すめらみくに)の御基本に御立返りあそばされ候に付、必死の分を相盡し候様、以下まで拝承おおせつけられ、実を以て一同踊躍(ようやく)まかりあり候ところ、不計(はからずも)御病症の御発動あらせられ、やむを得ず御帰国あそばされ候に付、彼藩(かのはん)に於ても一同落膽(らくたん)仕(つかまつ)り候趣。剰(あまつさ)へ御側の姦吏の所爲にも候哉(や)。薩侯、御内談の事ども、会藩へ漏れ候事件もこれあり候趣(おもむき)を以て、彼藩の者ども御国(おくに、土佐藩のこと)を指し、反覆と相唱へ候趣)、内々相聞へ候。然(しか)るに後藤象二郎 大政奉還の儀を相唱へ、彼藩(かのはん)と盟約(めいやく)の趣(おもむき)を以て、尚(なほ)又(また) 思召(おぼしめ)し伺(うかが)いたてまつり候処、御別慮なされず、再び御懸合(かけあわせ)に相成り候趣に候得ども、「有文事者必有武備」の定理(ぢやうり)をも相辨(わきま)へず、口舌(くぜつ)を主張し、一兵をも率いず、且(かつ)前議と齟齬(そご)の筋もこれありを以て、彼藩疑念相蓄(あいたくわえ)、差迫(さしせまり)候密事も相謀(はかり)申さず、進退(しんたい)維(これ)に至り候趣、勿論(もちろん)象二郎に於ては頓着これなきに候得ども、堂々たる大国、互いに大事を謀(はか)り、有始無終の謗(そしり)を受け候様に相成り候ては、祖宗千載の御瑕瑾(きづ)に相成り、 両殿様の御意(ぎょい)外の御恥辱と存入(ぞんじいり)、私供、死生を顧みず、乍恐(おそれながら)是迄(これまで)の御志(おこころざし)を継ぎ、違 勅の幕臣を払い、一度(ひとたび) 今上(きんじょう)之御宸襟(しんきん)を奉安(ほうあん)候功業を以て、 両殿様、御恩澤(おんたく)の萬に一を報じたてまつりたく、又、志を貫き申さざる節は、一切の悪名(あくみょう)私供が甘受つかまつり、御国(おくに)後来の御迷惑は決して相懸け申さず、赤心(せきしん)存じ入り候処、神明(しんめい)に誓い聊(いささ)か虚辞これ無き候に付、千万(せんばん)格別(かくべつ)の御仁恕(じんじょ)を以て、右件之通り、暫時之御暇、一同願いたてまつり候。
乾 退助[17][3]

この乾退助による、勤皇派藩士集団脱藩計画は、実行寸前のところで、最終的には土佐藩自体が退助の失脚を解いて盟主に奉りあげ、正規の軍隊として迅衝隊を組織し出陣することになった[18]

土佐藩兵の上洛[編集]

慶応3年12月(1868年1月)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。12月28日(太陽暦1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城薩摩長州安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(太陽暦1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治北村重頼二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。その後、錦の御旗が翻る。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月9日(太陽暦2月2日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[19]

初陣で大勝利[編集]

迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉真辺正精西山榮北村重頼別府彦九郎

戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、御親征東山道総督府軍先鋒の参謀としての任務を与(あず)かった。天領甲府城の掌握の前哨基地となる美濃大垣に向けて京都より出陣した慶応4年2月14日(1868年3月19日)が、乾家の祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具定らの助言を得て、板垣氏に姓を復した。

この策が講じて3月6日(太陽暦3月29日)甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破した。

愈々ご壮栄にてご進発のこと恐賀奉ります。

甲府表では(近藤勇のひきいる甲陽鎮撫隊甲州勝沼で撃破壊滅させたこと)大手柄でありました由を承りまして嬉しく思い、官軍の勇気もよほど増しまして大慶に存じます。さて、大総督府から江戸に打入りの期限をご布令になりまして、定めてご承知になっている事と存じますが、それまでに軽挙のことがあっては、厳に相済まないことです。静寛院宮様の御事について田安家へお申し含めの事もあり、また、大久保(一翁)等の人々もぜひ道を立てようと、ひたすら尽力していると云うことも聞いておりますから、此度の御親征が私闘のようになっては相済まず、玉石相混ぜざるおはからいもあるだろうと存じますれば、十五日以前には必ずお動き下さるまじく、合掌して頼みます。じねん、ご承諾下さるであろうとは信じておりますが、遠くかけへだたっておりますこと故、事情が通じかねるだろうとも思いますので、余計なことながら、この段、ご注意をうながしておきます。恐惶謹言。
(慶応4年)三月十二日 西郷吉之助
乾退助

川田佐久間

この復姓はその後に江戸に東征する際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。

参謀板垣正形等進んで八王子に至る。旧幕府同心の長・山本弥左衛門等書を上(たてまつり)て、徳川氏の為に乞(こ)ふ。正形、之(これ)を諭(さと)すに順逆を以てし、速(すみやか)かに順し、王事を勤(いそし)めしめと某等誓書を上る。(『復古記』)

会津を攻略[編集]

東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの軍功を上げた。特に会津攻略戦での采配は「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ、賞典禄1,000石を賜っている。明治元年12月(1869年1月頃)には土佐藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。

官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せた。

版籍奉還の上表[編集]

明治2年1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣土佐藩の板垣退助が京都円山端寮(現在地・円山公園 坂本龍馬中岡慎太郎像建立地北部)で、薩摩藩の吉井友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての会合を行った[20]。3藩は合意し、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主、薩摩藩の島津忠義、長州藩の毛利敬親、土佐藩の山内豊範、肥前藩の鍋島直大が連名で新政府に対して明治2年1月20日に版籍奉還の上表を提出した。上表は、国立公文書館で公開されている[21]明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還が勅許あらせられる。

戊辰の敵方を軍事顧問に採用[編集]

戊辰戦争で勝利した板垣退助は、御親兵の創設を構想して、明治2年5月(1869年6月頃)、旧幕側フランス人将校・アントアンや、旧伝習隊沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用しフランス式練兵を行う。

国民皆兵と四民平等[編集]

明治3年閏10月24日(1870年12月16日)、高知藩の大参事となった板垣は、国民皆兵を断行するため海路上京し、11月7日(1870年1月7日)、「人民平均の理」を布告する事を太政官に具申。その許可を得て12月10日(太陽暦1月30日)高知に帰り、12月24日(太陽暦2月13日)山内豊範の名をもって全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[3]

夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにして、特に靈妙の天性を具備し、智識技能を兼有し、所謂萬物の靈と稱するは、固(もと)より士農工商の隔(へだて)もなく、貴賤上下の階級に由るにあらざる也。然(しか)るに文武の業は自ら士の常職となりて、平生は廟堂に坐して政權を持し、一旦緩急あれば兵を執り亂を撥する等、獨(ひと)り士族の責(せめ)のみに委(まか)し、國家の興亡安危に至りては平民(へいみん)(かつ)て與(あづ)かり知らず、坐視傍觀の勢となり行きしは、全く中古封建制度の弊にして、貴重靈物の責(せめ)を私(わたくし)し、賤民をして愈賤劣ならしむる所以也。方今、王政一新、宇内の變革に基き、封建の舊を變し、郡縣の政體を正さんとする際に當りて、當藩(土佐藩)今や大改革の令を發するは、固(もと)より朝旨を遵奉し、王政の一端を掲起せんと欲すれば也。故に主として從前士族文武常職の責(せめ)を廣く民庶に推亘し、人間は階級に由らず貴重の靈物なるを知らしめ、各自に智識技能を淬勵(さいれい)し、人々をして自主自由の權を得せしめ、悉皆其志願を遂(と)げしむるを庶幾するのみ。抑(そもそ)も古(いにし)へ士と稱するは有志有爲の稱にして、必ずしも門閥の謂(いひ)にあらず、然(さ)れは其(その)多妙の性に基(もとづ)き、更に智識技能を長進し、報國の誠心を盡さんとするは、凡(およ)そ人たる者の天地間に逃れざる大義にして、殊(こと)に皇國は人の資質純厚、義氣最も烈しき風俗なれば、今、一般文明開化の道を講習し、各處に學校を興し敎育を隆にし富強を謀り、士民競起憤發の域に勸進せしめ、大に舊習を變し、務めて新得を來すは、實に當今の一大の急務にあらずや。既に近頃(ちかごろ)普佛の戰爭に、佛國(フランス)屢(しば)々敗を取ると雖(いへど)も、其民、擧國憤興し、愈報國の志強く、其(その)都府(とふ)長圍を受けて猶屈せさるを聞けり。是(これ)亦人を重んずる制度の善なるを見るに足る。故に皇國をして萬國に對抗し、富國の大業を興さしめんには、全國億兆をして各自に報國の責を懷かしめ人民平均の制度を創立するに如くは無し。若(もし)夫(そ)れ改革の條件、其細目に至つては、往々布告の令に據て之(これ)を詳(つまびらか)にすべし。或(あるい)は其意を誤認して、士族は文武を廢し、安逸に就(つ)き、平民亦(また)其職に惰り、且つ徒(いたづ)らに士族の貴を抑(おさ)へ、民庶の賤を揚ぐる等の疑惑を生す可からず。唯今日(こんにち)宇内の形勢を審(つまびらか)にし、朝廷大變革、開明日新の事情に通し、人間貴重の責をして士族に私(わたくし)し、平民をして賤陋(せんろう)に歸せしむるの大弊を一洗し、人民自己の貴重なるを自知し、各互に協心戮力、富強の道を助けしむるの大改革にして、畢竟(つまるところ)民の富強は卽ち政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱、所謂(いはゆる)民ありて然(しか)る後ち政府立ち、政府立ちて然(しか)る後ち民其生を遂ぐるを要するのみ。 明治三年庚午十一月   (土佐藩布告『人民平均の理[22]』)

御親兵の創設[編集]

板垣退助は富国強兵を国策に掲げ、明治4年2月(1871年3月)、明治天皇親衛を目的とする薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。国家の常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保する事に成功した。この御親兵近衛師団の前身にあたる[3]

廃藩置県[編集]

廃藩置県

明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。

10時に鹿児島藩知事島津忠義山口藩知事・毛利元徳佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅[23]を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝熊本藩知事・細川護久鳥取藩知事・池田慶徳徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。板垣は、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信らとともに参与に任ぜられた。

征韓論争[編集]

朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの征韓議論。(1877年明治10年)鈴木年基作)

明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまりに及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。

国会開設の請願[編集]

幟仁親王が揮毫した御誓文の原本[24]

野に下った退助は五箇条の御誓文の文言「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を根拠に、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、明治7年(1874年)1月12日、同志を集めて愛国公党を結成。後藤象二郎らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出したが時期尚早として却下される。

臣等伏して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上は帝室(すめらみこと)に在らず、下は人民(おほみたから)に在らず、而(しか)も独り有司に帰す。夫れ有司、上は帝室を尊ぶと曰(い)はざるに非(あら)ず、而して帝室漸く其尊栄を失ふ。下は人民を保つと曰はざるに非らず、而も政令百端、朝出暮改、政情実(まこと)に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽、困苦告(つぐ)るなし。夫(そ)れ如是(かくのごとく)にして天下の治安ならん事を欲す。三尺の童子も猶(なほ)其不可なるを知る。因仍改めずば、恐くは国家土崩の勢を致(いた)さん。臣等愛国の情自ら已む能はず、乃(すなは)ち之(これ)を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張る在る而已(のみ)。天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在る而已(のみ)。則(すなは)ち有司の権を限(かぎ)る所あつて、而して上下安全、其の幸福を受る者あらん。請(こ)ふ遂に之(これ)を陳(ちん)ぜん。(『民撰議院設立建白書』冒頭)
民撰議院設立建白書・序文
大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ
大阪府大阪市中央区北浜

そのため、地方から足場を固めるため、高知に戻り立志社を設立。さらに、全国組織に展開を図り大阪を地盤として愛国社の設立に奔走。その最中、明治8年(1875年)、「『国会創設』の活動を行うならば、下野して民間で活動するより、参議に戻って活動した方が早い」との意見もあり、大阪会議によって参議に復帰。一定の成果を見たが「政府に取り込まれた」と批判的な意見もあり、間もなく官を辞して再び野に下り自由民権運動を行った。

自由党の結成[編集]

板垣退助の岐阜遭難事件

明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月6日岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 3]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[26]

「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。

かつて『報知新聞』の記者であった某氏によると、この「『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にした」という事を聞き取材を重ねたが、それを裏付ける証拠が無く記事にする事を断念した。板垣自身は、当時の様子を下記のように記している。

「予(板垣)は人々に黙礼して二、三歩を出づるや、忽ち一壮漢あり『国賊』と呼びつつ右方の横合より踊り来つて、短刀を閃かして予の胸を刺す。(中略)内藤魯一、驀奔し来り兇漢の頸(くび)を攫(つか)んで仰向に之(これ)を倒す。白刃闇を剪いて数歩の外に墜つ。予(板垣)、刺客を睥睨して曰く『板垣死すとも自由は死せず』と。刺客は相原尚褧といふ者…(以下略)」(『我國憲政の由來』板垣退助著[27])

4月6日の事件後すぐに出された4月11日付の『大阪朝日新聞』は、事件現場にいあわせた小室信介が書いたものであるが「板垣は『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており[28]、他紙の報道も同様で、東京の『有喜世新聞』では「兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ[29]」等と当時に於いてこれを否定する報道は一つも無く、事件現場の目撃者らを初め相原尚褧自身も板垣の言説を否定していない。

さらに、近年、政府側の密偵自由民権運動を監視していた立場の目撃者・岡本都與吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身が同様の言葉を襲撃された際に叫んだという記録が発見され今日に至っている[30]

  • 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より)
  • 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察御用掛(政府密偵)・岡本都與吉)の上申書より)
  • 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)
  • 「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)- 事件現場にいた小室信介の筆記
  • 「板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
  • 「たとい退助は死すとも自由は死せず[31]」 - 事件現場にいた岩田徳義の筆記

板垣洋行とルイ・ヴィトン[編集]

岐阜事件後の11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。この時、フランスで購入したルイ・ヴィトンの鞄は、「現存する日本人が購入したルイ・ヴィトンの鞄として最古」のものである[32][33][34]

加波山事件と自由党の解党[編集]

明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。

叙爵の恩命と三顧の礼[編集]

明治20年(1887年)5月9日戊辰戦争の武勲と明治維新の功労を賞せられ、「伯爵」の位を賜り華族に列せらる。しかし、板垣は、維新以来、一君万民、四民平等を唱えてきたため、爵位を受けることは平生の主義に背くため、栄典を辞退することに決し、5月25日、上京して宮内大臣・伊藤博文を訪ねたが、不在のため、宮内次官・吉井友実に面会して事情を陳じた。さらに三條実美内府を訪い、また黒田内閣顧問を訪ね、叙爵撤回に奔走したがその志を果すことが出来なかった。6月9日になり、板垣は、吉井宮内次官を通して以下の「辞爵表」を奉呈した[35]

辭爵表                臣退助、

伏して五月九日の勅を奉ず。

陛下特に 臣を伯爵に叙し華族に列せしむ。天恩の優渥なる 臣誠に感愧激切の至りに任(た)へず、直ちに闕下に趨(はしり)て寵命を拝すべき也。而(しか)して 臣退(しりぞき)て窃(ひそ)かに平生を回顧するに 臣、素(も)と南海一介の士。朴忠(ぼくちゅう)自(おのず)から許す。常に君に事(つか)へて身を忘れ、國に報(むく)ひて家を遺(わす)る。嘗(かつ)て維新中興の運に会し、錦旗を奉じて東北戡定の功を奏すと雖(いえど)も、是れ皆、

陛下威霊の致す所。而して、

陛下 臣を賞するに厚禄を以てし、並に物を賜ふ事若干、次て参議に任じ正四位に叙せらる。

陛下の知遇を受くる已(すで)に極まり、人民の榮、之(これ)に過ぎず、何ぞ圖(はか)らん、今又此の非分の寵命を辱(かたじけの)ふせんとは。臣、唯惶懼措く所を知らず。抑(そもそ)も 臣が身は廊廟を去り江湖に在るも、其夙夜に以て、

陛下に報ひ國家に盡すの赤心は何ぞ嚢日に異ならん。一朝事あり闕に詣り、

陛下に咫尺(しせき)し以て 臣が説を進むるを得ば、臣の願既に足れり。尚(な)ほ何ぞ伯爵に叙し、華族に列するの特典を拝するを須(もち)ひんや。且(かつ) 臣、平生衷に感ずる所あり、高爵を拝し貴族に班するは、臣に於て自(みづ)から安(やす)んずる能(あた)はず縦令(たとえ)、

陛下の仁愛なる、臣が舊功を録し重ねて特典の寵命を下さるるも、臣にして敢(あえ)て天恩に狃(な)れ一身の顯榮を叨(みだ)りにする事あらば則ち 臣復(ま)た何の面目を以て天下後世の清議に對せんや。因(よっ)て 臣茲(ここ)に表を上(たてまつ)り謹(つつしん)で伯爵並に華族に叙列するの特典を辭す。伏して願くば、

陛下 臣が區區(おりおり)の衷情を憫み、其狂愚を咎めず、以て 臣が乞ふ所を聽(ゆる)されん事を。慚懼懇款の至りに任(た)へず、臣退助誠惶誠恐頓首頓首。

明治二十年六月四日        正四位 板垣退助(『辭爵表[35]』)

6月11日吉井宮内次官は天命を奉じて板垣を邸に招き、「陛下(明治天皇)は貴下の『辞爵表』を奏聞されるや、御嘉納あらせられず、深く叡慮を煩わせれておられる。よって速やかに前志を翻して受爵されるように」と諭される。さらに6月14日、内閣は、三條内府吉井次官、各大臣を参集して秘密会議を開き「板垣辞爵問題」に関して、あくまでも板垣を受爵させることを再確認した。一方、板垣は6月26日、東京在留の旧自由党員140名余を浅草の鴎遊館に招き「辞爵理由」について説明演説を行った[35]7月7日、板垣は『再辞爵表』を上書し「自分が今、叙爵の寵命を固辞する理由は、封建門閥の弊習を取り除き、四民平等を宣した維新の精神を守ろうとするものである」として、辞爵を再請願した。 翌7月8日、宮内省書記官・桜井能監が板垣の滞在先である芝の「金虎館」を訪ね、「陛下の叡慮は前日と変わらない」旨を告げ『再辞爵表』を差し戻される。頑固な板垣を説得することに周囲が混迷する中、伊藤博文から依頼を受けた竹内綱が「三度の拝辞は不敬にあたる」という三顧之礼の故事をひいて諭し、ようやく板垣の心を動かすことが出来た[36]7月15日、板垣は参内して『叙爵拝受書』を奉呈した[37][38]

岐阜兇漢に対する助命嘆願と特例恩赦[編集]

岐阜事件後、板垣退助自身が相原尚褧に対する助命嘆願書を提出、相原は極刑を避けられて無期徒刑となる。明治22年(1889年)『大日本帝国憲法』発布による恩赦に関しては、当初は「相原尚褧は国事犯ではない」とされ「恩赦」の対象外であった。これは、相原が暗殺を企てた当時、板垣退助は参議(公職)を辞し民間にあったため、単なる「民間人に対する殺害未遂」として裁かれた為である。しかし、自由民権運動の逮捕者が国事犯として恩赦の対象となり、また、板垣が相原に刺された際、畏くも明治天皇御自らが「板垣は国家の元勲なり」と、勅使を差し向け御見舞いあらせられた事、事件の要因が私怨にあらず「国会を開設すべきか否か」と言う問題にある点などを挙げれば、「民間人に対する殺害未遂」ではあるが「国事犯」としての要素を勘案すべきとする問題が生じ、恩赦歎願書が再び奉呈され、これらが認められて恩赦の対象となった[39]

相原の改心と謝罪[編集]

明治22年(1889年)、相原尚褧が恩赦となった当時、板垣退助は東京市芝区愛宕町の寓居に住んでいたが、相原は河野廣中八木原繁祉両氏の紹介状を得て、同年5月11日、八木原氏に伴われて板垣に謝罪に訪れた[39][40]。板垣は相原に「この度は、つつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ参らす」と声をかけると、相原は畏まり「明治15年(岐阜事件)の時の事は、今更、申すまでもございませんが、更に、その後も小生の為に幾度も特赦のことを働きかけて下さった御厚意につきましては幾重にも感謝している次第であります」と礼を述べた。そして相原は逮捕直後に岐阜で撮影された自分の写真を一枚取出し「これを御覧ください。これは小生が伯(板垣)を怨んでいた頃、岐阜で撮影した写真でございます」と板垣に見せた[39]。板垣は「そうでございますか。その時よりは如何にも今は年が老られて見えます。私の知人で自由民権運動家の者で、北海道の監獄に入った者も出獄した時には例外なく年老て見えます。久しき間の御苦労をお察し申し上げます」と感想をもらした[39]。さらに相原はまた一枚の写真を取出して板垣に見せた。「これは、特赦の後に撮影した最近のものですが、小生が謝罪に参りました記念の証として差し上げたいと思っております。伯ももしよろしければ、ご自身のお持ち合せの写真を一枚頂けないでしょうか」と尋ねた。板垣は「左様ですか。いかにも私も一枚、お渡ししたいのですが、近頃、写真を撮る機会が少なくて生憎、今、手許には、一枚もありません。高知の家にはあったと思いますので、帰郷した折を見て必ずお贈りしましょう。もしくは、ここ東京で写真を撮影する機会があればそれをお送りすることが出来るかもしれません。必ずお送りしますのでお待ち下さい」と云った[39]。さらに板垣は「私(退助)は今も昔もひとつも変わらず常に国家の事を考えて行動し、自ら『自分こそが国家の忠臣だ』と信じておりましたが、当時、貴殿は退助を以て社会の公敵と見做し刃を退助が腹に突き立てました。その二人が今は相い互いに相手の事を気遣って出会うとは、人の心の変遷はおかしなものです。後世の史家はあきれるでしょう…」続けて板垣は次のように言った[39]

「併(しか)しながら若(も)し此後、退助が行う事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば、その時はこう斬らるゝとも、刺さるゝとも君が思ふが儘に振舞ひめされよ」と申されたり。(中略)引續き種々の話ありたりしが、君(相原)が「もはや暇を玉はるべし」といはれしとき、伯(板垣)は起ちて「北地極寒、邊土惨烈と聞くが、御國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り参らする」と申されたり[39]

このようにして板垣は、相原の再出発を見送った[39]

しかし相原は殖民開拓の為、北海道へ渡る途上、遠州灘付近で船上から失踪した[41]。 船から落とされた、自殺した、または相原の背後で板垣殺人を企てていた組織に殺されたとも言われている。享年36歳。

帝国議会開設以後[編集]

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織し、第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治30年(1897年)3月、自由党総理を辞任している。

明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

晩年[編集]

政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正3年(1914年)には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。

大正8年(1919年)7月16日、肺炎のため薨去。享年83(満82歳)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は自ら廃嫡し家督相続を遅らせて華族の栄典を返上した[42][注 4]

栄典[編集]

位階
勲章等

肖像[編集]

年代別写真[編集]

武術[編集]

呑敵流[編集]

柔術呑敵流小具足術本山団蔵に学んだ。

板垣退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、とっさに呑敵流当身で反撃をした。敵の心臓を狙って肘で当身をしたが、力を入れすぎたために下にずれて腹部に当たった。のちの取り調べで相原尚褧が警察に痛みを訴えたため、調べてみると脇腹が黒いあざになっていたという。

岐阜事件のあと、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈り物をしてこのことを話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏したことを喜び呑敵流皆伝免状を授けたという。

相伝系譜
吉里呑敵齋信武 - 馬渕嘉平正保 - 本山団蔵重隆 - 板垣退助

居合[編集]

相撲[編集]

学問[編集]

赤穂山鹿流伝系[編集]

山鹿素行 - 大石良重 - 菅谷政利 - 太田利貞 - 岡野禎淑 - 清水時庸 - 黒野義方 - 窪田清音 - 若山勿堂 - 板垣退助

評価[編集]

維新の元勲として[編集]

  • 明治天皇 -「(明治15年4月7日)この日閣議の定日なりしも、俄(にわか)に之(これ)を中止し、参議・山県有朋参内して状を闕下に奏す。聖上(明治天皇)甚(いた)く宸襟を悩まされ『板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず』と宣(のたま)ひ畏くも侍従一名、侍医一名を差遣の御沙汰あり[55]
  • 大正天皇 -「板垣は、戊辰の親征に際してはを率いて先鋒となり、知略巧に兵を動かし、さらに明治維新の大政を参し、立憲政体の確立に尽して日本近代国家たらしめた。彼の尊皇の精誠は、生涯に亘(わた)って変わることが無かった。その功臣(板垣退助)が逝去したと聞いた。なんと悲しいことだろう。…それなので、侍臣を遣わして弔辞を述べるものである。御名御璽。大正8年7月18日[56]
  • 西郷隆盛 -「戊辰の役に死したるもの少なからざれど、之(これ)が爲に生きたるものは唯一人、君(退助)のみ[16][57]
  • 尾佐竹猛 -「板垣伯の勤王精神に付ては、改めて云ふ迄もない事であるが、土佐の藩論がやゝもすると佐幕に傾かんとするに際して、一死を賭(と)して薩長勤王の軍と行動を共にした板垣退助率ゐる勤王派の行動により土佐は薩長と並び稱せらるゝに至つたのである。次(つい)で板垣伯は官軍の重鎭として、その軍略に秀でた事は、西郷南洲をして敬服せしめた位であつた。そして會津落城の際に感じ得(え)た伯の思想が、後年の憲政思想の基礎を爲したことは餘りにも有名である[58][59]
  • 大野勇(高知市長) -「板垣退助先生は、天分絶倫、風格崇高、思想深邃、其の韜略(軍事的才能)は西郷南洲翁も敬服する所。夙(つと)に志を勤王に效(いた)して赫々(かくかく)たる武勲を戊辰東征に樹(た)て、廟堂(べうだう)に立ちて大政(たいせい)を參畫(さんくわく)せられた[59]

思想家として[編集]

  • 岩田寛和 -「板垣退助君は実に自由社会北斗なり。幼より器局(ききょく)あり、長ずるに及んで英捍豪相、将相の器を抱けり。幕政に慷慨悲憤の志を蓄(たくわ)へ、戊辰東征の役に出るや奥羽を征定し、帰して参与を拝し、後に進んで参議に累進す。征韓論に及び廟議と合はざるを以て終(つい)に冠を掛て退けど、杞憂愛国の志は益々厚く、天下に周遊して政党の結成に尽力し、今や已(すで)に自由党の総理に推挙せられ泰山北斗と仰がれたり[60]
  • 川田瑞穂 -「(板垣退助)先生の精神は天地と共にあり。國家の隆昌ならん限(かぎ)り、先生も亦(また)、國民の心の中に生くべし[59]
  • 川淵洽馬 -「(板垣退助)先生の先生たる所以(ゆえん)は固(もと)より形にあらず精神に存する事に候[59]
  • 島崎猪十馬 -「板垣先生は先憂後樂の至誠達識にして、不撓不屈の雄魂の人である[61]

憲政の父・政治家として[編集]

尊皇家として[編集]

  • 尾佐竹猛 -「伯(板垣)は政黨の總理である時でも言葉が一(ひと)たび皇室の事に及ぶと俄に席を起つて羽織袴に服装を改められた事と云ひ、また途中、陛下のお手植の松の前を通られる時などには恭しく敬禮せられたる謹嚴な態度を私(尾佐竹猛)は親しく目撃した[58][59]
  • 伊藤痴遊 -「板垣が演説するときの姿勢や、その言い回しには、何とも荘重な所があり、尊皇思想に関しては、氷漬けになった様に頑固に節義を曲げなかった[69]

軍人として[編集]

武士道精神と清廉潔白さ[編集]

  • 山内容堂 -「退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず[16]
  • 中江兆民 -「板垣は(巷間の政治家と異なり)金銭に執着せず、無欲恬淡。古武士の風格を持ち、したたかな処は毫(すこし)も無かった。板垣は政治家として以前に個人としての魅力と美徳を備え、日本の民本主義発展に大きな功績を残した近世の偉人である」
  • 板垣晶子 - 「現代の価値観と比べることは出来ませんが、政治家として切腹してまで潔白でありたいという姿勢はとても大切ではないかと思います。祖父のこのような姿勢は、一生涯変わりませんでした。裕福であった先祖の財産はすべて政治に費やし、最後は自分の家も別荘も何一つ残らず、貧乏の代名詞になった政治家でありました。『一代華族論』もそんな祖父の姿勢を象徴するものです[72]
  • 板垣退太郎 - 「我が祖なれど一人の人物としてみた時、終始一貫して名利を追わず、俗権に屈せず、清貧に甘んじ、飄々として洵(まこと)に古武士の風格を保った退助の生涯は高く評価されて然るべきであると思われる[73]
  • 尾崎正-「古き良き武士道精神は急激に廃れ、栄華を享受し新たな特権階級となることを憚らなかった維新の元勲たちがいた中で、清貧に甘んじ自らの信念を貫き生きた清廉潔白の人であった[74]
  • 杉崎光世 -「興亜御奉公から大詔奉戴に帰結した大東亜戦争が終結し、まもなくして靖國の英霊をお奉りした大鳥居の五十銭札が廃されて、曾祖父の肖像の五十銭札に変わった時は、とても驚きました。次いで、昭和28年(1953年)12月には、曾祖父の肖像の百円札が発行されました。清貧に甘んじ、金銭に縁の無かった曾祖父が紙幣の肖像になるなんて……。私はとても不思議に思いましたが、母はとても喜んでをりました。姉もとても喜んでをりました[3]
  • 小西四郎-「板垣は(伯爵の位を)受爵することは平生の主義に反するとて辞退し、六月「辞爵表」を提出した。これが容れられないと翌月「再辞爵表」を提出したが、(天皇)陛下の御意志は変らないとの再度の却下によって、天皇尊崇の念の厚い板垣は、ついに拝受書を出して華族の列に加わった。板垣の行動は立派であった。当時の華族が持っていた特権は非常に大きいものであったが、これを受けようとしなかったのはさすがである。世人は板垣の高潔さ、己の主義を貫こうとする態度に拍手を送った。確かに板垣は名利を求めない高邁の(さむらい)であった[75]
  • 磯田道史 -「死ぬまで明治維新理想を持ち続けた人。明治維新の勲功者や自由民権運動に参加した人たちまでもが、やがて貴族となって貴族院議員の議席を独占し、また実質世襲し、結局、旧幕藩体制と同様の状態になりつつある時にも、(板垣は)『犯罪者の罪が子孫に引継がれないのと同様に、国家に対する勲功も子孫にまで引継がれるのはおかしい』と公然と主張し、(明治維新理想を)最後まで貫き通した。板垣のような人物が、維新の元勲に一人でも存在したことに救いを感じる[76]

公平性[編集]

  • 谷甚之助 -「板垣さんの偉さは小事にこだわらない点だ。平素よりよく部下の言動を見て評価し、物事を公平公正に判断し、また部下に全幅の信頼を寄せ、決してその言に疑をさしはさまぬ人だった[77]
  • 新島襄 -「師(板垣)は維新の功臣にして公平を自らに処し、師(板垣)の主義とする所は毫(すこし)も世の軽藻の輩と同じからず。故(ゆゑ)に予(新島襄)は決して師(板垣)の真意を疑はず」と述べ、新島は板垣がキリスト者では無いものの「基督教の真理」である「公平無私の精神」に通じ自由民権運動を推し進めている傑物であると絶賛している[78][79]
  • 尾崎咢堂 -「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に兼ね備えていた[80]

カリスマ性[編集]

  • 谷干城 - 「後藤(象二郎)も板垣(退助)も皆上士の席に居る人で、幼年の頃より子供大将で郭中で人望があつた[81]
  • 谷流水 -「吉田東洋の誘いも断って塾にも通わず、子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあろうものなら飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね。ところがどうしたことか憎めないところがあって、小輩からは非常に人気があった[82]
  • 司馬遼太郎 -「史実としての板垣退助を見ると、小輩からは非常に人気のあった人物で、それは依怙贔屓をせず下士と良く交わり、弱い者いじめをする者を律した彼の幼少期からの性格を反映したものであろう[83]

居合の復興に関して[編集]

  • 林九敏 -「無双直伝英信流居合術が今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)のご盡力の賜(たまもの)であると言って決して過言ではない[84]
  • 中西岩樹 -「居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが、その危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人が板垣伯であることを、吾等、居合を修める者は決して忘れてはならず[85]
  • 大江正路 -「無双直伝英信流居合に関しては、板垣伯が一番よく知っているから、訪ねたらよい[84]

日光を戦禍から回避した功績[編集]

  • 藤山竹一(栃木県知事) -「今日、世界の日光たるを得しめたるは、維新当時の官軍の主将・板垣退助氏の敬虔なる態度と周到なる措置とに由来することを、我等は追慕の念慮と感謝の誠意とを以て永久に忘れることが出来ないのである。(中略)明治維新の後に於ける政党の領袖、民権の首導者として隠れなき板垣伯は、一面武将として、精神家として、亦、特に世界の名勝たる我が日光にかうした尊き事跡を残されてゐる。(中略)郷土、人士さへこの社廟保護と日光発展の上に、斯くの如き人傑の偉力が注がれてゐることを熟知する者は比較的少数であることを思ふと洵に遺憾に堪へぬ[86][3]

その他[編集]

  • 「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は自由民権運動の英雄である。その一方で、藩閥政府による懐柔や、隈板内閣内の論争などといった板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については多くの風刺画が描かれ(内務大臣は警察を管轄し、言論統制選挙干渉などを行ったことで評判の悪いポストであった)、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄した。風刺画研究者の清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信と並んで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという[87]

銅像[編集]

  • 国会議事堂大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立)
    中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座となっている。板垣像は、北村西望の作。
  • 岐阜県岐阜市岐阜公園金華山の麓)
    板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年(1917年)に建てられた。
  • 高知県高知市高知城登城口
    銅像の作者・本山白雲高村光雲の弟子)
  • 青梅市
  • 栃木県日光市日光東照宮参道へと通じる神橋入口
    日光東照宮に立てこもる大鳥圭介ら旧幕臣達に対し、板垣退助は「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得した。また、強硬に破壊を主張する因州鳥取藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる扁額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。大東亜戦争末期に金属供出されたため、昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本をもとに徳川家達の揮毫を再刻して復元された。

系譜[編集]

乾氏(板垣氏)
乾家の初代・正信は、甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫である。正信の父・板垣信憲がゆえあって改易されたあとに誅された事件があったため、籠居して乾氏に名を改めた。正信は長じて小田原征伐陣借りして奮戦し、その功によって山内一豊遠江国掛川に封ぜられた天正18年(1590年)に召し抱えられた(掛川衆)。江戸時代は代々土佐藩士で、家格は馬廻役(上士)。家紋は、甲斐板垣氏はもともと「地黒菱[注 5]」を用いたが、姓を乾氏に改めた戦国時代末期ごろから明治時代中期ごろまでは「榧之内十文字」を用いた。板垣退助は、土佐山内氏から賜った「土佐桐[注 6]」を明治中期以降は用いた。

系図[編集]

土佐板垣(乾)氏系図[編集]

  • 実線は実子、点線は養子
  • 江戸時代部分は(御侍中先祖書系圖牒)より
板垣松溪
 
 
 
 
願阿彌陀佛
 
 
 
 
板垣善満坊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣備州板垣信泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣伯耆守板垣信方室住虎登女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1板垣信憲酒依昌光板垣信安[注 7]板垣信安室
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2板垣正信板垣正寅女子板垣修理亮板垣隼人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3乾正行[注 8]板垣正善酒依昌吉半右衛門女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4乾正祐乾正直乾友正平右衛門諸星信茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5乾正方乾十次郎乾正房乾六一[注 9]板垣知貞諸星信時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾加助6乾正清近藤通賢室乾十助乾吉勝板垣信精諸星信職
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7乾直建乾直強中山秀信乾強正乾正英乾正愛
 
 
 
 
 
 
8乾正聡乾正壽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9乾信武野本信照仙石九畹室乾正春本山茂良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10乾正成平井政実長屋彦太夫室乾正勝乾正厚乾正厚[注 10]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11板垣退助乾久馬女子高屋長豪室日野成雄乾正士[注 11]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣鉾太郎乾正士[注 12]板垣孫三郎板垣正実乾六一[注 13]片岡兵子宮地軍子小川婉子浅野千代子小山良子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣武生12板垣守正13板垣正貫川瀬美世子中村朝子乾一郎宮地茂秋本山信子浅野一治浅野五郎小山朝光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎正三島拓子板垣正明秋山範子14板垣退太郎板垣直磨川瀬勝世杉崎光世中村純子髙岡眞理子浅野治史浅野一小山朝和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎公正秋山竹生秋山竹史秋山百合板垣裕子板垣晶大中村直敬中村和敬井深美香髙岡功太郎浅野造史浅野一郎小山朝顯

家族[編集]

板垣退助と妻子の墓(品川神社裏)。
右から退助、絹子、正實、六一、清子、武生(鉾太郎長男・早世)
同じ墓域には乾信武と、正實の乳母・青木タキの墓もある。

墓所[編集]

板垣退助の墓(東京・品川神社裏)
  • 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は3番目の妻・小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まですべて「榧之内十文字」の紋がつけられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地:高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)。
  • 安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地:高知県高知市洞ヶ島町5-3)
  • 品川神社 - 江戸で客死した退助の祖父・信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は4番目の妻・福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、明治維新100年・板垣伯薨去50回忌を記念して、板垣退助先生顕彰会によって建てられた佐藤栄作の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地:東京都品川区北品川3-7-15。昭和53年11月22日品川区史跡に指定されている)

著書[編集]

板垣退助の墓(高知・板垣山)
  • 『板垣政法論』五古周二編、植木枝盛記、自由楼、1881年3月。NDLJP:782887
  • 『板垣君意見要覧』木滝清類編、木滝清類、1881年12月。NDLJP:782885
  • 『板垣君演説集並ニ板垣君刺客変報詳記』木滝清類編、木滝清類、1882年4月。NDLJP:782886
  • 『板垣君口演征韓民権論勇退雪寃録』遊佐発編、渡部虎太郎、1882年6月。NDLJP:783269
  • 『戎座大演説会傍聴筆記』砂山藤三郎編、開成社、1882年7月。
  • 『板垣君欧米漫遊日記』師岡国編、松井忠兵衛、1883年6月。NDLJP:760930
  • 『通俗無上政法論』和田稲積編、植木枝盛記、絵入自由出版社、1883年12月。NDLJP:783507
    • 『通俗無上政法論』和田稲積編、植木枝盛記、友文書屋、1884年8月。NDLJP:783508
  • 『板垣君欧米漫遊録』清水益次郎編、清水益次郎、1883年3月。NDLJP:760931
  • 『板垣退助君演舌』前野茂久次編、前野茂久次、1883年9月。NDLJP:782888
  • 『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』斉藤和助編、共立支社、1885年5月。NDLJP:782889
  • 『板垣南海翁之意見』郷敏儒、1890年2月。NDLJP:782890
    • 『板垣南海翁之意見』岩本米一郎編、岩本米一郎、1890年5月。NDLJP:782891
  • 『板垣伯の意見』小河義郎編、小河義郎、1890年3月。NDLJP:782894
  • 『愛国論』出射吾三郎編、吉田書房、1890年3月。NDLJP:782873
  • 『板垣伯演説筆記』馬場秀次郎記、落合貫一郎、1891年2月。NDLJP:782893
  • 『板垣伯意見書』憲政党党報局、1899年1月。NDLJP:782892
  • 『自由党史』上巻、宇田友猪・和田三郎共編、五車楼、1910年3月。NDLJP:991339
  • 『自由党史』下巻、宇田友猪・和田三郎共編、五車楼、1910年3月。NDLJP:991340
    • 『自由党史』第1冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年8月。
    • 『自由党史』第2冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年9月。
    • 『自由党史』第3冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年11月。
      • 『自由党史』(上)、板垣退助監修、遠山茂樹佐藤誠朗校訂、岩波書店岩波文庫〉、1957年3月。ISBN 9784003310519
      • 『自由党史』(中)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年6月。ISBN 9784003310526
      • 『自由党史』(下)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年12月。ISBN 9784003310533
  • 『一代華族論』社会政策社、1912年6月。NDLJP:798399
    • 『一代華族論』社会政策社、1912年11月。NDLJP:947723
    • 『一代華族論』忠誠堂、1919年。NDLJP:957490
  • 『神と人道』忠誠堂、1919年10月。NDLJP:957491
  • 『独論七年』広文堂書店、1919年10月。NDLJP:955680
  • 『立国の大本』忠誠堂、1919年。NDLJP:957489
    • 『立国の大本』財団法人板垣会館建設後援会、1932年。NDLJP:1457761
    • 『立国の大本(復刻版)』財団法人板垣会、1969年。
    • 『立国の大本(現代語訳)』髙岡功太郎訳・一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、2020年。
  • 『板垣退助全集』板垣守正編、春秋社、1931年11月。
  • 『憲政と土佐』板垣会編、財団法人板垣会、1941年11月。
  • 『板垣退助先生武士道観』板垣会編、財団法人板垣会、1942年4月。
  • 『選挙法改正意見』。NDLJP:784225

逸話[編集]

50銭政府紙幣
日本銀行券B100円券
  • 明治4年(1871年)、武田信玄の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
  • 少年時代、「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを信じ、後藤象二郎と一緒に、蛙を捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸ができず、蝦蟇の油の効力が迷信であることを知る。これによって迷信を疑うようになり、実証主義に転じて、翌日今度は、神社のお守りをに捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していたとき、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
  • 家屋敷を売り払い、私財をなげうって自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年(1911年)ごろ、人を介して密かに杉山茂丸を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であった。茂丸は「これはどこで手に入れたのか?」と刀を持ち込んだ人に問うと、最初はためらったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取ってもらうように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある[92]。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
  • 市島謙吉 「昔改進党時代に、常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯の住所は芝公園内の第何号地という様な分り悪い所にあった。辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので、自由党総理の家とは思えぬ。そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて、用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理大隈伯の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」[93]
  • 1885年、宣教師・グイド・フルベッキが高知に宣教をするにあたって仲介し、同郷の片岡健吉坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信しなかった。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は曹洞宗である。菩提寺は、東京・青松寺)。
  • 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年(1869年)ごろ撮影と見られる板垣退助と二人の武士[注 14]が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された[94]
  • 尊皇の志高く、同じ土佐藩の間崎哲馬中岡慎太郎と気脈が通じ好誼を交わした書簡が残されている。また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。

伝記[編集]

特集番組[編集]

関連作品[編集]

小説

演じた俳優・一座[編集]

舞台
  • 中村鶴五郎:『東洋自由曙(あずまなだ・じゆうのあけぼの)』坂崎紫瀾作、高知・堀詰座(1882年(明治15年)6月30日-7月25日上演[95]相原尚褧役:松本錦蔵
  • 中村七賀三郎:『花吹雪伊奈波の黄昏(はなふぶき・いなばのたそがれ)』岩田寛和原作、中村七賀十郎[96]演出、岐阜・末広座(1882年(明治15年)7月18日上演[95])相原尚褧役:中村七賀十郎
  • 中村七賀十郎:『花吹雪伊奈波の黄昏(原作名:岐阜の夜嵐)』岩田寛和原作、名古屋・宝生座(1882年(明治15年)8月18日上演[95])相原尚褧役:市川左喜太郎
  • 中村時蔵、市川蝦十郎、実川八百蔵:『好自由切籠白鞘(じゆうごのみ・きりかごのしろさや)』大阪角座、(1882年(明治15年)上演[95]
  • 川上音二郎一座:『板垣君遭難実記』大阪・卯の日座(1891年(明治24年)2月5日上演[95]
  • 川上音二郎一座:『板垣退助君岐阜遭難実記』横浜・蔦座(1891年(明治24年)3月8日-3月15日上演[95]
  • 青柳捨三郎:『板垣君遭難実記』川上音二郎作、東京中村座(1891年(明治24年)6月20日-7月11日上演[95])相原尚褧役:川上音二郎
  • 角藤定憲一座:『自由党総理板垣退助氏岐阜遭難実記』名古屋・新守座(1891年(明治24年)7月17日上演[95]
  • 笠井子雲、山下紫舟一座:『巷説美濃夜嵐(うわさばなし・みののよあらし)』京都南座(1891年(明治24年)9月20日上演[95]
  • 木村武之佐壮士一座:『板垣総理岐阜春雨(いたがきそうり・ぎふのはるさめ)』名古屋・笑福座(1892年(明治25年)6月上演[95]
  • 武知元良一座:『板垣総理岐阜春雨(いたがきそうり・ぎふのはるさめ)』名古屋・音羽座(1893年(明治26年)1月上演[95]
  • 中村友次郎、嵐市丸、嵐市蔵、片岡燕童一座:『鮮血自由礎板垣退助君之伝(せんけつ・じゆうのいしづえ・いたがきたいすけくんのでん)』大阪・角座(1894年(明治27年)6月8日-6月27日上演[95]
  • (俳優不詳):『自由党異変』板垣守正作、帝国劇場1925年(大正14年)8月上演)
映画
テレビドラマ
テレビアニメ
漫画

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。[7]
  2. ^ 『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文庫目録明細短冊の部)』に「御書院番・深尾政五郎。本国近江。生国武蔵。 分限高 三百俵(内百俵御足高)。養祖父深尾與兵衛死、新御番相勤申候。養父 深尾善十郎 御納戸頭。実祖父松波平三郎死 新御番相勤申候。実父 松波平兵衛 小普請。養子総領・深尾政五郎。(申歳三十五)萬延元庚申年五月十四日、従部屋住両御番之内御番入御書院番江入」とあり。『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
  3. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。[25]
  4. ^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。
  5. ^ 「花菱」紋を陰陽反転したもの。この頃は、武田氏も「四つ割菱」紋はまだ用いてはおらず「四つ割菱」紋を陰陽反転したものでは無い。
  6. ^ 俗説に、板垣の紋は「五三の桐」と言うが、品川神社裏の墓石などによれば板垣の紋は葉脈の数が三本、葉型は鬼葉(刻みの尖った葉)で、花が描かれており「五三の桐」とは形が全く異なる。
  7. ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
  8. ^ 永原一照次男
  9. ^ 板垣退助五男、絶家再興
  10. ^ 乾正春の養子となる
  11. ^ 板垣退助次男
  12. ^ 乾正厚の養子となる
  13. ^ 乾友正家の絶家再興
  14. ^ 板垣を中央に右が後藤象二郎と左が乾正厚との所伝がある。

出典[編集]

  1. ^ a b 『明治憲政経済史論』国家学会編、大正8年(1919年)4月15日、序文より
  2. ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし「元來、世の聵々者流は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月5日閲覧。
  4. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  5. ^ 『明治維新百年・板垣退助先生薨去五十年祭趣意書』より。
  6. ^ a b 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
  7. ^ a b c d e f g h 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年、『自由党史』
  8. ^ a b c d e f g h 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  9. ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年
  10. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條
  11. ^ NPO法人『板垣会会報』第1号
  12. ^ 『迅衝隊出陣展』39頁
  13. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  14. ^ 西郷隆盛のこと。
  15. ^ 『中岡慎太郎先生』尾崎卓爾
  16. ^ a b c 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  17. ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
  18. ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房2009年
  19. ^ 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
  20. ^ 「戊辰戦争と廃藩置県」『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代1』.
  21. ^ 明治2年(1869年)6月|薩長土肥の4藩主が版籍奉還を願い出る:日本のあゆみ”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2018年2月1日閲覧。
  22. ^ 『立国の大本』板垣退助著(現代語訳版)より
  23. ^ 中村定吉 編、「廢藩置縣ノ詔」『明治詔勅輯』、p18、1893年、中村定吉。[1]
  24. ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158
  25. ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
  26. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
  27. ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁
  28. ^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
  29. ^ 原文「尚褧、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日
  30. ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~アジア資料歴史センター
  31. ^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」(『板垣君岐阜遭難記録』岩田徳義著、明治26年(1893年)
  32. ^ 高知市立自由民権記念館寄託
  33. ^ ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月17日閲覧。[リンク切れ]
  34. ^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いづれも現存せず。
  35. ^ a b c 『自由黨史』
  36. ^ 『自叙伝』竹内綱
  37. ^ 『明治文化全集(22)』、429頁
  38. ^ 華族となった板垣は衆議院議員の被選挙権を喪失した為、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
  39. ^ a b c d e f g h 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り参らする」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ(『獄裡の夢 : 一名、相原尚褧君実伝』池田豊志智編、金港堂、明治22年(1889年)7月より)
  40. ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
  41. ^ 『自由党史』
  42. ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日
  43. ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。
  44. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  45. ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  46. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  47. ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
  48. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  49. ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  50. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  51. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  52. ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
  53. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  54. ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
  55. ^ 『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、大正8年(1919年)4月15日、239頁
  56. ^ 板垣退助が薨去したとき、大正天皇が御下賜あらせられた誄詞(るいし)による。原文は「軍(いくさ)ニ東征(とうせい)ニ從(したが)ヒ謀(はかりごと)ニ戎幕(じゆうばく)ニ參(さん)シ大政(たいせい)ノ維新(ゐしん)ニ際會(さいくわい)シテ立憲(りつけん)ノ鴻謨(こうぼ)ニ賛襄(さんじやう)シ運籌(うんちゆう)機(き)ニ合(がふ)シ獻猷(けんいう)時(とき)ニ應(おう)ズ精誠(せいせい)公(こう)ニ奉(ほう)シ出處(しゆつしよ)渝(かは)ルコト無(な)シ奄長(えむちやう)逝(ゆく)ヲ聞(き)ク曷(なん)ゾ軫痛(しんつう)ニ勝(た)ヘム茲(ここ)ニ侍臣(じしん)ヲ遣(つか)ハシ賻(ふ)ヲ齎(もた)ラシテ以(もつ)テ弔(てう)セシム。御名御璽(ぎよめいぎよじ)。大正八年七月十八日」(『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、冒頭より)
  57. ^ 戊辰戦争で失脚した人は多いが、これによって名声を表したのは板垣退助が随一である。ここで言う「死」は字義通りの「戦死」者の事ばかりでは無く、この戦争によって地位を失い、失脚した人をも含む暗喩的な義と解されている。(『板垣精神』2019年)註より
  58. ^ a b 『勤王 即憲政の板垣退助』尾佐竹猛
  59. ^ a b c d e f 『板垣退助先生銅像供出録』財團法人板垣會編纂
  60. ^ 『板垣君兇変・岐阜の夜嵐』岩田寛和著、1882年(明治15年)
  61. ^ 『舊各社事蹟』島崎猪十馬
  62. ^ 昭和天皇、1977年(昭和52年)8月23日の会見
  63. ^ 『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』高橋紘編、小学館、1989年、241頁
  64. ^ a b 『板垣先生記念事業復興計画趣意書』財団法人板垣会、昭和29年(1958年)
  65. ^ オスカー・アルフレッド・アクセルソン米軍大佐(Oscar Alfred Axelson Commanding Officer)1893年11月12日、グスタフ・E・アクセルソン(1859-1917)の子として米国ミネソタ州ラムジー郡セントポールに生まれる。母はオーガスタ・マチルダ・ピーターソン・アクセルソン(1866-1950)。1918年6月、米陸軍士官学校を卒業。1919年、ニューヨーク州ブルックリンで、ノーマクララ・ローザ・アクセルソン(1899-19991)と結婚。大東亜戦争に従軍。進駐軍として来高し高知民事部長を務めた。当時は中佐。退役時は大佐1979年9月26日、米国カリフォルニア州モントレー郡フォートオードにて死去。85歳。墓は米陸軍士官学校墓地(West Point, Orange County, New York, USA)にあり、後嗣はルドルフ・アルフレッド・アクセルソン(Rudolph Alfred Axelson, 1920-1984)である。ルドルフの墓はアーリントン国立墓地にある。(『THE HALL OF VALOR』より)
  66. ^ アクセルソン中佐は、高知民事部長を務め1946年12月21日に起きた南海大震災に際しては「高知縣民諸君へ」と題して、次の様に述べている「高知縣民が、昭和二十一年十二月二十一日の南海大震災の恐るべき惨禍に、打ち勝つのに示した努力と精神とは賞讃に値する。この災害はかつて本縣を襲つたもののうちで、最も激しいものであつたであろう。そして、たとえ、それによつて縣民が將來に對する希望を失い、意氣阻喪し落膽したとて、誰も不思議だとは思わなかつたであろう。しかし實際は、かゝることは起らなかつた。震災の廃墟からは、新しい建物、道路、その他公共の進歩改良が始まり、それらはすべて高知をもつと住みよい所にするに役立っであろう。高知民事部は、この再建の過程を深い關心と、賞讃の念を以て見まもつて來た。我々は我々自身の目で廃墟から新らしい復興がなされて行くのを見た。かゝる偉大な結果は唯、先見の明ある指導者達ご、縣民の元氣な協力との賜物に外ならない。全縣のこの再建は、縣民の明るい樂天的な氣質を表わしており、又その氣質はすべての人々と共に働く事を幸福に思い、又將來の成功を心から祈るものである。高知民事部長 アクセルソン中佐」(『南海大震災誌』より)
  67. ^ 高知市内にあった板垣の旧宅が移築保存されていたが、1945年7月4日の高知大空襲の結果、高知市内大半を焼失し、板垣の旧宅も被災者の収容住宅に転用され、見るも無残に傷んでしまった。戦後、進駐軍のアクセルソン(Axelsson)中佐が市内視察に訪れた際、板垣会館を空襲で焼いてしまったことに加え、板垣旧宅の惨状を見て「板垣退助氏は、アメリカリンカーンにも匹敵する大政治家である。わが国(米国)の人は、何という事をしてしまったのか……」と深く反省を述べた。(『板垣精神』より)
  68. ^ 昭和18年(1943年)9月2日、高知城公園・板垣退助先生銅像供出の壮行の辞にて
  69. ^ 『伊藤痴遊全集 第7巻』
  70. ^ 「(有馬藤太が)西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」(『維新史の片鱗』有馬藤太著、1921年)
  71. ^ たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104
  72. ^ 『清廉潔白にして信念の人』板垣晶子著、1984年(昭和59年)より。
  73. ^ 『日本人の百年(4)-自由民権運動-』世界文化社
  74. ^ 『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』
  75. ^ 『明治政府を担った人々(3)板垣退助』小西四郎著(所収『明治政府 -その政権を担った人々-』大久保利謙編、新人物往来社、1971年
  76. ^ 『英雄たちの選択・板垣退助“自由民権”の光と影』NHKBSプレミアム、2020年10月7日放送
  77. ^ 『生きている歴史』P177
  78. ^ 原田助が日記に記した新島襄の講話による
  79. ^ 『新島襄の福島伝道 : 会津若松教会の設立を巡って』山下智子、同志社大学同志社社史資料センター、2017-02-28
  80. ^ 『咢堂漫談』
  81. ^ 『坂本中岡暗殺事件』谷干城著、1906年
  82. ^ 『生きている歴史』P179
  83. ^ 郷土史家・乾常美との対談より。
  84. ^ a b 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号)
  85. ^ 『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。
  86. ^ 『板垣退助伯爵彰徳会設立趣意書』より
  87. ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
  88. ^ 墓碑銘に「板垣退助次男 乾正士」とあり。所在地:大阪府池田市五月山(昭和46年(1971年)3月高知県高知市より移葬)
  89. ^ 墓碑銘に「板垣退助三男 板垣孫三郎」とあり。所在地:高知県高知市薊野東町 乾・板垣家歴代墓所
  90. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助四男 板垣正實」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
  91. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助五男 板垣六一」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
  92. ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
  93. ^ 市島謙吉「随筆春城六種」
  94. ^ 壮年期の板垣退助の写真公開 明治初期 子孫が保管”. 高知新聞. 2015年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月13日閲覧。
  95. ^ a b c d e f g h i j k l 『板垣退助遭難の芝居 : 明治十五年の作品を中心に』”. 岐阜大学国語国文学 第38号 11-27頁 (2012年). 2020年10月1日閲覧。
  96. ^ 中村七賀十郎(なかむら・なかじゅうろう)。愛知県丹羽郡扶桑町南山名に生まれる。明治時代に東海一円で活躍した歌舞伎役者。上方役者・四代目中村嘉七(七嘉助)の弟子となり、養蚕業の傍ら、旅芝居を行っていたが、名古屋周辺の役者仲間を集め「中村七賀十郎一座」として旗揚げし独立。主に東海地方巡業した。七賀十郎の所有した台本類は上方芝居の台本を参考として、創意工夫したものが主ではあるが、板垣退助の岐阜遭難事件を題材とした作品を、事件後にいち早く芝居化して上演するなどして、世間の注目を集めた。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
乾正成
土佐板垣(乾)氏当主
第10代:1860年 - 1919年
次代:
板垣守正
公職
先代:
芳川顕正
芳川顕正
日本の旗 内務大臣
第10代:1896年4月14日 - 同9月20日
第13代:1898年6月30日 - 同11月8日
次代:
樺山資紀
西郷従道
日本の爵位
先代:
叙爵
伯爵
板垣家初代
1887年 - 1919年
次代:
(栄典喪失)