佐田白茅

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佐田 白茅(さだ はくぼう、天保3年12月10日1833年1月30日) - 明治40年(1907年10月4日)は、明治時代初期の外交官である。初期の朝鮮との国交交渉に関与し、のち征韓論を唱えた人物として知られる。

経歴[編集]

通称は素一郎で「白茅」は号。元久留米藩士尊攘派として活動したのち、明治維新後の1869年(明治2年)、「朝鮮交際私議」を太政官に建白し、同年11月外務省判任出仕となった。

1870年(明治3年)3月、森山茂とともに釜山草梁倭館に派遣され、書契問題で紛糾していた朝鮮との国交樹立の予備交渉を進めた。この過程で朝鮮側の態度に憤激した佐田は、同年4月に帰国したのち政府に征韓を主張する報告書を提出した。しかし佐田らの報告書を承け外務省が太政官に提出した「対朝鮮政策三箇条」では「断交状態」・「国使派遣」・「対条約先行」の3つの選択肢が提示されていた。政府は結局第2案・第3案の折衷策を採り、同年末に外務権少丞・吉岡弘毅を釜山に派遣して正式な国交樹立交渉を進めるとともに、翌1871年(明治4年)9月には朝鮮の宗主国である清との間で日清修好条規および通商章程を調印した。

帰国後の佐田は外務大録に任じられたが、1871年(明治4年)8月、西郷隆盛征韓派に同調し辞官・帰郷した。その後は閑居し文筆活動に従事した。

征韓建白書[編集]

琴秉洞によれば、明治維新政権の中枢で征韓論を唱えたのは吉田松陰の弟子である木戸孝允だったが、それを草の根に広げ日本中を熱狂させたのが佐田白茅であり、明治初年には「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速やかに手を入れるがよろしい」という建白書を政府に提出した[1]。以後3度にわたって建白書を提出し、佐藤信淵にならって朝鮮征服は「30大隊あればことが足りる」と述べており、琴秉洞は「朝鮮従属を早くから提唱した佐田白茅の朝鮮蔑視の根は深い」と評している[2]

著書[編集]

ともに『明治文化全集』第22巻(雑史篇)に収録されている。

  • 『征韓評論』(1875年
  • 『征韓論の旧夢談』(1903年

脚注[編集]

  1. ^ 琴秉洞『日本人の朝鮮観』p52-p55、明石書店 2006
  2. ^ 琴秉洞『日本人の朝鮮観』p52-p55、明石書店 2006