フランス第二帝政
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第二帝政(だいにていせい 仏:le Second Empire)はフランスで1852年12月から1870年9月までつづいた政治体制で、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が立てた第一帝政に対してこう呼ばれる[1]。18年間と短期間ながら、その後のフランスの安定を基礎づけた重要な時期とみなされている[2]。経済的には繁栄し、パリではオペラ座の建設・主要道路の設置など、現在の景観を形づくる大きな公共工事がこの時期に着手された[1]。
概要
[編集]フランスでは革命期以後も帝政・王政復古・共和政とめまぐるしく政体が交替してきたが、この第二帝政が終わった1870年以後、フランスは世界大戦の激動を経ながらも1945年まで約70年間、政体としては変更しなかった。その重要な要因と考えられているのは、この第二帝政期に名望家による伝統的な政治支配が衰退し、普通選挙に基礎を置いた新しい政治支配が形成されたことである[3]。
一方で、専制的な権力をふるう皇帝が民衆の直接選挙によって選出され、しかも多くの場合圧倒的多数によって支持されるという特異な構造から、現代のポピュリズム政治とも共通する要素が指摘されている[4]。ボナパルト家の人々が専制的な権力を掌握するそうした政治文化は「ボナパルティズム」と呼ばれ、革命期から共和政が安定するまでのフランス史を考える上で重要な概念とみなされている[5]。
経緯
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1848年の2月革命で誕生した第二共和政は、新憲法(1848年憲法)のもと、同年12月にフランス史上初の直接選挙による大統領選挙を実施した[1]。
当初は政界から政治経験がなく御しやすい候補と見られていたルイ・ナポレオン(ナポレオン・ボナパルトの甥)が、投票総数740万票の実に74%に達する票を得て圧勝する[6]。勝利の背景はさまざまに分析されているが、地方の有力者・富裕層らが反革命の期待を彼に寄せた一方で、すでに長くとどろいていた英雄ナポレオンの伝説を信じる民衆らが富裕層支配をくつがえす力を彼に期待するなど、あらゆる階級の人々がそれぞれ異なる思惑で彼に投票したとされる[7][8]。
しかし、議会と大統領ルイ・ナポレオンのあいだには緊張がつづき、政局の混乱をみたルイ・ナポレオンが1851年12月2日にみずからクーデタ(1851年12月2日のクーデター)を実行した。第二共和政は事実上わずか3年間しか続かなかった[9]。
クーデタのあとルイ・ナポレオンはただちに1848年憲法を停止、あらたな憲法(1852年憲法)を起草して1851年12月末に国民投票(人民投票)にかけると、これが賛成92%という圧倒的支持を得て成立した[1]。そしてさらに一年後の1852年11月には、同じく国民投票によって810万票のうち782万票というやはり圧倒的多数によって、ルイ・ナポレオンが皇帝「ナポレオン三世」として就任することが承認される[6][1]。「自己の権力を民衆の参加によって強化した」といわれる所以である[10]。
ルイ・ナポレオン
[編集]ルイ・ナポレオンは、伯父のナポレオン・ボナパルトが帝位を追われたあと長い亡命生活を送り、裏社会・秘密結社を含むあらゆる階層の人々と交わったとされる[7]。そのため、それ以前の伝統的な政治家像にまったく当てはまらない新しいタイプの政治家として登場した。彼は華美な装飾にかざられた専制権力を志向すると同時に、弱い立場の民衆にも同情を寄せ続け、フランス革命の残した偉大な伝統は民主主義と権威主義、国民主権と専制権力の一体化だとする信念を若い頃から抱いていた[8]。そうした複雑な思想を背景にルイ・ナポレオンが実現した第二帝政は、全期間を通じて保守派的・貴族主義的な傾向と、急進的・民衆的な傾向との間を、揺れつづけることになった[11]。
権威帝政
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第二帝政のうち1852〜60年までの前半は「権威帝政 Empire autoritaire」と呼ばれ、皇帝が専制的・抑圧的な権力を行使した[1]。この権威帝政期には反対派が完全に封じ込められ、フランス国内での政治活動はほとんど存在しなくなった[12]。言論・出版の自由もきびしく抑圧された。また政治的エリート層も安定し、大臣・知事たちも第二帝政が崩壊するまでほぼ変化していない。そして検事と内務大臣は皇帝の手足となって動き、強力な警察国家を出現させた[6]。
第二帝政の憲法(1852年憲法)はナポレオン一世のときの1799年憲法を下敷きにしたものだったが、皇帝の座の正当性が「国民の直接・普通選挙」に立脚しているという点で大きく異なっている[6]。上述のような警察国家の出現も、公的秩序を安定を保障するものとして国民は受け入れていたとされる。
また、第二帝政下では、それまで見られなかった外交上の栄誉ももたらされた。ナポレオン三世は1854年のクリミア戦争でイギリス・オスマン帝国とともにロシアと開戦し、これに勝利する。また1859年にオーストリアと戦端が開かれるとナポレオン三世みずから軍を率いて進軍し、敵軍を撃破してフランスの威光を高めた[1]。こうした戦争と外交による威信の高まりは、皇帝の権威を支える重要な柱となった(そして同時に、後の普仏戦争での敗北が帝政崩壊を導くことになる)[6]。
自由帝政
[編集]1860〜70年の第二帝政後半は、自由主義的な体制に転換したため「自由帝政 Empire libéral」と呼ばれる[1]。相次ぐ戦勝によって自信を深めたナポレオン三世は独自の外交を展開してゆくが、国内の支持層がしだいに離反しはじめる。まずイタリア遠征によってカトリック勢力が帝政批判を強めるようになり、またイギリスとの自由貿易政策を予告なく発表したことに恐怖した経済界も、大統領に対する一定のコントロールを望むようになった[11]。
これらを背景に大統領側は譲歩し、自由主義的な政策が打ち出されるようになる。これが反映されたのが後期の自由帝政で、議会でも専制主義を攻撃する共和派議員がしだいに増え始め、権威帝政期にまったく弾圧されていた労働運動や言論・出版も息を吹き返していった[6]。
こうしたなか、スペインで起きたクーデタとホーエンツォレルン家の縁戚関係などを理由として、1870年7月にフランスはプロイセンに宣戦布告する(普仏戦争)。ナポレオン三世はふたたび自ら戦線におもむくが、9月2日、スダン(セダン)において降伏し捕虜となってしまう[1]。
この敗戦の報せをきいたパリ民衆が蜂起し、パリ市庁舎で帝政の廃棄と共和制の樹立を宣言したのはそれからわずか2日後の9月4日だった(⇒参照:パリ・コミューン)[1]。捕虜の身で帝政廃棄を知ったナポレオン三世は、そののち曲折を経てイギリスへ亡命、そこで晩年を過ごした[1]。
この突然の帝政崩壊は、外交的成功と栄光こそが民衆の支持を引き寄せ皇帝の支配の正当性を保障していた体制にとって、明らかな外交的屈辱がそれを失墜させることは避けられなかったため、と考えられている[6]。
第二帝政の文化
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第二帝政は、華美な文化が本格的に登場した時期とも大きく重なっている。1852年にアリスティド・ブシコーによってパリに初のデパート「ボン・マルシェ百貨店」が登場、以後オ・プランタンやサマリテーヌなど巨大デパートが相次いで開業する[13]。
また、セーヌ県知事オスマンによってパリの大改造が開始され、密集街区に大通りをつくり、巨大な上下水道網が配備された(⇒参照:パリ改造)。その成果を誇示する場としてパリ万博も開催されている(1867年)[14]。こうした試みは帝政崩壊後の第三共和政でもつづき、リヨン、マルセイユ、ボルドーなど主要な地方都市でも都市工事が行われている[13]。
フランスで1827年に初開通した鉄道も第二帝政期を通じて全国に主要路線を建設し、これを使った観光旅行もさかんになった。ブルジョワ層では海辺での余暇が流行し、ナポレオン三世の皇后ウジェニーが好んだビアリッツは、高級避暑地として人気を集めた。またロンシャンやオートゥイユに競馬場が整備され、パリのブルジョワ層の社交場となった[15]。
一方で労働者を中心とする都市民衆にとっては余暇を手にすることはできなかった。彼らは酒場で憂さを晴らし(エミール・ゾラ『居酒屋』 はかれらの習俗を活写している)、民衆的なシャンソンやダンスに興じるミュージック・ホールやカフェ・コンセールに足を運んでいた[15]。
芸術分野でも、その後のフランス芸術の基調を形づくる様々な試みが第二帝政期に登場している。文芸ではフローベール『ボヴァリー夫人』 、ボードレール『悪の華』 がともに1857年に刊行されているほか(ただしどちらも権威帝政によって発禁となった)、テオフィル・ゴーティエなどのもとに集まった詩人たち、いわゆる「高踏派 l'école parnassienne」が最初の詩歌集を発表している(1866年)[15]。
美術ではマネ『草上の昼食』 (1863)や『オランピア』 (1863)が大きな注目を集め、クールベもこの時期に重要な活動を行っている(『女とオウム』 1866ほか)[15]。音楽では七月革命期から名声を博していたベルリオーズが最後の大作にとりくみ、シャルル・グノー『ファウスト』 (1859)やサン・サーンス『プロメテの結婚』 (1867)が発表されフランス音楽の再生を画したとも評されている[15]。
建築の分野では壮大・華美な「第二帝政様式 le style Second Empire」と呼ばれる建築様式が普及した。これは複合的な曲線をもつ「マンサード屋根」を特徴とするためマンサード様式(le style Mansard)とも呼ばれる[15]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Garrigues, Jean. La France de 1848 à 1870, 2e ed., Armand Colin, 2007.
- ^ Baguley, David. Napoleon III and His Regime: An Extravaganza, Louisiana State University Press, 2000.
- ^ Lentz, Thierry. Napoléon III. La modernité inachevée, Éditions de la Bibliothèque nationale de France, 2022
- ^ 髙山 裕二「ボナパルティズム再考—フランス第2帝政の統治制度と理念に関する素描」(『フランス哲学・思想研究』26, 2021)
- ^ Anceau, Éric. Napoléon III, Tallandier, 2020
- ^ a b c d e f g Yon, Jean-Claude. Le Second Empire: Politique, société, culture, 2e ed., Armand Colin, 2012
- ^ a b Lentz, Thierry. Napoléon III. La modernité inachevée, Éditions de la Bibliothèque nationale de France, 2022
- ^ a b Hazareesingh, Sudhir. The Saint-Napoleon: Celebrations of Sovereignty in Nineteenth-Century France, Harvard University Press, 2004.
- ^ Price, Roger. The French Second Empire: An Anatomy of Political Power, Cambridge University Press, 2001.
- ^ 木下賢一「第二共和政と第二帝政」(樺山紘一ほか編『世界史大系 フランス史:3』 山川出版社、1995)
- ^ a b Deluermoz, Quentin, Le crépuscule des révolutions: 1848-1871, Seuil, 2012.
- ^ Todd, David. A Velvet Empire: French Informal Imperialism in the Nineteenth Century, Princeton University Press, 2021.
- ^ a b Mead, Christopher Curtis. Making Modern Paris: Victor Baltard’s Central Markets and the Urban Practice of Architecture, Penn State University Press, 2012.
- ^ Harvey, David. Paris, Capital of Modernity, Routledge / Taylor & Francis, 2003
- ^ a b c d e f Yon, Jean-Claude (éd.), Les spectacles sous le Second Empire, Armand Colin, 2010.
参照文献一覧
[編集]- Anceau, Éric. Napoléon III, Tallandier, 2020
- Baguley, David. Napoleon III and His Regime: An Extravaganza, Louisiana State University Press, 2000.
- Deluermoz, Quentin, Le crépuscule des révolutions: 1848-1871, Seuil, 2012.
- Garrigues, Jean. La France de 1848 à 1870, 2e ed., Armand Colin, 2007.
- Harvey, David. Paris, Capital of Modernity, Routledge / Taylor & Francis, 2003
- Hazareesingh, Sudhir. The Saint-Napoleon: Celebrations of Sovereignty in Nineteenth-Century France, Harvard University Press, 2004.
- Lentz, Thierry. Napoléon III. La modernité inachevée, Éditions de la Bibliothèque nationale de France, 2022
- Mead, Christopher Curtis. Making Modern Paris: Victor Baltard’s Central Markets and the Urban Practice of Architecture, Penn State University Press, 2012.
- Price, Roger. The French Second Empire: An Anatomy of Political Power, Cambridge University Press, 2001.
- Todd, David. A Velvet Empire: French Informal Imperialism in the Nineteenth Century, Princeton University Press, 2021.
- Yon, Jean-Claude (éd.), Les spectacles sous le Second Empire, Armand Colin, 2010.
- Yon, Jean-Claude. Le Second Empire: Politique, société, culture, 2e ed., Armand Colin, 2012
関連文献
[編集]- Agulhon, Maurice. 1848 ou l’apprentissage de laRépublique, 1848-1852, Seuil, 1973.
- Plessis, A., De la fête impériale au mur des fédérés, 1852-1871, Seuil, 1973.
- モーリス・アギュロン(阿河雄二郎ほか訳)『フランス共和国の肖像 ─ 闘うマリアンヌ 1789-1880』 ミネルヴァ書房、1989
- 浅井香織 『音楽の「現代」が始まったとき 第二帝政下の音楽家たち』 中央公論社〈中公新書 938〉、1989年9月。ISBN 978-4-12-100938-8。
- 鹿島茂 『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』講談社〈講談社学術文庫 2017〉、2010年10月。ISBN 978-4-06-292017-9。
- 河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立 第二帝政期の研究』岩波書店〈京都大学人文科学研究所報告〉、1977年11月。ISBN 978-4-00-001970-5、全国書誌番号:78001738。
- 木下賢一「第二共和政と第二帝政」(樺山紘一ほか編『世界史大系 フランス史:3』 山川出版社、1995)
- 木下賢一 『第二帝政とパリ民衆の世界 「進歩」と「伝統」のはざまで』 山川出版社〈歴史のフロンティア〉、2000年11月。ISBN 978-4-634-48180-0。
- 喜安朗『夢と反乱のフォブール ─ 1848年パリの民衆運動』 山川出版社、1994
- 坂上孝編『1848 ─ 国家装置と民衆』 ミネルヴァ書房、1985
- 高村忠成『ナポレオン3世とフランス第二帝政』北樹出版,2004
- 西川長夫『フランスの近代とボナパルティズム』 岩波書店、1984
- 福井憲彦「文化と社会の持続と変貌 ─ 第二帝政から第一次世界大戦まで」(樺山紘一ほか編『世界史大系 フランス史:3』 山川出版社、1995
- 松井道昭 『フランス第二帝政下のパリ都市改造』 日本経済評論社、1997年3月。ISBN 978-4-8188-0916-1。