フランスの歴史

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フランスの歴史(Histoire de France)では、フランスの歴史を述べる。詳細は各項目内のリンクを参照。

ガリア[編集]

古代ローマにおいて、ほぼ現在のフランスにあたる地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が居住していたと考えられる。このことは、紀元前58年から紀元前51年にかけてガリア遠征を行ったガイウス・ユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった。

フランク王国[編集]

メロヴィング朝[編集]

洗礼を受けるクローヴィス

4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した。481年にクローヴィスがフランク諸族を統一してメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたため、統治を円滑に行うことも狙ってカトリックを受容した。メロヴィング朝においては、徐々に宮宰を務めるカロリング家が台頭していき、8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。

カロリング朝[編集]

ピピン3世(小ピピン)

当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、ローマ教皇の支持にも助けられて、カロリング朝フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したことは、ローマ教皇領の起源となった。さらにその息子であるシャルルマーニュ(カール大帝)は、ザクセン人の討伐・イベリア半島への遠征、アヴァール人の撃退、ロンバルド王国の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を受けた。シャルルマーニュは、エクス・ラ・シャペル(独語:アーヘン)の宮廷にブリタニアから学僧アルクィンを招き、古代ラテン語文献の振興(カロリング・ルネサンス)を推進するなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の教会修道院にも影響を及ぼしていった。

西フランク王国[編集]

シャルルマーニュの息子ルイ1世(独語:ルートヴィヒ1世)には3人の息子がおり、843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が三分割された。その後、870年のメルセン条約で領土の見直しが行われ、現在のフランス・ドイツイタリアの礎となる西フランク王国東フランク王国イタリア王国が成立した。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはノルマン人のロロにノルマンディーの地を封じた(ノルマンディー公国)。後にノルマンディー公がイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。

カペー朝[編集]

ユーグ・カペー

カロリング家の断絶後、987年にパリ伯であったロベール家ユーグ・カペーがカペー朝を創始した。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった。13世紀ころより徐々に王権の強化が進み、イングランド王リチャード1世ジョン王と争ったフィリップ2世は、プランタジネット朝(イングランド王家)の領土であったノルマンディーやアンジューを奪った。また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、第6回十字軍第7回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。

アヴィニョン教皇庁

14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図った仏王フィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌1303年アナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。その後、フランス人教皇のクレメンス5世を擁立させた上で、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った。

なお、フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家はヴァロワ家ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続くことになる。)

ヴァロワ朝[編集]

ジャンヌ・ダルク

百年戦争[編集]

カペー本家の断絶を受けて、1328年にヴァロワ家フィリップ6世がフランス王に即位した。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。当初は、長弓部隊などを導入したイングランドが優勢であり、クレシーの戦いポワティエの戦いで勝利を収めていた。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王シャルル7世オルレアンに追いつめた。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から官僚制の整備が図られ、王権の強化がさらに進んだ。

イタリア戦争・ユグノー戦争[編集]

15世紀末、シャルル8世イタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかったフランソワ1世は、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスルタンスレイマン1世との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝カール5世と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した(カトー・カンブレジ条約)。16世紀後半になると、既にスイスジュネーヴで高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、ユグノー(カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した。1572年のサン・バルテルミの虐殺に見られるように、カトリックプロテスタント両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはフランス王アンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。

ブルボン朝[編集]

ブルボン朝の成立と発展[編集]

ルイ13世とリシュリュー

1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が成立した。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した。その上で、1598年には宗教的寛容を定めたナントの勅令を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた。しかし、1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した。

次王ルイ13世は、宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ。1618年より中欧で起こった三十年戦争では、自国のカトリックという宗教的立場よりも国益を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った。1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だったルイ14世が即位したが、宰相のマザランがよく補佐した。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:ヴェストファーレン条約)でアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えた。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによってフロンドの乱が起こったが、1653年までに鎮圧された。このフロンドの乱と同時期に、イングランドではピューリタン革命で王が処刑されているのと対照的である。

ルイ14世の親政期[編集]

「太陽王」ルイ14世

1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官のコルベールがその任にあたった。彼は、休眠中であったフランス東インド会社を再建させ、王立特権マニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図るなど、重商主義政策を推進した。一方で対外政策としては、ネーデルラント継承戦争に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした(自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である)。

当初、イングランドのステュアート朝(革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は完全に悪化した。

ライン川流域のプファルツに対して起こしたアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。スペイン・ハプスブルク家の断絶に乗じて起こしたスペイン継承戦争では、ユトレヒト条約スペイン・ブルボン家の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸でアカディアハドソン湾などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領におけるアシエント権(奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。

ブルボン朝の財政[編集]

ヴェルサイユ宮殿

長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて立憲君主制に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設されたイングランド銀行が発行する英国債に対して国際金融センターであったアムステルダムなどから投資が集まっていた。また、市民革命の過程で特権団体であるギルドが解体しており、企業家の形成や工業化が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。一方のフランスでは、王権神授説を信奉するルイ14世によって1685年にナントの勅令が廃止され(フォンテーヌブロー勅令)、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた。奢侈の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。また、聖職者貴族といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。

外交革命と英仏植民地抗争[編集]

こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対プロイセン抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる外交革命が起こった。しかし、アメリカ大陸におけるフレンチ・インディアン戦争や、インドにおけるカーナティック戦争プラッシーの戦いなどにことごとく敗れ、1763年のパリ条約によって、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。

「絶対王政」とその限界[編集]

ルイ14世期に確立されたとされる「絶対王政」は、聖職者貴族ギルドといったある種の利権団体(社団)との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。18世紀になると、パリでは多くのカフェが営業され、カフェや個人的なサロンにおいて、勃興しつつあるブルジョワジーや自由主義貴族が新聞を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「公共空間」で生まれた公論(世論)は、当時高まっていた啓蒙思想によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。こうした中において、国王ルイ16世は、王権の及ぶ範囲で改革を目指したが、自由主義擁護者と絶対主義擁護者の板挟みとなり、絶対王政は限界を迎える様になった。

フランス革命[編集]

バスティーユ牢獄襲撃

1789年-1794年。広義には1799年まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃する。これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊する。これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日にフランス人権宣言を採択した。しかし革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命に干渉し、これに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発する。

第一共和政[編集]

1792年8月10日事件で王政が廃止され、国民公会でルイ16世を処刑し、国民公会、総裁政府、総領政府に分かれた共和制の成立を宣言する。ジャコバン派のクーデターでジロンド派は公会から追放され、貴族や教会から没収した土地の再分配を行う。ロベスピエールは反革命派や王妃マリー・アントワネット王党派のダントンらを処刑し、恐怖政治を行う。1794年にテルミドールのクーデターでロベスピエールが失脚し、民衆の手により処刑され、ジャコバン派は退行しテルミドール派総裁政府が成立する。翌1795年、テルミドール派は失脚し、ポール・バラスによる政権が誕生する。このバラス政権は、比較的長期政権であったが、対外戦争は好転せず(エジプト遠征)、1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルト執政政府を樹立し独裁権を掌握した。

第一帝政[編集]

皇帝に即位したナポレオン・ボナパルト

1804年ナポレオン1世皇帝に即位。ナポレオンはアウステルリッツの戦いトラファルガーの海戦ロシア遠征など、欧州諸国に数々の戦争を仕掛けた。この一連の戦争をナポレオン戦争という。しかしナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年に退位する。戦後処理のためにウィーン会議が開かれた。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった。1815年、エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。ナポレオン1世は再び退位した(百日天下)。

復古王政[編集]

ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権すると亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。このブルボン家の復古は、ウィーン議定書で諸外国によって承認された。

一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつてのアンシャン・レジームへ完全に回帰したわけではなかった。復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められていた。すなわち、身分制社会の枠組みは復活しなかった。しかし、1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。王への反発が強まる中、アルジェリア出兵 (1830年)英語版で関心を対外関係に向けようとするが、高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、1830年に七月革命が勃発してシャルル10世は失脚した。この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、自由主義に理解を示すオルレアン家ルイ・フィリップが王として選ばれた。アルジェリア侵略の結果、フランス領アルジェリアとして1834年に併合され、1962年の独立まで占領が続いた。

七月王政[編集]

1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家ルイ・フィリップがフランス王となった。ここからの彼の治世を7月王政と称する。政治体制立憲君主制が採られたが、極端な制限選挙により一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった。フランス産業革命の勃興にともない形成された中小ブルジョワジーや労働者は選挙法改正運動を展開したが、政府がその抑圧を図ったことなどから二月革命が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた。この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、1848年革命と総称される変動を引き起こすことになった。

『民衆を導く自由の女神』(ドラクロワ画)

第二共和政[編集]

1848年の二月革命によって、ラマルティーヌが首班となり、アルベール、ルイ・ブランなどが入閣した臨時政府が成立する。この段階ではラマルティーヌを中心とするブルジョワ共和派と、ルイ・ブランなどに代表される社会主義者の連携が図られていた。しかし、国立作業場など諸政策をめぐって対立が深まり、1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖された。これに反発したパリの労働者が六月蜂起が起こしたが、カヴェニャック将軍によって鎮圧された。

この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1851年12月に国民投票により皇帝に即位する。

第二帝政[編集]

ナポレオン3世

皇帝に即位したナポレオン3世は、クリミア戦争アロー戦争などあいつぐ外征の成功を通じて自らの威光を高めた。その一方で、ジョルジュ・オスマンに大規模なパリ市の改造計画を推進させたり、フランス各地を結ぶ鉄道網を整備するなど、大規模なインフラ整備を通じて工業化を推進した。この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。その統治の前半は、言論・出版の自由が制限されるなど権威主義的な統治体制であったが、労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、工業化を推進させることで新興のブルジョワジーの期待にも応えた。こうして、フランス国民各層からの直接的な支持を基盤に、議会を牽制しつつ政治運営を行った。こうした統治方法には、のちの大衆民主主義にも通じる要素が見いだされる。

オスマンの都市改造計画

しかし、こうした彼の権力基盤は、華々しい成功を維持し続けることでしか支えることはできなかった。1860年代になると、アメリカ大陸への影響力強化を図ったメキシコ出兵の失敗でその威光を低下させた。1862年にはサイゴン条約でコーチシナ東部を獲得しベトナム進出を進めていくが、このことも彼の威光回復にまではつながらなかった。また、自由貿易体制をとったことで、イギリスからの工業製品流入にさらされ、国内産業が打撃を受けていた。こうした失政が続くと、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった。さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた。この点で、かつて自らを支えた世論がみずからの首をしめる結果になったといえる。こうして1870年より普仏戦争が勃発したが、セダンで捕らえられ第二帝政は終わりを告げた。

第三共和政[編集]

対独ナショナリズムの高揚[編集]

官位剥奪式で剣を折られるドレフュス

1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和政が発足した。普仏戦争の敗北にともなうアルザス・ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金は、フランスの対独ナショナリズムを高揚させた。そのため、ブーランジェ事件ドレフュス事件を引き起こすことになった。また小党分立によって政権は頻繁に交代し、1875年から1940年の65年間に、87の内閣が成立している。

しかし、第二帝政期に急速にインフラが整備されたこともあり、工業化は順調に進展した。金融資本の形成も進み、広大な植民地ロシアなどへの投資を積極的に行った。

外交的には、ドイツ・ビスマルクの巧みな外交政策によって孤立を余儀なくされたが、1887年にはアジアにフランス領インドシナ連邦を成立させた。しかし、1890年のビスマルク引退にともなってヨーロッパ外交の枠組みが大きく変化し、1891年(交渉終了は1894年)に成立した露仏同盟を皮切りに、各国と同盟関係を結んでいった。1895年にはフランス領西アフリカが成立した。

1904年英仏協商で妥協が成立した結果、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、これに反対するドイツ帝国タンジール事件を起こした。露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していたテオフィル・デルカッセ外相は、日露戦争ロシア帝国が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になるとモーリス・ルーヴィエ英語版首相に解任され、1906年アルヘシラス会議に解決がゆだねられた。会議でアルヘシラス議定書が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた。

1911年に再びドイツ帝国がアガディール事件を起こし、フランスは、フランス領コンゴ英語版フランス領赤道アフリカ構成植民地の一つ)に対する一部譲渡の要求を飲んだ(モロッコ事件)。

第一次世界大戦[編集]

1914年第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツと交戦した。マルヌ会戦においてドイツ軍のシュリーフェン・プランを粉砕したフランス軍は、その後長い塹壕戦に突入した。大戦中、戦場となったフランスの国土は荒廃した。1916年ヴェルダンの戦いでは、同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、フランス軍の死傷者も甚大な数に上った。いつ終わるか知らない戦争に嫌気が差した兵士達の間では、士気が低下し、1917年ニヴェル攻勢における集団抗命に繋がる。しかし最終的にはドイツ軍を防ぎきり、ドイツ革命によるドイツ崩壊まで持ちこたえた。

戦間期フランス[編集]

第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議ではドイツに対する強硬姿勢をとり、ヴェルサイユ条約を締結させた。また、日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなどの姿勢も示した。1920年に成立した国際連盟では常任理事国となった。またアルザス・ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧ドイツ植民地、旧オスマン帝国領の一部を委任統治領として獲得した。シリアにはシリア・アラブ王国英語版が成立していたが、フランス・シリア戦争英語版で介入・占領し、フランス委任統治領シリアが成立している。

戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、ドイツからの賠償金を厳しく取り立てるようになった。この動きの頂点が1923年のルール占領であったが、ドイツに大混乱とインフレをもたらしたのみで失敗に終わった。以降賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。しかし世界恐慌後は経済も混乱し、1936年からはフランス人民戦線と呼ばれる左派政権が成立した。以降も内閣は頻繁に交代し、政治的な安定期を迎えることはできなかった。

第二次世界大戦[編集]

連合国軍によるパリ解放

1939年、ナチス・ドイツポーランドに侵攻すると、フランスはイギリスと協調してドイツに宣戦布告した。翌1940年にドイツは中立国であったベネルクス三国を経由してフランスに侵攻してフランス軍を打ち破り(ナチス・ドイツのフランス侵攻)、6月22日に独仏休戦協定が締結された。これにより、フランス北部はドイツ、南部の一部はイタリアによって占領されることになったが、名目的な主権は存続した。

フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、フィリップ・ペタンに対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、1940年7月10日の憲法的法律が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった。一方で国防次官シャルル・ド・ゴールはロンドンで、親連合国の組織「自由フランス」を組織した。自由フランスはドイツに対する抵抗を呼びかけたが、植民地の多くはヴィシー政権を支持した。一方でフランス領インドシナ仏印進駐によって日本軍の影響下に置かれることになる。

ドイツによる占領政策は苛酷であり、1942年以降にはフランス国内でもレジスタンス運動が高まるようになった。各地の植民地は次第に自由フランス側につくようになり、1942年11月8日トーチ作戦によってフランス領北アフリカも喪失した。これによりドイツ軍はフランス全土を占領し、ヴィシー政権はほとんど名目的な存在となった。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同してフランス共和国臨時政府が成立し、ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土には再び連合国軍が上陸した。6月22日にはパリの解放が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った。

フランスは国際連合安全保障理事会常任理事国という五大国の一つである地位を確保し、ドイツ占領に参加した。一方でドイツ協力者に対する粛清も行われた。

第四共和政[編集]

臨時政府は制憲議会で憲法作成作業を行った。1946年10月に第四共和政憲法が成立し、1947年1月16日から第四共和政に移行した。多党分立で議会優先であったため内閣は短命で、政情は不安定だった。ドイツの収奪と戦禍により経済は疲弊しており、ドイツからの大幅な収奪を前提とするモネ・プランを計画していたが、アメリカなどの反対によって成立しなかった。変わってアメリカからマーシャル・プランによる支援を受ける一方で、冷戦勃発後は石炭鉄鋼共同体などヨーロッパ統合政策を開始している。

一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった。インドシナでは1945年から1954年にかけて第一次インドシナ戦争が発生し、ジュネーヴ協定で撤兵した。

第五共和政[編集]

アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、1959年シャルル・ド・ゴールに全権を委ねることで第五共和政へと移行した。第五共和政では大統領に強い行政権限があり、アルジェリアをはじめとするアフリカ植民地の独立(アフリカの年)、さらに中華人民共和国の成立を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも独自路線を貫いた。1960年には核兵器の開発に成功。

1966年に発生した学生と労働者による五月革命は、政界にも大きな影響をもたらした。ド・ゴールはこの動きを鎮圧し、総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった。選挙では社会党フランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となる。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、コアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生している。第5代大統領となった共和国連合ジャック・シラクは、イラク戦争では派兵を拒んだ。シラクの後継となったニコラ・サルコジ政権(国民運動連合)では対米協調がおこなわれた。2012年からは社会党のフランソワ・オランドが大統領となっている。

基本文献[編集]

  • 佐藤彰一・中野隆生編『フランス史研究入門』山川出版社、2011
  • 柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店〈岩波新書〉、2006
  • 福井憲彦編『フランス史新版(世界各国史:12)』山川出版社、2001
  • 柴田三千雄ほか編『世界歴史大系 フランス史』1〜3山川出版社、1995-1996
  • 長谷川輝夫『日常の近世フランス史』日本放送出版協会、2009


脚注[編集]

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関連項目[編集]