パリ・コミューン
| パリ・コミューン | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| Commune de Paris | |||||
|
1871年3月18日にコミューン運動参加者の国民衛兵によって築かれたバリケード | |||||
|
国歌:L'Internationale インターナショナル | |||||
| 公用語 | フランス語 | ||||
| 首都 | パリ | ||||
| 議長 | |||||
| 3月28日 - 5月28日 | シャルル・ベレー | ||||
| 人口 | |||||
| 1,799,980人 | |||||
| 変遷 | |||||
| 成立 | 3月26日 | ||||
| 崩壊 | 5月28日 | ||||
| 現在 |
| ||||
| |||||
| パリ・コミューン | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 普仏戦争でのパリ包囲戦の余波中 | |||||||
| |||||||
| 衝突した勢力 | |||||||
|
国民衛兵 | |||||||
| 指揮官 | |||||||
|
| |||||||
| 戦力 | |||||||
| 170,000[1] | 25,000–50,000[2] | ||||||
| 被害者数 | |||||||
|
750人[3]から987–1,162人死亡 6,580–6,755人負傷 183 行方不明[4] | 6,667人死亡(埋葬確認)[5]。推定では1万から1万5千人[6][7]〜死者2万人[8][3]。38,000人[3]から43,000人が逮捕され、6,500-7,500人が海外へ亡命[9]・国外追放[3] | ||||||
| フランスの歴史 | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||
|
先史時代
| |||||||||
|
近世
| |||||||||
|
現代
| |||||||||
| 年表 | |||||||||
フランス ポータル | |||||||||
パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris Commune)は、フランス第三共和政時代に1871年3月18日から5月28日までパリに樹立されたコミューン議会、およびこれを生み出した運動[10]、フランス政府(ティエールのヴェルサイユ政府)に対する反乱である[10][3]。
概説
[編集]前年1870年のフランス・ドイツ戦争 (普仏戦争)で9月2日にナポレオン3世が降伏し、9月4日に立法院議員レオン・ガンベッタらが共和政の臨時政府国民防衛政府を宣言し、第二帝政が崩壊した[11]。パリのコミューンはその余波として起こった[3]。国民防衛政府は戦争継続を決定し、プロイセン軍は9月23日までにパリを包囲した(パリ攻囲戦)[11]。
1871年1月にフランスは降伏し、1月28日にプロイセンと休戦協定が締結された[11]。停戦協定は条約交渉権を有する国民議会の選出を求めたため2月8日に選挙を行うが、正統派やオルレアン派ら王党派が大半を占め[11]、共和派は、帝政復活を恐れた[3]。王党派は和平を求めたが、共和派は徹底抗戦を主張した[11]。ティエールが国民防衛政府長官に就任し、フランクフルト講和条約を締結したが、戦争賠償金50億フランとアルザス=ロレーヌがドイツの手に渡った[11]。ティエールは政府をヴェルサイユへ移した[11]。
ティエールがパリの国家警備隊を武装解除するために1871年3月18日に部隊を派遣すると、群衆と衝突し、ティエール軍は撤退した[11]。3月26日に、警備隊の中央委員会が組織した地方選挙で革命派が勝利すると、コミューン政府が樹立した[3]。コミューン政府には、フランス革命の伝統に従うジャコバン派、社会主義のプルードン派、暴力行動を求めた社会主義者であるブランキスト派がおり、彼らは宗教支援の停止、革命暦の使用や、1日10時間労働などの社会的措置を求めた[3]。
しかし、5月21日にヴェルサイユ政府軍がパリに侵入し、血の週間とよばれる凄惨な市街戦が始まった[3]。コミュナード(コミューンの支持者)はバリケードを設置し、テュイルリー宮殿やパリ市庁舎を焼失させるなど抵抗を続けたが、約2万人の反乱者が死亡し、コミューン政府は粉砕された[3]。ヴェルサイユ政府軍も約750名が死亡した[3]。
パリ以外でも、1870年9月にリヨン(9月4日宣言)とマルセイユ(9月5日宣言)、1871年にはパリと同時期にサン=テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどで同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された[12][3]。パリのコミューンだけがヴェルサイユ政府軍の反撃に直面した[3]。
約2か月の間存在していた自治政府パリ・コミューンは、社会主義的な革命政権であり、のちの社会主義・共産主義・革命運動に大きな影響を及ぼした[10]。マルクスとエンゲルスは、コミューンの失敗の経験から、階級支配を根こそぎ除去するための内乱が必要だったと論じ、暴力革命、プロレタリア独裁などを構想した[13]。エンゲルスやレーニンはパリ・コミューンを「プロレタリア独裁」の実例とした[14]。レーニンはコミューンは過剰に寛大であったがゆえに「階級の敵」を殲滅できずに失敗したと論じ[15]、ロシア革命で権力掌握後、実際にロシア内戦と赤色テロにおいて政敵や「階級敵」を抹殺していった[16]。レーニンの後継者スターリン、毛沢東、ポル・ポトもパリ・コミューンに感銘を受けている[17][16]。
ただし現在では、マルクスのようにパリ・コミューンを、プロレタリアートが抑圧者ブルジョアに対して初めて起こした大反乱とする解釈は神話的であり、誤解を招くものとされる[11]。パリ・コミューンにおいて階級闘争は中心的なテーマではなく、長期にわたる包囲戦のストレス、国民防衛政府による債務と家賃の戦時モラトリアム停止、国家警備隊への賃金支払い停止、ヴェルサイユへの首都移転への怒りなど複雑な諸原因をパリ市民は抱えていた[11]。
第二帝政期の情勢と労働者
[編集]第二帝政とパリ
[編集]

第二帝政成立
[編集]ヨーロッパでは産業革命の波と凶作とによって封建的政治体制を覆す革命の波が押し寄せつつあった。
1848年革命(二月革命)が勃発してオルレアン朝が倒れ、短期間ながら第二共和政が成立したもの、政情不安が続いていた。こうした状況に頭角を現したのがナポレオンの甥ルイ・ナポレオンであった。彼は国民の圧倒的な支持で大統領就任を果たす[18][19]。1850年代に入ると景気回復が進み、政権は安定していく。ルイ・ナポレオンは産業革命を強力に推進する一方、積極的な社会政策を実施して、フランスの近代化を進めていった。同時代、アメリカではゴールド・ラッシュが到来した影響で農作物価格が上昇し、農業国フランスを支える農民の生活は向上していった[20][21]。
1851年、ルイ・ナポレオンは国民的人気を背景にクーデターを断行、翌年には皇帝に即位して、ルイ・ナポレオンはナポレオン3世となった。ここに第二帝政が成立する[22][23]。
第二帝政は成人男子選挙権にもとづく民主制に基礎を置いていたが、議員就任には反動的な内容の1852年憲法を下敷きに作られた帝国憲法への宣誓が必要で、実質的に皇帝の臣下を民選しているという程度のものであった。第二帝政期の政治の実態として、皇帝の権限が非常に強く、大臣の任命から行政官任用にいたるまでの人事権が皇帝に集中、皇帝専制政治の色彩を帯びたものであった[24][25]。
ただ1850年代は西ヨーロッパ諸国の安定の時代であったことから時代の追い風を受けていたため、反動政治に対する国民の反発も少なかった。ナポレオンは即位当初は非常に意欲的で、積極的に自由主義政策を展開し、1860年には英仏通商協定を締結した。この貿易自由化政策の結果、フランスでは農産物の輸出が増加して農民の生活は向上に向かっていた[26][27]。また、皇帝は諸階級の上に立つ存在と見なされていたことから社会主義(空想的社会主義の一つサン・シモン主義に近い)に対しても受容的な立場をとっており、皇帝の従兄弟にあたるナポレオン公シャルル・ボナパルトの指導のもとで労働者に対する恩恵的な政策も実施された。第二帝政期のフランス政治はボナパルティズムという民主主義と専制主義の一種独特な同居状態にあったと言える[28]。
そして、ナポレオン3世は好景気を背景としたジョルジュ・オスマンによるパリ改造や鉄道敷設事業など大規模な公共事業(オスマニザシオン)が展開された。パリ改造は次のようなものであった。官庁街や住宅街などの区画整備を推進して西部に高級住宅街を造成した。さらに、下水道の完備など公衆衛生施設の改善に努め、不衛生なパリをより清潔な都市に変えていった。歴史的建造物の周辺に広大な広場を造成した他、広場と広場とを直線的な幹線道路で放射状に結び、都市過密の解消を試みた。中世以来のパリを近代都市として生まれ変わらせていったのである。パリは20の区域に区画され再編されて現在われわれが見ている近代都市パリが形成されることとなる[29][30]。ただし、一方でこうしたパリ改造のために一般の民衆は過酷な立ち退きが強制され、こうした人々は住み慣れた中心部から追い出されて離れた郊外に移住を強いられた。その結果、パリ市近郊には中心部を取り巻くように「赤いベルト」と呼ばれた貧民街が形成されることとなった[31]。コミューン革命の舞台はこうした環境下のパリだったのである。

第二帝政とパリ労働者
[編集]1860年代のパリ労働者の特徴としては、工場労働者というよりも、前近代的な性格が残されていた。工芸品の製造をはじめとする伝統的な手工業生産に従事する者が多く、労働者というよりも職人というべきタイプの人々であった[32]。こうした職人的熟練労働者は自分の職と技術に自負心を持つ職人気質が高く、彼らの政治的志向はフランス革命期のサン・キュロット運動の歴史的経験を背景とした人民主権思想とその延長に形成されたプルードン的な職人社会主義思想に支えられていた[33]。フランス革命以来、パリ民衆はお上への直訴や談判などの直接行動を重視しており、ジャコバン的直接民主主義の伝統が残っていた。かれら民衆は酒場などでの労働者同士の交流を契機に、強い連帯感と独立した階級意識を形成し、現実世界に対する批判的な精神を育んでいた。産業化・近代化の進むパリではより一層、格差と階級分離が深まっており、単なる強権政治でしかない第二帝政への不満もこうした生活世界の中で形成されていた[34]。こうした環境の中で「人民の声」を高等政治の世界へと反映させたいとするポピュラー・ポリティクスの文化が形成されていたのである。
こうした中、時代が下るにつれて第二帝政への逆風が吹き始める。周期的に繰り返される恐慌はやがてナポレオン3世の帝政に対する人々の不満を強めていく。ナポレオン3世は事態打開のために対外政策を積極化させるものの、メキシコ出兵の失敗によって皇帝としての権威を失う。これを背景に強権政治の綻びが見え始め、「権威帝政」から帝政は次なる段階として過渡的な「自由帝政」へ、そして帝権失墜の最終段階「議会帝政」へと移行していく[35]。
第一インターナショナルの発足
[編集]| 社会主義 |
|---|

「自由帝政」期においてはその後の歴史過程に大きな影響を与える変化が起こった。上記の記述において、「権威帝政」期におけるナポレオン帝政の強権主義的な体質を強調したが、1860年代初頭に入ると状況は変化していた。
この時代、フランスにおける皇帝権力とパリの労働者は実は階級闘争に根差す唯物史観で語られているほど対立的なものではなかった。パレ・ロワイヤル・グループのように帝政を積極的に支持しながら皇帝に接近し、労働立法・社会立法を提言する勢力も存在していた[36]。帝国政府もそうした社会的要請を受けて民法を改正し、労使間の不平等な雇用契約関係を改めるなどの社会政策を進めている。
アンリ・トラン(青銅彫刻工としてアンティーク雑貨の加工を請け負っていた)のような、独立志向の高いエリート労働者であっても、アルマン・レヴィなど側近から交渉機会を与えられれば、ナポレオン公などの開明派の王侯貴族と盛んに接触して帝政に対して進んで労働者の利害を主張していた。したがって、労働者階級が帝政を利用して権利を主張したり、社会的上昇の機会を獲得するという構図が出来上がっていたのである。こうした動きは時代を大きく加速させる転機をつくりだした。1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に参加させるべく、パレ・ロワイヤル・グループを中心に約200名のフランス労働者、ドイツから12名の労働者の代表団が派遣された。アンリ・トランもブリテンの労働運動の実相を視察するべく代表団の委員の一人として参加した。もっとも、労働者の自発的カンパもあったものの、フランス代表団を組織して費用の大部分を支出したのは、ナポレオン3世とナポレオン公であった。

かれらフランス労働者団は8月5日の晩ブリテン労働者の歓迎を受け、「フランスおよびブリテン労働者の同盟への万歳三唱」をもって終了した。7月22日の集会には5名のフランス労働者が出席して、ポーランドの義挙を賞賛する演説を行う。次の晩にこのフランス人たちがイギリスの組合代表者たちと会合し、オッジャーを含む3名の委員会を任命し、パリの労働者へ向けて宣言文を発した。「資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である」と[37]。
1859年、ブリテンではロンドンを中心に建築工ストライキが発生して以来、労働闘争はかつてないほどに盛り上がりを見せていた。1860年代半ば以降、南北戦争期の北部支援運動などで自由主義や解放思想の理想が大衆にまで広まっていき、やがて国際運動への傾斜が国家批判にまで拡大した。ブリテン国家構造は、その構造上の問題が主従法改正運動や選挙法改正運動など労働法から議会制度に至るまであらゆる方向から攻撃を受けることになった。こうした挑戦的な大衆運動の中心が大工や石工といった職人的な世界を生きる熟練労働者たちだったのである。このとき見聞きした出来事はフランス労働者団に衝撃を与えるものであった。かれらはブリテン労働者たちの活発なストライキ闘争、広い国際的見聞、労働運動や改革運動のボトム・アップ的な姿勢に驚愕し、フランスの帝政と労働運動の後進性に気づくこととなった。ここに、1851年以降、長年にわたって眠りについていたフランスの労働運動はついに覚醒したのである。
1863年から64年までの1年間でブリテン・フランス労働者代表者間の談合で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。1864年9月28日、ロンドンはセント・マーティン・ホールにてフランスの代表団を受け入れる歓迎集会が催され、「国際労働者協会」(第一インターナショナル、以下IWAと略記)の設立が宣言された[38]。ブリテン側の世話人はジョージ・オッジャーと石工組合書記のランダル・クリーマー、フランス代表はプルードン主義者のアンリ・トラン、議長はロンドン大学教授のエドワード・ビーズリだった。また、この集会にはカール・マルクスも同席していた。この集会は、組織の決裂について言及した後半部で詳述するが、オーウェン主義者や旧チャーティスト指導者たち、そして多数の労働組合指導者からなるブリテンの急進主義者、ブランキ派やプルードン主義者などフランスの革命的急進派、アイルランドやポーランドのナショナリスト、ドイツの社会主義者などを含むヨーロッパ各国の諸勢力が一堂に会する大集会となった。フランスでもIWA支部が設置され、「言論の自由」、「非宗教的義務教育」、「常備軍と国家警察の廃止」など当面の政治改革の要求とともに「コミューンによるすべての社会資本の奪取」を目標とするフランス連合評議会が発足した。
1864年、IWAが発足すると、ナポレオン3世による労働者懐柔策に綻びが生じた。
労働者の政治的権利と社会的平等の獲得を目指したトランを筆頭とする労働者グループによって『六十人宣言』が発せられた[39][40]。帝政は労働者階級との信頼関係を維持する必要に駆られ、ついに帝国政府は渋々労働者側に譲歩していくことになる。このとき、1851年に壊滅した運動の再建が叶えられ、労働者階級の長年の悲願であった協同組合運動への突破口が開かれた。刑法の一部が改正され、ストライキなどの実力行使は許されなかったが、協同労働と共済のためならばと団結権が部分的に承認された[39]。
しかし、1867年になるとナポレオン3世の思惑とは裏腹に帝政に対する逆風が一気に強まる。1866年、ブリテンで金融危機が発生し、翌年に入るとフランスに飛び火して恐慌が発生した。企業倒産が相次ぎ、おびただしい失業者が発生する。団結権の部分的承認は、千畳堤の蟻の一穴のごとき役割を果たした。大小さまざまな協同組合が結成され、法律の枠を超えてストライキ目的の労働組合へと変質していく。非合法であるにもかかわらず、各地で労働運動が多発し、大規模なブロンズ工のストライキが発生するなど1851年に発生した帝政による弾圧と壊滅以来の時間を取り戻すように労働運動の再生と革命化が進んでいった[41][42]。こうした各地の労働闘争を支援したのがIWAであり、IWAは積極的なストライキ支援の結果、帝政からの弾圧を受けて地下活動へと逃げていった。しかし、IWAは激しい弾圧を受け、トランなどの初期のプルードン派指導者が次々と脱落したため、そのメンバーは反政府を掲げるブランキ派グループだけが残って、しだいに革命派へと純化していったのである。こうした革命的情勢の積極的利用の背景にはマルクスによる理論的指導の力があった。マルクスは、IWAの年次大会のたびに改良主義的な思想だったプルードン主義を激しく糾弾して、フランスの労働運動を革命主義へと誘導したのある。
革命思想の形成
[編集]革命的ジャコバン派
[編集]ここで反政府派の政治思想を整理したい。もっとも古い反政府勢力は革命的ジャコバン派である。革命的ジャコバン派の主な人物に、老活動家シャルル・ドレクリューズ、南北戦争でも有名を馳せた軍人クリュズレ、扇動家のフェリックス・ピアなどがいた。かれらには特定の体系的な政治思想はなかったが、フランス革命時代に全盛を極めたジャコバン派によるかつての急進主義の記憶が宿っていた。小市民と一般民衆からなる共和国の理想と純粋民主主義思想の伝統を継承したこのグループは、その反権力の志向から、のちに社会主義へと合流し、後のパリ・コミューンで大きな活躍を見せる[43][44]。
プルードン派
[編集]
また、既にその名称が何度も登場するプルードン派について言及したい。
ピエール・プルードンの思想は第二帝政期のフランスで最も影響力のある思想であり、後のアナーキズム思想の先駆けであった。かれの思想はまさに農民主義、職人主義そのものと言っていいだろう。プルードンは「財産とは盗みである」と語り、大資本と金融業による搾取を告発した。中小規模の土地所有と工房、作業場の経営に基づく小財産を個人資本として、これを足掛かりに平等な諸個人が自立と相互扶助の関係を保ちながら協同組合を形成して中央政府に対する自由を確立していき、自由な個人の連帯によって新社会を建設するという「相互主義」思想であった。この思想は農民や職人の支持を集め、パリの職人労働者の政治文化に影響を与えていった。アンリ・トランや初期のウジェーヌ・ヴァルランなどのエリート労働者に多くの示唆を与えた。ただし、自由な職人や農民たちの古い産業秩序を維持しようとする余り、第二帝政に対する批判に欠け、現状容認的な傾向が強かった。事実、プルードンは労働者の自立を重視する一方で暴力的な現状変革を認めなかったため、ストライキに公然と反対していた。このグループは、フランス各地でストライキが猛威を振るう1867年以降の時代状況の変化に付いていけずに急激に衰退していく[45][46]。
ブランキ派
[編集]プルードン派の代わりに台頭したのが、ブランキ派である。ブランキ派は革命家オーギュスト・ブランキの思想を信奉するグループであり、その思想はプルードンとは対照的に攻撃的で暴力的な性格が強く、現状変革のために暴力革命の必要性を説き、政府打倒のためなら陰謀やテロを厭わない過激主義であった。ブランキのもとには多くの弟子が参集し、ギュスターブ・フルーランス、エミール・ウード、トリドン、リゴー、プロトー、テオドール・フェレなどの後にパリ・コミューン政府の要職に就く人々がその隊伍に加わっていった[47][48]。ブランキはマルクスのような資本や労働に対する理論的な洞察力はなかったが、人民による暴力的な権力奪取と独裁を主張するとともに、国有化の断行や計画経済の導入を提唱するなど早い段階から明確な国家観をもっていた。
ブランキ思想の後世への影響は絶大であった。資本主義経済システムの崩壊と革命の不可避性に関するマルクス主義思想(恐慌・革命理論)に、暴力革命論を追加してボリシェヴィキ主義へとつながる共産主義思想のイデオロギー形成にも力を貸した。後の時代に成立をみるソ連体制・ドイツの正統マルクス主義者の待機主義を批判したレーニンの国家理論・革命理論(プロレタリアート独裁)にも大きな影響を与えた。また、マルクスの最大の好敵手であったバクーニンの革命理論や無政府主義思想(アナルコ・サンディカリズム)にも示唆を与え、その思想は後継者に欠くことはなかった。ブランキ派の台頭はIWAに大きな影響力をもたらした。
マルクスの支持者は、マルクスのブランキに対する深い敬意とその思想的同期からしだいに増加し始め、ブランキ・マルクス派という形でその勢力を拡大させていった。1867年以降は深刻な恐慌から革命的情勢が高まり、IWAの革命化が進んでいった。ヴァルラン、ブノア=マロン、パンディといった指導者たちが続々とブランキ・マルクス派へと転向していった。彼らは後の共産主義者と区別するために「集産主義者」と呼ばれることになったが、旧来的なプルードン主義と決別して「パリ労働者組合連合会議」、「IWA・フランス連合評議会」などの組織を設立して革命派連合を組織し、帝政に対する批判と攻撃を強めていった[49][50]。
内憂外患と帝権の衰退
[編集]また、フランスは外交面でも失策が相次いだ。メキシコ出兵は失敗に終わり、ゲリラの一団による抵抗を前にフランスの国威も地に落ちた。イタリア統一戦争時のイタリア王国の離反は、ナポレオン三世の野望を破綻へと導いた。ガリバルディのローマ進軍を二度にわたって妨げた結果、プロイセン・オーストリアの二大国に対する守りをなす、イタリアからの信頼を失うことになった。あろうことか、イタリア王国はプロイセン側に寝返ってしまう。外交では孤立化が進展していき、プロイセンとの全面対決を有利に進めるための強力な同盟国を欠いたままで戦争に突入することとなった。これらの内憂外患は第二帝政の命取りとなっていく。
1867年、民衆への懐柔策として「集会の権利」が認められて、「公共集会」の開催が許可される。その結果、地区を単位とする共和派を支援する選挙集会も行われるようになっていった。また、デモ活動は許されていなかったが、結社の自由がすでに部分的に認められるようになり、互助的な協同組合が盛んに結成されるようになった。これらの改革は労働者の発言力を強めた。政治活動や労働運動が認められるようになるにつれて労働者の自立性は高まり、ジャコバン派やブランキ派など急進的な革命派が形成されるようになる。

1869年総選挙がおこなわれる。このときの総選挙ではジュール・フェリーやレオン・ガンベタ、アドルフ・クレミュー、ヴィクトル・ロシュフォールなど後に仮政府の要職に着任する共和派議員が圧勝して、292議席中116議席、およそ半数の議席を制するなど反帝政の急進派が躍進した[42][51][52]。
労働者街をなしていたベルヴィール地区では反政府的な選挙集会が開催されていた。このとき、ベルヴィール地区民衆と選挙委員会は、「常備軍・国家警察の廃止」、「言論、集会、結社の自由」を盛り込んだ独自に選挙綱領―ベルヴィール綱領を定めて、候補者ガンベタに提示するといった自発性を示した。これは議会政治を単なる代議制として考え、議員の代表によって国民の意思を表示するという間接民主制に頼るのではなく、議員を民衆の代理人として位置付けて国民の意思を伝達させるべきだとする直接民主主義の理想、古くはルソーの社会契約思想に遡る共和主義理念の再生を見てとれる[53][54]。1869年総選挙は歴史的選挙であった。病気がちになっていたことも相まって、ナポレオン3世の政治力はこのとき既に失われ始めていた。1870年、エミール・オリヴィエによる新内閣が成立して第二帝政は「議会帝政」へ移行していった[55][56]。
しかし、1867年恐慌はますますその深刻の度を強めていった。金融資本が企業投資を手控えたため、フランス銀行にマネーが滞留して金詰まりの状況となっていたのである。長期不況となったため、労働者の窮状は一層厳しいものとなった。1870年、ル・クルーゾの炭鉱で大規模なストライキが発生したほか、ナポレオン3世の従弟にあたるピエール=ナポレオン・ボナパルトがロシュフォールの同志で『ラ・マルセイユ』の記者であったヴィクトル・ノワールを殺害する事件が発生した。ストライキ闘争の激化とノワール射殺事件の発生の結果、反帝政の世論はかつてない熱狂の様相を呈し、ストライキは賃金闘争の域を超えて大規模な反政府運動へと発展、もはや国内は政府の統制が利かない状況となっていったのである[57][58]。
普仏戦争と第二帝政の崩壊
[編集]普仏戦争
[編集]
第二帝政最大の失敗が始まりつつあった。1870年7月、スペイン継承問題を発端に普仏戦争が勃発する。ナポレオン3世は健康不安を抱えながらも出陣するが、フランス軍は各地で大敗北を重ねた[59][60]。敗報に触れて、オリヴィエ内閣が退陣してパリカオ内閣が成立する中で、パリでは政情不安が深刻化していく。防衛力強化のために40歳以上の全男子に招集がかかり、民衆は国民衛兵に参加することが決定される。国民衛兵は、戦況の悪化と祖国防衛への緊張感と共に次第に急進化してパリの革命派を擁護する革命軍の性格を持つようになる[61]。
ラヴィレット蜂起
[編集]こうした危機の最中にある8月14日、ブランキ派はこの間隙に「帝政を倒せ!武器を取れ!」と労働者を扇動し、ラヴィレット街にて蜂起を試みた。しかし、労働者はパリ防衛が主たる関心事としたため蜂起に加わらず、首謀者のエミール・ウードとガブリエル・ブリードが捕えられてラヴィレット蜂起は失敗に終わった[61][62][63]。しかし、帝政の崩壊は目の前に迫っていた。
皇帝の降伏と共和国宣言
[編集]
セダンの戦いに敗れ、ナポレオン3世は降伏して捕虜となった[62][64]。
1870年9月4日、立法院ではパリカオ内閣が国防政府の樹立を提案し、皇帝の退位要求に蓋をしようと試みた。長時間にわたる議論が行われたが、休憩時間中に民衆が押し掛けてくるという噂が広まると議員たちは議場から避難していた。空っぽになった議場に民衆が乱入してきた。ナポレオン帝政に対する不満は敗戦への怒りとなって爆発し、民衆はブランキ派のエミール・ウードやエルネスト・グランジェに導かれて立法院に殺到してきたのである。人々は「帝政を倒せ!立法院を倒せ!共和政万歳!」と叫び、フランス第二帝政の失権を迫った[64][65]。革命派の跳躍に危機感を抱いたジュール・ファーヴルは共和国樹立はパリ市庁舎で宣言させると民衆に呼びかけ、人々を議場から導いていった。その間、議場に残ったブルジョワ議員は仮政府の閣僚名簿を作成していった。民衆はブランキやドレクリューズを閣僚に望んでいたが、このとき作成された閣僚名簿は民衆が期待していたものとは全く異なるもので、ブルジョワ中心の穏健な共和派政府を作るというものであった。レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発し、空になった議場で作成された国防仮政府の閣僚名簿を発表した。ルイ・ジュール・トロシュを首班とし、外相にファーヴル、内相にガンベタ、そしてパリ急進派議員ヴィクトル・ロシュフォールを閣僚とする仮政府が樹立された[66][67][68]。
パリ共和主義中央委員会
[編集]しかし、和平の早期実現を望む仮政府と徹底抗戦を要求する民衆との対立は激しいものとなっていた[69]。王政復古の可能性を示唆するブルジョア色の濃い仮政府の成立に裏切りを感じたパリ労働者の代表者たちは今後の対応を協議し始めた。IWAのフランス連合評議会はコンドリーに本拠を構え、当地で会合をもち仮政府に圧政の停止を要求したが、軽くあしらわれる結果となった[70]。そのため、9月5日にはインター派の発議で今後の方針を検討するために「共和会議」が開催されたほか、仮政府と市政の監視のため各区に監視委員会が設置され、その上位に連絡部会を設立しようとする動きが生じていった[71][72]。
9月11日、各区4名ずつの監視委からなる「パリ二十区共和主義中央委員会(以下、パリ中央委と略称)」が発足している[73][74]。亡命先のベルギーから帰国したヴァルランを加えたパリ中央委は『第一回の赤いポスター』というスローガンを発表した。国家警察の解体、市の行政官の公選、言論・集会の自由、国防必需品の徴発、配給制の確立、全市民の武装が提案された[75][76]。パリ中央委とインター派は挙国一致による徹底抗戦を呼びかけて抵抗を開始した。
ドイツ軍に攻囲されたパリ
[編集]
1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲されることとなる。
臨時政府国防政府は急遽、兵士を徴募したり、国民衛兵を招集したが、ドイツ軍は1870年9月19日にはパリを包囲した[77]。すでに皇帝が降伏していたフランスは、ドイツと和平交渉を行わうが、プロイセンがアルザス=ロレーヌを要求したため決裂した[78]。
リヨン、マルセイユのコミューン
[編集]この間、南部の諸都市リヨンやマルセイユでは国防体制を強化するために「南仏連盟」が結成されたが、臨時政府の影響圏から離脱して地方革命政権として自立し始めていた。一方、リヨンではミハイル・バクーニンが絹布職人の支持を背景に蜂起して市庁舎を占拠したが、バクーニンは軍に包囲されあっさり逮捕されてしまった。バクーニンは釈放された後、すぐにフランスを離れて亡命した。
マルセイユでは革命が成功してマルセイユ・コミューンが中心となる革命派政権が一時成立した。マルセイユ・コミューンは市会選挙でのブルジョアの巻き返しで崩壊したが、パリの革命派に強い印象を与えた[79]。
パリの国民衛兵
[編集]
パリでは国民衛兵を中心に愛国心に燃える武装民衆と臨時政府の間に二重権力状態ができていた[78]。
パリでは国民衛兵が緊急招集されて9万人の市民が軍の隊列に加わっていった。将校は選挙され総出撃による撃退を主張するオーギュスト・ブランキやギュスターヴ・フルーランス、インター派のリーダーとなったウジェーヌ・ヴァルランなどの血気溢れる革命家たちが大隊長に選出された[80][81]。しかし、仮政府は表向きは徹底抗戦を主張していたが、実際には国防に対する関心を既に喪失しており、ジュール・ファーブルはプロイセンと停戦していかに武装した革命勢力を解散させるかの道筋を探るようになっていた[69][82][83]。
9月20日、シュートー、シャトラン、そして彼らの同士からなるパリ中央委は降伏を拒否して徹底抗戦を主張するとともに、「パリ中央委は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ」とする規約を採択し、臨時政府との対決姿勢を強めた。パリ中央委は早くも市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議を採択するなど妥協的な仮政府と敵対するようになった[84][85]。
一方、仮政府は憲法制定会議の招集、コミューン選挙の延期を発表するなど朝令暮改を繰り返し、またフルーランスの要求を拒んで辞任もやむなしの状況へと追い込んだ他、ブランキをリコールするなど革新派大隊長を次々と更迭して抗戦派の勢いを削ごうと図り、この動きのゆえに仮政府とパリ民衆との離反を決定的なものとなった[86][87]。
10月31日蜂起と挫折
[編集]
10月31日、「三つの衝撃」と呼ばれる事件が起こった。ブルージェとメッス要塞が陥落して兵力17万を擁するフランソワ・バゼーヌ元帥率いる守備軍は降伏、プロイセンが本格的にフランスの軍事的抵抗能力を粉砕し、休戦交渉のためにティエールがパリにやって来たのである[88][89]。この日、コンドリーにパリ中央委のメンバーは参集した。そこで政府の退陣と徹底抗戦を要求するために市庁舎に行進することが決議され、無数の群衆そして指揮権から離脱した3千名もの軍の一部が合流して市庁舎に侵入した。ベルヴィール労働者地区の大隊長ルフランセはトロシュと会見して仮政府の停止、市会選挙と選挙管理委員の招集を求めた。腰の重い政府の対応に業を煮やしたフルーランスは兵士を連れて市庁舎に乗り込んでテーブルの上に立ち、フルーランス自身、ブランキ、ドリアン、シャルル・ドレクリューズからなる「公安委員会」の設置を宣言、「革命的コミューン」の組織について討議を開始した。「10月31日蜂起」の最中、状況は誰が何をしようとしているのか全く把握できない混乱状態に陥っていく[90][91]。
パリ20区長選挙
[編集]しかし、この間ルイ・ジュール・トロシュはまだ諦めてはいなかった。彼は退陣こそ呑まなかったが市会選挙の実施を約束して事態を切り抜け巻き返しのチャンスを得ようとした。親政府派の軍が市庁舎に奇襲をかけ市庁舎を取り囲んだ。革命派は市会選挙実施と報復しないことを条件に市庁舎を退去した[92][93][94]。施政権や戦争遂行権を手放したくない仮政府により革命派と交わされた約束は裏切られ、革命派指導者に逮捕令状を発し、市会選挙ではなく区長選挙として実施されることとなった[95][96]。
11月4日、仮政府の信任投票とパリ20区の区長選挙が実施され仮政府が続投を果たす一方で、政府支持のブルジョア派が過半数で当選したが、労働者地区では逮捕された反乱分子が多数当選する異常事態が発生した。インター派のブノア・マロン、ヴィクトル・ジャクラール、ギュスターヴ・ルフランセ、急進派のモテュ、ギュスターヴ・フルーランス、レオ・ミリエール、ジャコバン革命派の老闘将シャルル・ドレクリューズ、ブランキ派のガブリエ・ランヴィエなどが区長あるいは助役に選出された[96][97][98]。
包囲中の生活
[編集]その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。オルレアン派(王党派)の司令官デュクロによる出撃戦は惨憺たる結果となってプロイセン軍の包囲を突破することに失敗、パリは冬を前に陸の孤島と化した。しかし、この包囲中の仮政府による配給制はお粗末なもので金持ちが隠匿物資で生活を守る一方、市中ではねずみや猫、犬をはじめあらゆる動物が食料として取引される状況に追い込まれた。こうした危急存亡の情勢はパリの革命的な性格を急速に強化した[99][100][101]。
ドレクリューズは「共和主義連盟」を組織してコミューンの選挙を要求し、政府批判を強めて首班のトロシュとクレマン=トマ将軍の解任を要求した。急進共和主義者が政府にとって代わるべきだと主張を展開した[102]。
1871年1月
[編集]1870年12月、パリがプロイセン軍に包囲されるなか市民の武装と防衛力の強化を図っていたが、状況はますます厳しくなった。
ヴェルサイユ宮殿でのドイツ皇帝戴冠式
[編集]1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した[103]。
この屈辱によってフランスではナショナリズムが増幅した[103]。このとき、ドイツがフランスに与えた屈辱は、第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約で跳ね返った[103]。
パリ20区共和主義代表団
[編集]パリの共和主義者はパリ中央委の組織名を変更して「パリ20区共和主義代表団」(以後パリ代表団と略記)と呼称していた。1871年1月6日、パリ代表団は『第二回の赤いポスター』を発表、政府に対して「身を引いて、パリの人民に自力で解放する力をまかせよ!」と要求を突き付けた。さらに、「物資の全面徴収を!無料の配給制を!総出撃を!帝政を引き継いだ9月4日の政治と戦術と行政は断罪された。人民に席を譲れ!コミューンに席を譲れ!」と続けた[104]。
ピュザンヴァール出撃戦の失敗
[編集]1871年1月19日のピュザンヴァール出撃戦は失敗した[105][106]。
翌1月20日、ジャコバン的急進主義者のドレクリューズは「共和主義連盟」の仲間を集めて協議し、48時間以内の市会選挙の実施を要求した。さらにその次の日、長い戦時生活の困窮と軍事的失策に絶望した民衆の怒りはついに爆発し、「10月31日蜂起」に参加してマザスの牢獄に投獄されていたブランキ、フルーランスのもとに駆け付け、彼らを解放していった[107][108]。
プロイセン軍の圧力、民心の離反と革命派の台頭に追いつめられた臨時政府はとうとう音を上げ、トロシュを解任し、プロイセン王国と休戦協定に調印した[107][108]。
1月22日、ブランキ派は市庁舎前に民衆を集めて蜂起する事件が起こった。政府の混乱をまえに「共和主義連盟」のトニー・レヴィヨンは市会選挙を要求してギュスターヴ・ショデーと交渉を開始したが要求は拒絶された。この交渉のなかで偶発的な発砲があり、ブランキ派のサピアが即死するなど多数の死傷者を出して失敗した[109][110][111]。
パリ開城
[編集]1月26日フランス軍はドイツ軍に降伏し、フランス正規軍は全員捕虜となり、1月28日にパリは開城した[78]。
1月28日、仮政府とプロイセンの交渉の結果、パリの篭城戦が終結した[112][113]。
1月28日に締結されたプロイセンとの停戦協定は、条約交渉権を有する国民議会の選出を求めた[11]。
1871年2月総選挙
[編集]そして即座に新政府樹立に向けて国政選が布告され、フランスは激しい選挙戦に突入した[113][114]。
2月4日、パリ代表団とIWAフランス連合評議会、そして労働者連合組合会議は、候補者選定を進めて統一戦線を組み、「どのようなものであれ、共和政体を論議の対象とすることの否認。勤労者の政治的支配の必要の確認。政府寡頭制と産業封建制の打破。1792年の共和国が農民に土地を与えたように、労働者に労働用具を与えることによって、社会的平等を通しての政治的自由を実現させる共和国の組織」をスローガンに『共同宣言』を発した[114]。

1871年2月8日には1871年総選挙がおこなわれた。2月8日の国民議会選挙では、アンリ・ダルトワの正統派が185議席、オマール公のオルレアン派が223議席で、王党派が408議席で、ジュール・グレヴィら共和派は249議席にとどまった。王党派は和平を求めたが、共和派は徹底抗戦を主張した[11]。ほとんどのフランス国民は平和を選んだが、パリやアルザスなどは共和派を支持した[11]。
パリでは共和派、革命派の躍進が見られた。共和派のルイ・ブラン、ヴィクトル・ユゴー、レオン・ガンベタ、ロシュフォール、ジュゼッペ・ガリバルディが当選した(ガリバルディは外国人であるために、議会によって当選無効とされ、ユゴーもこれに抗議して議員を辞職した[115])他、革命派のフェリックス・ピア、ブノア=マロン、シャルル・ガンボン、トラン、ドレクリューズ、ミリエールが当選を果たした。
ボルドーのティエール臨時政府
[編集]だが、地方ではブルボン、オルレアン、ボナパルト派をはじめとする王党諸派が躍進して共和派に優位を占めるかたちになった。そして、西フランスの港町ボルドーに国民議会を招集、オルレアン派のアドルフ・ティエールを「行政長官」とする新政府が誕生した[116][117][118]。ティエールは、将来、王政復古するかしないか決定するとしたボルドー協約を掲げて共和派や革命派を打ち倒すべく国内王党派の統合を試みた。こうして成立した新政府はすぐさまプロイセンとの和平交渉を担うこととなる。
仮講和条約
[編集]2月26日、フランスのティエール政府とプロイセンとの間で仮講和条約が締結された[78]。しかし、アルザス=ロレーヌ地方の3分の1のプロイセンへの割譲、50億フランの賠償金支払い、プロイセン軍によるパリの象徴的占領を内容とする協定が議会で承認された[119][120][121]。
3月1日、フランクフルト講和条約が批准された[11]。講和条約は厳しく、フランスは戦争賠償金50億フランと、ドイツ占領軍の費用が課せられ、アルザス=ロレーヌの大半は新しいドイツ帝国に編入された[11]。ドイツ軍は、パリの凱旋門を通って勝利の行進を行った[11]。レオン・ガンベッタは2月8日の国民議会選挙でストラスブールから選出されていたが、アルザス=ロレーヌのストラスブールはプロイセンへ割譲されることになったため、条約批准後、ガンベッタら失われた地方の議員は抗議の意を表し、議員を辞任した[11]。講和成立によってパリ市民と政府との亀裂は決定的となった[113]。
国民衛兵中央委員会
[編集]また、軍部内にもティエール政府に反対する兵士・将校からなる20名の「国民衛兵中央委員会(以下、衛兵中央委と略記)」が選出された。国民衛兵は中央政府の統制から離れ、「自ら選ぶ隊長以外の者は認めない」と決議するなどすっかり志願兵からなる選挙制の義勇軍と化していた。国民衛兵はパリ民衆の熱情を吸収して次第に革新性を強め、やがて人間搾取の偽りの体制を拒絶してフランスの共和政体を擁護する革命軍となっていった。
この国民衛兵自体はその多くが無名の一般の市民から構成され、本来はまとまった政治性をもっていなかった。しかし、パリの情勢の緊迫化と政府の妥協的姿勢に失望して政府を見限っていつしか革命派に協力していくようになっていったのである[122][123]。
パリ・内乱の勃発
[編集]2月15日、IWAフランス連合評議会はコンドリーにて、いかにプロイセンと戦うか、いかにティエール政権に抵抗するかに関して協議した。そして、共和派と革命派の統一に向けて戦略の策定を進めつつ、パリ代表団の政策決定に援助を続けていた。パリ代表はジュール・ヴァレスが発行する『ル・クリ・ド・プープル』(『人民の叫び』)を機関紙に据えたうえで、次のような『原則宣言』を発して紙上に掲載した。
「すべての監視委員のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。したがって、あらゆる可能な手段によって、ブルジョアジーの特権の廃止、ブルジョアジーの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し追及する。……階級そのものも存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。
政治的領域においては、共和制を多数決原理の上に置く。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、議会という間接的な手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない。それゆえに現社会が政治と社会の革命的清算によって変革されてしまうまで、あらゆる議会の招集に実力で反対する。……革命的コミューン以外のものは認めない。」[124][125][126]

2月19日、パリ代表団はコミューン政府の樹立を約束して、プロレタリアート独裁に基づく新社会の建設を市民に保証した。国民衛兵は依然としてプロイセン軍のパリ入城への抵抗を呼びかけていた。国民衛兵は武装解除を拒み、プロイセンに武器が押収されるのを防ぐため大砲を女子供も含んだ多数のパリ民衆と共にモンマルトル、ベルヴィールのなどの労働者地区へと移設していた。
プロイセンのパリ入城
[編集]1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入城した[78]。弔旗が掲げられて静まり返るパリをプロイセン軍が3日にわたり占領した[127][128]。
ヴェルサイユ政府軍とパリ・コミューンの衝突
[編集]ティエールによる国民衛兵の武装解除の失敗
[編集]フランスがドイツと正式に講和するには、二重権力状態を克服し、国家を再建する必要があった[129]。
ティエールはプロイセン軍との無謀な武力衝突を避けるため、そして革命派からパリを再び掌握するための措置を講じる。市内各所の大砲陣地を奇襲して大砲を押収、国民衛兵の武装解除を進めるよう指示した。
1871年3月18日未明、パリ防衛の重要な堡塁モンマルトル陣地から国民衛兵が守備する大砲200門の撤去を図った[129]。また、パリを武力で制圧するよう軍に命令を下す。
ヴェルサイユ政府軍は、ルコント将軍とパチュレル将軍の指揮で大砲200門余の撤去を実施するが、これを偶然目撃した国民衛兵の女性兵士の一群が撤去に抵抗した。
すぐさま、将軍は配下の兵に発砲を命じたが、この命令は空しく無視されてしまう。これによりルコント将軍は国民衛兵により捕虜となった。しかし、捕えられた将軍のなかに1848年のフランス革命の六月蜂起で労働者の弾圧を行ったクレマン・トマ将軍がいたため、クロウド・ルコント将軍ともども猛る群集によって殺害された[130][131][132]。
ヴェルサイユ政府軍の一部も国民衛兵に合流し、バリケードを設置していった[129]。
この事件を機にパリでは「コミューン万歳!」の声が高まっていた。国民衛兵とコミューンに合流してパリの実権を奪取、ついにパリ・コミューン革命が成就した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起した。一報を受けたアドルフ・ティエールは軍と政府関係者をひきつれてパリを放棄、ヴェルサイユに逃走した[133][134]。こうしてパリは国家権力の空白がうまれた[135]。
3月21日付の『官報』には次のような記事が載せられた。
コミューン選挙とコミューン政府の成立
[編集]この間オルレアン家の王子が軍事司令官に任命されるとの噂が伝わり、王政復古に反発するパリの反政府への姿勢が頂点に達する。これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵が革命軍として埋めることとなった。やがてパリでティエール政府に代わるコミューン政府の選挙がおこなわれることになった。
3月23日、IWAフランス連合評議会のパリ支部は、次のように宣言した。
「長い一連の敗北、わが国の完全な崩壊をもたらすことになるかもしれない破局、これがフランスを支配してきた政府がフランスのためにつくり出した状況の帳尻である。……いまや権威の原理は街頭に秩序を再建し、職場に労働を復活させるうえに無力である。そしてその無力は権威の否認を意味する。利害の非連帯性が全般的な破滅を生み出し、社会戦争をもたらした。自由、平等、連帯によって、新しい基礎の上に秩序を確立すること、その第一の条件である労働を再組織することを要求しなければならない。労働者諸君、コミューン革命はこれらの原理を確認し、未来における葛藤のあらゆる原因を取り除くものである。……。信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的な完全教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、市民の自由、警察、軍隊、衛生、統計、その他の業務を自治体の観点でなす組織。……。パリの人民は、自らの都市の主人としてとどまり、……自らの自治体の代表を確保するという至上の権利を、議会の選挙投票において確認するであろう。3月26日の日曜日、パリの人民は誇りをもってコミューンのために投票に赴くであろう。」[138][139]

3月26日、コミューン評議会の選挙が実施され、内乱中の混乱でありながら成人男子からなる有権者48万5千人中22万5千人が投票に参加した[140]。開票の結果、84名の候補者が当選を果たす。衛兵中央からは12名が当選した他、ブランキ派からはオーギュスト・ブランキ(投獄中)、ギュスターヴ・フルーランス(まもなく戦死)、エミール・ウード、ギュスターヴ・トリドン、テオドール・フェレ、ロワール・リゴー、エミール・ヴィクトル・デュヴァール(まもなく戦死)、レオ・ミラーら10名、親ブランキ派が15-16名当選した。また、ウジェーヌ・ヴァルラン、ブノア・マロン、アルベール・テイス、エドワール・ヴァイアン、ジャン・ルイ・パンディ、シャルル・ベレー、アドルフ・アシ、レオ・フランケル、ギュスターヴ・ルフランセ、ジュール・ヴァレスなどの15-16名のインター派も当選した。さらに、ブルジョア急進派が20名ほど当選したほか、シャルル・ドレクリューズ、パスカル・グルーセ、アルヌール、ウジェーヌ・プロトー、フェリックス・ピアをはじめとするジャコバン革命派が当選した。この選挙の結果、パリ・コミューン政府が成立した[141]。

コミューン政府は投獄中の者や上記のインター派、ブランキ派、ジャコバン派が大半を占めていたが、ヴァルランやマロンのような熟練職人もいたものの労働者ばかりではなく法律家や医師、事務員をはじめとする小市民、そして教員や学者、芸術家、あるいはヴァレスといったジャーナリストなど無数の知識人が含まれ、職業も思想も様々な人びとが構成する民主連合政権であった。2万人の国民衛兵と市民の祝賀を前に、金色の総飾りに飾られた巨大な赤旗が翻る市庁舎の広場でコミューン政府成立の盛大な式典が開催された。赤い帯飾りをかけたコミューン議員と国民衛兵将校は演台の上に立って、群衆の割れんばかりの拍手喝采を受けた。当選者の名が読み上げられ衛兵中央を代表してランヴィエが自由の女神像の前にて挨拶と祝辞を読み上げた。そして、『ラ・マルセイエーズ』が唱和され、老シャルル・ベレーが演説を行ってコミューン政府の成立を宣言[142]、「人民の名において、コミューンが宣言された!コミューン万歳!」の大斉唱が続いた。こうして式典会場はついには革命的民主共和主義の精神を鼓舞する赤旗と自由を祝福する白いハンカチの花畑となった[143]。
パリ・コミューンの政権は72日間という短命に終わったが、教会と国家の政教分離、無償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第三共和政に受けつがれた。世界に先がけて実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは1893年のニュージーランドを待たなければならなかった。
かくして、1871年3月28日、パリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日まで二か月ほどの期間パリを統治することとなる。老シャルル・ベレーを議長に、コミューン執行委員会を頂点として執行部、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育の10の各部実務機関が組織された[144][145]。フランスという国家機構から放棄されたパリ市民は、衛兵中央の補佐を受けつつ各執行部を通じて、自発的に行政組織を再稼動させ、このときからコミューンは「代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体」として活動をはじめた革命政府となった[146]。
その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合をはじめとする結社の自由、婦人参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、失業や破産などによる生活困難者を対象とした生活保護、各種の社会保障など民主的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた[147]。
ヴェルサイユ政府軍による攻撃
[編集]4月なかば、パトリス・ド・マクマオン元帥を総司令官とする13万人の政府軍が再編された[148]。コミューン軍は20万人で政府軍を上まったが、コミューン支持者同士の内紛や指揮系統の混乱などがあった[148]。
また、プロイセン軍がパリ東部を固め、退路を断っていた[149]。
4月2日、普仏戦争での敗北の将という汚名返上に燃えるパトリス・ド・マクマオン元帥率いるヴェルサイユ政府軍による攻撃が開始された(パリの東部と北部はプロイセン軍により封鎖)。
衛兵中央は声明を発表し、最終決戦の決意を示している。
「労働者諸君、思い違いをしてはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産とが戦っているのだ。もし無知の中にむなしく日を暮らし窮乏の中に埋没することに飽きたのならば、……、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を手に入れ……自らの汗で搾取者の財産を富ませたり、自らの血を専制君主のために流したりするような動物のごときものでなくなるのを願うならば、……、もし諸君の娘たちが貴族の腕の中で快楽の道具となることを望まないのならば、放蕩と貧困が男子を警察に、女子を売春に追いやることを欲しないのならば、もし諸君が正義の支配を欲するのならば、労働者諸君、賢明であれ、決起せよ!そうすれば諸君の力強い手は汚らわしい反動を諸君の足元に投げ倒すであろう!働いて、善意をもって社会問題の解決を求めるすべての諸君に、進歩に向かって団結することを要請する。祖国とその普遍的精神の運命から霊感を得られんことを!」[150]
コミューン―苦戦と内紛の発生
[編集]
コミューンの高潔なる精神性の発露とは裏腹に、前線では敗戦に次ぐ敗戦で窮地に陥る。
ブランキのようにヴェルサイユ側で捕えられ投獄中の者や、まもなく戦死した者が続出したため、政府は常時オーバーワークの状態で行政上の負担軽減の必要が生じた。4月16日補欠選挙を実施して、このときの選挙では軍人のクリュズレ、写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ、マルクスの娘婿となるジャーナリストのシャルル・ロンゲ、インターナショナル (歌)の作詞家となる詩人のウジェーヌ・ポティエら20名の議員が選出された[151]。ドレクリューズの発案によって政府部内の改組が行われて行政部の執行権が強化され、9名の閣僚が委員会責任者として指名された。フランソワ・ジュールド(財務)、ギュスターヴ・クリュズレ(軍事)、ウジェーヌ・プロトー(司法)、ロワール・リゴー(保安)、オーギュスト・ヴィアール(食糧供給)、レオ・フランケル(労働・工業・交換)、パスカル・グルーセ(外務)、ジュール・アンドリュー(公共事業)、エドワール・ヴァイアン(教育)が選出された[152]。
しかし、プルードン主義者のジュールドが責任者を務める財務部がヴェルサイユ側と内通しているフランス銀行や大手金融機関の預金差し押さえなどの緊急金融措置を渋るなど怠慢な姿勢を見せ、これに業を煮やした各行政部が政府に反抗して政府部内に革命独裁を志向する機運が生じ始めていった。政府内でのドレクリューズやブランキ派の発言力はいよいよ強まり、政府権限の強化を求めるこの種の機運が高まったものの、財務委員長の無策とこれに反発する強硬派の動きはコミューン政府の統一性に亀裂を生じさせていった[153]。
独裁制の導入
[編集]4月3日にヴェルサイユ軍との戦闘が再開された。この戦闘によってコミューンは独裁制の導入が真剣に議論されるようになる。
4月19日にコミューンは「フランス人民への宣言」を行う[154]。
ブルジョアを人質にヴェルサイユ軍の侵攻を止めようとする「人質法」が制定されたほか反コミューン新聞が禁止され、執行委員会の改組要求が高まって、4月28日にはブランキ派のジュール・ミオーによって公安委員会の設立が提案された[155]。公安委員会の独裁のもとに、市民の戦闘態勢への全面参加を要求するとともに、市民生活を統制する本格的な戒厳を布くように要求する提案であった。ルフランセ、クレマン、フランケル、ヴァルランらIWA派が人民主権の侵害としてこの提案を拒絶したが、提案は多数の支持を得て可決した。公安委員の選出が評議会で行われ、アントワーヌ・アルノー、レオ・メイエ、ランヴィエ、フェリックス・ピア、シャルル・ジェラルダンが選出された[156]。しかし、公安委員会はコミューン政府と国民衛兵との有機的連携、統一的な組織運用を実現できず、十分な軍事的政治的機能を果たせなかった[157]。公安委員会は、『少数派宣言』を提示して設置に反対したグループの信任を得られなかったばかりか、コミューン内部に不和を作り出し、軍事独裁への転換という危険性を摘み取るにも十分ではなかった[158][159]。
一方、徴兵制の再導入を強行することによって兵員の増員を図り、戦闘準備を整えた後攻勢を図るとする軍事委員長クリュズレとヴェルサイユ軍に先手をとって即時攻勢を主張するパリ要塞司令官のドンブロフスキーとの間に不和が生じていた。これは軍の執権を担うクリュズレや後任のルイ・ロセルと衛兵中央委ならびに現場指揮官との権限上の縄張り争い、そしてドンブロフスキーに対する妬みに起因する個人的争いであった。戦時中では極めて非常識なこの二人の確執の結果、戦術面では作戦行動の不統一が生じ、これはヴェルサイユ軍に付入られる隙を与えた[160]。
仮にイタリアの軍人革命家のガリバルディのような人物が全軍の総司令官にいればこのようなことはなかったであろうが、職業軍人の型に嵌まりきったクリュズレとロセルの融通のなさ、国民衛兵の革命軍としての性格を理解する度量の欠如は国民衛兵の不信感を買い、現場に対する指導力を喪失させることにつながった[161]。ロセルの軍規律強化と組織改革の試みは挫折したほか、コミューン政府の指揮命令権を弱めてヴェルサイユ軍に対する抗戦能力が低下していくことにつながった[162]。
ロセルのクーデター計画
[編集]先立つ4月26日にイシ―要塞が攻撃されて要塞は5月9日に陥落、パリは周辺の防御線で敗北を重ねていき防衛拠点の要所を次々と喪失していった。ロセルは拠点喪失を口実に軍事クーデターを計画していたが、予想していたほど兵が集まらないまま時が経ち、実行する機を逸してしまって「ロセルの陰謀」は不発に終わった[163]。5月10日、コミューン政府への不信から来るロセルの軍事独裁への野心は打ち砕かれ、軍事委員の辞任を表明する。ドレクリューズがロセルの後任を引き受けて「文民陸軍委員」に就任、潜伏中のロセルに軍事的助言を受けながらヴェルサイユ軍への抗戦を指導していく[162]。
軍事委員長ロセルによる軍事クーデター計画という内憂、そしてヴェルサイユ軍の進軍という外患への恐怖と危機打開のために、コミューン政府はついに革命独裁の樹立要求に屈服するようになる。こうしてブランキ派のリゴーを中心とした警察機関の保安委員会が独裁を要求して、専断的な逮捕が横行するなど次第に恐怖政治へと移行し始めていた[160]。ついにコミューン評議会の内部監視機関となる「公安委員会」が設立される[155]。しかし、パリでは既に内紛が激しくなり、各派の衝突で統一行動ができない状況になっていた。
ヴァンドーム広場円柱像の破壊
[編集]
画家クールベは、ヴァンドーム広場のナポレオン1世像を掲げた円柱(コラム)の解体を要請した。これはオステルリッツ戦勝を記念したものだった。クールベは円柱が「記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、共和国の感情として許容しがたいこと」を理由に解体を提案した。
4月12日、第二帝政期の帝権の表象たる円柱は「野蛮の記念碑であり、暴力と虚栄の象徴であり、軍国主義の肯定であり、国際法の否定であり、敗者に対する勝者の永年の凌辱であり、フランス共和国の三大原則の一つである友愛に対する永遠の侵害であることに鑑み」、これを分解することが決議された。5月8日コミューン政府は円柱を倒して破壊した。
コミューン鎮圧後、立法院ではナポレオン像とコラムの再建が決定され、クールベは再建費用32万3000フランを年間1万フランの分割払いで支払うよう命じられた。支払いができなかったクールベは1873年にスイスに亡命し、フランス政府はクールベの絵画を押収して売却した[164][165]。クールベは1877年に亡命先で死去した。
- 1871年のヴァンドーム広場円柱の解体
-
解体作業の準備
-
破壊
-
破壊後
-
アルフォンス・リエベールの写真「倒れたヴァンドーム広場の柱」
-
再建後 (1900年)
血の週間
[編集]
5月21日、ヴェルサイユ政府軍がスパイとなったデュカテルの手引きによって夜陰に乗じてサン・クルー門から侵入し始めてパリ市内に突入し市街戦を開始した[166]。大砲陣地を迂回しながら各陣地を孤立させて背面から攻撃する戦術で一つ一つと各個に大砲陣地を攻略、15区、16区を瞬く間に占領して次第に国民衛兵を追い詰めていった[167]。
23日にはヴェルサイユ軍はパリ西部から侵入して東部へと攻勢を加えていき、モンマルトルの丘を奪取してパリ中心街を占領していった[168]。敵の圧倒的攻勢に対して、コミューン側は老人、子どもたちはバリケード造りのために路面の石材を剥がして大砲陣地の補強を手伝い、女性たちは武器を持って陣地群で必死の抗戦をしたほか、戦闘中の合間合間で負傷者の手当てや看病をして男顔負けの活躍を見せた[168]。
しかし、このときにはヴェルサイユ軍は主要な高地を抑え、勝利条件をほぼ満たしたと言える。ヴェルサイユ軍は自軍が有利に立った以上、無駄な流血を避けて同胞に対して寛大な処置をとることもできたが、捕虜を次々と処刑し、ティエール政府黙認のもと市民を対象とした本格的な大量虐殺を開始した。

D.ヴィエルジュ画


戦闘のさなか、コミューンは市街が敵に奪取され拠点とされるのを防ごうと、建物という建物に火を放ち、チュイルリー宮や大蔵省などの官公庁施設で火災が発生、続いてパリ全土で大火災が起こった[169]。なお、パリ市庁舎が焼失した際、パリ改造前に作成されていたパリの地図を含む数多くの歴史的文書が失われた[170]。ヴェルサイユ軍は進軍を続けてフランス銀行や証券取引所、ルーブル宮を奪取した。報復としてコミューンの警視委員長リゴーは三名の政府側スパイを処刑した。リゴー自身は次の日、政府に捕えられその場で処刑された[171]。
5月24日、コミューンは市庁舎の防備を諦めて東部の11区区役所に退避していった。コミューンは物量に勝るヴェルサイユ軍に敗北を重ね、武器弾薬も十分でなく、その組織的抵抗は不可能となっていた。衛兵中央は降伏もやむなしと考え、ドレクリューズをはじめとする代表団を派遣してヴェルサイユ軍に和を乞うたが、それも裏切りと見なした市民に阻まれ交渉もできない状況にあった[172]。コミューン指導者たちは各々死を決意してそれぞれの死を選んでいった。死を悟ったドレクリューズは正装してシルク・ハットと燕尾服に身を包み敵軍に進み出て敵の一斉射撃を受け華々しい最期を遂げた[172]。
また、ヴェルサイユ軍による虐殺は激化し、略式軍事裁判という形式を踏まえた意味のない処刑劇が繰り返された。「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。ウィ・ノンとを問わず、逮捕され銃殺される」という状況であった。
この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦により1万から1万5千人の兵士が死亡し、4万3,522人のコミューン支持者が捕虜となった[173]。無差別殺人が発生して、老若男女を問わず多くの市民が殺傷された[172]。市民もダルボア大司教、ドゲリー大司教、銀行家ジャッケルなどの人質を銃殺するなど、双方で不毛な殺し合いの応酬を重ねることとなった[174]。ベルヴィール地区に残されたコミューンは軍事委員となったヴァルランとヴィレットによる最後の抵抗を試みていた。
コミューンの壊滅
[編集]
A.ロビダ画[注 2]。
5月27日、コミューンの最後の死闘は一方的な殺戮の様相を呈することになる。ヴァルランによる最期の降伏決断も「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」すると語るコンスタン・マルタンの反対で空しく覆された[175]。5月27日、ペール・ラシェーズ墓地で雨のなかの白兵戦が行われた[149]。
ペール・ラシェーズ墓地での兵士・市民の決死の抵抗と殺戮を最後に5月28日、パリ市全域は鎮圧され、パリ・コミューンは瓦解した[175]。
被害と犠牲
[編集]コミューン派反乱者は3万人にのぼるといわれる戦死者を出し、ヴェルサイユ政府軍は1000人が死亡した[148]。
この戦闘におけるフランス軍の死傷者は、戦死者877名、負傷者6,454名、行方不明者183名であった[4][176]。43,000人のコミューン参加者が捕虜となり、6,500人から7,500人が国外に逃亡した。
コミューン兵士の死者数についてプロスペル=オリヴィエ・リサガレーは2万人と見積もったが、ミシェル・オーディンは2021年に1万人から1万5千人が戦闘で死亡、あるいはその後処刑されたとしている[6]。遺体のほとんどは、市当局によって墓地に埋葬された。1897年には、パリ・コミューン兵士600人の遺体が衣服を着たままの状態で、第20区の集団墓地で発見された。パリ地下鉄その他の建設現場では、ごく少数の簡素な墓が発見された[6]
コミューン兵士は、パリ大司教のジョルジュ・ダルボワを含む約100人の人質を処刑した[177]。
テュイルリー宮殿、パリ市庁舎、最高裁判所や検察局が入っていたパレ・ド・ジュスティス (司法宮)、レジオンドヌール宮殿、国務院と会計検査院のあったオルセー宮殿など、パリの多くのランドマークに対して放火を行った。[177]。
パリ市庁舎は1892年に再建され、レジオンドヌール宮殿も修復された。修復されたレジオンドヌール宮殿は現在博物館となっており、歴史的建造物に指定されている。
テュイルリー宮殿は帝政の遺物として再建されず、公園となった。オルセー宮殿も再建されず、30年間廃墟のまま、パリ万国博覧会に合わせた1900年にオルセー駅が建設され、その後1986年にオルセー美術館となった。
-
焼失前のオルセー宮殿
-
焼け落ちたオルセー宮殿内部
-
火災後の国務院講堂
-
オルセー宮殿跡地のオルセー美術館
-
焼失したテュイルリー宮殿(1871年5月)
-
焼失前のテュイルリー宮殿
-
パリ市庁舎内にいる国家警備隊
-
コミューン兵士に放火された市庁舎、1871年5月23日~24日
-
火災後の市庁舎
-
破壊されたパリ市庁舎
-
廃墟となったルーブル美術館
-
放火されたレジオンドヌール宮殿
-
レジオンドヌール宮殿跡地の博物館
戦闘終了後
[編集]戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍が主張する「法と正義」による白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判によりコミューン戦士は銃殺された[178]。地中からはまだ息のある戦士たちの呻きが上がっていた。
ヴァルランは憔悴して腰をかけているところをヴェルサイユ側に逮捕され、クレマン=トマ将軍、ルコント将軍殺害の手先として投石と罵声による市中引き回しの辱めを受けた。リンチによって眼球が飛び出すなど瀕死の際にいたって、ヴァルランは「共和国万歳!コミューン万歳!」の最後の叫びを残して絶命した。その後、ヴァルランの遺体からは時計など身の回り品が略奪された[178]。

M.リュス画
他のコミューン戦士も戦闘を生き残った者は次々と逮捕され、狭い監獄にすし詰めに投獄されたのち放置され、初夏の暑さで弱った者から順次処刑されていった。
桂圭男(1971)によれば、裁判により370人が死刑となり、410人が強制労働、4000人が要塞禁固、3500人がニューカレドニアなど遠方の海外領土に流刑となった[179]。
ミルザ他近年の研究によれば、43,522人のコミューン参加者が逮捕され、うち1,054人が女性だった。半数以上はすぐに釈放されたが、15,000人が裁判にかけられ、13,500人が有罪判決を受けた。95人が死刑、251人が強制労働、1,169人が主にニューカレドニアへ国外追放の判決を受けた。指導者数名を含む多くのコミューン参加者は、イギリス、ベルギー、スイスなどへ逃亡した。1880年の恩赦で、すべての囚人は解放され、亡命者も帰国が許され、政治活動を再開した者もいた[180]。
関係のない市民も、その場にいたという不条理な理由で殺されたほか、ヴェルサイユ軍の将軍たちは捕虜に因縁をつけては処刑するなど、パリ全域はコミューン退治を口実とした虐殺の舞台と化していた。パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。
パリ・コミューン以後の政治
[編集]秩序維持のための強硬行動をとったティエールは、穏健派や保守派のなかで、「赤 (急進的社会主義者)」に対する法と秩序の維持者としての地位を高め、共和制への転換を早めた[11]。1871年7月の議会の補欠選挙で共和派は、114議席のうち99議席を獲得し、有権者はティエールの共和国を受け入れる意思が明らかだった[11]。
パリ・コミューンの弾圧によって、社会主義と労働運動は指導者がいなくなり、その空白が1880年代にマルクス主義活動家への道を開いた[11]。
王党派は依然として議会で多数を保持し、帝政復興を計画していた。正統主義者とオルレアニストは依然として対立していた。ブルボン家のシャンボール伯ダルトワは年老いて子供もいず、オルレアン家のパリ伯フィリップは子沢山だった[11]。自然な解決策は、シャンボール伯を復位しパリ伯を後継とすることだったが、ダルトワは憲法の制約されない絶対的王権の復活を条件とした[11]。オルレアン派や一部の正統派にとってこれは受け入れがたく、彼らはティエールの統治に合意した[11]。
ティエールは軍を再編成し、国民の士気回復に努め、1873年に戦争賠償金のための債券発行に成功し、ドイツ占領を予定より早く終結させた[11]。 1872年後半に、ティエールはオルレアニストとしての信条を放棄し、共和主義への転向を宣言した[11]。王党派はこれに激怒し、ティエールを辞任させる口実を見つけ(1873年5月)、陸軍司令官のパトリス・ド・マクマオン元帥を後任に据えた[11]。
王党派は再び二人の王位継承者間の合意形成に奔走したが、シャンボール伯はフルール・ド・リス (百合の紋章)を掲げてのみ復位すると再び宣言し、そのまま1883年に亡くなり、王政復古の望みは潰えた[11]。
1875年に第三共和国憲法が成立し、ナポレオン1世から受け継がれた中央集権的な行政制度、司法制度、教会と国家の関係を規定する1801年のコンコルダートなどを残存させ、二院制の立法府、内閣を設置し、大統領任期を7年間とした[11]。王党派はこの制度は容易に自分たちの目的に転換できると信じた[11]。1875年末、国民議会は解散し、第三共和国の暫定段階は終了した[11]。
評価と影響
[編集]新聞
[編集]新聞ル・フィガロは「社会的かつ民主主義にとっての害悪」としてコミューンを批判した[181]。
穏健な日刊紙「三色旗」でさえ、「たとえこの蜂起を血で沈め、燃え盛る街の廃墟の下に埋めるとしても、妥協の余地はないだろう」と書いた[182]。
作家・芸術家
[編集]童話作家セギュール夫人はコミューン闘士を「あの忌まわしい悪党たち」と批判した[181]。
画家ギュスターヴ・クールベはコミューン支持者でもあったが、敵とされた人々の虐殺を批判した。
作家アナトール・フランスはコミューンを「暗殺者の集団、フーリガンの集団、犯罪と狂気の政府」と批判した[183]
作家エドモン・ド・ゴンクールは、「...流血は徹底的に行われた。反抗的な市民を殺害するこのような流血は次の革命を延期させる」と書いた[184]。
1848年革命に参加した共和主義者ジョルジュ・サンドは4月23日に「恐ろしい冒険が続いている。彼らは囚人を解放し、脅迫し、逮捕し、裁判を行う。彼らはすべての市庁舎、すべての公共施設を占拠し、軍需品や食料を略奪している」と書き、コミューンを批判した[183]。
作家ギュスターヴ・フローベールはサンドに次のように書いた。「サドワの戦い後のオーストリア帝国も、ノヴァーラの戦い後のイタリアも、セヴァストポリ包囲戦後のロシアも革命に突入しなかった。しかし、我々良きフランス人は、煙が出るとすぐに家を壊す」。コミューンの終わり近くには「消えつつあるコミューンは中世の最後の現れである」と書いた。コミューンが終わった 6月10日、フローベールはサンドに次のように書いた[185]。「息が詰まりそうだ。かなり動揺し、心が折れそうだ。荒廃した光景はパリの狂気に比べれば何でもない。ごくまれな例外を除いて、みな拘束衣しか似合わないように思える。人々の半分は、もう半分を絞首刑にすることを切望しており、他方は報復を切望している。」
作家ヴィクトル・ユゴーはティエールの先見の明のなさを非難した。政府が大砲を押収できなかったという知らせを聞いたとき、ユゴーは日記に「ティエールは火薬庫の導火線に点火した。計画的な無思慮さだ」と書いた[186]。ユゴーはコミューンには批判的だったが、コミューン派には同情的だった。4月初め、ユゴーは亡くなったばかりの息子の家族の世話をするためにブリュッセルに引っ越した。4月9日には「このコミューンは国民議会が残忍であるのと同じくらいまぬけだ。どちらも馬鹿だ」と書いた[183]。ユゴーは政府とコミューン両方を批判する詩を書き、ヴァンドームの柱の破壊を非難した[187]。 5月25日、血の週の真っ最中、彼はこう書いている。「恐ろしい行為だ。彼らはパリに火を放った。彼らはブリュッセルまで消防士を探している。」しかし、鎮圧後、彼はコミューンのメンバーに避難所を与えることを申し出たものの、メンバーについて「かろうじて選出されたものであり、私は決して承認しない」と述べた[183]。ユゴーは亡命したコミューン派への恩赦を声高に主張し、恩赦は1880年代にようやく認められた[188]。
マルセイユ・セマフォア新聞の記者だったエミール・ゾラは血の週の間に市内に入った最初の記者の一人であり、コミューンの崩壊について報道した。 5月25日、ゾラは「文明化された時代に、これほど恐ろしい犯罪が大都市を襲ったことはなかった。パリ市庁舎の男たちは、暗殺者と放火犯以外の何者でもない。正規軍から強盗のように殴打され逃げ出した彼らは、記念碑や家屋に報復した。パリの火災は軍を憤激させた。放火し、虐殺する者は、兵士から銃殺されるほかない」と5月25日に報じた[189]。しかし、戦闘が終わった6月1日には、ゾラの口調は変わった。「軍法会議今も開かれ、[[:en:Summary execution{即決処刑]]は続いている。…もの悲しい街でまだ聞こえる銃殺隊の音は、悪夢を残酷に長引かせている。パリは処刑にうんざりしている。パリでは誰もが銃殺されているように思える。パリはコミューン参加者が銃撃されていることについてではなく、罪のない人々が銃殺されたことに不満を抱いている。山積みの死体の中に罪のない人々がいるとパリは信じており、処刑前に少なくとも一度は真剣な調査を試みるべきだ…最後の銃声の響きが収まった時、悪夢に苦しむ何百万人もの人々を癒すには、多大な優しさが必要になるだろう。炎と虐殺から身を震わせながら蘇ってきた人々を。」[190]。
パリ・コミューン時代のアメリカ大使エリフ・ウォッシュバーンは日記の中で、パリ・コミューン支持者を「山賊」「暗殺者」「悪党」と表現し、「彼らは降伏する前にパリを破壊し、すべての人をその廃墟に埋めると脅している」と記している[191]。
無政府主義者
[編集]無政府主義哲学者 ジョージ・ウッドコック によれば、クールベ、ロンゲ、ヴェルモレルといった ミューチュアリスト (相互主義者) 、ヴァルラン、マロン、ルフランゲといった アナルコ・コレクティビスト (集産主義的無政府主義者) 、バクーニン主義者の エリー・ルクリュ と エリゼ・ルクリュ、ブランキ主義者のルイーズ・ミシェルといった人々がコミューンの活動に顕著な貢献をした[192]。
無政府主義者ミハイル・バクーニンはコミューンの強力な支持者であり、彼はコミューンを「国家に対する反乱」と捉え、国家だけでなく革命的独裁も拒絶したコミューンを称賛した[193]
ルイーズ・ミシェルは当初は救急婦として働き、バリケードで負傷した人々を治療した。パリ包囲戦の間、彼女はプロイセン軍への抵抗を説き、コミューンが成立すると国民衛兵に入隊した。彼女はパリ降伏への復讐として政府を破壊するためにティエールを撃つことを申し出た。1871年12月、彼女は第6回軍法会議に召喚され、政府転覆を企てたこと、市民への武装奨励、武器使用などの罪で起訴された。彼女はコミューンを決して放棄しないと誓い、裁判官に死刑判決を挑んだ[194]。ミシェルは法廷で「自由を求めて鼓動するすべての心は、鉛の塊以外の何の権利も持たない。生きている限り、私は復讐の叫びを決して止めないだろう。」と述べた[195]。ミシェルは流刑判決を受けた。1871年のパリ・コミューン後、アナキスト運動は労働運動と同様に、長年にわたり深刻な打撃を受けた。
コミューンはポール・ブルス、エリコ・マラテスタ、カルロ・カフィエロ、アンドレア・コスタといったアナキストにも刺激を与えた。彼らは武器を取る実力行使で、文字で伝えるよりも迅速かつ強力に自らの思想を広めた。歴史家のゾーイ・ベイカーは、「人が過激化するには、本や新聞を見つけ、読まなければならないが、暴動は読み書きのできない人々を含む多数の人々の注目を集め、また人々は進行中の闘争においてどちらかの側に立つかを選ぶことになる」と書いている[196]。
マルクス・エンゲルス
[編集]共産主義者、左翼社会主義者、無政府主義者などは、コミューンを草の根民主主義、参加民主主義に基づく解放のモデル、あるいはその前兆とみなしてきた。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルス、バクーニン、レーニンは、コミューンの経験から、「プロレタリア独裁」や「国家の消滅に関する理論的教訓を得た。
国民衛兵中央委員会の一部に第一インターナショナルが参加していたことから、マルクスはコミューン崩壊の2日後、『フランスの内乱』を執筆し、コミューンの功績を称賛し、将来の革命政府の原型、プロレタリア解放のための「ついに発見された形態」と評した。マルクスは次のように記している。「労働者階級のパリ・コミューンは、新たな社会の輝かしい先駆者として永遠に称えられるだろう。その殉教者たちは労働者階級の偉大な心に深く刻まれている。一方、その絶滅者たちは、歴史によって既に永遠のさらし台に釘付けにされており、司祭たちのどんな祈りも彼らを救うことはできない。」[197]。マルクスは国民議会選挙は反革命の陰謀にすぎず、パリ・コミューンは私的所有の廃止、「収奪者の収奪」をめざし、階級支配を支える土台を根こそぎ取り除くための内乱が必要だったと論じた[198]。それは武装労働者による武装革命つまりプロレタリア革命であり、特に兵士が労働者の側についた瞬間が重要だが、パリ・コミューン中央委員会は、ヴェルサイユ臨時政府へ進撃してティエールたちの息の根を止めるべきだったのに、彼らは3月26日のコミューン評議会選挙を許してしまったとマルクスは指摘した[199]。マルクスは議会と政府は「食人種」「吸血鬼」「皆殺しをする者」であり、ティエール政府は共和政ローマの独裁官スッラのように、階級全体を「公敵」と宣言し、それは「革命の根絶やし」で「フランスの死滅」だったとした[17]。
エンゲルスは、常備軍の不在、自主警備といった特徴から、コミューンは旧来の意味での「国家」ではなく、国家の廃止へと向かう過渡期の形態であり、労働者によって運営され、労働者の利益のために運営される最初の「プロレタリア独裁」国家だったと述べた。エンゲルスは「近頃、社会民主主義の俗物は再び『プロレタリア独裁』という言葉に健全な恐怖を感じている。さて、諸君、この独裁がどのようなものか知りたいか?パリ・コミューンを見よ。あれがプロレタリア独裁だったのだ。」と書いた[200][14]。こうしたエンゲルスの評価を踏まえ、パリ・コミューンは史上初の「プロレタリアート独裁」による政府とも呼ばれる[201]。
マルクスとエンゲルスは、コミューンの弱点や誤りも分析した。それは、フランス国民全体との連携の欠如、国家機構の再編の失敗、中央委員会が代議制議会への権力移譲を急ぎすぎたこと、退却するブルジョワジーを直ちに追及できなかったこと、そしてフランスとプロイセンがコミューンに対抗して結束する可能性を認識しなかったことなどである[202]。
晩年のマルクスはコミューンはヴェルサイユと妥協すべきだったとも語っている。1881年、オランダ人の友人フェルディナンド・ドメラ・ニーウェンホイスに宛てた手紙の中で、「コミューンは、単に例外的な状況下で起こった都市の反乱に過ぎない。コミューンの大多数は決して社会主義的ではなく、またそうあり得なかった。少しの良識があれば、彼らはヴェルサイユと妥協点を見出すことができただろう。実際、それが唯一の現実的な可能性だったのだ。」と書いている[203][204]。
なお、マルクスのコミューンへの直接の影響力はなく、マルクスが「フランスの内乱」でコミューンを弁護したために有名になり、関連づけられるようになった[205]。また、コミューンの多くはインターナショナルに参加していたが、コミューンの最も好戦的な革命家は、マルクス主義者でなく、ジャコバン派やブランキ主義者だったと歴史学者ハントは指摘している[154]。
パリ・コミューン政府軍は、推計1万人のコミューン支持者を虐殺し、市民もジョルジュ・ダルボアパリ大司教らを処刑した[206]。エンゲルスの母エリーゼは、反乱による犠牲はマルクスに責任があると考えていたが、エンゲルスは「政府は4万人の市民を機械で殺戮した。マルクスがいなくても状況は変わらなかっただろうし、マルクスに責任があると考えるのは不公平だ」と犠牲者数を誇張して反論した[207]。
レーニン主義
[編集]パリ・コミューンは後の革命運動や蜂起に大きな影響を与えた。社会革命党 (エスエル)・ロシア社会民主労働党(メンシェヴィキとボリシェヴィキ)の武装労働者部隊による1905年のモスクワ蜂起、パリ・コミューンを模範としたレーニンによる1917年の十月革命 (または十月クーデター[208][209][210][211])、ハンガリー共産党によるハンガリー・ソビエト共和国(1919年3月-7月)[212]、中国共産党による広州蜂起と上海コミューン(1927年)や文化大革命の上海一月革命(1967年)などである。コミューンは、後の共産主義および左派指導者から賞賛と畏敬の念をもって見なされた。レーニンは、ロシアのソビエトをコミューンの再来と見なし、「我々は巨人の肩に乗った小人に過ぎない」と書いた[213]。レーニンは、ボルシェビキ政権が発足して2ヶ月以上が経ち、コミューンを凌駕したことを祝ってモスクワの雪の中で踊った。ボルシェビキ政権の大臣や役人には「コミッサール」という称号が与えられたが、これはコミューンのコミッサールから直接借用された。
エンゲルス同様にレーニンもコミューンを「プロレタリア独裁」の実例とみなしたが、彼はコミューン派が自らの地位を確保するのに十分な努力をしなかったと批判し、二つの誤りを指摘した。第一に、コミューン派は「途中で立ち止まり…国に高次の(資本主義的)正義を確立するという夢に惑わされ…例えば銀行を接収しなかった」。第二に、彼らの「過剰な寛大さ」が階級の敵の殲滅を妨げた。レーニンにとって、コミューン派は「内戦における直接的な軍事作戦の重要性を過小評価し、ヴェルサイユへの断固たる攻勢を開始する代わりに、停滞し、ヴェルサイユ政府に暗黒の勢力を集め、血に染まった5月の週に向けて準備する時間を与えてしまった」[15]。マルクスの内戦必然論を取り入れたレーニンは、ロシア革命で権力掌握後、実際にロシア内戦と赤色テロに突入していった。赤軍が白軍に勝利してからは、レーニンは恐怖政治を統治の原則とし、1922年の刑法典で、ボリシェヴィキ党に服従しない者すべての抹殺を正当化し、共産主義のユートピア(実際はディストピアだった)の名のもとに「新しい人間」の創出をめざす史上初の全体主義体制としてのソビエト・ロシアが誕生した[16]。
レーニン廟は1924年にフランス共産党員が贈ったコミューンの赤旗で飾られている[214]。
スターリンも「1917年、我々は労働者の団体であるコミューンを結成し、官僚主義に終止符を打つと考えていた」と書いている[214]。
ボルシェビキは戦艦セヴァストポリをパリ・コミューンを意味する「パリジスカヤ・コンムナ」と改名した。ソビエト連邦の宇宙船ボスホート1号にコミューン党の旗が掲げられた。
毛沢東
[編集]1926年、毛沢東は『パリ・コミューンを記念することの重要性』を出版し、レーニンと同様にコミューンの失敗には、統一され規律ある党の欠如、敵に対してあまりにも慈悲深すぎたことの2つの理由があると書いた[215]。
パリ・コミューンは、中国の文化大革命において繰り返し取り上げられた[215]。1966年5月16日の五・一六通知を受けて学生たちが最初の壁新聞大字報を掲示したとき、毛沢東はそれを「中国の20世紀パリ・コミューン宣言である」と表現した[216]。文化大革命の初期には、パリ・コミューン時代における日常生活の自発性と大衆の政治参加が模範とされた[217]。1966年8月8日の「中国共産党中央委員会の「プロレタリア大革命に関する決定」には、「文化革命グループや委員会のメンバー、文化革命会議の代表者を選出するために、パリ・コミューンのような総選挙制度を導入する必要がある」と記されている[217]。大衆の政治動員が下降傾向にあった文化大革命の時期に、湖南省の極左主義グループ省無連は、パリ・コミューンの急進的平等主義に基づいてそのイデオロギーを形成した[218]。
ポル・ポト
[編集]クメール・ルージュの指導者ポル・ポトもパリ・コミューンに感銘を受け、プロレタリア階級がブルジョアジーに対する独裁を行使できなかったためにコミューンは崩壊したと主張し、同じ過ちを犯すことはないと述べた[219]。
歴史学
[編集]実証主義歴史学では、コミューンの愛国主義と民主主義は、第三共和政の確立に貢献したと評価される[220]。歴史家J.P.T.バリーは、ティエールが冷酷ながらも危機対処で成功を収め、フランス第三共和政の確固たる基盤を築いたと考えている。彼は「多くの過激派が亡命したことによって、フランス共和国は[...]平和的かつ秩序ある形で発展することができた」と述べている[221]。フランスの歴史家アラン・プレシもコミューンの鎮圧は最終的には第三共和政の到来を促したとする[222]。歴史家デイビッド・トムソンは、圧倒的な敗北と無数の派閥によって分裂した国の統一を回復するには、ティエールのやり方以外に選択肢はなかったとする[223]。
フランスの歴史家ポール・リツキーは、ティエールは新聞や指導的知識人からコミューンに対して断固たる行動を取るよう促されたと指摘している[181]。
セオドア・ゼルダンは、ティエールはパリの住民の一部を蜂起させ、最終的には反乱軍としてパリを鎮圧する口実を得るために、意図的にパリの避難を命じたと述べている[224][225]。
マルクス主義社会学者アンリ・ルフェーヴルは、パリコミューンは、ブルジョア集権国家を解体し、自治権を基礎とする自由な分権的連合社会を創出しようとした民衆革命であったとする[220]。歴史学者ジャック・ルージュリは、パリ周縁地区の労働者大衆がパリ都心部を奪回することによって、疎外されていた市民社会の自己回復を目指していたと評価する[220]。
パリ・コミューンは、同時代のマルクスはじめ革命家やそれを支持する研究者などから「史上初の社会主義政権」「労働者階級を主体とする(社会主義)革命政権」「プロレタリア独裁」とも呼ばれるが[149][220]、実際にはロシア革命のような急進的社会主義組織による革命ではなく、政治的空白の中で噴出した自然発生的な運動であり、それを構成する人々も医者や法律家やジャーナリストといった小ブルジョワから、ブランキ派やプルードン派の労働者など、様々な階級や思想が混在していた[226][227][228]。パリ・コミューン議員の過半数はブルジョワと知識人であり、労働者といっても伝統的な職人が中心で、親方や店主も参加した[229]。
パリ・コミューン綱領は19世紀の社会運動の集大成であったが戦闘に追われ、ほとんど陽の目を浴びなかった[229]。
パリ・コミューンは国防政府の敗北主義的な政策に対する愛国心を原動力としており、軍に変えて市民の武装による防衛体制をとった[230]。
後世の革命家やニューレフトらによってパリ・コミューンは過度に理想視され、パリ・コミューン神話が独り歩きした[229]。実態のパリ・コミューンは素朴で混沌としていた[229]。
バリケード市街戦は19世紀の社会運動のスタイルだったが、パリ・コミューンの経験によって、バリケード市街戦の有効性は終焉を迎えた[229]。
政教分離原則、初等教育の世俗化、義務化、無償化を推し進めた[228]。しかし、内乱の鎮圧によってこれらは頓挫した。現在にいたる教育改革や政教分離はヴェルサイユ政府の後継である第三共和制において実現されたものである[229]。
コミューンは、家賃支払いの延期、満期手形の無利子・分割払い・公設質屋の抵当物件の売却停止などが立法化された[220]。また労働・交換委員会は、パン職人の夜間業務の禁止、放棄された工場の接収・生産協同組合による経営、国民軍兵士の制服や武器の生産協同組合への発注などを立法化し、労働者による自主管理が目指された[220]。このようにコミューン社会立法は、革命的というよりは改良的なものであり、共産主義のように私有財産を否定するものではなかった[220]。
歴史学者谷川稔は、パリ・コミューンは、ドイツ軍に包囲する停戦下、正規軍の崩壊、武装民衆の活動といった特殊な状況において成立した、自生的で解放的で、防衛的で、束の間の祝祭空間、「革命の都パリに特有の一体感覚にもとづいた都市民衆の反乱」であったと指摘する[231]。コミューン以後、社会運動は、議会と政党によるものと、労働組合と生産者連合をめざすサンディカリスムに分化していった[232]。他方で、19世紀フランス社会運動の集合心性は現在もストライキや街頭デモなどとして引き継がれて、フランスの政治文化を形づくっているとも指摘する[232]。
歴史学者ステファヌ・クルトワは、マルクスの『フランスの内乱』でのコミューン論では、革命と内乱・敵の根絶やしといった観念が一体となっており、「労働者が根絶やしにされる」というマルクスの誇大妄想は、レーニン、スターリン、毛沢東、ポル・ポトによって受け継がれていったと指摘する[17]。マルクスは「敵の根絶やし」を、旧ブルジョワ社会の崩壊を予言することで正当化した[233]。しかし、その後40年間の歴史をみればわかるように、マルクスのパリ・コミューン論は、政治・社会の客観的分析ではなく、支離滅裂な、あるいは筋道だった狂気にもとづくものだったとクルトワはいう[233]。それは消え去るべき旧社会と、それに変わるべき別の社会とを対照させ、歴史的な善き陣営と悪しき陣営が衝突する二元論的な見方であり、人類の運命にかんする黙示録的な展望をドラマティックに示した[233]。クルトワによれば、マルクス主義者は、レーニン以前のマルクス主義およびレーニンにおいて内乱の概念が重要であったことを意図的に無視し、ごまかしてきた[234]。2020年代の現在もマルクス主義者のなかには、マルクスにおける内戦の重要性を忘れているものがおり、言論上のタブーが続いているとクルトワはいう[234]。なお、クルトワとの論争後、共産党の機関誌『リュマニテ』編集長ロラン・ルロワも「内戦が革命の唯一の手段だと考えてきたことがテロルを導いた」と認めた[234]。
ペトロリューゼ
[編集]パリ・コミューンでは戦闘においても女性が活躍していた。目撃者のエドウィン・チャイルドは、「女性たちは雌トラのように振る舞い、あらゆるところに石油をまき散らし、戦闘の激しさで際立っていた」と記している[235]。
コミューンの有名な女性放火犯にペトロリューゼがある。近年の研究ではこれは誇張あるいは神話である可能性があると指摘されている[236][237]。リサガレイは、この神話のせいで5月下旬に数百人の労働者階級の女性が犯人の濡れ衣を着せられて殺害されたと主張したが、その証拠は示されていない。また、血の週の間にパリを焼き尽くした火災の半分は、フランス軍の砲撃によるものだと主張した[238]。
しかし、チュイルリー宮殿、オテル・ド・ヴィル、その他の焼け落ちた政府の建物の写真(前掲)を見ると、外部に大砲の攻撃の跡がないのに、内部が焼け落ちていることが分かる。また、ニューヨークに逃れたジュール・ベルジュレなどの著名なコミューン党員は、放火を誇らしげに主張している.[239]。
記憶の政治
[編集]1873年7月24日、国民議会は、モンマルトルの大砲公園付近のクレマン=トマ将軍とルコント将軍が殺害された場所に、サクレ・クール寺院建設法を制定し、この寺院は「コミューンの罪を償う」ために建てられると明記された[240]。
ハクソ通りにある記念碑と教会ノートルダム・デ・オタージュ教会(人質の聖母) は、ハクソ通りでの虐殺でコミュナードによって司祭、憲兵、民間人110名が虐殺された犠牲者を追悼している[241]
ペール・ラシェーズ墓地では147人のフランス・コミューン支持者が処刑されたが、この墓地の壁にも銘板が設置されており、この壁はコミュナールの壁と呼ばれている。[242]。毎年5月には、この墓地でコミューンを偲ぶ追悼式典が開催される。パリ市庁舎の裏手には、軍によって射殺されたコミューン支持者たちの集団墓地を示す銘板が設置されている。彼らの遺体は後に市内の墓地に埋葬された。

他にもパリ・コミューンにちなんで名付けられた場所は数多くある。パリのパリ・コミューン通り、ドイツ・ベルリンのパリ・コミューン通り、チェコ共和国・プラハのKomunardů、ベトナム・ホーチミン市のパリコミューン広場などがある。
しかし、パリコミューンは現在もなお政治的な争点となっている。2021年、パリでコミューン150周年祭典が開催された[243]。パリ市長アンヌ・イダルゴは、何千人のパリ・コミューン支持者が追放されたニューカレドニア産の記念樹アラウカリアをモンマルトルに植えた[244]。しかし、コミューンを記念する市の計画は物議を醸し、市議会の右派議員は抗議した[243][245]。
2021年5月29日、コミューン支持者に殺された大司教や他の人々の追悼のために集まった300人のカトリック教徒の行列が、ペール・ラシェーズ墓地付近でコミューンを祝っていた極左集団によって暴行を受けた[246][247]。
2021年現在、パリ・コミューン支持者はコミューンを「保守主義勢力によって血まみれに抑圧された希望の春」と見なしている一方、右派はコミューンを「司祭の殺害やパリ市庁舎の焼き討ちに象徴される混沌と階級的復讐の時代」と見ている[245]。
パリ・コミューンを扱った作品
[編集]小説
[編集]- ヴィクトル・ユーゴー、詩「Sur une barricade (バリケードの上)」(1871年6月11日作)、詩集 L'Année Terrible (1872 年)所収。
- アルフォンス・ドーデ 『月曜物語』(1873)
- ジュール・ヴァレス, 自伝的小説Jacques Vingtras|ジャック・ヴァントラ三部作 (1878 - 86) ヴァレスはコミューンの闘士だった。
- ウィリアム・モリス 詩"The Pilgrims of Hope" (1885), [248]
- エミール・ゾラ『壊滅』(1892年) - ゾラが見た普仏戦争とパリ・コミューンの惨劇を描く[249]。
- G. A. ヘンティ『コミューンの女』(1895年)[250]
- ロバート・W・チェンバース『赤い共和国:コミューンのロマンス』(1895年)[250]
- アーノルド・ベネット - 老婦人の物語(1908)
- ガイ・エンドア - 小説パリの狼男 (1933)
- 大佛次郎『パリ燃ゆ』(1964年[251][252])- 著者自らがパリに渡り取材したノンフィクション作品。
- 柘植久慶『獅子たちの時代』(1990年[253][254]) - 主人公が外人部隊兵としてパリ・コミューン軍と死闘を繰り広げる。
- ジャン・ヴォートラン - 小説『人民の叫び』(1998)
- ウンベルト・エーコ - 小説『プラハの墓地』(2010);17章
- アレクサンダー・チー小説『夜の女王』(2016年)
漫画
[編集]- ジャック・タルディ - バンド・デシネ「人民の叫び」(2001-2004年、4巻) - 原作ジャン・ヴォートラン
- 『自由主義とパリ=コミューン』(あずみ椋、近藤和彦、2002年) - 『産業革命と自由主義 富国強兵のせめぎあい』(学習漫画 世界の歴史 13)の1話。浮浪児の主人公がブルジョワの婦人と交流しながらナポレオン3世の治政、パリ・コミューンの激動の時代を生きて行く様子を描く[255]。
アニメ
[編集]戯曲
[編集]- ノルダール・グリーグ「敗北」(1937)
- ベルトルト・ブレヒト「コミューンの日々」(1949、グリーグ「敗北」の翻案)
- アルチュール・アダモフ「71年の春」(1960)
映画
[編集]- グリゴーリ・コージンツェフ、レオニード・トラウベルク- サイレント映画新バビロン(1929)
- ケン・マクマレン 映画 1871年 (1990).
- 映画『ラ・コミューン(パリ、1871年)』、ピーター・ワトキンス監督。2000年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ウィキペディア・コモンズの注釈にしたがい、描かれた人物の姓名、あるいは判明している姓を記す。言語リンクはフランス語版とポーランド語版。
- ^ この絵には墓碑銘が読める四つの墓が含まれており、戦闘が行われた場所も特定できる。それぞれ名前と画像リンクを付す。左から作家のシャルル・ノディエの墓碑、パリ市立工科大学教授のルイ・シャルル・サラザン (Louis Charles Sarazin) の墓碑(メダイヨンはエメ・ミレーの作)、作家のエミール・スーヴェストルの墓碑(後ろ向き)、作家のオノレ・ド・バルザックの墓碑(彫像はダヴィッド・ダンジェの作)。
出典
[編集]- ^ “Les aspects militaires de la Commune par le colonel Rol-Tanguy” [The military aspects of the Commune by Colonel Rol-Tanguy] (フランス語). Association des Amies et Amis de la Commune de Paris 1871. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月16日閲覧。
- ^ Milza 2009a, p. 319.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Britannica Editors. "Commune of Paris". Encyclopedia Britannica, 11 Mar. 2026, https://www.britannica.com/event/Commune-of-Paris-1871. Accessed 12 March 2026.
- ^ a b “annexe au procès verbal de la session du 20 juillet 1875 [appendix to the minutes of the session of 20 July 1875]” (フランス語), Rapport d'ensemble de M. le Général Appert sur les opérations de la justice militaire relatives à l'insurrection de 1871 [Overall report by General Appert on the operations of military justice relating to the 1871 insurrection], Versailles: Assemblée nationale, (1875) 引用エラー: 無効な
<ref>タグ; name "Versailles1875"が異なる内容で複数回定義されています - ^ Tombs, Robert, "How Bloody was la Semaine sanglante of 1871? A Revision". The Historical Journal, September 2012, vol. 55, issue 03, pp. 619–704.
- ^ a b c Audin, Michele (2021) (フランス語). La Semaine Sanglante, Mai 1871, Legendes et Conmptes. Libertalia 引用エラー: 無効な
<ref>タグ; name "Audin, Michele 1871"が異なる内容で複数回定義されています - ^ Rougerie 2014, p. 118.
- ^ Lissagaray 2000, p. 383.
- ^ Milza 2009a, pp. 431–432.
- ^ a b c 『パリ・コミューン』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad Bisson, T., Wright, G., Fournier, G., Bachrach, B.S., Drinkwater, J.F., Woloch, I., Shennan, J., Elkins, T.H., Popkin, J.D., Weber, E., Blondel, J.F., Flower, J.E., Tuppen, J.N., Bernard, F., Higonnet, P.L. "France." Encyclopedia Britannica, March 11, 2026. https://www.britannica.com/place/France , >History>The Franco-German War & The Commune of Paris.
- ^ 長谷川(1991) p.10
- ^ クルトワ 2025b, p. 上231-2.
- ^ a b Frederick Engels, London, on the 20th anniversary of the Paris Commune, 18 March 1891
- ^ a b Lenin, Vladimir Ilyich (2004). “Lessons of the Commune”. Lenin Collected Works. 13. Moscow: Progress Publishers (1972発行). pp. 475–478. オリジナルの12 March 2018時点におけるアーカイブ。 2018年3月12日閲覧。
- ^ a b c クルトワ 2025a, p. 上19.
- ^ a b c クルトワ 2025b, p. 上232.
- ^ 桂圭男(1971) pp.12-14
- ^ 桂圭男(1981) p.10
- ^ 桂圭男(1971) p.18
- ^ 桂圭男(1981) p.25
- ^ 桂圭男(1971) p.15
- ^ 桂圭男(1981) p.20
- ^ 桂圭男(1971) pp.15-16
- ^ 桂圭男(1981) pp.22-24
- ^ 桂圭男(1971) p.21
- ^ 桂圭男(1981) pp.25-26
- ^ 桂圭男(1971) pp.16-17
- ^ 桂圭男(1971) p.19
- ^ 桂圭男(1981) pp.30-32
- ^ 桂圭男(1981) pp.33-34
- ^ 桂圭男(1981) p.35
- ^ 桂圭男(1981) pp.36-38
- ^ 桂圭男(1981) p.40
- ^ 桂圭男(1981) p.39
- ^ 桂圭男(1981) p.38
- ^ フォスター(1956) pp.40-41
- ^ 桂圭男(1971) p.26
- ^ a b 桂圭男(1971) p.25
- ^ 柴田三千雄(1973) p.37
- ^ 桂圭男(1971) pp.25-26, pp.31-32
- ^ a b 桂圭男(1981) pp.41-44
- ^ 桂圭男(1971) pp.39-41
- ^ 桂圭男(1981) pp.48-49
- ^ 桂圭男(1971) pp.26-29
- ^ 桂圭男(1981) pp.52-54
- ^ 桂圭男(1971) pp.41-42
- ^ 桂圭男(1981) pp.49-51
- ^ 桂圭男(1971) pp.42-44
- ^ 桂圭男(1981) pp.55-57
- ^ 桂圭男(1971) pp.35-36
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.42-43
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.43-45
- ^ 桂圭男(1981) p.43
- ^ 桂圭男(1971) p.36
- ^ 柴田三千雄(1973) p.43
- ^ 桂圭男(1971) p.37
- ^ 桂圭男(1981) pp.44-45
- ^ 桂圭男(1971) p.45
- ^ 桂圭男(1981) p.64
- ^ a b 柴田三千雄(1973) p.48
- ^ a b 桂圭男(1971) p.46
- ^ 桂圭男(1981) p.66
- ^ a b 桂圭男(1981) p.67
- ^ 桂圭男(1971) p.47
- ^ 桂圭男(1971) p.51
- ^ 柴田三千雄(1973) p.55
- ^ 桂圭男(1981) p.68
- ^ a b 桂圭男(1971) pp.58-59
- ^ 桂圭男(1971) pp.52-54
- ^ 桂圭男(1971) p.54
- ^ 桂圭男(1981) p.73
- ^ 桂圭男(1971) pp.54-55
- ^ 桂圭男(1981) p.74
- ^ 桂圭男(1981) pp.75-76
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.66-67
- ^ 谷川ほか 1999, p. 148-9.
- ^ a b c d e 谷川ほか 1999, p. 149.
- ^ 桂圭男(1971) pp.68-77
- ^ 桂圭男(1971) pp.57-58
- ^ 桂圭男(1981) p.78
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.62-63
- ^ 桂圭男(1981) pp.78-79
- ^ 桂圭男(1971) pp.60-61
- ^ 桂圭男(1981) pp.79-80
- ^ 桂圭男(1971) p.62
- ^ 桂圭男(1981) pp.81-82
- ^ 桂圭男(1971) pp.63-64
- ^ 桂圭男(1981) pp.86-87
- ^ 桂圭男(1971) pp.65-66
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.72-73
- ^ 桂圭男(1971) p.67
- ^ 柴田三千雄(1973) p.74
- ^ 桂圭男(1981) p.89
- ^ 桂圭男(1971) p.80
- ^ a b 柴田三千雄(1973) p.75
- ^ 桂圭男(1971) pp.80-81
- ^ 桂圭男(1981) p.90
- ^ 桂圭男(1971) p.82
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.76-77
- ^ 桂圭男(1981) p.96
- ^ 桂圭男(1971) pp.83-84
- ^ a b c 谷川ほか 1999, p. 149-50.
- ^ 桂圭男(1981) p.100
- ^ 桂圭男(1971) p.87
- ^ 桂圭男(1981) pp.101-102
- ^ a b 桂圭男(1971) p.88
- ^ a b 桂圭男(1981) p.102
- ^ 桂圭男(1971) pp.88-89
- ^ 柴田三千雄(1973) p.82
- ^ 桂圭男(1981) pp.103-104
- ^ 桂圭男(1971) p.89
- ^ a b c 桂圭男(1981) pp.104-105
- ^ a b 桂圭男(1971) p.91
- ^ 「ヴィクトール・ユゴーの生涯」p542 アンドレ・モーロワ 辻昶・横山正二訳 新潮社 1969年5月30日発行
- ^ 桂圭男(1971) pp.92-93
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.83-84
- ^ 桂圭男(1981) p.112
- ^ 桂圭男(1971) pp.93-94
- ^ 柴田三千雄(1973) p.84
- ^ 桂圭男(1981) p.113
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.88-92
- ^ 桂圭男(1981) pp.125-128
- ^ 桂圭男(1971) pp.97-98
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.86-87
- ^ 桂圭男(1981) pp.113-114
- ^ 桂圭男(1971) p.102
- ^ 柴田三千雄(1973) p.90
- ^ a b c 谷川ほか 1999, p. 161.
- ^ 桂圭男(1971) pp.112-117
- ^ 柴田三千雄(1973) pp.97-98
- ^ 桂圭男(1981) pp.138-140
- ^ 桂圭男(1971) p.115
- ^ 柴田三千雄(1973) p.99
- ^ 谷川ほか 1999, p. 162.
- ^ マルクス(1952) p.90
- ^ ブルジャン(1961) p.34
- ^ ブルジャン(1961) pp.36-38
- ^ 桂圭男(1981) pp.160-161
- ^ 桂圭男(1971) p.136
- ^ 桂圭男(1971) pp.136-137
- ^ 桂圭男(1981) pp.171-173
- ^ 桂圭男(1971) pp.137-141
- ^ 桂圭男(1971) p.141
- ^ 桂圭男(1981) p.173
- ^ マルクス(1952) p.95
- ^ ブルジャン(1961) p.48
- ^ a b c 谷川ほか 1999, p. 163.
- ^ a b c 谷川ほか 1999, p. 164.
- ^ ブルジャン(1961) pp.52-53
- ^ 桂圭男(1971) p.145
- ^ 桂圭男(1971) p.146
- ^ 桂圭男(1971) pp.159-160
- ^ a b ハント 2016, p. 325-6.
- ^ a b 桂圭男(1981) p.178
- ^ 桂圭男(1971) pp.184-186
- ^ 桂圭男(1971) pp.188-190
- ^ 桂圭男(1971) pp.186-188
- ^ 桂圭男(1981) p.178, pp.200-202
- ^ a b 桂圭男(1981) p.177
- ^ 桂圭男(1981) pp.177-179
- ^ a b 桂圭男(1981) p.179
- ^ 桂圭男(1971) pp.190-193
- ^ Linda Nochlin. 2007. 'The De-Politicization of Gustave Courbet: Transformation and Rehabilitation under the Third Republic.' in Courbet. New York: Thames & Hudson. pp. 116–127.
- ^ King, Ross (2006). The Judgement of Paris. New York: Walker and Company. pp. 349–350. ISBN 9780802715166
- ^ 桂圭男(1971) pp.195-196
- ^ 桂圭男(1971) p.198
- ^ a b 桂圭男(1971) p.199
- ^ 桂圭男(1971) p.200
- ^ 鹿島茂「失われたパリの復元」第10回、芸術新潮2012年10月号 p.163
- ^ 桂圭男(1971) pp.200-201
- ^ a b c 桂圭男(1971) p.202
- ^ Semaine sanglante, Wikipedia..
- ^ 桂圭男(1971) p.201
- ^ a b 桂圭男(1971) pp.203-204
- ^ Brown, Howard G. (2019) (英語). Mass Violence and the Self: From the French Wars of Religion to the Paris Commune. Cornell University Press. p. 271. ISBN 978-1-5017-3070-2
- ^ a b Milza, 2009, pp. 397–398
- ^ a b 桂圭男(1971) p.205
- ^ 桂圭男(1971) pp.207-208
- ^ Milza,(2009), pp. 431-432
- ^ a b c Lidsky, Paul (1982) (フランス語). Les écrivains contre la Commune [Writers against the Commune]. Paris: François Maspéro. pp. 72. ISBN 9782707113412
- ^ “La responsabilité de la presse dans la répression de la Commune de Paris” [The responsibility of the press in the repression of the Paris Commune] (フランス語). Le vent se lève (2017年). 2020年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月6日閲覧。
- ^ a b c d Pivot, Sylvain, "La Commune, les Communards, les ecrivains ou la haine et la gloire." December 2003. La revue des Anciens Élèves de l'École Nationale d'Administration"
- ^ Edmond de Goncourt, Jules de Goncourt, Robert Baldick, Pages from the Goncourt Journal (Oxford, 1962), p. 194
- ^ Correspondence between Gustave Flaubert and George Sand Archived 22 March 2014 at the Wayback Machine.. online-literature.com.
- ^ Hugo, Victor, Choses vues, 1870–1885. Paris. Gallimard (1972). ISBN 2-07-036141-1. p. 159
- ^ Hugo, Victor, L'Année Terrible
- ^ Milza 2009a, pp. 457–460.
- ^ 4th letter of Émile Zola on the Commune Archived 22 January 2022 at the Wayback Machine., 25 May 1871
- ^ 11th letter of Émile Zola on the Commune Archived 22 January 2022 at the Wayback Machine., 1 June 1871
- ^ デヴィッド・マカルー,David McCullough, The Greater Journey,2011
- ^ Woodcock, George (1962). “The Destructive Urge”. Anarchism: A History of Libertarian Ideas and Movements. The World Publishing Company. OCLC 179826
- ^ The Paris Commune and the Idea of the State Archived 3 February 2014 at the Wayback Machine., Mikhail Bakunin, 1871
- ^ Louise Michel, a French anarchist women who fought in the Paris commune Archived 10 July 2009 at the Wayback Machine.
- ^ Thomas, Édith (2007). The Women Incendiaries. Haymarket Books. ISBN 978-1-931859-46-2
- ^ Baker, Zoe. “Chapter Six: Insurrectionist Anarchism.” Means and Ends, AK Press, 2023, p. 204.
- ^ Karl Marx, The Civil War in France, English Edition of 1871
- ^ クルトワ 2025b, p. 上231.
- ^ クルトワ 2025b, p. 上231-232.
- ^ Rougerie 2004, pp. 264–270.
- ^ 旺文社世界史事典 三訂版;『パリ・コミューン』 - コトバンク
- ^ Sison, Jose Maria (2020). Basic Principles of Marxism-Leninism: a Primer (6th ed.). Paris: Foreign Languages Press. pp. 127. オリジナルの3 October 2022時点におけるアーカイブ。 2022年10月3日閲覧。
- ^ Rougerie 2004, p. 269.
- ^ Letter in English: Marx to Domela Nieuwenhuis In The Hague,1881年2月22日,marxists.org.
- ^ ハント 2016, p. 327-8.
- ^ ハント 2016, p. 326.
- ^ ハント 2016, p. 327.
- ^ パイプス 2000, p. 168.
- ^ ヤーラオシュ 2022, p. 上125.
- ^ 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ, 2002年)p22
- ^ Orlando Figes, A people's tragedy: the Russian Revolution : 1891-1924, 1996, pp.484-500.
- ^ 『ハンガリー』 - コトバンク
- ^ Harding, Neil (4 December 2006). The Cambridge History of Twentieth-Century Political Thought. Cambridge University Press. p. 251. ISBN 9781139053600
- ^ a b Rougerie 2004, p. 264.
- ^ a b Cai, Xiang; 蔡翔 (2016). Revolution and its narratives : China's socialist literary and cultural imaginaries (1949–1966). Rebecca E. Karl, Xueping Zhong, 钟雪萍. Durham. pp. 423. ISBN 978-0-8223-7461-9. OCLC 932368688
- ^ Russo, Alessandro (2020). Cultural Revolution and revolutionary culture. Durham: Duke University Press. pp. 144. ISBN 978-1-4780-1218-4. OCLC 1156439609
- ^ a b Kim, Suzy (2016). Everyday life in the North Korean revolution, 1945–1950. Ithaca: Cornell University Press. pp. 33. ISBN 978-1-5017-0568-7. OCLC 950929415
- ^ Wu, Yiching (2014). The cultural revolution at the margins : Chinese socialism in crisis. Cambridge, Mass.: Harvard University Press. pp. 145–146. ISBN 978-0-674-41985-8. OCLC 881183403
- ^ Short, Philip (25 April 2013). Pol Pot: The History of a Nightmare. John Murray Press. ISBN 9781444780307. オリジナルの11 November 2023時点におけるアーカイブ。 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『パリ・コミューン』 - コトバンク
- ^ Bury, J.P.T. (2003). France, 1814–1940 (6th ed.). Routledge. pp. 108. ISBN 978-0415316002
- ^ Plessis, Alain (1985). The Rise and Fall of the Second Empire, 1852–1871. Cambridge University Press. pp. 173. ISBN 9780521358569
- ^ Morris, T.; Murphy, D. (2000). Europe 1870–1991. Collins Educational. pp. 95. ISBN 0003271331
- ^ Theodore Zeldin,France 1848–1945, vol.I,1973.Clarendon Press.
- ^ Morris, T.; Murphy, D. (2000). Europe, 1870–1991. Collins. pp. 95. ISBN 0003271331
- ^ 柴田 2006.
- ^ 杉本ら 2016, p. 158.
- ^ a b 高遠 2020, p. 149-150.
- ^ a b c d e f 谷川ほか 1999, p. 165.
- ^ 渡辺ら 1997, p. 8-9.
- ^ 谷川ほか 1999, p. 162-5.
- ^ a b 谷川ほか 1999, p. 165-6.
- ^ a b c クルトワ 2025b, p. 上233.
- ^ a b c クルトワ 2025b, p. 上234.
- ^ Eye-witness accounts quoted in 'Paris under Siege' by Joanna Richardson p. 197 (see bibliography)
- ^ Robert Tombs, The War Against Paris: 1871, Cambridge University Press, 1981, 272 pages ISBN 978-0-521-28784-5
- ^ Gay Gullickson, Unruly Women of Paris, Cornell Univ Press, 1996, 304 pages ISBN 978-0-8014-8318-9
- ^ Lissagaray 2012, pp. 277–278.
- ^ Milza 2009a, pp. 396–397.
- ^ “No. 1262 – Rapport d'information de M. Bernard Accoyer fait au nom de la mission d'information sur les questions mémorielles” [No. 1262 – Information report by Mr. Bernard Accoyer made on behalf of the information mission on memory issues] (フランス語). www.assemblee-nationale.fr. 2011年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月19日閲覧。
- ^ Gregor Dallas, An Exercise in Terror: the Paris Commune 1871, History Today, Volume 39, Issue 2, 1989
- ^ Cobban, Alfred (1965), A History of Modern France, p. 215. Penguin Books
- ^ a b Conman, Julian (2021年3月7日). “Vive la Commune? The working-class insurrection that shook the world”. The Guardian. オリジナルの2021年4月19日時点におけるアーカイブ。 2021年4月18日閲覧。
- ^ Vock, Ido (2021年3月18日). “After 150 years, the legacy of the Paris Commune continues to divide France”. New Statesman. オリジナルの2021年4月19日時点におけるアーカイブ。 2021年4月18日閲覧。
- ^ a b Schofield, Hugh (2021年3月18日). “Paris Commune: The revolt dividing France 150 years on”. BBC. オリジナルの2021年4月19日時点におけるアーカイブ。 2021年4月18日閲覧。
- ^ Le Figaro, 30 May 2021
- ^ “A Paris, une procession catholique attaquée par des antifascistes | CNEWS” (フランス語). www.cnews.fr (2021年5月30日). 2025年8月18日閲覧。
- ^ E. P. Thompson, William Morris : Romantic to Revolutionary. London : PM Press, 2013. ISBN 9781604868418 (p.196).
- ^ “ルーゴン・マッカール叢書 壊滅”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2024年2月2日閲覧。
- ^ a b Albert Boime, Olin Levi Warner's Defense of the Paris Commune, Archives of American Art Journal, Vol. 29, No. 3/4 (1989), (pp. 4, 13)
- ^ “パリ燃ゆ 上巻 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年2月2日閲覧。
- ^ “パリ燃ゆ 下巻 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年2月2日閲覧。
- ^ 柘植, 久慶 (1990-04-01). 獅子たちの時代. 集英社. ISBN 978-4-08-775141-3
- ^ “獅子たちの時代 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年2月2日閲覧。
- ^ あずみ, 椋; 近藤, 和彦 (2002-11-01). 学習漫画 世界の歴史 13 産業革命と自由主義 富国強兵のせめぎあい (全面新版 ed.). 集英社. ISBN 978-4-08-249213-7
参考文献
[編集]同時代
[編集]- カール・マルクス 著、木下半治 訳『フランスの内乱』岩波書店、1952年。
- カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、マルクス=レーニン主義研究所 著、大内兵衛,細川嘉六 訳『マルクス・エンゲルス全集』大月書店、1959年。
- カール・マルクス 著、不破哲三 編『インタナショナル (科学的社会主義の古典選書)』新日本出版社、2010年。
- カール・マルクス 著、不破哲三 編『マルクス、エンゲルス書簡選集 (中)(科学的社会主義の古典選書)』新日本出版社、2012年。
研究書
[編集]※出版年順。著者が同じ場合は揃える。
- W.Z.フォスター 著、長洲一二,田島昌夫 訳『国際社会主義運動史』大月書店、1956年。
- ジョルジュ・ブルジャン 著、上村正 訳『パリ・コミューン』白水社、1961年。
- 大佛次郎『パリ燃ゆ』朝日新聞社、1963年
- 飯田鼎『マルクス主義における革命と改良―第一インターナショナルにおける階級,体制および民族の問題』御茶の水書房、1966年。
- 小牧治『マルクス』清水書院〈人と思想20〉、1966年。ISBN 978-4389410209。
- 桂圭男『パリ・コミューン』岩波書店、1971年。
- 桂圭男『パリ・コミューン―パリが燃えた70日』教育社、1981年。
- 柴田三千雄『パリ・コミューン』中央公論社、1973年。
- 柴田三千雄等『フランス史 2』山川出版社、1996年。
- 柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年11月24日。
- 長谷川正安『コミューン物語1870-1871』日本評論社、1991年。
- 渡辺和行、南允彦、森本哲郎『現代フランス政治史』ナカニシヤ出版、1997年11月10日。
- アンドレ・ヴァルノ 著、北沢真木 訳『パリ風俗史』講談社、1999年。
- 谷川稔・北原敦・鈴木健夫・村岡健次『世界の歴史 22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、1999年。
- 木下賢一『第二帝政とパリ民衆の世界―「進歩」と「伝統」のはざまで』山川出版社、2000年。
- 福井憲彦等『フランス史』山川出版社、2001年。
- 鹿島茂『怪帝ナポレオンIII世―第二帝政全史』講談社、2004年。ISBN 978-4062125901。
- デヴィッド・ハーヴェイ 著、大城直樹 訳『パリ―モダニティの首都』青土社、2006年。
- ハント, トリストラム 東郷えりか訳 (2016), エンゲルス - マルクスに将軍と呼ばれた男(原著2009), 筑摩書房
- 橋爪大三郎『労働者の味方マルクス―歴史に最も影響を与えた男マルクス』現代書館、2010年。
- 薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』光文社、2011年。
- ジャック・アタリ 著、的場昭弘 訳『世界精神マルクス』藤原書店、2014年。
- 杉本淑彦、竹中幸史『教養のフランス近現代史』ミネルヴァ書房、2016年4月30日。
- ミシェル・ヴィノック『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』大嶋厚訳、吉田書店、2018年(第1章「パリ・コミューン」)
- 高遠弘美『物語 パリの歴史』講談社現代新書、2020年3月12日。
- ヤーラオシュ, コンラート・H・ 橋本伸也訳 (2022), 灰燼のなかから: 20世紀ヨーロッパ史の試み, 人文書院
- クルトワステファヌ 著、神田順子 訳『憎悪と破壊と残酷の世界史 (原著 2023年)』原書房、2025a年。
- クルトワ, ステファヌ (2025b), “マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛!:階級闘争、内乱、全体主義的残虐”, in クルトワ, ステファヌ, 憎悪と破壊と残酷の世界史, 原書房
- 洋書
- Albert Boime, Olin Levi Warner's Defense of the Paris Commune, Archives of American Art Journal, Vol. 29, No. 3/4 (1989),
- Lidsky, Paul (1982). Les écrivains contre la Commune. Paris: François Maspéro.
- Lissagaray, Prosper-Olivier (2000). Histoire de la Commune de 1871 [History of the Commune of 1871]. Paris: La Decouverte/Poche. ISBN 978-2-70-714520-8
- Lissagaray, Prosper-Olivier (2012). Histoire de la Commune de 1871 [History of the Commune of 1871]. London: Verso Books
- Milza, Pierre (2009a). L'année terrible: La Commune (mars–juin 1871) [The terrible year: La Commune (March–June 1871)]. Paris: Perrin. ISBN 978-2-262-03073-5
- Milza, Pierre (2009b). L'année terrible: La guerre franco-prussienne (septembre 1870 – mars 1871) [The Terrible Year: The Franco-Prussian War (September 1870 – March 1871)]. Paris: Perrin. ISBN 978-2-262-02498-7
- Rougerie, Jacques (2004). Paris libre 1871. Paris: Editions du Seuil. ISBN 2-02-055465-8
- Rougerie, Jacques (2014). La Commune de 1871. Paris: Presses universitaires de France. ISBN 978-2-13-062078-5
関連人物
[編集]- ナポレオン3世
- アドルフ・ティエール
- カール・マルクス
- ギュスターヴ・クールベ
- ルイーズ・ミシェル
- ウラジーミル・レーニン
- 前田正名 - 明治期日本の官僚。フランス留学中にパリ・コミューンによる蜂起に遭遇した日本人。
関連歌
[編集]- インターナショナル (歌)
- さくらんぼの実る頃 (Le Temps des cerises) - パリ・コミューンの追悼歌
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『パリ・コミューン』 - コトバンク
- 明治初期日本人のパリ・コミューン観 - 渡正元(渡六之介)著『巴里籠城日誌』[1]、西園寺公望の書簡・自伝草稿、『特命全権大使 米欧回覧実記』により、明治初期日本人のパリ・コミューン観を検討し、同時に彼らの西欧文明観・民衆観を検討する。
- 「巴里籠城日誌」校訂現代語訳(1)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(2)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(3)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(4)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(5)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(6)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(7・8)
- 『巴里籠城日誌』校訂現代語訳(追補・ロンドン見聞略誌)
- ^ “巴里籠城日誌 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2025年3月27日閲覧。