大谷光演

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
大谷光演(彰如)
 1875年明治8年)2月27日 -
1943年昭和18年)2月6日
Koen Otani.jpg
幼名 光養麿
法名 彰如
愚峯(ぐほう)〔俳号〕句仏(くぶつ)
院号 無量光院
光演
尊称 彰如上人、句仏上人
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
著作 『夢の跡』『我は我』『句仏句集』
(いずれも句集)
大谷祖廟

大谷光演(おおたに こうえん)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗俳人画家法名は「彰如」(しょうにょ)。俳号は「句仏」。東本願寺第二十三代法主[1]真宗大谷派管長。伯爵。妻は、三条実美の三女・章子。

1900年まで南条文雄村上専精井上円了らについて修学。また幸野楳嶺竹内栖鳳日本画を学び、さらに正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いだ。後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれる。

1901年札幌には宗教系の学校が北星女学校しか無い事を知り、同地での仏教系女学校を思い立つが資金調達に難航し、開設するには至らなかった。1902年(明治35年)に北海道庁立札幌高等女学校が開設されたため、札幌初の非キリスト教系女学校の開設には至らなかったが、4年後の1906年(明治39年)年4月に、札幌初の仏教系女学校である北海女学校の開校に漕ぎつけた。

年表[編集]

本山は「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。

関連項目[編集]

著書[編集]

  • 『句仏句集』読売新聞社、1959年。
  • 『俳諧歳時記 新年』共著、改造社、1948年。
  • 『我は我』書物展望社、1938年。
  • 『夢の跡』政経書院、1935年。
  • 『この大災に遇うて』中外出版、1923年。
  • 『法悦の一境』内田疎天編広文堂、1920年。
  • 安部自得編『句仏上人俳句頂戴鈔』、法藏館、1910年。
  • 『自然のままに』真宗大谷派宗務所出版部、1992年。

脚注[編集]

  1. ^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十三代法主」と表記。
  2. ^ 工藤美代子 『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇中公文庫 ISBN 978-4122051782、107p。姻戚関係、と書かれているが、具体的にどのような関係であったかが記されていない。近衛の長男文隆が、西本願寺派宗主大谷光照の妹正子と結婚したこととの混同かとも思われるが、その件は同書138pに記されている。

参考文献[編集]

『学校創立者人名事典』(日外アソシエーツ編集・発行、2007年)

日本の爵位
先代:
大谷光瑩
伯爵
大谷家真宗大谷派)第2代
1908年 - 1925年
次代:
大谷光暢