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竹内栖鳳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹内 栖鳳
(たけうち せいほう)
1935年
生誕 竹内 恒吉(たけうち つねきち)
1864年12月20日
京都府京都市中京区
死没 (1942-08-23) 1942年8月23日(77歳没)
神奈川県足柄下郡湯河原町
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 日本画
代表作班猫》、《アレ夕立に》、《絵になる最初》
運動・動向 京都画壇
子供 竹内逸三ほか
受賞 文化勲章
1937年
レジオンドヌール勲章
1924年
選出 帝室技芸員帝国美術院
影響を受けた
芸術家
幸野楳嶺
影響を与えた
芸術家
上村松園西山翠嶂小野竹喬ほか多数
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竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日1864年12月20日[1][2][3] - 1942年昭和17年〉8月23日)は、戦前日本画家。戦前の京都画壇の中心として多数の弟子を育成し、日本画の近代化に足跡を残した。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。

本名は竹内 恒吉[1](たけうち こうきち[3]/つねきち[2])。最初は棲鳳と号した[3]。霞中庵の号もある[4]

生涯

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京都府京都市中京区御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれる[1][2][3][5]。竹内政七・きぬ夫妻の長男で、きょうだいには姉の琴がいる[1][2][3]。「亀政」の常連であった北村甚七という友禅画家が短冊に墨で燕子花を描いたのを幼少期に目にし、心を奪われたという[1][3]。母は1877年明治10年)に死去[1][6]。父は栖鳳が画家となるのには反対で家業を嗣がせようとしていた[1][3]

14歳のとき、近所に住む四条派の絵師・土田英林に絵を習い始める[1]1881年(明治14年)に円山・四条派幸野楳嶺の私塾へ入門する[7][8][3]。楳嶺より竹内の姓にちなむ「棲鳳」の号を与えられた(鳳凰の実を食べるとされる)[7][3]。入塾から半年後には師の前で《枯蘆》の絵を描いたことで先輩たちを飛び越えて「工芸長」に抜擢された[7][3]。このように門弟の中で頭角を現わし、菊池芳文谷口香嶠都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれる[7]

1884年(明治17年)から京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に学び、1887年(明治20年)に同校を修了した[8][6]。同年高山奈美と結婚し、これを機に絵師として独立する[8][9]1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕したほか、髙島屋意匠部で呉服の下絵を描き収入を得ていた[8][6]1891年(明治24年)、山元春挙菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。1892年(明治25年)の京都市美術工芸品展に《猫児負暄》を出品し三等銅牌を受けるものの、鵺派と呼ばれて酷評された[10][8][11]。その後も日本美術協会展や日本絵画協会展などに出品し受賞を重ねた[10]1893年(明治26年)、シカゴ万博に出品[10][12]

1895年(明治28年)に師の幸野楳嶺が死去すると、その後任として京都市立工芸学校の教諭となった[9]。この時期同校では横山大観も教諭として勤務していた[13]。楳嶺の死にともない、それ以前から橋本菱華、神谷紫山、西山翠嶂などの門人を抱えていた栖鳳のもとには、楳嶺の弟子であった上村松園も加わることとなった[13]1897年(明治30年)ごろから画塾を「竹杖会(ちくじょうかい)」と称するようになった[14][9]

《ベニスの月》絹本墨画 髙島屋史料館蔵 1904年

1900年(明治33年)8月1日、パリ万博視察のため欧州へ向けて出発する[15][16][17]神戸を出航後、マルセイユでフランスに上陸し、9月24日にパリへ到着しパリ万博を視察した[16][17]。出品した《雪中燥雀》は銀牌を受けた[18]。その後3か月間ロンドンアムステルダムベルリンヴェネツィアフィレンツェローマなどを歴訪[15][16][17]ラファエル・コランジャン=レオン・ジェロームフェルナン・コルモンらと面会を果たした[15][16]。日本出発前に知っていた画家はダ・ヴィンチラファエロターナーなどだけであったものの[16][17]、ターナーのほかコローアンジェリコらの作品を実見したことでそれらから強い影響を受けた[15][16][19]

1901年(明治34年)2月21日に長崎に到着し帰国を果たした[15]。4月の第7回新古美術展に《獅子》を出品して一等賞金牌を受賞[20]。このときから「栖鳳」の雅号を用いるようになった[15][14]

《飼われたる猿と兎》絹本着色 第2回文展 東京国立近代美術館 1908年
《アレ夕立に》 絹本着色 第3回文展 高島屋史料館 1909年

1907年(明治40年)、文展が開設されるとともに審査員に任命される[21][14]。以後1918年大正7年)まで在任した[22]。また、1909年(明治42年)、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに専任教諭に就任[14][6]1924年(大正13年)まで務めた[23][6]

1912年(明治45年)洛西・嵯峨に別邸を購入し、のちに同所に霞中庵を増築した[14][17]1913年(大正2年)12月18日に帝室技芸員に推挙され[24][25]、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。1915年(大正4年)には横山大観より日本美術院学術顧問への就任を打診されたものの、これを辞退した[24][14][6]。1918年(大正7年)に弟子の小野竹喬土田麦僊村上華岳榊原紫峰野長瀬晩花らが国画創作協会を結成すると、その顧問に就任[23]1919年(大正8年)、帝国美術院会員となる[26][23][6]

1920年(大正9年)、長男・逸三や娘婿・西山翠嶂らを伴い、中国旅行に旅立つ[26][27][6]。翌1921年にも中国を旅行[26][27][6]

1927年昭和2年)に初めて茨城県潮来を訪れてこの地を気に入り、4度にわたり同地へ赴きスケッチなどを残している[28]

1929年(昭和4年)に東山高台寺新邸に御池から転居した[29][28][30]

1931年(昭和6年)に体調を崩し、神奈川県足柄下郡湯河原町の天野屋旅館[31]を静養のために訪れる[32][33][30]。このときに、湯河原が気に入った栖鳳は湯河原を拠点として活動することとなる[32][33]1933年(昭和8年)に竹杖会を解散[32][33][30]1934年(昭和9年)ごろには天野屋の敷地内にアトリエ「山桃庵」を構えた[33][30]。湯河原には女弟子・六人部暉峰(むとべ きほう、1879 - 1956)を伴っている[32][34]

1935年(昭和10年)の松田源治文部大臣による帝国芸術院の改組には反対の立場を表明し、新帝展への不出品の姿勢を明らかにした[35][33]1937年(昭和12年)には第1回文化勲章を受章した[35][33][30][18]

1941年(昭和16年)に「彩管報国」を理念とする日本画家連盟が結成されるとその顧問に就任した[33]。絶筆となった《宮城を拝して》は陸軍省から委嘱された作品であった[36]1942年(昭和17年)8月23日、天野屋旅館で肺炎により死去[35][27][37][38]。墓所は京都黒谷墓地[39][30]

画業

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《金獅》金地絹本着色、1901年ごろ、ボークス
《炉辺》絹本着色、1935年、足立美術館

その画風は四条派を基礎としているが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担った。時として守旧派からは「鵺派」と呼ばれて揶揄されたが、大画面を破綻なくまとめる確実な技量のみならず、その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。

幸野楳嶺は「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」と説き写生を奨励した。栖鳳は幸野の教えを励行し、当時日本ではなかなか見られなかった珍しいトラやライオンなどの動物から雀や猫などの身近な動物まで多くの動物を描いた。兎、猿、家鴨などは自宅で飼って写生をしている[40]。「写生帖(虫類、鳥類写生)」(1880年ごろ)には、雉の肩や首筋、部位ごとに本物の羽を貼りつけた写生が残されており、「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と評されるほどの卓越した描写力は、綿密な写生から生まれていることが窺える[41]

昭和期以降は、それまでの緻密な描写とはうってかわり、少ない手数で的確に対象のすがたを描く、「省筆」という画風に到達した[23][42]

終始官展にとどまり在野の横山大観と画壇の双璧をなし[18]「西の栖鳳、東の大観」と称された。また弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。上村松園西山翠嶂をはじめ、西村五雲橋本関雪土田麦僊小野竹喬池田遙邨徳岡神泉村上華岳福田平八郎榊原紫峰ら京都画壇を牽引する多くの画家を育てた[43]

栄典

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家族

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  • 父:竹内政三( - 1892年[6]
  • 母:きぬ( - 1877年[8][6]
  • 姉:琴( - 1906年[44][6]) - 10歳年長の姉[1][44]。生涯独身で家業の「亀政」を守り栖鳳の画家としての成功を支えた[1][44]
  • 妻:奈美( - 1942年[6]) - 旧姓:高山。
    • 長男・逸三(1891年[6] - 1980年) - 評論家。筆名:逸。
    • 長女・園(1893年[6] - )
    • 次女・千代(1895年 - 1897年[6]
    • 次男・四朗(1900年[6] - )
    • 三女・千枝(1903年 - 1904年[6]
    • 四女・百合(1905年 - 1907年[6]
    • 三男・三雄(1907年[6] - )
  • 木内 駒(1863年 - 1939年[7])との間の子
    • 竹内貞子(1882年[7] - )
    • 竹内鳴鳳(本名:亀次郎、1888年[7] - )
  • 六人部 暉峰(むとべ きほう、本名:貞栄[32]、1879年 - 1956年[45])との間の子
    • 7人(早世した1人を除き他家の養子となる[32]、うち一人は東京工業大学教授・柴田和雄)

主な作品

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《班猫》

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 田中 1988, pp. 14–33.
  2. 1 2 3 4 吉中 & 中村 2013, pp. 6–7.
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 別冊太陽編集部 2013, pp. 118–119.
  4. 思文閣 美術人名辞典. 竹内栖鳳”. コトバンク. 2017年12月11日閲覧。
  5. 竹内栖鳳とは(1)京都ゆかりの作家
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 別冊太陽編集部 2013, pp. 168–172.
  7. 1 2 3 4 5 6 7 田中 1988, pp. 50–71.
  8. 1 2 3 4 5 6 吉中 & 中村 2013, pp. 10–11.
  9. 1 2 3 別冊太陽編集部 2013, pp. 120–123.
  10. 1 2 3 田中 1988, pp. 74–96.
  11. 別冊太陽編集部 2013, p. 168.
  12. 日外アソシエーツ 20世紀日本人名事典. 竹内 栖鳳”. コトバンク. 2017年12月11日閲覧。
  13. 1 2 田中 1988, pp. 98–120.
  14. 1 2 3 4 5 6 7 吉中 & 中村 2013, pp. 20–21.
  15. 1 2 3 4 5 6 田中 1988, pp. 148–171.
  16. 1 2 3 4 5 6 吉中 & 中村 2013, pp. 38–39.
  17. 1 2 3 4 5 別冊太陽編集部 2013, pp. 127–130.
  18. 1 2 3 4 5 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『竹内栖鳳』 - コトバンク
  19. 別冊太陽編集部 2013, p. 51.
  20. 田中 1988, pp. 174–199.
  21. 田中 1988, pp. 202–227.
  22. 二階堂充/小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). 竹内栖鳳”. コトバンク. 2017年12月11日閲覧。
  23. 1 2 3 4 5 6 7 吉中 & 中村 2013, pp. 40–41.
  24. 1 2 田中 1988, pp. 254–277.
  25. 『官報』第419号、大正2年12月19日。
  26. 1 2 3 4 田中 1988, pp. 280–303.
  27. 1 2 3 吉中 & 中村 2013, pp. 46–47.
  28. 1 2 吉中 & 中村 2013, p. 70.
  29. 田中 1988, pp. 306–330.
  30. 1 2 3 4 5 6 7 別冊太陽編集部 2013, pp. 136–137.
  31. 栖鳳は天野屋の敷地内にアトリエを構えた。その天野屋も2005年に廃業した。-日本経済新聞・2021年2月6日(土)夕刊第8面「文学周遊(746) 夏目漱石『明暗』神奈川・湯河原町」(文・宮川匡司)
  32. 1 2 3 4 5 6 7 田中 1988, pp. 332–359.
  33. 1 2 3 4 5 6 7 8 吉中 & 中村 2013, pp. 56–57.
  34. 里見徳太郎「京都画壇に輝いた英才の筆」日本経済新聞・2021年11月23日・第34面。
  35. 1 2 3 田中 1988, pp. 362–387.
  36. 精魂を傾けた絶筆「宮城を拝して」(昭和17年8月25日 朝日新聞(夕刊) 『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p573
  37. 日本画壇の大御所、死去(昭和17年8月24日 朝日新聞 『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p573 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  38. 竹内栖鳳”. 東文研アーカイブデータベース. 2017年12月11日閲覧。
  39. 1 2 田中 1988, pp. 4–12.
  40. 近代日本画壇を牽引した巨匠 サライ.jp
  41. 「没後80年 竹内栖鳳-躍動する生命- MOA美術館」NHK「日曜美術館アートシーン」(2021年6月27日放送)
  42. 別冊太陽編集部 2013, pp. 102–103.
  43. 廣田孝(監) 2013, p. 146.
  44. 1 2 3 4 吉中 & 中村 2013, p. 12.
  45. Inc, Nikkei (2021年11月23日). 京都画壇に輝いた英才の筆 竹内栖鳳が認めた女性画家、六人部暉峰の作品と生涯掘り起こす 里見徳太郎”. 日本経済新聞. 2026年1月28日閲覧。
  46. ColBase”. colbase.nich.go.jp. 2026年2月1日閲覧。
  47. 吉中 & 中村 2013, p. 24.
  48. 羅馬之図 文化遺産オンライン
  49. 雨霽(あまばれ) 文化遺産オンライン
  50. 飼われたる猿と兎 文化遺産オンライン
  51. 吉中 & 中村 2013, pp. 30–31.
  52. 吉中 & 中村 2013, pp. 32–33.
  53. 竹内栖鳳《日稼》1917年 (見る聞く読む)”. 東京国立近代美術館 (2022年12月1日). 2026年2月1日閲覧。
  54. 作品紹介 - 山種美術館
  55. 秋興 - 文化遺産オンライン文化庁
  56. 薫風稚雀・寒汀白鷺|皇居三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shozokan”. shozokan.nich.go.jp. 2026年2月1日閲覧。

参考文献

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  • 田中日佐夫『竹内栖鳳』岩波書店、1988年7月27日。ISBN 4-00-001271-1 
  • 中村麗子; 吉中充代『もっと知りたい 竹内栖鳳 生涯と作品』東京美術、2013年9月15日。ISBN 978-4-8087-0958-7 
  • 別冊太陽編集部 編『竹内栖鳳 - 近代京都画壇の大家/別冊太陽 日本のこころ 211』廣田孝 監修、平凡社、2013年9月30日。ISBN 978-4-582-92211-0 

関連書籍

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外部リンク

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