准如

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
准如

天正5年7月9日 - 寛永7年11月30日 (旧暦)

1577年7月24日 (ユリウス暦) / 1577年8月3日 (グレゴリオ暦換算)[1] - 1631年1月2日 (グレゴリオ暦)
幼名 阿茶丸(あさまろ)
(福井本行寺時代)理光院
院号 信光院
光昭
尊称 准如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の浄土真宗本願寺派)

准如(じゅんにょ)[2]は、安土桃山時代から江戸時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第12世宗主。西本願寺住職。は光昭。院号は信光院。法印大僧正。父は第11世顕如。母は如春尼三条公頼の娘・細川晴元の養女)。妻は祇園宝光院の息女、寿光院准勝。兄は真宗大谷派第12代教如真宗興正派第17世顕尊。第13世良如は次男。

生涯[編集]

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生没年月日を除く)。

誕生[編集]

天正5年7月9日(1577年8月3日)、誕生。

本願寺継承[編集]

石山戦争の折、顕如は織田信長と和睦し、天正8年(1580年)に石山本願寺を退去、紀伊国鷺森に移った。その後、顕如は豊臣秀吉に寺地を与えられ大坂天満に移る。天正19年(1591年)に天満本願寺にて得度し、理光院と称したが、秀吉により現在の本願寺の地である京都の七条堀川に再び寺地を与えられ移転。これに伴い准如も京都に入るが、翌年の天正20年(1592年)に顕如が没すると、文禄2年(1593年9月16日、秀吉の命により准如が本願寺を継承し、第十二世となることが決定する。

西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田信長への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、信長の跡を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという。顕如の次男である興正寺顕尊(教如の同母弟)も准如の後見人として自分の娘を正室として迎えさせるなど准如の支持にまわっており、最終的に准如の母が秀吉に頼み込んで三男准如の相続が実現する。准如自身も教如とは異母兄弟[3]で折り合いが悪かった。

本願寺東西分立[編集]

慶長7年(1602年)、徳川家康が教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進し、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。

一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。

現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。[4]

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

東西分立後[編集]

慶長13年(1608年)、勅命により大僧正となり、大坂に「津村御坊」を、元和3年(1617年)、江戸に「江戸浅草御坊[5] を建立して教団の拡大に努める。

示寂[編集]

寛永7年11月30日(1631年1月2日 )、享年54(満53歳没)にて、示寂。

脚注欄[編集]

  1. ^ 本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生年を用いる。
  2. ^ 法主を務めた寺号「本願寺」に諱を付して本願寺光昭(ほんがんじ みつあき)とも称される。この「本願寺」は便宜的に付されたものであって、氏や姓ではない。
  3. ^ 母は同じ如春尼という説もある
  4. ^ 上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部
  5. ^ 江戸浅草御坊は、明暦の大火明暦3年1月18日から20日)により消失、延宝7年(1679年)に移転・再建し、2008年現在は、築地別院

外部リンク[編集]