岩倉具張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
岩倉具張

岩倉 具張(いわくら ともはる、1878年7月3日 - 1951年12月5日)は公爵貴族院議員。

人物[編集]

岩倉具視の次男である岩倉具定の長男。東京帝国大学在学中、西郷従道の長女桜子と結婚1905年7月10日、東京帝国大学卒業1905年12月1日一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営。1906年11月30日、陸軍歩兵軍曹に任ぜられ満期除隊。1907年3月7日、内務属に任ぜられ、同日から内務省地方局に勤務する。1908年6月、陸軍歩兵少尉に任ぜられ、同日予備役を仰せ付けられる。

1910年4月13日、父具定の死により襲爵。同日、貴族院議員(1914年9月1日まで[1])となる。1911年3月、宮内省御用掛を仰せ付けられる。宮内大臣官房総務課勤務。同年12月、宮内省御用掛を免ぜられ、宮内書記官となる。1912年7月31日、大喪使事務官を仰せ付けられる。同年9月10日明治天皇霊柩供奉を仰せ付けられる。1913年2月27日、皇太后陛下沼津行啓供奉を仰せ付けられる。同年2月8日、皇太后主事兼宮内書記官に任ぜられる。芸者遊びが好きで足繁く花街に通うものの、吝嗇のため「天保銭の御前(細かい釣り銭まで必ず持って帰る)」と呼ばれていた[2]

このころ、投機的商人の誘いに乗って土地投機に手を出して失敗。鉄道敷設予定地という触れ込みで紹介された土地を北海道で大々的に買い漁ったものの、実際の鉄道は三菱財閥のオーナー一族・岩崎家が購入した土地を通り、具張の土地は素通りしてしまった[3]。これにより具張は当時の金で300万円(現在の貨幣価値で数百億円)もの損害を受けた[3]。さらに具張は新橋芸者のもとに通い詰め、ひいきの芸者を落籍してレストランを開かせるなどの放蕩で一族の資産を浪費[3]。この後始末に困って高利貸に頼ったところ、1914年7月21日東京霞ヶ関の自邸を差し押さえられ、スキャンダルとなる。これら負債累積など家計紊乱の責任を取って、1914年7月20日、宮内書記官を辞任。同年7月29日、皇太后宮主事を辞任。同年8月29日、親族会議の結果、家督を長男具栄に強制的に譲らされ隠居[4]。同年暮より行方不明となる[5]

1915年、『北海道タイムス』記者によって福島県飯坂温泉で発見され、東京に連れ戻される。1916年9月15日、借金を踏み倒したまま隠居して返済義務を逃れようとした廉により、合名会社大橋銀行より詐欺罪東京地方裁判所に告訴される。

以後は家族と別居、愛人とともに生活した。1951年12月5日神奈川県三浦郡葉山町の自宅にて脳溢血で72歳にて死去。

親族[編集]

父は岩倉具定、母は岩倉久子。姉に依仁親王妃周子、4人の妹はそれぞれ華族の西郷従徳水野忠美武井守成島津忠弘に嫁いだ。弟に具幸、具美、具高 具顯(小桜葉子の父)がおり、それぞれ分家[6]

妻は西郷従道の長女桜子。長男具栄英文学者。次男具実言語学者。三男具方画家。三女靖子は「赤化華族事件」で治安維持法違反容疑で逮捕、釈放後自殺。

栄典・授爵[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
  2. ^ 『二代芸者 : 紅灯情話』 安藤せん子著 (新栄社, 1913)
  3. ^ a b c 佐藤朝泰『門閥──旧華族階層の復権』pp.141-142(立風書房1987年
  4. ^ 『官報』第629号(大正3年9月4日)によれば、隠居は9月1日で同日に届出が行われている。
  5. ^ 千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』(新人物往来社、2002年)148頁
  6. ^ 岩倉具張 (男性)人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月]
  7. ^ 『官報』第5542号「叙任及辞令」1901年12月21日。
  8. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  9. ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
  10. ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動

参考文献[編集]

日本の爵位
先代:
岩倉具定
公爵
岩倉家第2代
1910年 - 1914年
次代:
岩倉具栄