後藤新平

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日本の旗 日本の政治家
後藤 新平
Shimpei Gotō.jpg
生年月日 1857年7月24日
出生地 陸奥国胆沢郡鹽竈村
(現:岩手県奥州市水沢区)
没年月日 1929年4月13日(満71歳没)
死没地 日本の旗 日本 京都府
出身校 須賀川医学校
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 後藤和子
親族 鶴見祐輔(娘婿)
椎名悦三郎(甥)

日本の旗 第18・20代逓信大臣
内閣 第2次桂内閣 (18)
第3次桂内閣 (20)
在任期間 1908年7月14日 - 1911年8月30日 (18)
在任期間 1912年12月21日 - 1913年2月20日 (20)

日本の旗 第34・39代内務大臣
内閣 寺内内閣 (34)
第2次山本内閣 (39)
在任期間 1916年10月9日 - 1918年4月23日 (34)
在任期間 1923年9月2日 - 1924年1月7日 (39)

日本の旗 第33代外務大臣
内閣 寺内内閣
在任期間 1918年4月23日 - 同9月29日

その他の職歴
日本の旗 初代内閣鉄道院総裁
(1908年12月5日 - 1911年8月30日)
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後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日1857年7月24日) - 昭和4年(1929年4月13日)は日本医師官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵

台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京帝都復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。

甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔[1]、孫に社会学者鶴見和子[1]哲学者鶴見俊輔[1]演出家佐野碩、義孫に法学者の内山尚三[2]、曾孫に歴史家の鶴見太郎をもつ[3]

生涯[編集]

生い立ち・医師時代[編集]

仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる[1]。江戸時代後期の蘭学者高野長英は遠縁に当たる。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人は最初から政治家を志していたとされるが、高野長英への弾圧等の影響もあって医者を勧められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。

明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれるが、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。

明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893年)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。

「生物学の原則」に則った台湾統治[編集]

内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島宇品港似島似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

台湾の調査事業[編集]

まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘[編集]

開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。

阿片漸禁策[編集]

当時は、中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。また「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。

まず阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。

しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬(創立者の星一が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている[4]

満鉄総裁[編集]

明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤がハルビンで暗殺されたため実現しなかった)。

当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

拓殖大学学長[編集]

拓殖大学の昭和4年の卒業写真。中央が後藤新平学長。左隣は永田秀次郎次期学長
後藤新平

大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)8月2日-昭和4年(1929年4月13日)。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(1922年)6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。当時の邸宅は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、昭和第一高校の前の公園であった。

関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画[編集]

第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年7月14日 - 明治44年(1911年8月30日)、寺内内閣内務大臣(在職:大正5年(1916年10月9日 - 大正7年(1918年4月23日)・外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年12月17日 - 大正12年(1923年4月20日)、第2次山本内閣で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年1月7日、後述)等を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。

関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため、財界等からの猛反対に遭った上、後藤のお膝元の帝都復興院も、積極派の副総裁・松木幹一郎、建築局長・佐野利器らと、消極派で拙速主義を取り予算を削減しようとする副総裁・宮尾舜治、計画局長・池田宏らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった[5]。結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも、後述するように、現在の東京都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。震災復興計画の方法について、後藤は、19世紀中葉のフランスナポレオン3世治下のセーヌ県知事オスマンが行ったいわゆるパリ改造を参考に、土地を地権者から大胆に収用する手法をとろうとした。ところが、日本は土地に対する絶対的な私有感覚が極めて強く、財産権の内在的・外在的制約(大日本帝国憲法27条2項、日本国憲法29条2項3項)に対する理解が存在しないため、意外にも19世紀フランスにおけるよりもよほど激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。中でも「銀座の大地主」と呼ばれた伊東巳代治が反対運動の中心になった。

道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つという大規模なもので、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。

現在、それに近い形で建設された姿を行幸通りなどで見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もある。しかし、昭和通りは、建設当初は大阪御堂筋に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路であったにも関わらず、前述の交差点の地下立体交差や首都高速道路の高架道路の建設により、後藤の意図したようなゆったりした緑の多い街路としての性質は、昭和40年代以降完全に失われてしまった[6]

一方で、後藤による都市計画は、東京の都市機能拡充の引き換えに江戸以来の情緒を喪失させ、「東京を無機質な町に変質させてしまった。」との批判もある。しかし、帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、帝都復興事業施行街区には、大正12年(1923年)9月の段階で、そもそも江戸の情緒を残す町並みは殆ど残されていなかったこと、震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの都市問題を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は必ずしも的を射たものではない。

緑地政策に関しては、隅田公園浜町公園など、近代的な公園緑地を建設することも忘れなかったが、比較的小規模なものにならざるを得ず、ロンドンニューヨークパリ等の大都市と比しても圧倒的に森が少なくなってしまったことが批判されている。また、後藤は地方自治のプロとして、小学校を地域の中核とする地域コミュニティの再編を進めたが、後藤が帝都復興計画の模範としたパリ大改造は、為政者にとって厄介なものだったフランス革命以来のパリの地域コミュニティを破壊することを隠れた目的としていたため、街路整備に不可避的に付随して、旧来の地域コミュニティの結束点をかなりの部分破壊してしまったという問題を指摘する者もいる。

ソ連外交とその後[編集]

大正12年(1923年)、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤・ヨッフェ会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとしていたソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、黎明会を組織した内藤民治田口運蔵等の社会主義者だけでなく、右翼団体である黒龍会内田良平も、北京にいるヨッフェに使者を送って仲立ちにあたった。一部から後藤は「赤い男爵」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、日露関係が正常化される事を展望していた。

大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った[7]。大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。

後藤新平の墓(青山霊園

昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問しスターリンと会見、国賓待遇を受ける。少年団日本連盟会長として渡航。その際、少年達1人が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食べ渡航したという。当時の情勢的に日中露の結合関係の重要性(新旧大陸対峙論)は後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘されるが、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右日ソ中立条約締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、ソ連側から盗聴されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。

なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、第3次桂内閣の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。

晩年[編集]

明治36年(1903年)、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は政治の論理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中、列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日に死去。

三島通陽の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

栄典[編集]

逸話[編集]

ボーイスカウト制服姿の後藤新平
  • 内務大臣に在任中、度かさなる雑誌発禁処分により窮した大杉栄の不意の訪問を受ける。「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」と言う大杉に対して後藤は「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです。」と応え、「政府が僕らの職業を邪魔するからです。」「が、特に私のところへ無心にきたわけは。」「政府が僕らを困らせるんだから、政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かろうと思ってきたんです。」「そうですか、分かりました。」というようなやりとりの後、300円を大杉に手渡している。大杉によれば、伊藤野枝の遠縁にあたる頭山満から紹介された杉山茂丸台華社での交渉で山口孤剣白柳秀湖を例に挙げて「国家社会主義ぐらいのところになれ」と軟化を迫られ、すぐその家を辞したものの、杉山の口から後藤新平の名前がたびたび出たことから後藤への無心を思いついたと語っている(『大杉栄自叙伝』より)
  • 金権政治家の典型で、「黄金万能主義の権化」といった形で度々批判された。問題にされがちだったのは台湾民政長官時代に樟脳専売利権で結びついた、「政商」と言われた金子直吉の率いる鈴木商店との関係であった[14]
  • 東京市長時代、永田秀次郎池田宏前田多門の3名の補佐役を「畳屋」と称した。畳屋の由来は"畳"の旧字体(3つの"田"の下に"宜"がある)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでおり、「東京市政は永・池・前の3人に任せておけば(よろ)しい」の意である[15]。他にも「サンタクロース」という別名もあるサンタ=三田、クロース=苦労するを捩ったものである。
  • 日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。
  • 晩年はソビエト連邦との国交回復に尽力する一方、数の論理で支配される政党政治を批判し、倫理確立による選挙粛正を唱え全国を遊説した。
  • シチズン時計の名付け親でもある(後藤と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。
  • 虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し、何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに彼は死亡していた。そこで、正力はその恩返しとして後藤の故郷である水沢町(当時)に借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。
  • 地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。
  • 現在の中国大使館は後藤邸の跡地である。
  • 美濃部亮吉は東京都知事時代に「私は後藤新平とよく政策とかが似ているといわれるが、どうしても都知事と総理大臣の給料を同じにすることができなかった」と発言したが、後藤は東京市長の給料を全額東京市に寄付していた。

反米左翼の庇護者[編集]

戦間期の日本において最も有力な反米親ソの政治家だった後藤新平[16]は、下に見るように、親族に多くの著名な左翼活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現在まで続いている。そのため、米ソ対立の冷戦イデオロギーの下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった戦後日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないかと言われている。このことは、後藤直系官僚から、岩永裕吉同盟通信社社長)、下村宏朝日新聞社副社長)、岡實大阪毎日新聞社会長)、正力松太郎読売新聞社社長)、前田多門(東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友杉山茂丸玄洋社における後輩緒方竹虎が朝日新聞社主筆として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことと相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないかとされている[17]。また、日本で左翼というと「反皇室」というイメージを抱かれがちであるが、下の鶴見和子鶴見良行の事例で見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、美智子皇后秋篠宮文仁親王をはじめとする皇族と太いパイプを持っている。

佐野学
獄中転向で有名な日本共産党中央委員長佐野学は、後藤新平の女婿佐野彪太の弟で、東京帝国大学法学部、大学院で学び、日本勧業銀行に勤めた後、後藤の伝手で満鉄東亜経済調査局嘱託社員となり、さらに早稲田大学商学部講師となった。佐野学は1922年7月に日本共産党(第一次共産党)に入党し、翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出された。そしてヨッフェ来日中の同年5月末、第一次共産党事件6月5日)による検挙を逃れてソ連に亡命したが、その際、後藤は、佐野学の亡命に関する情報をヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助した[18]。佐野学が第一次共産党事件の検挙を免れたことについては、当時から、後藤が援助したのではないかと、政友会が議会で第2次山本内閣内務大臣の後藤を追及していた[19]。佐野学は1925年7月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。1925年1月の日ソ基本条約調印によりソ連大使館が開設され、そこに商務官の肩書きで派遣されていたコミンテルン代表のカール・ヤンソンから活動資金を得て、『無産者新聞』の主筆を務めた。1926年3月、第一次共産党事件で禁錮10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄した佐野学は、1927年12月に共産党中央委員長に就任、労働運動出身の鍋山貞親とともに党を指導した。さらに佐野学は、1928年三・一五事件でも、その前日に日本を発って訪ソして一斉検挙を逃れ[20]、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席。後藤最後の訪ソ時にもモスクワにおり、その半年後にコミンテルン常任執行委員に選任された。この頃のことについて佐野学は、ヨッフェの「自殺のまへ、ヨッフェの困つてゐる最中に、ジノヴィエフは私をよびつけてヨッフェの滞日中の生活態度を根ほり葉ほり聞いた。私はヨッフェに同情してゐたので知らないの一点ばりをやつた」、またスターリンに面会し、「二七年テーゼプラウダに出してくれるやうに頼んだが、後藤新平が今モスコーに来てゐるから見合せておく」と言われたと回想している[21]。しかし後藤新平死去直後の1929年6月に中国・上海で検挙され、1932年10月に東京地方裁判所治安維持法違反により無期懲役の判決を受けた。翌1933年6月に鍋山貞親とともに共同転向声明を発表した佐野学は、1934年5月の東京控訴院判決で懲役15年に減刑されて控訴審判決が確定し、1943年10月に出獄した。
佐野碩
インターナショナル」の訳詞者の一人として知られる共産党系の演劇人、佐野碩は佐野彪太の長男で、後藤新平の初孫であるため可愛がられ、後藤は佐野碩のことを、「自分の孫がマルクス主義者として大正時代、女装して逃げ回っていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとても喜んでいた」と鶴見俊輔が証言している[22]。後藤新平の生前、稽古場として佐野碩らの左翼演劇活動の拠点となったのは、小石川駕籠町にある佐野彪太邸で、彪太は息子の活動に資金援助も行った[23]。しかし後藤新平が死去した翌1930年5月、佐野碩は「共産党シンパ事件」で治安維持法違反容疑により逮捕された。碩の父彪太と母静子(後藤新平の長女)は、まだ没して間もない後藤新平の息のかかった政界・検察関係者に裏工作を行い、「直接にも間接にも日本共産党を支持する行為あるいはこれに類する行動を一切しない」と誓約して、他の逮捕者とは別に、一人、起訴猶予で保釈された[24]。そして1931年6月からモスクワで始まる国際労働者演劇同盟(IATB)第1回拡大評議員総会への出席を求めるドイツ共産党員の演劇人千田是也からの手紙を機に、同年5月に出国し、以後、二度と日本に戻らなかった。
平野義太郎
講座派三太郎」の一人である平野義太郎は、後藤新平の岳父安場保和の孫娘で後藤にとっては義理の姪にあたる嘉智子の夫で、平野は後藤の「晩年屡々鍼灸する機会をもつた」と述べている[25]。平野は第一高等学校時代、後藤の女婿鶴見祐輔の弟で外交官となる鶴見憲鶴見良行の父)と同期で、弁論部に入り、鶴見憲と一緒に、鶴見祐輔が自宅で開いた「火曜会」に出席した。平野に嘉智子との結婚を勧めたのは鶴見憲だった[26]1921年3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年5月に同学部助手、1923年6月に同学部助教授となった平野は、1927年からフランクフルト大学社会研究所に留学し、ソ連に傾倒するヘンリク・グロスマンに師事した。しかし後藤新平が死去した翌1930年1月に帰国した平野は、佐野碩と同様に、同年5月の「共産党シンパ事件」で検挙され、7月に依願免官となった。平野は、鶴見祐輔の下で後藤新平の正伝『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年)編纂作業に参加し、鶴見祐輔の太平洋協会では企画部長、弘報部長などを務め、敗戦で同協会が解散する際には、元調査部長山田文雄と協会の資産を二分した[27]。これが、鶴見和子・俊輔姉弟らが雑誌『思想の科学』を刊行する機構的・財政的基盤となった[28]。平野は1958年、後に鶴見俊輔らが「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長に起用した、当時、共産党専従活動家の吉川勇一が結婚する際の仲人を務めている[29]
鶴見和子
後藤新平の女婿鶴見祐輔の長女である社会学者鶴見和子は、戦後、武田清子武谷三男都留重人、鶴見俊輔、丸山真男渡辺慧らが思想の科学研究会を結成する中心人物となり[30]、共産党に入党して1950年ごろまで党員だったが[31]、その後、親中派に転じた[32]。そして筋金入りの反米主義者で北朝鮮シンパの武者小路公秀を所長として上智大学に国際関係研究所が設立される際、武者小路の招きを受けて、1969年4月に成蹊大学文学部助教授から上智大学外国語学部教授・国際関係研究所員に転じ[33]1989年3月の定年までその職にあった。同年6月の天安門事件における中国共産党政府・人民解放軍民主化運動武力弾圧を西側諸国が強く非難し、日本政府も対中借款停止などの外交制裁を実施して日中関係が悪化すると、鶴見和子は同年8月末から9月にかけていち早く、江蘇省小城鎮研究会の招きで、宇野重昭石川照子とともに訪中している[34]。また1949年に新制東京大学の第1期生として入学した吉川勇一は、世田谷区成城の自宅に柳田國男が創設した「民俗学研究所」に通っていたが[35]、その柳田邸の真向かいに住んでいたのが鶴見祐輔・和子父子で、鶴見和子もしばしば柳田邸を訪ね、もてなしを受けていた[36]。なお、2007年7月28日新宿中村屋本店で催された鶴見和子の一周忌の集いには、美智子皇后も臨席した[37]。鶴見和子本人も生前、今上天皇と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた[38]。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している[39]。鶴見俊輔によれば、「美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して『宮中まで来てほしい』とお呼びになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演で慰安婦の問題を取り上げてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。姉が倒れて宇治の施設に入ったときも、『京都に行くから来てくれないか』と連絡が来た。当日は妹に託して、車椅子で姉を御所に上げました。天皇、皇后と姉と三人だけでお話をしたわけです。それだけ今上天皇、皇后は姉に共感をもっておられたんですね」とのことである[40]。「美智子皇后の相談役」として知られる精神科医神谷美恵子は、鶴見祐輔とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた後藤新平側近の一人として数えられる前田多門の長女であり、鶴見俊輔は「神谷美恵子は、聖者である」としている[41]。神谷美恵子の兄のフランス文学者前田陽一は、皇太子時代の今上天皇のフランス語の師匠であり、共産党前中央委員会議長不破哲三のフランス語の師匠でもあった[42]。そして、やはり「新渡戸四天王」の一人である田島道治は、戦後、第2代宮内府長官、初代宮内庁長官を歴任し、同じく新渡戸門下の後輩である三谷隆信侍従長とコンビを組んで宮中改革に尽力した。田島は宇佐美毅に宮内庁長官の座を譲ってからも宮中への影響力を行使し、東宮御教育常時参与の小泉信三とともに、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」とする香淳皇后らの反対を押し切って、美智子皇太子妃を実現するのに大きく貢献した[43]
鶴見俊輔
鶴見和子の弟である哲学者鶴見俊輔は、60年安保時には政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[44]ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成し、代表に作家の小田実を迎え、事務局長には共産党から除名処分を受けていた吉川勇一を据えて、自らもベ平連の中心的な人物となり、KGBの支援も得て[45]、活発な反米運動を展開した。その際、鶴見俊輔は、杉山茂丸の孫の杉山龍丸を「玄洋社国際部長」の肩書きでベ平連に取り込んだ[46]
鶴見良行
アジア学者・人類学者鶴見良行は、鶴見祐輔の弟の外交官鶴見憲の息子で、鶴見和子・俊輔姉弟の従弟である。日本の知的風土にある親ソ的傾向を是正して日米関係を改善するためにロックフェラー財団などが資金提供して設立された公益財団法人国際文化会館[47]の企画部長であるにも関わらず、鶴見良行がベ平連の「英語使い」[48]、「外務省」[49]として反米運動の有力活動家になったことに対し、左右両陣営から文化会館への批判が相次いだが、鶴見良行はベトナム戦争反対の世論をバックに突っ張った。これに窮した国際文化会館理事長の松本重治は、鶴見良行を企画部長から外して嘱託とする代わりに、満60歳になるまで机と手当を与えた[50]元老松方正義の孫である松本重治は高木八尺(松本重治の親戚)門下で、台湾総督府時代以来、後藤新平の子分だった新渡戸稲造の孫弟子であり、やはり松本の親戚で「新渡戸四天王」の後藤新平側近の一人である岩永裕吉の伝手で同盟通信社の前身である新聞聯合社に入社し、聯合・同盟の上海支局長を経て同盟通信社初代編集局長となり、敗戦時には同社常務理事を務めていた後藤系マスメディア人だった。秋篠宮文仁親王は鶴見良行のファンで鶴見良行に直接教えを受け、その強い影響を受けた[51]

フリーメイソンリーとの関係[編集]

文化人類学者の綾部恒雄によれば、後藤新平はフリーメイソンであった[52]。フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、1892年の第5回万国赤十字会議に日本赤十字社委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている[53]ボーイスカウト運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている[54]。後藤新平が重用した新渡戸稲造も、フリーメイソンであった可能性が高いとされている[55]

著作・講演録[編集]

  • 『海水功用論 附海濱療法』(1882年)
  • 『国家衛生原理』(1889年)
  • 『日本膨脹論』(1924年)
  • 『政治の倫理化』(1926年)
  • 「帝都復興と建築資料」 (東京放送局放送講演集 1923年)

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 『日本の有名一族』、177頁、179頁。
  2. ^ 『日本の有名一族』、179頁。
  3. ^ 『日本の有名一族』、178-179頁。
  4. ^ 劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)81-116頁、189-190頁、194-195頁。
  5. ^ 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)174-176頁。
  6. ^ 越沢明「東京の都市計画」(岩波新書、1991年、58~86頁)。越澤明「東京都市計画物語」(ちくま学芸文庫、2001年、44~64頁)。
  7. ^ 「無線放送に対する予が抱負」、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、1925年11月、1~7頁。
  8. ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。
  9. ^ 『官報』第5829号「授爵・叙任及辞令」1902年12月6日。
  10. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  11. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  12. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  13. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  14. ^ 筒井清忠「関東大震災と後藤新平・復興院の挫折」
  15. ^ 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、2011年、p.193。
  16. ^ 後藤新平は、その最後の訪ソで1928年1月7日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている(鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年、865頁)。
  17. ^ 駄場『後藤新平をめぐる権力構造の研究』261-266頁。
  18. ^ 駄場裕司「日本海軍の北樺太油田利権獲得工作」(海軍史研究会編『日本海軍史の研究』吉川弘文館、2014年)59-60頁。
  19. ^ 駄場『後藤新平をめぐる権力構造の研究』208-209頁。
  20. ^ 佐野学が2度の共産党一斉検挙をタイミングよく免れていることから、佐野学を後藤新平・公安警察が共産党に送り込んだスパイであるとする者もあるが、そう断定する証拠は示されていない(近現代史研究会編『実録 野坂参三 共産主義運動“スパイ秘史”』マルジュ社、1997年)。
  21. ^ 佐野学「共産主義指導者の回想」(佐野学著作集刊行会編・発行『佐野学著作集 第一巻』1957年)999-1000頁。
  22. ^ 鶴見俊輔「〈コメント〉祖父・後藤新平について」(『環』第21号、2005年4月)265頁。
  23. ^ 千田是也『もうひとつの新劇史――千田是也自伝』(筑摩書房、1975年)121-124頁、藤田富士男『ビバ!エル・テアトロ! 炎の演出家 佐野碩の生涯』(オリジン出版センター、1989年)70-75頁、岡村春彦『自由人佐野碩の生涯』(岩波書店、2009年)32-35頁、46-47頁、51頁。
  24. ^ 藤田『ビバ!エル・テアトロ!』117-118頁、岡村『自由人佐野碩の生涯』88-89頁。
  25. ^ 平野義太郎『民族政治学の理論』(日本評論社、1943年)81頁。
  26. ^ 鶴見憲「一高時代の平野君の思い出」(平野義太郎 人と学問編集委員会編『平野義太郎 人と学問』大月書店、1981年)20-22頁。
  27. ^ 陸井三郎「戦中・戦争直後の平野先生 一九四三-四六年」(『平野義太郎』)82頁、86頁。
  28. ^ 安田常雄「『思想の科学』・『芽』解題」(安田常雄・天野正子編『復刻版『思想の科学』・『芽』別巻 戦後「啓蒙」思想の遺したもの』久山社、1992年)215頁。
  29. ^ 新村猛「平野義太郎さんを偲ぶ」(『平野義太郎』)77頁。
  30. ^ 安田「『思想の科学』・『芽』解題」215頁、鶴見俊輔「思想の言葉 態度と知識――『思想の科学』小史」(『思想』2009年第5号)
  31. ^ 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004年)291-292頁。
  32. ^ 鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。
  33. ^ 「ゼミでしたこと 出会った人々――鶴見先生インタヴュー――」(『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅸ 環の巻――内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店、1999年)321-322頁。
  34. ^ 能澤壽彦作成・鶴見和子校閲「『鶴見和子研究』年譜」(『鶴見和子曼荼羅 Ⅸ』)410頁。
  35. ^ 吉川勇一公式サイト内「略歴」1949年
  36. ^ 能澤作成・鶴見校閲「『鶴見和子研究』年譜」374頁。
  37. ^ 内山章子「一周忌までのご報告」(『環』第31号、2007年11月)69頁。
  38. ^ 武者小路公秀・鶴見和子『複数の東洋/複数の西洋 世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)193頁。
  39. ^ 朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会
  40. ^ 鶴見俊輔・上坂冬子「“爽やか”だった大東亜戦争」(『Voice』2008年9月号)163頁。
  41. ^ 鶴見俊輔「神谷美恵子管見」(みすず書房編集部編『神谷美恵子の世界』みすず書房、2004年)86頁。
  42. ^ 不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。
  43. ^ 加藤恭子『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ、2002年)388-394頁。
  44. ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。
  45. ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.
  46. ^ 小田実ほか「呼びかけ」1965年4月15日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。ベ平連への批判的文献
  47. ^ 松本重治『聞書・わが心の自叙伝』(講談社、1992年)184頁。
  48. ^ 小田実「ヨシユキさん《a concerned citizen》」(『鶴見良行著作集月報』第10号、2002年6月)1-3頁。
  49. ^ 武藤一羊「仮説を生産するヴィジョナリー」(『鶴見良行著作集月報』第10号)4頁。
  50. ^ 加固寛子「〈解説〉人間・松本重治について」(『聞書・わが心の自叙伝』)215-216頁。
  51. ^ 江森敬治『秋篠宮さま』(毎日新聞社、1998年)27-34頁。
  52. ^ 綾部恒雄『秘密結社』(講談社、2010年)193頁。
  53. ^ 中田安彦「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」(副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房、2014年)243-246頁、274-275頁。
  54. ^ 中田「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」253頁。
  55. ^ 吉田祐二「日本初・国際“超”高級官僚としての新渡戸稲造」(副島+SNSI副島国家戦略研究所『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』)231頁。

参考文献[編集]

伝記[編集]

小説

研究書[編集]

その他[編集]

  • 季刊誌『環【歴史・環境・文明】』29号(2007年春)、特集「世界の後藤新平/後藤新平の世界」、藤原書店、2007年4月
  • 小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』(幻冬舎新書、2007年9月)ISBN 9784344980556

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
堀田正養
林董
日本の旗 逓信大臣
第18代:1908年7月14日 - 1911年8月30日
第20代:1912年12月21日 - 1913年2月30日
次代:
林董
元田肇
先代:
一木喜徳郎
水野錬太郎
日本の旗 内務大臣
第34代:1916年10月9日 - 1918年4月23日
第39代:1923年9月2日 - 1924年1月7日
次代:
水野錬太郎
水野錬太郎
先代:
本野一郎
日本の旗 外務大臣
第33代:1918年4月23日 - 同9月29日
次代:
内田康哉
先代:
山之内一次
(逓信省鉄道局長)
平井晴二郎
(帝国鉄道庁総裁)
日本の旗 内閣鉄道院総裁
初代:1908年12月5日 - 1911年8月30日
次代:
原敬
先代:
田尻稲次郎
日本の旗 東京市長
第7代:1920年12月17日 - 1923年4月27日
次代:
永田秀次郎
先代:
曽根静夫
日本の旗 台湾総督府民政局長・民政長官
第3代:1898年3月2日 - 1906年12月13日
次代:
祝辰巳
学職
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第3代:1919年8月2日 - 1929年4月13日
次代:
永田秀次郎
爵位
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後藤伯爵家
初代:1906年 - 1929年
次代:
後藤一蔵