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田健治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田 健治郎
でん けんじろう
逓信大臣時代の田健治郎
生年月日 1855年3月25日
安政2年2月8日
出生地 江戸幕府丹波国氷上郡下小倉村(現:兵庫県丹波市柏原町
没年月日 (1930-11-16) 1930年11月16日(75歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府荏原郡玉川村上野毛(現:東京都世田谷区
前職 鉄道会議幹事
関西鉄道社長
所属政党立憲政友会→)
茶話会
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
男爵
配偶者 先妻:田光子
後妻:田やす
子女 長男:田篤
二男:田誠華中鉄道副総裁)
親族 兄:田艇吉(衆議院議員)
孫:田英夫(参議院議員)
大日本帝国の旗 第30代 農商務大臣
内閣 第2次山本内閣
在任期間 1923年9月2日 - 1923年12月24日
大日本帝国の旗 第25代 司法大臣
内閣 第2次山本内閣
在任期間 1923年9月2日 - 1923年9月6日
第8代 台湾総督
在任期間 1919年10月29日 - 1923年9月6日
大日本帝国の旗 第24代 逓信大臣
内閣 寺内内閣
在任期間 1916年10月9日 - 1918年9月29日
在任期間 1926年5月10日 - 1930年11月16日
その他の職歴
大日本帝国の旗 貴族院勅選議員
1906年1月7日 - 1926年5月15日[1]
大日本帝国の旗 衆議院議員
1901年8月12日 - 1902年12月28日
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田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日安政2年2月8日〉- 1930年昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚政治家華族男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員貴族院議員(勅選)逓信大臣司法大臣農商務大臣台湾総督枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。

来歴

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丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。

1874年明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。この任期中に地租改正に反対する伊勢暴動が発生。健治郎は暴動の鎮圧で功績を上げることとなった[2]。 次いで高知県神奈川県埼玉県部長など地方の警察畑を歩み、立身していった。1890年(明治23年)、時の逓信大臣後藤象二郎に見いだされ中央官界への道をつかみ、警保局官吏から逓信省に入省し、局長・逓信次官・鉄道会議幹事(後に同議員に転じる)を務める。一時期、官を辞めて関西鉄道社長を務めた。1900年(明治33年)5月9日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[3]1901年(明治34年)、兵庫県第3区選出・植木致一の辞職に伴う補欠選挙伊藤博文の勧めで立憲政友会から出馬し衆議院議員に当選[4]。次の第7回総選挙でも当選し、衆議院議員を1期半務める。

1901年(明治34年)、政友会が第1次桂内閣を巡って二分された際に幹部を批判したとして政友会を除名された。その後、伊藤の執り成しで復党したものの、伊藤の政友会総裁辞任後に離党、衆議院議員の辞任後に三度逓信省に復帰して再度次官を務めた。1906年(明治39年)の退官後の1月7日、貴族院勅選議員に勅任され[5]茶話会に所属、翌年には男爵に叙せられると伊藤とも距離を置き始める。その後、平田東助清浦奎吾大浦兼武らと共に元老山縣有朋系の官僚政治家として活動する。

シーメンス事件後の第1次山本内閣倒閣の中心人物のひとりとなって古巣の立憲政友会と激しく対立した。しかし次の第2次大隈内閣以後、政友会との関係を改善して原敬と山縣有朋の仲介役となる。同内閣崩壊後には寺内内閣の発足に尽力して逓信大臣に就任、シベリア出兵を求める意見書を提出した[6]1919年大正8年)、文官として初めて台湾総督となったが、これは総督の軍人専任を改めようとする原敬とそれに反対する山縣有朋との一種の妥協とも言われている。また原としても、山県系の政治家である田を厚遇しつつ国内政治から離脱させる政治的にも意味のある人事だった。総督時代には台湾における法制整備と文民統治の定着に尽力した。内地延長主義を主張し、「内台一体」という方針の下に、内台の差別をなくす融合政策を行った。ところが原敬が暗殺されると、元政友会総裁で元老の西園寺公望は急遽後継総裁に立てた高橋是清に不安を覚え、田に政友会に復帰して横田千之助を総裁にするまでの中継ぎの総裁に就任することを要請したが、山縣との関係もあり辞退したと言われている(結果的には横田の急死もあって高橋が長期にわたって政友会総裁を務めることになった)。

1923年(大正12年)の関東大震災直後に成立した第2次山本内閣農商務大臣として入閣する。後藤新平内務大臣とは反目しつつも共に震災復興計画を策定するが、政友会の反対で骨抜きにされてしまう。さらに第47回帝国議会で火保法案が審議未了で不成立となったのを受け、主任大臣としての責任をとり辞任した。1926年(大正15年)以後は枢密顧問官を務める[7]

1930年(昭和5年)、東京府荏原郡玉川村(現:東京都世田谷区上野毛の自宅・万象閣で倒れ、脳出血から肺炎を併発して死去。墓所は多磨霊園にある[8]

貴族院議員勅任から最晩年までの政治活動を綴った『田健治郎日記』は近代政治史上貴重な史料となっている。

栄典

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晩年の田健治郎
位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1892年(明治25年)6月29日 勲六等瑞宝章[9][18]
1893年(明治26年)12月28日 勲五等瑞宝章[9][19]
1895年(明治28年)6月21日 勲四等瑞宝章[9][20]
1895年(明治28年)10月31日 勲三等旭日中綬章[9][21]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[9]
1906年(明治39年)4月1日 勲二等旭日重光章[22]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[9][23]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[9][24]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[9][25]
1919年(大正8年)12月25日 勲一等瑞宝章[9][26]
1920年(大正9年)11月1日 旭日大綬章[9][27]
1920年(大正9年)11月2日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[28]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[29]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[9]
1930年(昭和5年)11月16日 旭日桐花大綬章[9][30] (没後叙勲)
1930年(昭和5年)11月16日 帝都復興記念章[9][31] (没後叙勲)
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1894年(明治27年)4月12日 フランス第三共和政 フランス共和国 レジオンドヌール勲章オフィシェ[9][32]
1897年(明治30年)1月20日 デンマーク デンマーク王国 ダネブロク勲章コマンドールドラスコンドクラス[9][33]
1897年(明治30年)5月28日 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 鉄冠第二等勲章英語版[9][34]
1897年(明治30年)8月26日 オスマン帝国の旗 オスマン帝国 メジジェ第二等勲章英語版[9][35]
1898年(明治31年)4月16日 ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 レトワールドルーマニー勲章英語版コマンドール[9][36]
賞杯等

著作

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  • 尚友倶楽部広瀬順晧編『田健治郎日記 1(明治39年-43年)』芙蓉書房出版、2008年12月。ISBN 978-4829504376 
  • 尚友倶楽部・桜井良樹編『田健治郎日記 2(明治44年-大正3年)』芙蓉書房出版、2009年9月。ISBN 978-4829504574 
  • 尚友倶楽部・内藤一成編『田健治郎日記 3(大正4年-大正6年)』芙蓉書房出版、2012年12月。 
    • ※全7巻で、2018年3月に最終巻(-昭和五年、書簡、人名索引)が刊行完結。

親族

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出典

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  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、36頁。
  2. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、333頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ 『官報』第5054号「叙任及辞令」1900年5月11日。
  4. ^ 『官報』第5451号「帝国議会」1901年9月2日。
  5. ^ 『官報』第6754号「帝国議会」1906年1月8日。
  6. ^ 「シベリア出兵」中公新書、麻田雅文、p19
  7. ^ 『官報』第4112号「叙任及辞令」1926年5月11日。
  8. ^ 田 健治郎”. www6.plala.or.jp. 2024年12月3日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 田健治郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051177500 
  10. ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
  11. ^ 『官報』第2534号「叙任及辞令」1891年12月9日。
  12. ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1892年12月13日。
  13. ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
  14. ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
  15. ^ 『官報』第3085号「叙任及辞令」1922年11月11日。
  16. ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1930年4月4日。
  17. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  18. ^ 『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。
  19. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  20. ^ 『官報』第3593号「叙任及辞令」1895年6月22日。
  21. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  22. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  23. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  24. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  25. ^ 『官報』第1311号・付録「辞令」1916年12月14日。
  26. ^ 『官報』第2220号「叙任及辞令」1919年12月26日。
  27. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  28. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1924年8月13日。
  29. ^ 『官報』第2860号・付録「辞令」1922年2月16日。
  30. ^ 『官報』第1167号「叙任及辞令」1930年11月18日。
  31. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  32. ^ 『官報』第3234号「叙任及辞令」1894年4月14日。
  33. ^ 『官報』第4076号「叙任及辞令」1897年2月4日。
  34. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  35. ^ 『官報』第4250号「叙任及辞令」1897年8月31日。
  36. ^ 『官報』第4440号「叙任及辞令」1898年4月22日。
  37. ^ 『官報』第1681号「彙報 - 褒賞」1918年3月13日。
  38. ^ 『官報』第1599号「叙任及辞令」1917年11月30日。
  39. ^ 『官報』第1896号「彙報 - 褒賞」1918年11月28日。
  40. ^ 『官報』第1982号「叙任及辞令」1919年3月14日。
  41. ^ 『官報』第3413号「宮廷録事 - 恩賜」1924年1月11日。
  42. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下巻、127-128頁。
  43. ^ a b 譲山田健治郎君年譜田健治郎伝、田健治郎伝記編纂会、1932
  44. ^ 東京帝国大学名誉教授重野先生碑銘碑(谷中霊園

参考文献

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  • 田健治郎伝記編纂会編『田健治郎伝』田健治郎伝記編纂会、1932年。 
  • 田健治郎伝記編纂会編『田健治郎伝』大空社〈伝記叢書47〉、1988年10月。 1932年刊の復刻
  • 下風憲治編『ダットサンの忘れえぬ七人 設立と発展に関わった男たち』三樹書房、2010年3月。ISBN 978-4895225458 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 衆議院参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年

関連項目

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  • 五島美術館 - 田の邸宅跡に建った美術館、旧宅の一部は茶室として現在も残る。
  • ダットサン - DATのDは田健治郎の頭文字から取られた。

外部リンク

[編集]
公職
先代
荒井賢太郎
大日本帝国の旗 農商務大臣
第30代:1923年9月2日 - 同12月24日
次代
岡野敬次郎(兼任)
先代
岡野敬次郎
大日本帝国の旗 司法大臣(兼任)
第25代:1923年9月2日 - 同9月6日
次代
平沼騏一郎
先代
箕浦勝人
大日本帝国の旗 逓信大臣
第24代:1916年10月9日 - 1918年9月29日
次代
野田卯太郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
田(健治郎)家初代
1907年 - 1930年
次代
田篤