ロシア革命

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ロシア革命
Russian Revolution of 1917.jpg
赤の広場を行進するボリシェヴィキ軍
場所ロシア
結果

ボリシェヴィキの勝利。ソヴィエト連邦の成立

ロシア革命(ロシアかくめい, : Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ, : Russian Revolution)とは、1917年ロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年ロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。

二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。

経緯[編集]

前史[編集]

1905年、血の日曜日事件によって始まったロシア第一革命は、1907年6月にストルイピン首相のクーデタで終息した。労働運動や革命運動は一時的に停滞し、革命家は西ヨーロッパへと逃れた。

ストライキ件数[1]
年次 ストライキ件数 参加労働者数
絶対数 /全工場数(%) 絶対数 /全労働者(%)
1905 13,995 93.2 2,863,173 163.6
1906 6,114 42.2 1,108,406 65.6
1907 3,573 23.8 740,074 41.9
1908 892 5.9 176,101 9.7
1909 340 2.3 64,166 3.5
1910 222 1.4 46,623 2.4
1911 466 2.8 105,110 5.1
1912 2,032 11.7 725,491 33.7
1913 2,404 13.4 887,096 38.3
1914 3,534 25.2 1,337,458 68.2
1915 928 7.3 539,528 28.1
1916 1,410 11.3 1,086,364 51.9

1912年4月、バイカル湖北方のレナ金鉱でストライキ中の労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者が出た(レナ金鉱事件)。全国に抗議ストが広がり、労働運動は再活性化へと向かった。ストライキは1914年には第一革命期に匹敵するレベルに達した。第一次世界大戦が勃発すると愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん脇に押しやられたが、戦争が生活条件の悪化をもたらすと労働運動は復活した。1915年6月にコストロマー、8月にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクで労働者が警官と軍隊に射殺される事件が起き、抗議のストを呼び起こした[2]

自由主義者は1915年に国会でカデットを中心として「進歩ブロック」をつくり、戦勝をもたらしうる「信任内閣」の実現をめざして政府批判を強めた。自由主義陣営内の急進派は労働者代表も含む工業動員のための組織として戦時工業委員会を主要都市に設立した[3]

1916年6月、政府は従来兵役を免除してきた中央アジア諸民族やザカフカーズの回教徒住民を後方勤務に動員することを発表した。中央アジア、カザフスタンの住民は7月に反乱を起こした。10月にはペトログラードの労働者がストライキを行い、軍隊の一部も加わった[4]

11月、進歩ブロックのミリュコーフは国会において政府の行為をひとつひとつ挙げて「愚行なのか、それとも裏切りなのか」と非難する演説を行った。支配層の動揺も激しくなり、12月には皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた僧侶ラスプーチンが皇族や貴族のグループによって暗殺された[5]

1917年1月、中央戦時工業委員会労働者グループは「国の完全な民主化」「人民に依拠する臨時政府」をスローガンとして掲げて国会デモを呼びかけた。政府は労働者グループのメンバーや協力者を逮捕し、中央戦時工業委員会は抗議声明を発表した[6]

二月革命の勃発と二重権力の成立[編集]

1917年2月、抗議デモ
1917年のペトログラード・ソヴィエト会議

1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた[7]。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた[8]。一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。

3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。

ドゥーマ臨時委員会は3月2日、リヴォフを首相とする臨時政府を設立した(第一次臨時政府)。この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、そのほかはカデットやオクチャブリストなどからなる自由主義者中心の内閣であった。臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日にこれを拒否し、帝位につくものが誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊した[9]

ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

四月危機[編集]

臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した[10]。この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた[11]

ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表した[12]。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」[12]

ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた[13]ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した[13]。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」と解説した[13]

この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は辞任を余儀なくされた[14]。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった[9]

レーニンの「四月テーゼ」[編集]

ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。

3月12日に中央委員のカーメネフスターリンが流刑地からペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した[15]。機関紙『プラウダ』には「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」などといった論説が掲載された[15]

これに対し、4月3日に亡命地から帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題したテーゼ(四月テーゼ)を発表して政策転換を訴えた。その内容は、臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、「祖国防衛」を拒否すること、全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった[9]

「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった[16]

攻勢の失敗と七月蜂起[編集]

七月蜂起(1917)。ユリウス暦7月4日のペトログラード

第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、前線において大攻勢を仕掛けた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。

攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに武装デモが始まった。

しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。

7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。

デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。デモが失敗に終わると一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。

レーニンは、この七月蜂起により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起による権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会でレーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。

コルニーロフの反乱[編集]

第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、同月24日にケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。この連立内閣は社会革命党とメンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、社会主義者が主導権を握る構成となった[17]。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣とほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、七月蜂起後の弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなった。

7月18日に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフは、二月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し、「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、両者は対立することになった。

8月24日、コルニーロフはクルイモフ将軍に対し、ペトログラードへ進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。

カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。

ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱ロシア語版英語版は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日に逮捕された[18]

カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府は結局はカデットも含むものになった。

十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立[編集]

防護巡洋艦アヴローラ
十月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献したとされる。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈または鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクネヴァ川に保存されている。

ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。

一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した[19]。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた[19]。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。

前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した[20]。その後、26日未明に冬宮を占領し、ケレンスキー以外の閣僚を逮捕した[21]。ケレンスキーは臨時政府に忠実な部隊を探すために冬宮から脱出して前線へ向かっていた。

蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。この大会においては社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席していたため、残った社会革命党中央派・左派に対してボリシェヴィキは多数派を占めていた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。

冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でも社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。

モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。

ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。

憲法制定議会の解散[編集]

二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった[22]

レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。

翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。

ブレスト=リトフスク条約[編集]

全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した「平和についての布告」はフランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。

この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ、ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。

最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、ロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約に調印した。このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランドエストニアラトヴィアリトアニアポーランドウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。

左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した[23]

内戦[編集]

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こし[24]、これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵した(シベリア出兵)。イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会Комуч、コムーチ)をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。こうした反革命軍は、総称して白軍と呼ばれたが、緑軍のようにボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も存在した。白軍の有力な将帥としては、アントーン・デニーキンアレクサンドル・コルチャークグリゴリー・セミョーノフなどが知られる。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍を創設して戦った。

この内戦を戦い抜くため、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策を取った。これはあらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除くすべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などからなっていた。この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わり、ロシア経済は壊滅的な打撃を受けた。農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こした。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになった。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んでいた[25]

この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めた。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。革命直後に創設されていた秘密警察のチェーカーは裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。1918年8月30日には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こし、これをきっかけに政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。一方、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。

一時期白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配下においたものの、内紛などによって急速に勢力を失っていき、次々とソヴィエト政府側によって鎮圧されていった。デニーキンの敗残兵をまとめ上げ、白軍で最後まで残ってクリミア半島に立てこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ将軍率いるロシア軍も、1920年11月のペレコープ=チョーンガル作戦で破れて制圧され[26]、内戦はこれをもって収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年に撤退した。また、この内戦の過程において、白軍に参加した、あるいは赤軍やソヴィエトに反対した人々が国外に大量に亡命し、こうした亡命者は白系ロシア人と呼ばれるようになった。

内戦が終わっても戦時共産主義体制はしばらく継続しており、これに反発して起きる反乱もやむことがなかった。1921年には軍港都市クロンシュタットで海軍兵士によるクロンシュタットの反乱が起き、ボリシェヴィキによって鎮圧されたものの、同年3月21日に経済統制をやや緩めたネップ(新経済政策)が採択され、軌道修正が図られるようになった。このネップ体制下で、農業・工業生産は回復にむかった。

最初の憲法[編集]

1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第5回全ロシア・ソヴィエト大会は最初のソヴィエト憲法を採択した。憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。

この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国ウクライナ社会主義ソビエト共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。

定義と影響[編集]

ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命は逆にボリシェヴィキが徹頭徹尾主導権を握って自力で起こしたものであり、革命というよりはむしろクーデターというべき性格のものだった。

ともあれ十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルンもヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。

文献案内[編集]

まず、日本語で読めるロシア革命の当事者による著作として、二月革命後に臨時政府の閣僚となったアレクサンドル・ケレンスキーの『ケレンスキー回顧録』[27]、帝政派国会議員シューリギンの『革命の日の記録』[28]、十月の武装蜂起を指導したトロツキーの『ロシア革命史』[29]、アナーキストのヴォーリンによる『1917年・裏切られた革命』[30]、十月革命後に司法人民委員となった左翼エスエルのスタインベルグによる『左翼エスエル戦闘史』[31]がある。

菊地昌典編『ロシア革命』[32]は革命当時の声明や回想を含む。『ロシヤ社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全ロシヤ協議会議事録』[33]は四月テーゼをめぐるボリシェヴィキの党内討論の議事録、加藤一郎編『ナロードの革命党史』[34]は左翼エスエルの決議や声明を収録している。

ジャーナリストによる記録としてはジョン・リード『世界をゆるがした十日間[35]が最も有名なものである。基本的にはボリシェヴィキの観点から書かれており、レーニンが序文を書いている。

E.H.カーの『ボリシェヴィキ革命』[36]は西欧のロシア革命研究において古典としての位置を占める。日本の研究では、二月革命に関しては江口朴郎編『ロシア革命の研究』に収められている和田春樹の論文「二月革命」[37]、十月革命に関しては長尾久の論文『ロシヤ十月革命の研究』[38]が最も詳しい。そのほかの文献については菊地昌典編『ソビエト史研究入門』[39]や望田幸男・野村達朗ほか編『西洋近現代史研究入門』[40]で知ることができる。

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 辻 1981, p.89
  2. ^ 和田 1968,p.328
  3. ^ 和田 1968,pp.329-330
  4. ^ 長尾 1972,p.49
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  6. ^ 長尾 1972,p.51
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  21. ^ 田中他 1997, p. 47.
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  40. ^ 藤本他 2006.

参考文献[編集]

  • Abraham Ascher, The Revolution of 1905: a short history. Stanford University Press.2004
  • ロバート・サーヴィス著・中嶋毅訳『ロシア革命 1900-1927』(ヨーロッパ史入門)岩波書店、2005年6月28日。
  • 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』 河出書房新社、2010年ISBN 9784309761435
  • 黒川祐次 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)ISBN 4-121-01655-6
  • 田中陽児倉持俊一和田春樹編 『世界歴史体系 ロシア史3』 山川出版社、1997年
  • 長尾久 『ロシヤ十月革命』 亜紀書房、1972年
  • 長尾久 『ロシヤ十月革命の研究』 社会思想社、1973年
  • 辻義昌 『ロシア革命と労使関係の展開』 御茶の水書房、1981年
  • 藤本和貴夫松原広志編 『ロシア近現代史 ピョートル大帝から現代まで』 ミネルヴァ書房1999年ISBN 9784623027477
  • アレクサンドル・ケレンスキー 『ケレンスキー回顧録』 恒文社、1977年ISBN 4770401353
  • シューリギン 『革命の日の記録』 河出書房、1956年
  • トロツキー 『ロシア革命史(全五巻)』 岩波書店、2000年
  • ヴォーリン 『1917年・裏切られた革命』 林書店、1968年
  • スタインベルグ 『左翼エスエル戦闘史』 鹿砦社、1970年
  • 議事録翻訳委員会訳 『ロシヤ社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全ロシヤ協議会議事録』 十月書房、1978年
  • 加藤一郎編 『ナロードの革命党史』 鹿砦社、1975年
  • 菊地昌典編 『ロシア革命』 筑摩書房、1971年
  • ジョン・リード 『世界をゆるがした十日間(上・下)』 岩波書店、1957年
  • E.H.カー 『ボリシェヴィキ革命(全三巻)』 みすず書房、1967-1971。
  • 望田幸男・藤本和貴夫・若尾祐司・野村達朗・川北稔・若尾裕司・阿河雄二郎編 『西洋近現代史研究入門(第3版)』 名古屋大学出版会、2006年
  • 菊地昌典編 『ソビエト史研究入門』 東京大学出版会、1976年
  • 和田春樹、1968、「二月革命」、江口朴郎(編)『ロシア革命の研究』、中央公論社