レーニン主義

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レーニン主義(レーニンしゅぎ、ロシア語: ленинизм)は、マルクス主義の系譜に属する思想で、ウラジーミル・レーニンの思想を受け継いだものである。

レーニンの思想[編集]

レーニンは、弾圧でバラバラになっていたロシア社会民主労働党を再建するための方策として、1902年に出版された『なにをなすべきか?』において全国的政治新聞の構想を提示した。同時に専制打倒のための政治闘争より労働運動に注力しようとする傾向を経済主義と呼んで批判した。

1905年にロシア第一革命が勃発すると「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを提示した(『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』)。当面の革命をブルジョア民主主義革命と規定しつつ、それを遂行するのはブルジョアジーではなくプロレタリアートと農民だと主張した。

1907年に執筆された『1905-1907年の第一次ロシア革命における社会民主党の農業綱領』では、全ての土地の国有化を党の新しい農業綱領として提示した。また、ロシアの農業の資本主義化は農民主導のアメリカ型と地主主導のプロシア型という二つの道がありうるとした。

当時ドイツ・オーストリア・ロシアの三カ国に分割されていたポーランドの独立に関連し、民族自決が問題になると、抑圧民族の社会民主主義者は被抑圧民族が独立国家を形成する権利(民族自決権)を認めなければならない、という見解を示した(『民族自決権について』)。

第一次世界大戦については帝国主義戦争と規定し、それを内乱へと転化すべきことを主張した。また第二インターナショナルの加盟政党がそれぞれ「自国」政府の戦争を支持したことを激しく非難し、それらと決別して第三インターナショナルを創設することを呼びかけた(『社会主義と戦争』)。

帝国主義論』では、19世紀末以降に成立した帝国主義を金融資本の支配に基づく資本主義の新たな段階、そして帝国主義戦争を必然化することによって社会主義への移行を準備する資本主義の最後の段階として捉えた。

ロシアで二月革命が起こると、そこで成立した臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートと農民の権力と捉え、四月テーゼにおいて前者から後者へと全面的に権力を移行すべきことを主張した。

国家と革命』は、マルクス・エンゲルスの暴力革命論を復活させた。社会主義革命においては既存の国家機構は破壊されなければならず、それに代わるコミューン型国家も共産主義の実現とともに死滅するものとされた。

プロレタリア革命と背教者カウツキー』では、「プロレタリアートの革命的独裁は、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの暴力によってたたかいとられ維持される権力であり、どんな法律にも拘束されない権力である」という認識を示すとともに、ロシア革命において成立したソヴィエトをブルジョア民主主義より高度な民主主義を体現していると主張した。

スターリン主義[編集]

レーニンの死後、ボリシェヴィキの指導者となったスターリンはレーニンを神格化し、その思想をマルクス・レーニン主義として体系化していった。その際、ロシア単独で社会主義の建設が可能だとする一国社会主義論を提唱して世界革命を否定したり、共産主義社会に近づけば近づくほど階級闘争が激しくなるので国家権力を強化しなければならない、と主張して国家死滅論を否定したりするなど、従来のマルクス主義を大幅に修正した。その点を批判者たちはスターリン主義と呼んだ。

トロツキー主義[編集]

トロツキーはスターリンによるマルクス主義の修正を厳しく批判し、自分たちこそ真のレーニン主義者だという立場で「ボリシェヴィキ・レーニン主義者」と称した。また各国のトロツキスト組織も、「ボリシェヴィキ・レーニン主義者」を名乗った。

脚注[編集]