和田春樹

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和田春樹
人物情報
生誕 (1938-01-13) 1938年1月13日(79歳)
日本の旗 大阪府
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学文学部
配偶者 和田あき子
子供 和田真保
学問
研究分野 ロシア史ソ連史朝鮮史
主な受賞歴 第4回後広金大中学術賞(2010年)
公式サイト
和田春樹のホームページ
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和田 春樹 (わだ はるき、1938年昭和13年)1月13日 - )は、日本歴史学者社会科学研究家、市民運動家である。萩原遼によると、もともとの学術上の専攻はロシア史[1]朝鮮史関連の著作もあるが、朝鮮史研究者からは批判的な見解がある(後述)。東京大学名誉教授

人物[編集]

大阪府生まれ。静岡県立清水東高等学校卒業。父の和田捷雄は歴史の教師で清水東高等学校の校長代理をつとめた[2]東京大学文学部卒業。ドイツ語クラスの同級生に古井由吉加藤祐三がいた[3]

大学入学から、退官まで、約50年間に渡って東京大学においてのみ過ごした。1968年、キング牧師が暗殺されたことをきっかけに、妻和田あき子と共に、地元・大泉学園でベトナム戦争反対の市民運動を始める[4]

研究分野は多岐にわたるが、ロシアソ連朝鮮半島の近現代史及び、それらの地域と日本の関係にまつわるものが多い。左翼運動・市民運動などの実践活動でも知られる。2010年に韓国の全南大学から「第4回後広金大中学術賞」を授けられる。

秦郁彦によると、日本共産党シンパから全共闘シンパへと移った経歴があり[5]、秦は1998年10月30日のアジア女性基金の資料委員会で和田に対し「和田さんの忠誠心の対象は何度も変わったというのが、世間のイメージだと思うが」と発言[6]し、アジア女性基金のパンフレットは和田を「韓国民主化運動支援、金大中氏救命運動、朝鮮植民地支配反省国会決議を求める運動など、様々な市民運動に尽力してきた」と持ち上げているが、「これほど転変は激し(い)」「30数年に及ぶ東大社研の研究者兼運動家生活」と評しており[7]、その「手がかりとして、ここ10年ばかり和田氏が世に問うた言行のなかから参考になるものを抜きだし、別表にかかげた(和田春樹#注目された発言)」として、「目立つのは関心ないし思い入れの対象がソ連、北朝鮮、韓国民主派とくるくる移っている」「日本を標的とした革命幻想が破れてしまったせいだろうが、挫折することなく次々に運動目標を探しだす執念には脱帽するほかない」「慰安婦問題に首をつっこむのがおくれたのは、10Bのように最初は運動にできると思っていなかったかららしいが、『ありがたいクマラスワミ報告』(10C)も出たし、有望と見てはせ参じる」「最初は国家補償派だったが、女性基金が誕生すると鞍替えする。ところが、韓国政府や挺対協がお金配りはやめてくれと言いだすや、見切りをつけて、国家補償派へ舞い戻ろう(11A)と模索中」「彼のこうしたカメレオン的変針ぶりを、いつも片思いの『ドン・キホーテ』にすぎないと軽く見る人もいれば、『人面○心』と切って捨てる人もいる。○の初出は『ソ』だが、現在は『金』とはめこむのが適切」と述べている[8]

研究[編集]

民衆側の共産主義[編集]

日本における共産主義研究は、本家であるソ連における共産主義研究の影響のもと、ソビエト連邦共産党の支配確立の歴史をなぞるか、トロツキースターリンに対置する程度がせいぜいであった。[要出典]和田による研究対象は、1905年の『血の日曜日事件』で知られるゲオルギー・ガポン、革命家のネストル・マフノによる農民アナキズム運動ナロードニキマルクスエンゲルスとあいだの政治的偏差などを含んだ。

ソ連崩壊と共産主義の瓦解[編集]

塩川伸明によると、和田は1980年代、ソ連におけるペレストロイカに共感を表明した。1990年代になって「急進改革派」が登場し、社会主義体制への批判を強めるようになると、和田はそれを強く支持した。一方で、急進改革派が持っていた負の側面については、言及を避けていた。ロシア近現代史研究の後輩である塩川や下斗米伸夫からは、かつての「進歩的知識人」の誤りを繰り返すものだとして批判された[9]また塩川は、和田がソ連・東欧社会主義の崩壊を、一貫して「国家社会主義の崩壊」と規定していることに対して、その用語の曖昧さとともに、国家社会主義でない社会主義という存在の検討がなされていないことについても批判した[要出典]

韓国・北朝鮮[編集]

北朝鮮を『遊撃隊国家』と規定している。秦郁彦は和田に対し「あなたも著書や論文で10年1日のように、くり返し北朝鮮は遊撃隊国家なりと唱えている。もう聞きあきた」と主張した[10]

朝鮮日報』が発行している『月刊朝鮮』2014年4月号の「小中高図書館の蔵書分析」記事は、韓国の図書館には左派系執筆者の図書が多くあり、代表的な事例として和田の『金日成と満州抗日戦争』を取り上げている。同書は「普天堡が金日成の代表的な抗日闘争」とするが、「実際は小規模な突撃隊が『派出所を襲撃した』にすぎず、北朝鮮によって『過大宣伝されているというのが定説』なのだが、これを韓国で『良心的知性』と呼ばれる和田氏が取り上げたことで権威付けされた。」という。同書は多くの図書館にあるわけではないが、「普天堡が代表的な抗日闘争」と記述する教科書が出現する以前から同書が図書館に存在していたことを問題視している[11]

朝鮮戦争[編集]

朝鮮戦争は南侵(北朝鮮による韓国侵略)か北侵(韓国による北朝鮮侵略)なのかについては、「あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった」と述べている[12]。和田は朝鮮戦争について、「民族的課題である統一国家の実現は『領土完整』の課題とされ、武力統一しかないとの意識が南北双方に生まれていたと考えられる」「アメリカの側が、この動きの全体をどこまでつかんでいたかは定かではないが、1949年秋から50年4月にかけて国家安全保障会議は『NSC68』なる秘密政策文書を作成した。これは、世界のいたるところで『ソビエト勢力の一層の膨張をブロックし』、『クレムリンの支配と影響力の収縮を促し』、『ソビエト・システム内部の破壊の種子を育てる』という『巻き返し』の要素を含む『封じ込め』政策を定式化したものであった。あらゆる民族主義革命も共産主義者に率いられるかぎりは、すべてソ連の勢力膨張と認められ、アメリカの反撃が必至とされた」「北の従軍作家金史良洛東江辺の高地の陣中で、『海が見える。あれが南海だ』と書いている。このとき人々は、国土統一の間近い成就を確信していた」「こうして内戦として始まった朝鮮戦争は、まずアメリカの介入によって国際化されたが、これは北朝鮮とソ連には予想外の展開であった」「アメリカは、その輝かしい戦史に恥辱のページを初めて加えた。しかし、いささかの反省もなく、『NSC68』は、この戦争を通じてアメリカ政府の世界政策を導く正式文書となった」「結局、武力統一はどちらの側からも失敗」「日本は朝鮮の悲劇から利益を引き出して、戦前の経済水準への復活をはたし、昭和30年から高度経済成長の基礎をつくった」と述べている[13]。和田は、朝鮮戦争を「内戦から始まり、中国・日本・米国・ソ連 などが参戦することによって国際戦へ拡大した戦争」「韓国戦争が勃発したのは解放後の韓半島で理念的に異なった南北の韓国分断政府が樹立されたことにともなう必然的な結果」「国連軍の参戦で韓国軍と米軍が38線を越えて進撃することで南北双方1回ずつ武力統一を試みた戦争」「当時韓国の李承晩政府も『武力による北進統一論』を積極的に進めた」と主張しており[14]、『京郷新聞』は「韓国戦争は南北すべての内部矛盾を解決するための避けられない選択」というブルース・カミングスに代表される「修正主義と似た見解」と評している[14]

和田のことを韓国メディアは「日本の良心」として紹介しているが、同国の保守派から「日本版ブルース・カミングス(일본 버전(version)의 브루스 커밍스 )」「朝鮮戦争を内戦と主張、姜禎求の主張と酷似(6.25전쟁은 “內戰”, 강정구와 동일한 역사인식)」と批判されている。それによると、和田の朝鮮戦争研究は、李鍾ソク国家安全保障会議事務次長、徐東晩韓国語版大韓民国国家情報院室長など韓国の左派系歴史学者に影響を与えたが、和田は朝鮮戦争を修正主義史観から解釈して「朝鮮戦争は、南北両方の内部矛盾を解決するための避けられない選択」であり、「北朝鮮の計画された先制攻撃で開始された『内戦』からはじまり、中国-日本-アメリカ-ソ連などが参戦することで、『国際戦』に拡大された戦争」と主張しており、極左歴史学者の姜禎求2005年に、「6・25は北朝鮮が試みた統一戦争[15]」「韓国戦争は北朝鮮指導層が試みた統一戦争で、内戦[16]」 「韓国戦争は統一戦争[17]」「6.25戦争は内戦で、北朝鮮指導部が試みた統一戦争[18]」と主張して、2005年12月に国家保安法違反容疑で在宅起訴され、懲役2年、執行猶予3年、資格停止2年の有罪判決を受けた[17]東国大学教授)と非常に酷似しているという。さらに問題なのは、朝鮮戦争後、国連軍の参戦で韓国軍とアメリカ軍が38度線を越えたことを「南北すべて1回ずつ武力統一をしようとした」と北朝鮮の侵略を相対化しており、「とんでもない結論」と批判されている[19]

和田と高崎宗司の編著『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店、2003年)で、和田は自著の『金日成と満州抗日戦争』は売れなかったが、萩原遼の『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋、1993年)は「金日成をはげしく攻撃しており、そういうものとして多くの読者をつかんだ」と腐しているが、萩原は「金日成を激しく攻撃したから売れたかのような書き方である。根本的な誤りである」として、和田の『朝鮮戦争』(岩波書店、1995年)は『金日成と満州抗日戦争』より売れず、さらに発行後3年で絶版となったが、岩波書店のような宣伝力のある出版社で売れないのは、著者に責任の大半があり、端的に言って中身がないからであり、金日成を攻撃しなかったから売れなかったのではなく買うに値しないからであり、中身のなさは、研究者の大切な要素である一次資料に当たっておらず、他人の著作物をノリとハサミでつなぎ合わせているからであり、朝鮮戦争に関する一次資料は、アメリカ議会図書館が所蔵する北朝鮮を一時的に占領したアメリカ軍が押収した文書及び崩壊したソ連の資料であるが、「この二つの一次資料に当たらずに和田は『朝鮮戦争』を書いた。中身のあろうはずがない」と評している[20]。アメリカ軍押収文書は、出版社経営者の在米韓国人方善柱が、3回通覧したと称して、7点の重要資料を韓国語の活字に起こして1986年に発表したが、方善柱は朝鮮語がよくできず、間違いだらけであり、和田はこの方善柱の間違いだらけの資料を基にして『朝鮮戦争』を書いており、萩原は「お笑いである」と評しており[21]、この和田の「欠陥だらけの本」において、方善柱と和田の使った資料を萩原が盗用したと言わんばかりの主張を行おこない、萩原は『諸君!』(1995年4月号)で、事実関係の誤りを指摘した。それによると萩原は、和田が『朝鮮戦争』において「私の名誉を毀損する悪意にみちた一文」「この一文のもつ特殊な政治的意図」を検討している。萩原は「もっとも腹にすえかねる和田氏の誹謗」として、「(萩原の)叙述の中で引用されるもっとも印象的な資料は、方善柱氏が、1987年に発掘発表し、私が1990年に紹介した資料A、B、C、D、Gなのである。にもかかわらず、萩原氏は方氏の発表資料について『これらの資料はいずれも小さな部隊のもので、師団級のものでないこと、……部隊名を解読しえていないため、どの師団に属するどの部隊かが特定できず、これらの資料を戦争全体の局面に位置づけることができないことなどによって、資料的価値を減じている』と述べるだけで、自分が引用する資料が方氏によってすでに発表されたものであることを隠している。これは研究する者のモラルに反すると言わざるをえない」(351頁)という文章を取り上げ、萩原は「和田氏の目はどこについているのか。その4行前には私はこうのべている」として、「その後、在米韓国人学者の方善柱氏が1986年に、北による南進の証拠として米国公文書館の『奪取文書』を3度通覧して発見したという7点を公表した。もとの朝鮮語の文書も写真版で紹介されている。これ自体たいへん貴重な作業である」と記述しており、方善柱の功績を評価しているのは明々白々であり[22]、そもそも方善柱が発見した資料は、朝鮮戦争時にアメリカ軍が押収した文書であり、方善柱のものでも誰のものでもなく、公開された資料の幾つかを先に発見したからといって新種の彗星の如く、第一発見者の名前を冠するものではなく、方善柱は資料の出所を教えなかったため、萩原は1990年1月から1992年6月にかけて『奪取文書』を読破して発見したのであり、和田と方善柱の「一心同体ぶり」から、和田のこの萩原批判には方善柱の意向を反映したものであり、方善柱の発表資料は「ずさんで使いものにならない」として、方善柱は、秘匿名657軍の朝鮮人民軍第6師団第13連隊副部長張勲1950年6月24日の指令書のロシア語の表が読めておらず、萩原は「このていどのロシア語が読めなくて朝鮮戦争について語ることができるか」と批判、さらに対戦車地雷を指す意味も解読できていない、日本式破壊筒を指す朝鮮語の文字を読み誤っており「こんなお粗末な資料が使いものになるか」疑問視せざるをえず[23]、萩原が独自に発見したことから方善柱の杜撰さが明らかとなり、読者の正確な認識に寄与、結果「和田氏はこのずさんな方氏の資料に全面的に依拠して今回の岩波書店刊の『朝鮮戦争』を書いた」のであり、この「ずさんな方氏の資料」を和田は「これらの資料を私自身は手に取って再確認してはいないが、方氏の資料操作は信頼しうる」(12頁)と評価しており、萩原は「研究は信仰告白ではない。研究者を自称する以上、自分の手でもとの一次資料にあたらずしてこうしたことがどうしていえるのか。世間をあざむくものではないか」と批判[24]、萩原の最大の発見資料は、1950年6月13日付けの朝鮮人民軍第6師団政治部の最高秘密文書の南侵計画書「戦時政治文化事業」であるのに対して、和田が論拠にした方善柱の発見資料7点は師団級は一つもなく、すべて連隊以下であり、結果「戦争全体の局面をみるうえにはなんの役にも立た」ず、さらに部隊の秘匿名が解読できていない、部隊の配置された地名が特定できていないことからくる「どの師団に属するどの部隊」「どこから来てどこをめざしているのか」「開戦がどういうふうにおこなわれたのかが皆目わからず、まことに他愛ない内容」でとなっていると指摘している[25]

萩原は自著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』を、和田が著書『朝鮮戦争』において「印象深い資料が発表されている。しかし疑問を感じる点もある。1950年10月14日付で人民軍最高司令官金日成と人民軍総政治局長朴憲永の連名で、全軍軍務員に対して退却をやめよという命令が出された。この命令は米軍が入手して、翻訳し、英文でのみ残っているものである」と評している[26]ことについて、自身は朝鮮語の原本を発見し、コピーも手元に持っているからこそ書いたのであり、1950年10月、アメリカ・韓国連合軍が38度線を突破、平壌陥落が目前となり、錯乱した朝鮮人民軍が逃亡を始めたため、金日成と朴憲永が逃亡者は職位に関わらず処刑すべし、処刑部隊の督戦隊を組織すべしという命令を発令した「絶対秘密」「1950年10月14日、朝鮮人民軍最高司令官 命令 第○○七○号」と記されたコピーを図示したうえで[27]、「私が発見し、げんにもっているにもかかわらず、その存在に疑問を投げかけ『英文でのみ残っているものだ』などという和田氏の言がいかに軽率な一知半解のものであるかが明白」「よく知らない者はことばをつつしむべきだろう。『英文でのみ残っているものである』などという知ったかぶりで世間をまどわせてはいけない」「善良な庶民をまどわしてはいけない」と評し[28]、萩原は「疑問を感じる」なら電話でも手紙でも疑問を解く方法があり、実際に1994年4月に御茶ノ水駅のホームで和田と萩原は偶然会い、萩原の著書『朝鮮戦争』について話をしたのに、それらの解決策を取らずに「疑問を感じる」と記述するのは「資料が出所不明の、なにやらうさんくさいものであるかの印象を世間に与えようとする意図」「本の価値をできるだけ小さくみせようとする意図」があると批判している[29]

その後萩原による和田批判は岩波書店関係者の間で大きな問題となり、和田の『朝鮮戦争』は4000冊刷っただけで事実上の絶版、萩原は「岩波と東大教授の権威をかさにきて、私を無名のジャーナリストとあなどって不当な攻撃を加えてきた報い」「一篇の雑誌の批判で事実上の絶版に追い込まれるような、吹けば飛ぶようなものを書くのではなく、なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか。岩波書店にも失礼ではないか」[30]「国民の税金で養なわれ、研究条件を保障された国立大学の教官の当然の責務」、和田の『朝鮮戦争』を「このていどの内容の本なら本屋での立ち読みですます」「電話帳のようにボリュームだけはあるが中身のない本を『業績』と称してエツにいっている和田氏」と批判している[31]。その後和田は『朝鮮戦争全史』(岩波書店、2002年)を刊行したが、萩原は「前掲書と同工異曲の本であり、全史とはおこがましい羊頭狗肉の本」「新味のないうえに500ページもの退屈な長談義」であり、和田は『諸君!』1995年4月号の萩原による和田『朝鮮戦争』批判に反論しているが、萩原は「彼の反論なるものはすべて誤りないし根拠のない憶測」と断じている。和田による反論は次の様だった[32]

  1. 萩原の発見した朝鮮人民軍第6師団の南侵計画書「戦時政治文化事業」は、訓練用である。
  2. 朝鮮人民軍第7師団は12師団と呼ぶのが正しい
  3. 在日朝鮮人運動幹部韓徳銖が1949年6月に平壌で開催された祖国統一民主主義戦線結成大会において中央委員に選出されたのは、在日朝鮮連盟から派遣され、平壌にいたからである。

対して萩原は次の様な再反論をしている。

  1. 「戦時政治文化事業」は、朝鮮人民軍が朝鮮戦争開戦直前に集結区域の38度線への移動、南侵命令の接受、韓国への侵攻、占領地の活動など文化部が行う活動を記した文書であるが、和田は「内容上とても南を解放する戦争の具体的計画書とは考えられない。この点で文書の最後に『以上提供する指導』参謀訓練時に使用さるべき戦時政治文化事業の材料に対して管下全体文化工作者は深刻に研究執行すべきであり、実際訓練課程でえた経験により本材料の内容をいっそう豊富にすることを望む』と書かれているのを従来の研究者は無視しているが、当をえない。『第3階段』には2カ所で『戦闘命令(訓練)』という表現が使われており、この文書は訓練演習用の教材であることが明らかである」とするが、萩原は「誤った認識」であり、国共内戦を戦った朝鮮系中国人部隊である朝鮮人民軍第6師団は、1949年7月に南朝鮮武力解放のために密かに北朝鮮へ派遣されたが、「戦時政治文化事業」が訓練用であるなら、わざわざ広大な中国から狭い北朝鮮に訓練へ行った後再度中国に帰国したとでもいうのか、第6師団は朝鮮戦争開戦後、開城攻撃、ソウル突入、アメリカ第24師団撃破、ディーン師団長の生け捕りなどの戦果を挙げるなど実戦のために朝鮮戦線に投入された最精鋭部隊であり、「現実をありのままに見なければならない」、和田は文書中に「訓練」とあるのを「鬼の首でも取ったかのように言うが、和田氏が開戦にいたるまでの朝鮮人民軍の動きを自分ではなに一つ調べていないことは前著でもこの新著でも明らかであるが、なにも調べずしてなぜこうしたことが言えるのか」、そもそも朝鮮戦争は北朝鮮が仕掛けたにも係わらず、アメリカ・韓国が侵略したと偽った謀略戦争であり、それ故最初から訓練を装ったのであり[33]、1950年4月28日の北朝鮮民族保衛相崔庸健発令の「夏期戦闘文化訓練」には「全軍務者は愛国的熱誠をつくして軍事政治訓練に猛進することによって共和国の民主基地を固く守り、祖国と人民が呼ぶときにはいつでも反動勢力を撃破できるように準備をととのえよ!」と命令、その訓練には南侵が企図され、「祖国と人民が呼ぶとき」に直ちに韓国を攻撃する戦時体制造りをおこなったのであり、この命令を受けて第6師団文化部が行動計画をつくったのが、「戦時政治文化事業」であり実戦の計画書であることは明らかである[34]。和田は「(6月)12日にはじめて開戦方針が説明されたのに、師団の文化部に持ち帰ってその方針を盛り込んだ文書を作成して、ガリ版刷りの12頁の冊子にして翌日出すのは無理である。物理的にも間に合うはずがない」というが、萩原は「和田氏の創作どおり」12日に開戦方針がなされたと仮定すると、13日付で冊子は出されたが、400字詰め原稿用紙25枚の1万文字程度であり、この程度なら6時間で書き上げることができ、ガリ切りを合わせて10時間ほどあれば十分であり、一晩で物理的に可能であり、「和田氏の言う『物理的に間に合わない』から南進計画書ではないという論拠はなりたたない」と批判、また和田のいう12日に開戦方針がなされたというのは「アメリカの研究者の本からの引用で、確たる証拠とはいえない。他人の説を受け入れて彼の頭の中で創作されたもの」であり、和田が南侵計画書ではなく訓練用の教材だと主張するのは、「北朝鮮が先に攻撃したことを一貫して否定し、なんとかして北を擁護したい『曲学阿北』(学を曲げて北におもねる)の徒である」ブルース・カミングスが疑問視していることに「追随」したものであり、「和田氏は、開戦にいたる過程を自分ではなに一つ調べていないから、他人の本の引用ですませている」という[35]
  2. 和田は「第7師団は第12師団というのが正しいであろう」と批判するが、萩原は「まったく正しくない」「第7師団が第12師団に名称を変えたことを彼が知らないことからくる」「完全な誤り」であり、1950年5月31日付け民族保衛省砲兵司令部指令にもとづき、第7師団は開戦前までの呼称であり、開戦後は第12師団に改称したことは「このことは常識」であると反論している[36]。和田の論拠は呂政の証言とキム・ジュンセンの証言とアメリカ軍が押収した朝鮮人民軍総参謀部偵察命令案であるが、和田は呂政の証言を「ほとんど唯一の根拠として誤った認識に固執」しており、呂政の証言は記憶違いであり、所属した825軍部隊(第7師団)は、1950年4月18日、中国から北朝鮮の元山に入った朝鮮系中国人部隊であるが、第7師団は韓国の春川を攻撃したが、韓国軍第6師団の抵抗に遭遇して攻略が大幅に遅延、金日成の怒りを買い師団長全宇は解任され崔春国に交替した際に、朝鮮人民軍の改編が行われ第7師団は廃止され第12師団に名称が変更された[37]。従って第7師団と呼称されていたのは、4月18日から名称変更の6月29頃までの2カ月余りであり、春川攻略は6月28日、萩原の持つ825軍部隊の文書中に第12師団の名称が登場するのは6月30日であり、それ故に萩原は改称日を6月29日と推定したという[38]。これに対して和田は、「戦闘中に師団名を変える理由ありはしないのである」(135頁)と批判しているが、萩原は「和田氏の断定はまったくの虚偽」として、北朝鮮の公式朝鮮戦争史の『朝鮮人民の正義の祖国解放戦争史』には、「党は戦争勃発と同時に、新しい師団を編成し、各技術兵糧の部隊を拡大し、後備兵力の準備事業を遂行した」(39頁)とあり、新師団の編成すら戦闘中におこなっており、萩原は「北朝鮮シンパを任ずる和田氏は北の公式戦史の記述を尊重すべき」と批判している[39]。さらに元朝鮮人民軍第2軍団指揮部所属工兵将校朱栄福は著書『朝鮮人民軍の南侵と敗退』(コリア評論社、1979年)において、「今年(1950年:萩原)4月、東北から入朝し、元山で第7師団を編成、麟蹄で行動を起こした第7師団は、第12師団と改称された。同師団長全宇少将は、解任され、崔忠国(崔春国が正しい:萩原)少将がこれに代わった」(295・296頁)と述べており、また韓国側停戦委員金点坤は著書『韓国動乱』(光明出版社、1973年)において、「(春川占領)作戦の手違いに対する責任問題から……第7師団は7月3日、第12師団に改編されると同時に師団長も全宇から崔忠国に代わった」(262頁)と述べている。また元朝鮮人民軍第6師団政治保衛部責任軍官・朝鮮人民軍初代歴史記録部長崔泰煥は、萩原の記述どおり、当初は第7師団であったが、春川攻略において十分な戦果を果たさなかったために改編され、12師団に改称されたと明確に述べているという[40]。またアメリカ陸軍の公式朝鮮戦争史『南は洛東江、北は鴨緑江まで』は、「第7師団(第12師団)」と表現しており、アメリカ陸軍も第7師団が第12師団に改編されたと理解しており、萩原は「和田氏はこうしたことをまったく知らず、『第7師団は第12師団という方が正しいであろう』という。ものをいうときはまずよく調べるべきであろう。彼の軽薄さと一知半解ぶりは少々度が過ぎる」「軽率と早とちりを排し、もっと勉強」をすべしと指摘している[41]。和田はこのアメリカ陸軍の公式朝鮮戦争史について、アメリカ軍が確認できなかったことから生じている混乱と評しているが、萩原は「アメリカ軍の諜報員の不確かな報告などを引き合いに出して煩瑣な小理屈をこねている」と批判、一諜報員の報告と公式戦史とでは重みが違い「アメリカ軍が混乱しているのではなく和田氏が混乱している」「根拠のない独断」と批判している[42]。萩原は「和田氏の誤謬を打ちくだく新たな証言」として元第7師団第30歩兵連隊直属76ミリ歩兵中隊文化副中隊長池寛容は、鄭州から元山に到着したときは第7師団だったが、帰国後日が浅く、国内の地理不案内と準備不足から戦果を挙げることができず、洪川横城を経て、原州を占領した1950年7月3日、責任を取らされて師団長の全宇は解任、第12師団になったと証言しており、池寛容の証言した連隊の秘匿名の827(第30歩兵連隊)は、萩原のもつ朝鮮人民軍の文書と正確に一致するという[43]。和田が論拠にしている呂政の証言は、戦争後40年経過した1990年に『東亜日報』紙上でおこなわれたものであり、萩原によると「事実関係に誤りが多い」という。呂政は、自らか所属していた師団の砲連隊を第12連隊というが21連隊の誤りであり、師団が元山から南へ移動開始した日付を1950年6月19日というが17日であり、麟蹄に到着した日付を6月23日というが21日であり、萩原は「決定的誤り」として、呂政は「(朝鮮戦争開戦前に)3個の38度線警備旅団が歩兵第7、第8、第9師団として改編され、咸鏡北道会寧にあった青年訓練所が歩兵師団に、第3軍官学校が戦闘部隊として編成された」というが[44]、師団の編成は開戦直後であり開戦前ではなく、師団に編成されたのは38度線警備旅団ではなく民青訓練所であり、第7・第8・第9の師団名も誤りであり、歩兵司令官武亭の1950年5月31日付け指令書には、この時点における朝鮮人民軍は、7個師団、第105戦車旅団、第1・第2・第3の3個の民青訓練所、第1軍校、582軍部隊、586軍部隊を擁しており、呂政のいう3個の38度線警備旅団は編成の対象になっておらず、萩原「呂政の証言なるものがいかにあやふやなものであるかは明瞭」と結論付けている[45]。初版が1966年であり、戦争後12年経過した製造者が多数存在した時期であり信憑性は高いという佐々木春隆『朝鮮戦争』(原書房)によると、これらの部隊は、開戦直後に第1民青訓練所が第13師団に、第2民青訓練所が第10師団に、第3民青訓練所が第15師団になったという[46]。結果萩原は「呂政の証言は誤りが多く、証言としては採用できない」と結論付けている[47]。また和田が論拠とした金中生の『朝鮮義勇軍の密入北と6・25戦争』(ミョンジ出版社、2000年)には「(北朝鮮に)入国して7師団となったが戦争時12師団に改称されたという記録は誤りである」という記述があるが、萩原はソウルにいる金中生を訪問して根拠を質したところ、その根拠は呂政の証言だと回答したという。さらに金中生の所属部隊は第6師団第15連隊であり第7師団の事情を知る立場にない、1950年4月に17歳の新兵として入隊しており部隊上層部のことを知る立場になく[48]、萩原は「和田氏の依拠する呂政、金中生両氏の証言は、歴史的事実を解明するためにはなんらの役割も果たさない」として、元朝鮮人民軍の将兵たちの記憶に混乱が生じるのは、第7師団が中国から元山に入ったのは、1950年4月18日であり、第12師団に改称されたのは同年6月であり、第7師団と称されていたのは実質2か月程度しかなく、最初から第12師団だったと思い違いが生じており、また証言が戦争後40年経過して記憶が風化していることを挙げている[49]。和田が「米軍が押収したロシア文の人民軍総参謀部偵察命令案(1950年6月18日付)には『第12師団参謀長』あてになっている」と批判したことについて、萩原は「和田氏は私への反論を7年かかって書いたが、私は数か月足らずで再反論しなければならない。とてもロシア文まで当たる余裕はない。こうした文書が出てきたというならもっと確かなものを書いて歴史の事実を明らかにしなければならない」「『部隊番号を第12師団とつけるということは、それだけ師団数が多いかのように装って、敵を威嚇するためである』などという子供の戦争ごっこのようなことを書くのではなく、また根拠のあやふやな証言を振りかざして不確かなことを書いて世の中の善良な民を惑わすのではなく、社会に貢献する確かなものを書かねばならない」として、この問題を極秘資料を発掘することも含めて明らかにすることが歴史家の責務であり、開戦直後の師団編成の時期と師団名の特定研究をおこなうべきだと指摘している[50]。和田は「(萩原は)1950年5月31日付けの砲兵司令官武亭の指令書に、第7師団と明記されているかのごとく主張しているが、氏の挙げるその種の資料には、12(萩原注:正しくは14)の指令対象部隊の7番目に第825軍部隊の名があげられているにすぎない(『北韓解放直後極秘資料』(3)、高麗書房、206頁、224頁)」(『朝鮮戦争全史』、135頁)と批判しているが、萩原は「無知による完全な誤解」「開戦前に第7師団などと部隊名を露出することが厳禁されたことを和田氏は知らないためこうした常識はずれのことをいうのだ」として、こうした誤解を予想したため原資料を刊行したのが『北朝鮮の極秘文書』(夏の書房)であり、北朝鮮は韓国を隠密に攻撃する態勢を1950年4月頃から進めており、従って師団名も秘匿として、秘匿名の3桁の数字を代号と呼称して、第1師団は115、第2師団は235、第3師団は395、第4師団は485、第7師団は825という具合に各師団の連隊・大隊まで厳格に代号の使用を徹底、萩原は「こうした数字では読者は混乱するから私の解読した部隊名を書いたまで」であり、秘匿名に隠された部隊名を割り出したのは萩原であり、和田も恩恵を受けており、和田の著作『朝鮮戦争』では隠された部隊名をひとつも知らなかったが『朝鮮戦争全史』では萩原の割り出した部隊名を使って多少は整理されていると評している[51]
  3. 和田は「金天海は翌1950年平壌に渡ったときには、労働党の社会部長になり、祖国戦線議長にもなっている」(85頁)と記述しているが、萩原によると「すべて間違い」であり、労働党の社会部長になったのは1951年11月の労働党第2期第4回全員会議、祖国戦線議長になった日は特定できない、祖国戦線議長団の肩書で最初に登場するのは1953年9月13日の平壌からの放送演説であり[52][53]、萩原は「決定的誤り」として、1949年6月25日から28日に開催された祖国統一民主主義戦線結成大会で、在日朝鮮人運動の小幹部の韓徳銖が大幹部の金天海や朴恩哲をさしおき中央委員に選出されたことを和田は「当時朝連から平壌に派遣されていた韓徳銖が中央委員に選ばれたのである」(57頁)とするが、萩原は「なんの論証もない」として、和田が根拠に挙げた『祖国統一民主主義戦線結成大会文献集』にも朝連が韓徳銖が平壌に派遣したとの記述はなく、公安調査庁朝鮮担当の坪井豊吉の内部資料『在日朝鮮人運動の概況』には、「(韓徳銖は)また(昭和)24年夏には北鮮に密航して祖国統一民主主義戦線の中央委員になったお礼にいってきた」という記述が韓徳銖の動向を伝える唯一であり、「朝連が韓徳銖を派遣したという和田氏はその根拠を示すべきだ。示さずに断定するならば根も葉もない捏造といわれても仕方あるまい」と批判している[54]。朝連から派遣され、祖国統一民主主義戦線の中央委員に推挙するなら在日朝鮮人運動の最高指導者かつ朝連顧問の金天海が任命されるべきであるが、韓徳銖が在日朝鮮人から唯一中央委員に任命されたことが「金日成の陰謀」であったというのが萩原の見解であるが、和田は「なぜ陰謀なのか説得的でない」(85頁)と批判しているが、萩原は『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋、1998年)を読めば理解できるし、金日成は工作員南信子を日本へ派遣、南信子は韓徳銖との間に生まれた子と平壌で暮らしており、韓徳銖は死ぬまで朝鮮総連幹部に隠れて仕送りを続けており、このような工作の結果金日成は韓徳銖を取り込み、南信子を通じて平壌に人質を取り在日朝鮮人10万人を労働力として北朝鮮におびき寄せたのであり、「説得的であるからこそこれまでに10万部近く売れているのだ」「なにも知らずに和田氏が憧れる金日成と北朝鮮はそれほど甘い相手ではない」と批判している[55]

結論として萩原は、「私への反論の材料がよほどなかったとみえて朝鮮戦争とは関係のない私の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』まで引き合いに出して反論したつもり」になっているが、「すべて虚偽か根拠のない憶測」であり[56]、「私への反論なるものは、ただの一つの真実もなく、すべて誤りか、根拠のない憶測、創作のたぐいである。反論に7年もかけてこの体たらくである。なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか」[57]、和田は『朝鮮戦争』に対して萩原が「激しい非難を浴びせた」と「まるで被害者のように装う」が、事実は和田と方善柱が発見した資料を「(萩原が)剽窃したかのごとく主張した和田氏の前著の名誉棄損にたいし、私が限定的に反論したにすぎない。今回の新著でも私にわびる言葉はない。和田、方善柱両氏による資料なるものは使い物にならないお粗末なもの」と評している[58]。その後萩原は『諸君!』(2003年8月号)において、「かれ(『朝鮮戦争全史』)のすべての謬論を事実をあげて完膚なきまでに論破した」「いまだに何の音沙汰もない。ふだんはどんな小さな批判にも大仰に反論するが、勝ち目がないとだんまりを決め込むのが彼の癖である。今回の『北朝鮮本をどう読むか』で、『朝鮮戦争全史』でおこなった私への言いがかりを繰り返しているが、まず私の反論にきちんと答えるのが礼儀ではないか」[59]、萩原の反論などもあり、岩波書店は『朝鮮戦争』を4000部刷ったところで中止したが、「今回の新著は、もう一度チャンスを与えようという岩波書店の温情であろうが、いいかげんなことを垂れ流す和田氏の原稿をチェックする見識ある編集者は岩波にはいないのだろうか」と批判、朝鮮戦争は北朝鮮が韓国を侵略したのか或いは韓国が北朝鮮を侵略したのかが最大の争点だが、「この問題では和田氏はなに一つ貢献していない。北朝鮮の文書と同じく重要なロシア側の文書も和田氏が集めたものは一つもない。産経新聞名雪雅夫モスクワ特派員の発掘した文書や、アメリカの研究者ウィザースビー(Kathryn Weathersby、ジョンズ・ホプキンス大学)女史が集めた100点以上の旧ソ連の資料の提供をうけて和田氏はこの本を書いた。なぜ一つぐらい自分で発掘しないのか」「自分は何一つ手を汚さず、多くの研究者の辛苦の研究によって事実が明らかになったあとでああだこうだと論ずる学者のあと知恵を私は好まない。和田氏は、他人の書いた本を積み上げ、机に座ってハサミのりで切り刻み、つなぎあわせ、尊大にコメントするだけである。『論証がない』『正しくない』『説得的でない』……いったい何様のつもりなのか」「朝鮮戦争全史を書くには30年早い。和田氏の新著もこれまでの朝鮮戦争研究書籍解題の域を出ない。羊頭狗肉である」と批判している[60]

和田は「北朝鮮が武力統一を望んで、南を攻撃したことはすでにわかっていたこと」と述べているが、萩原は「わかっていたならなぜそれを立証しないのか。それをあえてしないところにカミングスや和田氏のように開戦責任を曖昧にしようとする特殊な政治的立場がある。これなら北朝鮮にとって痛くもかゆくもない。どころかむしろ北当局に大いに喜ばれ」ると批判している[61]

萩原は自著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』について、和田が「(萩原の)本の最大の貢献は、開戦時の北朝鮮人民軍の部隊のカムフラージュ番号の解読に成功したことである」と評したことに対し、同書は、1. 朝鮮戦争の開戦が北人民軍の周到な準備のすえの奇襲攻撃によっておこなわれたことを彼らの極秘資料に使って全面的に解明したこと[62]、2, 朝鮮戦争という数百万人もの人命を犠牲にした大戦争の開戦責任、放火者はだれかを明らかにしたこと[63]であるとして、和田の評価は「的はずれである。たんに的はずれというより意図的に的をはずしている」とし、その目的は「本の価値を低めるためであり、読者を誤導ため」であるとした[64]

萩原は、和田の萩原に対する反論は「あれが足りない、これが抜けている、と重箱の隅をつつくあら捜し」であり、和田の著作は年表を綴るように事項を並べているが、「私はもともと年表など書くつもりはないのだ。凡庸な学者がおのれの甲羅に似せて穴を掘るのは、それはそれでよい。だが、それをジャーナリストの仕事にまで当てはめさせようとお門ちがいもはなはだし」く[65]、萩原が朝鮮戦争における北朝鮮の戦先攻を北朝鮮の内部文書で明らかにしたことが、「和田はそれが口惜しく、自分も1990年に主張していたという。朝鮮語の一次資料にも当たらない者が、そして当たるだけの朝鮮語の力のない者が、なぜそういうことが言えるのか。事実と資料による裏づけのないものはただの駄法螺にすぎない。これなら研究はいらない。子供でも言えるのだ」として、和田の萩原への非難は「すべてデマか根拠のない憶測」「これが研究者とか学者を名乗る人間の言辞であろうか」と批判している[66]。萩原は、和田は「拉致は証拠がない」とデマを書いたことから、国民的な反発を受けたが、その核心は「和田は人を非難するなら、なぜ直接その人に取材をしないのか、取材すれば誤報や誤解は防げたはずだ」というものであり、対して和田の答えは「取材したから真実がわかるものでもない、真実の探求などどうでもいい」というものであり、「自分の主観的判断を至上とするきわめて傲慢な言いぐさ」であり、萩原は和田のデマの手口として①あからさまなデマを流す②つまらぬ部分を褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませる③表むき評価するとみせかけてその裏でけなす④デマを垂れ流すのに必須の要件は取材や真実究明の作業をしないことを挙げており[67]佐々木春隆防衛大学校教授)・小此木政夫桜井浩久留米大学教授)らの『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』への評[注 1]と和田の「最大の貢献は人民軍部隊のカムフラージュ番号の解読」という評との乖離が大きいことは「あえて異をたてて私の成果のごくささいなものを誉め真の功績を黙殺するのは、私の本の意義を低め、読者の目をくらますため」「手のこんだある種の政治的狙いをもっている」「この一文が一貫してプロのデマゴーグの手法にのっとている」[68]として、和田は萩原が和田及び方善柱の資料を使用しながらそのことを隠しておりモラルに反するという批判は①あからさまなデマを流すに該当、「萩原の最大の貢献はカモフラージュ番号の解読」だというのは②つまらぬ部分を褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませるに該当し、和田が学者らしく公平さで萩原を評価していると錯覚させ、もっとも重要な箇所から目を背けさせる効果を狙っており、和田の「印象深い資料である」と誉めておきながら「疑問に感じる」と腐す行為を、萩原は「本全体にうさんくさい印象を与える」「小細工」と批判している[69]。また萩原は「(和田が)デマと中傷だけをこととする支離滅裂な文章を発表」してデマゴーグ役を買った理由を「私の本で打撃をうけた者とはいうまでもなく北朝鮮の金日成・金正日父子と朝鮮労働党である。彼らの40余年にわたる国家的虚偽を私の本は白日の下にさらした」ことを挙げており、「私の本にもっとも打撃をうけた者や組織の意向を代弁」するために「彼ら(金日成・金正日・朝鮮労働党)の憎悪が和田氏の一文に反映」しており、「一文で彼はあきらかに北側の意向を代弁することで自身の正体をかなり鮮明」にして、和田が『思想』(1990年9月号)掲載論文を発表した後の1991年1月に平壌に招かれて、黄長燁と懇談して歓待されており、和田は著書『金日成と満州抗日戦争』(1992年、平凡社)の前書きに「私の論文を読んで平壌に招いて下さった黄長燁先生と討論して下さったヒョン・ドゥヒョク、チェ・ジンヒョク先生たち……に深く感謝したい」と記していおり、萩原は「黄長燁らはこれにも当然目をとおしている。そのうえで乏しい外貨事情のなかから和田氏を平壌に招き、ごちそうし、歓待した。その意図は明白である。和田氏になにかを期待しているのである。彼らがタダ飯を食わせることはけっしてない」として、その目的を萩原は「和田氏の一連の著作が平壌政権にとって好ましいからである。朝鮮戦争についての和田氏の『研究』なるものが他愛もないもので、北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころかむしろ彼らにとって好ましいものであることはすでにのべた。この線で大いにやってほしいということであろう」と推測している。さらに萩原は、和田が平壌に歓待された1991年1月は、ベルリンの壁の崩壊チャウシェスク夫妻の処刑の1年後であり、「北の最大の後楯ソ連の崩壊のはじまりという北朝鮮にとって存亡の危機の時期」であり、「その時期に乏しい外貨を割いて北朝鮮が和田氏を招いたのは、彼らの生き残りをかけた必死の工作の一環」であり、政治家の賄賂やジャーナリストの取材先との癒着と同様に、「(北朝鮮は、社会主義国のなかでも最悪の独裁国家であり、国中が監獄といっても過言ではない人民抑圧、人権抹殺の国である)独裁国家と親しい関係を結ぶなどとは、あってはならないこと」「その国の最高指導者の一人と親しくメシを食うなどは論外」「デマと中傷の一文をみるにつけ、タダ飯を食うとこういう汚いこともやらされるということを和田氏は肝に銘じるべき」と厳しく指弾、岩波書店に対しても「意図的な文書の流布に手を貸したことは、社会の公器としての出版を悪用する行為」であり、事情を賢察、良識ある措置を講じるべしと直言している[70]

朝鮮語[編集]

萩原の著書『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』について、和田は著書『朝鮮戦争』で「(萩原遼の)叙述の中で引用されるもっとも印象的な資料は、方善柱氏が、1987年に発掘発表し、私が1990年に紹介した資料A、B、C、D、Gなのである」にもかかわらず萩原はそれを隠しておりモラルに反すると批判、和田が1990年に紹介した資料とは、和田の論文「朝鮮戦争について考える(上)新しい資料による検討」『思想』(1990年9月号)のことを指しているが、萩原は「当然ながら私も一読したが、なんの言及もしなかった。すれば和田氏の名誉を傷つけるからである」「和田氏のこの論文は依拠する方氏の資料のずさんさに加えて、和田氏の手による朝鮮語の日本語訳が誤訳だらけで使いものにならない」として、朝鮮人民軍第355軍部隊のオ・イサム将校の報告書の和田訳が「500字足らずの短い文章に7カ所の誤訳がある。それも全体の文意にかかわる誤訳である」として、具体的には和田はオ・イサムを部隊長というが副部隊長である[71]、「学習」を「課業」と誤訳しているが、もとの朝鮮語の「上学」は中国語由来であり、朝鮮人民軍は「学習」と「訓練」が2代任務であり「課業」など存在しない、「いつ行動があるかを予測した」は「いつかは行動があるものと予測した」の誤訳である、「行軍準備をすませた」は「行軍準備をさせた」の誤訳である、「砲弾まで定量を」は「砲弾まで定量を積んで」であり「積んで」が脱落している、「焼却する」は「焼却させる」の誤訳である、「本来野営にいるとか、部隊としての秘密を守るため」は「本来は野営中であった部隊としての秘密を守るため」が正確であり和田訳では意味をなさず、この誤訳は教育水準の低い人民軍将校が過去形を方言につられ誤記したことを見抜けないことからきている[72]。萩原は「これらの誤訳をみると、和田氏は朝鮮語の文法の初歩も知らないことがよくわかる」「私の本が出たあとで私の訳にもとづいて誤訳をちゃっかり手直している。これを隠しているのは研究者のモラルには反しないのか」「言及すれば当然こうした欠陥も指摘しなければならない。和田氏の面目は丸つぶれになるではないか」「『思想』掲載論文を一読して、依拠資料のずさんさに加えて誤訳だらけ」「定年近い東大教授の『労作』が、一介のジャーナリストによって完膚なきまでに批判されたら面目もなかろうと、彼の体面をおもんばかってだまっていた」「和田が訳した朝鮮語が誤訳だらけであった。わずか500字足らずの文章に7箇所もの誤訳がある。和田が朝鮮語の文法の初歩も知らないことは一目瞭然であった」と萩原は和田の朝鮮語の語学力を問題視している[73][74]

主義・主張と社会活動[編集]

拉致問題[編集]

北朝鮮による日本人拉致問題について和田は、『世界』2001年1月および2月号に掲載した論文「『日本人拉致疑惑』検証する」において、「横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである」として、日本国政府も拉致疑惑を認定しないことから「横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである」と述べている。なお、久米裕の事件については、拉致された可能性は高いと述べているが、「日本の警察が国外移送拐取罪で立件しなかった以上、行方不明者として交渉するほかない」と述べている[75][76]

2002年(平成14年)、北朝鮮自身が日本人拉致を認めるに至り、『諸君!』『正論』からは、和田に対する激しい批判が加えられた。対して和田は、自分は拉致そのものの存在を否定していたわけではないと弁明した。

2002年に小泉純一郎朝鮮民主主義人民共和国を訪問、日朝首脳会談金正日拉致問題を認めるに至り、北朝鮮についての和田の言説の影響力は大きく低下、萩原遼は「朝鮮問題という日本と朝鮮半島にとってきわめて重要な分野において、和田の存在価値はすでに大暴落した。自分のみならず岩波書店や東大の権威失墜にも相当貢献した。これ以上恥をかくことなく、世間に迷惑をかけないよう、もとの専門と称するロシア史の研究に戻って、静かに余生を送るがよかろう」と述べている[77]

反朴正煕運動[編集]

過去に反朴正煕運動に従事しており、鄭大均は「双方の独裁に触れながらも、反独裁の実践はもっぱら南にのみ向けられる」事例として和田の1982年の論文を挙げており、独裁国家論(北朝鮮論)の多くは、このような韓国・朝鮮論の形をとっているとしている[78]。それによると和田は、竹入義勝公明党委員長(当時)がソウルにおける「個人的判断かも知れないが、韓国には(北朝鮮と)比べものにならないほどの自由がある。韓国はやはり自由主義圏の国と確信した」という発言を以下のように批判している[78]

韓国には、北朝鮮と比べると、ある面では、より自由があることが問題なのではない。金日成氏を唯一思想とする共産主義国、北朝鮮は、自主独立、民族自立を達成しているが、思想の自由や表現の自由はない。自主はあるが自由はない国だといってよいだろう。朴正煕氏につづいて、全斗煥氏というクーデター将軍を大統領にいただく資本主義国韓国は、自主独立、民族自立を達成していず(アメリカ軍の支配と日本経済への従属)、かつ政治的自由も労働運動もない。自主はなく、自由も基本的に失われている国だといえるだろう。(中略)しかし、自由の点で両国を比較すれば、思想、表現、信教の自由は、韓国の方に、制限されてはいるものの、より多くあるといえる。だから、くりかえしていうが、韓国には、北朝鮮に比べると、より自由があるということが問題なのではない。

独裁政権でも北朝鮮は批判せず、軍事政権時代の韓国のことは厳しく批判しており、金大中拉致事件の救命運動をおこなっていた[79]。このことから軍事政権時代は韓国から要注意人物としてマークされており、韓国に入国できなかったが、アジア女性基金に加わる際に外務省の口利きで入国できるようにり、東大退職後の1998年春から年末まで5回も訪韓している[80]

在日韓国人[編集]

在日韓国・朝鮮人に対する社会処遇の向上や、積極的な戦後補償を行うことを一貫して求めている。

慰安婦問題[編集]

慰安婦問題については、当時の日本政府に対して一貫して批判的である。一方、『女性のためのアジア平和国民基金』に係わる活動によって和田は、朝鮮人慰安婦寄りの主張を行う社会運動家からも批判される立場に立った。

竹島問題[編集]

竹島問題についは、「竹島が日本の領土と宣言されたのは1905年だ。その時から敗戦までの40年間、 竹島は確かに日本の領土だった。1945年に日本の管轄から脱した後、サンフランシスコ条約でも明確な処理がなされなかった」とし、そのうえで、「植民地支配反省の表現として、日本は独島(竹島の韓国名)を韓国領土として認める」という独自の主張を展開している[81]。さらに2013年10月には、独島問題に関して、日本は韓国側の主張を認めること以外に答えはないとし、韓国は韓日友好のための特別な配慮として鬱陵島と隠岐の島の中間地点に経済水域の境界を設定することを提案した[82]

また和田は、そのかわりに韓国側が、韓日友好のための思いやりとして、島根県の漁民に島周辺の漁業権を認めるという条件を、竹島を韓国に供与する見返りとして提案している[81]が、既に竹島周辺海は暫定水域として日韓漁業協定による漁業権が確定済みであり、和田の案により日本が得られるものは皆無である[81]

韓国左派への影響[編集]

週刊文春』2004年3月25日号、加藤昭「韓国親北政権の罪第二弾 盧武鉉弾劾の真実大統領府に北のスパイが浸透していた」において韓国の盧武鉉政権への影響力が詳述されている[83]。「南北に食いこむ和田春樹氏」として、高泳耉韓国語版大韓民国国家情報院院長、徐東晩韓国語版大韓民国国家情報院室長、李鍾ソク国家安全保障会議事務次長の「親北三人組」のうち、徐と李と親しい関係にあると報道された[83]。それによると2003年4月、盧大統領が国情院院長に高を指名したことから開かれた国会聴聞会で和田の名前が出され、ハンナラ党李允盛韓国語版が高の証人の徐に対して「和田春樹が親北学者として(ファイル上で)分類されているのを知っているか」と質問し、徐は「間違った分類だ。私は正反対の評価も聞いているし、こと北韓問題に関する限り、最も良心的な態度で研究を続けている学者の一人だ」と答えた[83]。徐は、1986年に東大に留学して和田の門下生となり、約10年間学び、1995年に博士論文『北朝鮮における社会主義体制の成立』を提出したが、国情院スタッフは「博士論文の参考文献として『朝鮮全史』『朝鮮労働党略史』『朝鮮労働党/歴史教材』など、北朝鮮の原書がズラリ挙げられ、末尾に『北韓人名録』が付録として付されている。徐東晩や和田研究室はこれらの著作をどこで入手したのか」と問題視しており、『北韓人名録』は朝鮮労働党・政府・諸社会団体などの幹部の履歴が網羅されており、持ち出し・公表は厳禁であり、国情院スタッフは「我々は『北韓人名録』を持っているという事実で、彼らが北と通じていると確信した。和田教授についてもこれまでとかく風評があったが、これで彼が『向こう側の人間』であることが判明した」とコメントしている[83]。和田と李の関係について国情院スタッフは「李は九二年、和田の著作『金日成と満州抗日戦争』を翻訳している。また、『北韓の住居移転、旅行の自由の制限は、社会主義の特性であり、南北軍事対立のもとで選択せざるを得なかった防衛的措置だ』、『金正日はオーケストラの演奏中、ある演奏者の半音の間違いまで聞き分けるほど音楽に造詣が深い』など、数多くの北賛美の発言をしてもいます」とコメントしており、韓国では「和田黒幕説」があり、 国情院スタッフは「徐、李を中心とするグループが北主導の統一憲法草案を準備しているが、和田が知恵をつけているのではないか」とコメントしている[83]。加藤は、和田に取材をして「徐君とは、ソウルを訪れればほぼ毎回会っていますよ。彼は私の研究室に在籍していたのだし、ごく自然なこと。ただ、あまり政治の話はしない。韓国国会で私との師弟関係が取り上げられたことで、徐君の立場に悪影響を及ぼしてはいけないと思うからだ」という和田のコメントを取っている[83]。記事は「和田氏は常々、韓国建国の正当性は北韓にあり、金日成の抗日パルチザン闘争からその歴史が始まった、と主張してきたが、いまもその考え方に変更はないようだ。あれほどガチガチの親北学者も珍しい」「和田は、正常化がなるまでは北の人権抑圧の事実には目をつぶると公言してはばからない。日本人拉致問題でも北を擁護したが、いずれも極めて政治色の濃い発言で、一学者の態度とは程遠いものがある」と記しており、加藤は和田に「あなたは朝鮮半島を徘徊する妖怪」だと言ったという[83]

日韓併合無効論[編集]

和田は2010年(平成22年)、日本が大韓帝国を併合するに当たっての韓国併合ニ関スル条約(1910年)は当初から無効であったとして、日本政府がその無効性を認めるよう求める声明を発表した[84]。さらに、内閣総理大臣 菅直人に対しては、同条約の無効を、日韓併合100周年に当たる同年8月に宣言するよう求めた[84]

歴史教科書[編集]

和田は2001年(平成13年)4月、『新しい歴史教科書』(扶桑社)を批判する声明を、連名で発表した[85]

翌5月、歴史教科書問題をテーマにしたテレビ討論番組に参加した和田は、同教科書の記載について、「戦前ロシアが朝鮮北部に軍事基地を建設したと書いているが、これは伐採場でしかない」と批判した[86]。同討論に参加していた歴史家・秦はこれに対し、『近代日本総合年表』(岩波書店)にも 『軍事根拠地の建設を開始』との記載があること[87]、しかも同書の編集委員のひとりが、和田とともに抗議声明を出した経済学者、隅谷三喜男であることを指摘して反論した。

北方領土[編集]

和田は、「日本は北方領土の問題にこだわって日ソ関係を非常に悪いままにしている」と、領土問題を問わずにソ連との友好を優先することを主張していた[88]

論争 - アジア女性基金[編集]

和田は、秦郁彦とのあいだで、歴史の事実認定や解釈を巡って論戦を繰り広げており、2人の関係は1995年(平成7年)、村山富市内閣が設立した財団法人 『アジア女性基金』において、ともに資料委員会委員を務めたことに始まる。大蔵官僚出身で官僚や自由民主党関係者との人脈が豊富であった秦は、社会党との関係が強い和田や大沼保昭等の同財団発起人らから、保守人脈をも網羅した国民的運動としての基金活動を展開すべく受け入れられた。しかし、同基金に拠ってアメリカでも調査を行った秦が同基金への報告書を寄稿すると、和田は秦を激しく批判した。秦による従軍慰安婦に関する報告への、和田による批判は次の様だった。

  1. 同基金は『村山談話』を根拠としているが、秦の報告には、その趣旨・理念をわきまえないエッセイ的記述が多数ある
  2. 各自のイデオロギー的立場を越えた資料実証研究を行うという資料委員会の申し合わせに反する

そして、同委員会委員長・高崎宗司と共に和田は、秦に対して文章の撤回を打診した。しかしながら、和田らに撤回要求をするような権限があるかについての疑問を呈し、またそれは打診というよりも査問であったことを秦は訴え、撤回の要求を拒絶した。最終的には、「権限の有無を別として和田・高崎が没を希望、秦がそれを受け入れる」という形で秦論文は未掲載となった。

最終的に取りまとめられたアジア女性基金の報告書、没になった秦の文書で転載されたもの、秦の側の見解表明は以下。

  • アジア女性基金『「慰安婦」問題調査報告・1999』〔全文ダウンロード可能〕[4]
  • 秦郁彦「『慰安婦伝説』--その数量的観察」『現代コリア』1999年2月〔転載〕。
  • 秦郁彦「天皇訪韓を中止せよ!『アジア女性基金』に巣喰う白アリたち」『諸君!』1999年2月号(同『現代史の対決』文藝春秋2005年に大部分が掲載)。

和田は『朝日新聞』「論壇」(1998年7月28日)に、「アジア女性基金を後退させるな」という論文を発表、元慰安婦は「日本からお詫びと償い金を不十分でも受け取る権利があるはず」であるが、その権利を奪うのは非民主主義的であり、韓国政府が示唆したとされる慰霊塔を新規募金で建立、首相名の謝罪文を刻印しようという提言であったが、秦は「非常識な提言」として、『朝日新聞』「論壇」(1998年8月27日)に「アジア女性基金は後退せよ」という反論文を寄稿、「韓国政府と支援組織が償い金に相当する額の支援金を給付した以上、その目的は達せられたのだから、喜んでひきさがるべきではないか」、「(慰霊塔案は)だれが慰霊の対象になるのか。日韓のどちらに建てるのか。さらに、フィリピンでは償い金は受けとったが、首相のお詫び書簡を突き返された例もある。慰霊塔建設は、わざわざ新しい火種を持ちこむだけではあるまいか」と批判した[89]。和田は、1998年7月に、挺対協に『朝日新聞』「論壇」の主旨の「事業内容変更」を申し入れたが、「いかなる基金のお金も韓国への流入に反対する。お金は日本国内で後世への教育に使ってもらいたい」(『挺対協会報』第14号、7月14日、16日の項)と一蹴され、秦は、和田を「(挺対協などから)基金の廻し者と敵視」され「居心地は必ずしもよくない」と評している[90]

秦は、和田は朝鮮戦争を後述の1984年のAでは、「(南侵:北朝鮮による韓国侵略か、北侵:韓国による北朝鮮侵略か)あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった」と放言しながら、1998年のBでは「北朝鮮が決定してはじめた国土統一戦争」と主張しており、それらを比較して見当がつくように、「事実よりも政治的都合を優先するスタイル」であり、危なっかしくて和田の『朝鮮戦争』(岩波書店、1995年)、『北朝鮮-遊撃隊国家の現在』(岩波書店、1998年)などの著作は引用したことがないと述べている[91]

注目された発言[編集]

全て秦郁彦『現代史の対決』(文藝春秋、2003年)121ページ「和田春樹語録」、初出「天皇訪韓を中止せよ!『アジア女性基金』に巣喰う白アリたち」『諸君!』1999年2月号(出典は『世界』)

1ソ連 日本は北方領土の問題にこだわって日ソ関係を非常に悪いままにしている(1986年5月)

マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアは、スターリンのソ連においてともかくも実現された(1990年1月)

2中国 中国が東北アジアにおいて平和と安定のためによき働きをしているのは万人が認めている(1985年8月)
3朝鮮戦争 A(南侵:北朝鮮による韓国侵略か、北侵:韓国による北朝鮮侵略か)あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった(1984年3月)

B北朝鮮が決定してはじめた国土統一戦争(1998年3月)

4朝鮮南北分断 朝鮮の分断は日本の責任(1985年8月)
5北朝鮮 日本国家が40年完全に無視、敵視したままなのは本当に許されない、恥かしくかつ申し訳なく思う(1985年8月)

2000年までに和解の条約を締結するように全力を(1998年2月)

日韓条約を越える日朝条約をかちとれば、日韓条約もプラスアルファを余儀なくされ、南北双方に利益(1998年2月)

横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しない(2001年2月)

6ラングーン事件 韓国政府内部の人間がやったことも考えられる。北朝鮮の側が爆弾テロをやるということはありえない(1983年11月)
7日韓条約 日本が朝鮮植民地支配に対して謝罪せず……韓国国民の心に新しい傷をつくり出した(1984年3月)
8歴史教科書問題 韓国と中国の批判が、わが国の反動派、右派に衝撃を与えてくれた(1983年3月)
9天皇 あれだけ多くの他国民と臣民を殺させながら、責任をとって退位することもしません(1985年8月)
10慰安婦 A女子挺身隊の名のもと慰安婦として南方に送られ死亡(1982年8月)

B(最初は)慰安婦問題だけを取り出して運動できるとは思っていませんでした(1998年10月)

C(国連の)クワラスワミ報告が採択されたのはありがたかった(1997年7月)

11女性基金 女性基金を作ったことを活用し、これを国家補償につなげるものにしていく(1997年6月)

評価[編集]

重村智計[編集]

重村智計は、2002年の著書『最新北朝鮮データブック』(講談社現代新書)において、①和田は「北朝鮮を擁護する」「評価し喧伝する」「北朝鮮の主張を支持した」論文を書いた②和田は「拉致はない」と主張した③和田は「朝鮮戦争は韓国が始めた」と主張した④和田は「北朝鮮には自由はないが食べるものは十分にある」と批判したが、和田は事実無根、虚偽の記述として講談社に抗議文を送っている[92]

『最新北朝鮮データブック』19頁「日本では、北朝鮮を擁護する論者やメディアが『拉致はない』との論陣を張っていた。その代表的な論者は和田春樹東京大学名誉教授であり、岩波書店の雑誌『世界』がこうした主張を後押しした。『世界』は平成13年2月号で、和田名誉教授の『拉致はない』とする論文を掲載した」と記述している。対して和田は「横田めぐみさんの件については、最大の証言者とされた安明進の証言は信頼度が低いと判断されたので、引用の通り、『拉致されたかもしれないという疑惑が生じうる』というものであるとの結論を出しました。『拉致はない』とは言っておらず、拉致疑惑は認めうるとしているのですが、確証がないので、行方不明者として交渉するほかないと言っているのです」「原敕晁さんを拉致したという辛光洙の事件は『直接的な根拠、当事者の供述、証拠品からして』『拉致事件として問題にしうる』と述べています。はっきり『拉致である』としているのです」「『海岸まで久米さんを連れて行った在日朝鮮人の供述があり』、拉致の『疑惑は濃厚だが』、警察が立件しなかったので、『行方不明者として交渉するほかないだろう』としている」と反論しており、和田は「いずれのケースでも『拉致はない』と積極的に主張してはいないことは明らかです」と抗議している。対して講談社は、①和田論文は「拉致としてではなく『行方不明者として交渉するほかない』と結論づけて」いる②論文には「多くの事実誤認が含まれている」「事実誤認を基に『行方不明者として交渉するほかない』と結論づけられても、いささかの説得力を持ち得ません」③北朝鮮がテロ、大韓航空機爆破事件、拉致などの工作活動をくりかえしていた事実を直視せず、『行方不明者として交渉するほかない』と主張するのは、北朝鮮の外交姿勢を擁護する行為であることは明白です」④和田は『世界』1999年4月号掲載の論文で、「拉致事件も一般的には北朝鮮が公式に認めるはずもないことである」と書いており、「北朝鮮の外交手法を擁護していることは、明らかです」と回答している。『最新北朝鮮データブック』20頁「雑誌『世界』と和田名誉教授は、北朝鮮が膨大な工作機関を有する『工作国家』であった真実と拉致の事実に、目をつぶってきたのである。その一方で、北朝鮮を評価し喧伝する記事や論文を常に掲載しつづけた」と記述している。対して和田は「私が北朝鮮政府の行為、その独自の主張を支持している証拠を示さねばなりません。だが私はそのようなことをしたことはありません」と抗議している。講談社は「『掲載しつづけた』の主語は、雑誌『世界』であり、和田ではない、和田の2001年『世界』論文は北朝鮮が工作国家であるという認識がないままに書かれたことは明白です」と回答している。『最新北朝鮮データブック』26頁「和田春樹名誉教授のように、北朝鮮の主張を支持した学者や研究者たちは、『拉致はない』『朝鮮戦争は韓国が始めた』『北朝鮮には自由はないが食べるものは十分にある』などと主張した。しかし、こうした主張はことごとく間違いであった事実が、今では明らかにされている」と記述している。対して和田は「『朝鮮戦争は韓国が始めた』ということを一度も主張したことがない、私の著書『朝鮮戦争』(1995年)と『朝鮮戦争全史』(2002年)を一瞥すればわかるはずだ」「『北朝鮮には自由はないが食べるものは十分ある』というようなことを私は主張したことはないし、寡聞にして誰かがそのようなことを主張しているということを聞いたことがない」と反論している。講談社は「『拉致はない』『朝鮮戦争は韓国が始めた』『北朝鮮には自由はないが食べるものは十分にある』と主張したのは、北朝鮮の主張を支持した学者や研究者です。『和田春樹名誉教授のように』という一節は、『北朝鮮の主張を支持した学者や研究者たち』を修飾するものです。ただし、この箇所については、刊行後から社内から『文章がわかりにくい』との指摘があったため、2003年1月20日に刊行する第3刷より『和田春樹名誉教授のように』という一節を削除しております」と回答している。重村は、2013年の著作『激動!! 北朝鮮・韓国そして日本』において、2002年の拉致事件発覚以後「『横田めぐみさんの拉致はない』と、主張していた和田春樹教授や、雑誌『世界』、朝鮮総連が批判された。それでも、彼らはきちんと謝罪しなかった」と批判している。そして、韓国の軍事政権時代、朝鮮総連と北朝鮮を支持する学者、文化人、出版社は、日本人の差別感情を韓国にだけ向けさせる作戦を展開した結果、韓国否定の世論が広がったが、2002年の拉致事件発覚以後、朝鮮総連と北朝鮮を支持する学者、文化人、出版社が増幅した韓国蔑視感情が北朝鮮に向けられ、日本社会は北朝鮮批判と蔑視感情を高ぶらせ、朝鮮総連と北朝鮮を支持する学者、文化人、出版社は「北朝鮮バッシング」と批判しているが、重村は「彼らは、金大中拉致事件後の『韓国バッシング』を知らないか、差別感情を広めた北朝鮮の手先と言うしかないだろう」と述べている[93]

萩原遼[編集]

萩原遼は、和田を「金正日のエピゴーネン」、和田と高崎宗司の編著『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店、2003年)を「北朝鮮にかんする本の著者十数人に対する悪口雑言を書き連ねたまことに下品な本」として、和田が『北朝鮮本をどう読むか』所収の一節「いくつものペンネーム、いくつもの人生」において、萩原が渋谷仙太郎・井出愚樹・萩原遼のペンネームを用いたことを「そのつど生き方を変えてきた」と悪意に描いたが[94]、萩原は、金芝河の著作の翻訳して、高名にさせ、朴正煕の手の届かぬところまで祭り上げるために金芝河の著作を翻訳したが、その際に日本共産党関係者と関係があるだけで死刑にされる反共法の荒れ狂う韓国で日本共産党で働く萩原がいくつかのペンネームを用いたのはKCIAから金芝河を守るためであり、和田は「渋谷仙太郎というペンネームも、渋谷千駄ヶ谷の間、すなわち共産党本部のある代々木を指しており、共産党への彼の忠誠を表していたのであった」としているが、国電の渋谷と千駄ヶ谷の間には、原宿があることは常識であり、渋谷仙太郎のペンネームの由来は、『ソウルと平壌』(文春文庫、1998年)に書いたように、「当時勤めていた赤旗編集局の所在地が渋谷区千駄ヶ谷にあった」からだけであり[95]、和田は「日本の中で、金芝河を助ける運動が一挙に盛り上がった。すると、こんどは井出愚樹というペンネームで、この人は多くの本を出すようになった」としているが、日本共産党系列で金芝河の翻訳が刊行されるのは問題ということが救援関係者で議論され、萩原は「1974年9月19日、東京・代々木公園で社会党、共産党、公明党の3党首が合同で呼びかけ、金芝河、金大中ら韓国の民主化運動の闘士を支援する国民大集会を開いた。日本共産党が公然と金芝河の救援にのりだした以上、私が正体を隠す必要はなくなった。この日から私は、大学の学生細胞以来党内で使っていた井出愚樹のペンネームに戻した。渋谷仙太郎は『長い暗闇の彼方に』とともにおわった」と『ソウルと平壌』(244頁)に書いていが[96]、和田は『北朝鮮本をどう読むか』で、重村智計を「他人を批判するときは、相手が何を言っているか、しっかり読まなければならない」と批判しているが、萩原は「和田にそっくり当てはまる言葉である」と批判している[97]。萩原は、1968年以来、『赤旗』及びその他でも使用している共産党内外の文化関係のペンネームであり、本来のペンネームである井出愚樹を使用することに何がおかしいのか、「日本共産党が公然と救援に乗り出した以上、日本共産党の文筆家としてこの日から公然と国民運動に加わった」のであり「私をおとしめる目的のために当時の事情をなにも知らない和田が喋々すること自体、出過ぎたまね」と批判している[98]。また萩原によると、金芝河の翻訳が刊行されるのは問題ということが救援関係者で議論されたが、その議論の張本人は和田であり、「井出愚樹は共産党の人間であるから翻訳をやらせるのは金芝河に迷惑がかかる、と説いてまわり、韓国の金芝河の家族などにも手を回して」、萩原と金芝河の離反を精力的に画策していたのが和田だという[99]。萩原が関係出版の編集者から聞いた話によると、和田の狙いは萩原と金芝河を離反させることにより、金芝河の著作物を独占することだったという。これについて萩原は、寄稿を求められた『東大学生新聞』に「金芝河救援を口実に金芝河を苦しめている」エセ救援者と和田を名指しで批判、萩原は「拉致は証拠がないとくりかえし主張して、国民的批判を浴びた和田の一連の言動をみるにつけ、彼の動きの周辺にはつねにうさんくさい策動がつきまとっている」と評している[100]。また和田は『北朝鮮本をどう読むか』で、「萩原遼というペンネームが現れるのは、1980年の『淫教のメシア文鮮明伝』が最初である」としているが、萩原は1969年1月15日に『赤旗』記者になった日から萩原遼のペンネームを使用しており、平壌特派員時代にも萩原遼名義で執筆しており、「みえすいたデマ」にたよって、萩原が1980年頃から統一教会批判や大韓航空機爆破事件批判など、「(日本と韓国・北朝鮮の)問題を民族、国家の対立に流す傾向を見せている」「ここに今日の萩原遼の相貌がみえてきたように思える」と、「わけのわからないこじつけをのべている」が、萩原が北朝鮮を批判しているのが和田は気に入らないのだろうと指摘している[101]

金賢姫は自白会見で1972年の南北調節委員会の会議にきた韓国の客に花束を渡したと述べたが、萩原はそれを取材しており、当日の写真を見つけ、『グラフこんにちは』に「金賢姫らしい少女」を発表したが、『読売新聞』記者の知人が「あなたの写真は間違いで、金賢姫はこれですよ」と別角度の写真を提示、その写真の提供を受け、経過を『ソウルと平壌』『北朝鮮に消えた友と私の物語』に詳述したが、和田は『北朝鮮本をどう読むか』で、これらの事実を故意に無視して「のちに萩原がたくみに取り消したように、この写真は別人のものだったのである」と批判したが、萩原は、取り消していないどころか、経過も証拠写真も公表しており、取り消したいのであれば、『読売新聞』記者の話や写真を載せることなく握りつぶせばよいことであり、「金賢姫らしい少女」の隣の女の子が本当の金賢姫というのが萩原と『読売新聞』記者の一致した見解であり、先頭グループのなかに本当の金賢姫はおり、また『グラフこんにちは』には「金賢姫らしい少女」と紹介しており、完全な誤報ではないし、そもそも自著ですべて公表していると述べている[102]

和田は萩原『ソウルと平壌』に出てくる北朝鮮の印象を取り上げ、「このような印象だけを書き連ねているのを読むと、萩原は、北朝鮮がもののゆたかな、愉快な、自由な社会だと考えて、平壌へ行ったのかと問いたくなる」「自分が研究の対象に選んだ国に行けば、その国の人びとと心を通わせるチャンスを大事にし、その人びとと喜びと悲しみをともにするという気持ちで生活するのが研究者の常識である」と萩原を批判しているが、萩原は「知ったかぶりで、ソ連中国東欧もみな反政府思想や異端思想は抑圧される、とわかったようなことを言って私にこう説教をする」が、こしゃくな言いぐさであり、心を通わせるなら人と会わなければならないが北朝鮮で外国人が監視者の立会なしに会えるのか、会うためには外出しなければならないが一人で外出する自由があるか、心を通わせるには複数回は会う必要があるがどこで会うのか、喫茶店飲み屋もない、外国人に自宅を訪問されるとスパイを嫌疑され、ホテルは国家安全保衛部の監視があり普通の朝鮮人はホテルに入れず、「和田のこういう気楽な発想は、フランス革命当時の『パンがなければお菓子を食べればいいではないか』と叫んだ王妃マリー・アントワネットを思い出させるお笑いである。この男は、北朝鮮はおろかソ連のことも他の社会主義国の実態も知らないおめでたい人間であることが、うかがえ」、北朝鮮について認識がこの程度だから拉致などやるはずがないと思い込んだのだろうと批判している[103]

萩原は「とうてい許されない反社会的な行為」を和田がおこなっているとして、萩原が1996年に編集・解説して大阪・夏の書房から出版された『北朝鮮の極秘文書』全3巻が韓国の高麗書林海賊版を出版し、和田はこの「反社会的出版物」を権威のある図書のように『朝鮮戦争全史』(岩波書店、2002年)の参考文献で紹介・引用して萩原を非難しているが、『北韓解放直後極秘資料』は、萩原が3年近くかけてワシントンで収集した資料をそっくり自分たちで収集したと偽り、出版、売りさばいており、萩原は「なんでも知っていることが自慢で、韓国で出ている盗作本まで知っている和田氏が日本で出た私のオリジナル本を知らないとは考えられない。故意に無視したのであろうが、反社会的な盗作本を巻末の文献目録にれいれいしく掲げたり、随所に引用したりして、あたかも価値ある文献であるかのように紹介し、社会的に認知するがごときは、和田氏もまた反社会的な行為に加担する者といわざるをえない。岩波書店にも盗作本を引用した該当箇所をただちに削除し、私のオリジナル本と差しかえることを要求する」と『諸君!』(2002年9月号)で差し替えを要求したが[104]、音沙汰なく、萩原は「これ以上反社会的行為が是正されないならば法的措置もとらざるをえない」と『諸君!』(2003年8月号)において批判している[105]

萩原は、和田の萩原に対する反論めいた手口は「あれが足りない、これが抜けている、と重箱の隅をつつくあら捜し」であり、和田の著作は年表を綴るように事項を並べているが、「私はもともと年表など書くつもりはないのだ。凡庸な学者がおのれの甲羅に似せて穴を掘るのは、それはそれでよい。だが、それをジャーナリストの仕事にまで当てはめさせようとお門ちがいもはなはだし」く[106]、萩原が朝鮮戦争における北朝鮮の戦先攻を北朝鮮の内部文書で明らかにしたことが、「和田はそれが口惜しく、自分も1990年に主張していたという。朝鮮語の一次資料にも当たらない者が、そして当たるだけの朝鮮語の力のない者が、なぜそういうことが言えるのか。事実と資料による裏づけのないものはただの駄法螺にすぎない。これなら研究はいらない。子供でも言えるのだ」として、和田の萩原への非難は「すべてデマか根拠のない憶測」「これが研究者とか学者を名乗る人間の言辞であろうか」と批判している[107]。萩原は、和田は「拉致は証拠がない」とデマを書いたことから、国民的な反発を受けたが、その核心は「和田は人を非難するなら、なぜ直接その人に取材をしないのか、取材すれば誤報や誤解は防げたはずだ」というものであり、対して和田の答えは「取材したから真実がわかるものでもない、真実の探求などどうでもいい」というものであり、「自分の主観的判断を至上とするきわめて傲慢な言いぐさ」であり、萩原は和田のデマの手口として①あからさまなデマを流す②つまらぬ部分を褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませる③表むき評価するとみせかけてその裏でけなす④デマを垂れ流すのに必須の要件は取材や真実究明の作業をしないことを挙げている[108]

八木秀次[編集]

八木秀次は、和田は「(横田めぐみ拉致について)疑惑が生じうるという以上の主張は導き出せないと思われる」と疑問視していたとして、八木は「にもかかわらず、金正日が拉致を認めてからも、自らの事実認識の甘さについてまったく反省していない。ちなみに和田氏は、『従軍慰安婦』問題では熱心に日本の責任を追及していた人物である」と評している[109]

川人博[編集]

八木秀次によると、川人博弁護士東大講師)は著書『金正日と日本の知識人』で、「日頃、人権擁護を主張する日本の学者・弁護士の多くが、なぜか北朝鮮による拉致・人権問題になると、独裁者に大変寛大な態度をとる」「今日において、金独裁体制の継続を望むのは、独裁者に追随する勢力か、独裁者を利用する勢力か、独裁者の御用学者だけである」として、和田を批判している[109]

山脇直司[編集]

山脇直司は、北朝鮮による拉致という国家犯罪は絶対に許してはならないし、左翼知識人の過去の言動は徹底的に糾弾されてしかるべきだろう、と批判した[110]

略歴[編集]

著作[編集]

単著[編集]

  • 『近代ロシア社会の発展構造――1890年代のロシア』(東京大学社会科学研究所, 1965年)
  • 『ニコライ・ラッセル――国境を越えるナロードニキ](上・下)』(中央公論社, 1973年)
  • 『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』(勁草書房, 1975年)
  • 『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』(東京大学出版会, 1978年)
  • 『韓国民衆をみつめること』(創樹社, 1981年)
  • 『韓国からの問いかけ――ともに求める』(思想の科学社, 1982年)
  • 『私の見たペレストロイカ――ゴルバチョフ時代のモスクワ』(岩波書店岩波新書], 1987年)
  • 『北の友へ南の友へ――朝鮮半島の現状と日本人の課題』(御茶の水書房, 1987年)
  • 『ペレストロイカ――成果と危機』(岩波書店[岩波新書], 1990年)
  • 北方領土問題を考える』(岩波書店, 1990年)
  • 『ロシアの革命1991』(岩波書店, 1991年)
  • 『開国――日露国境交渉』(日本放送出版協会[NHKブックス], 1991年)
  • 『金日成と満州抗日戦争』(平凡社, 1992年)
  • 『歴史としての社会主義』(岩波書店[岩波新書], 1992年)
  • 『ロシア・ソ連』(朝日新聞社, 1993年)
  • 朝鮮戦争』(岩波書店, 1995年)
  • 『歴史としての野坂参三』(平凡社, 1996年)
  • 『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(岩波書店, 1998年)
  • 『北方領土問題――歴史と未来』(朝日新聞社[朝日選書], 1999年)
  • 『ロシア――ヒストリカル・ガイド』(山川出版社, 2001年)
  • 『朝鮮戦争全史』(岩波書店, 2002年)
  • 『朝鮮有事を望むのか――不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(彩流社, 2002年)
  • 『日本・韓国・北朝鮮――東北アジアに生きる』(青丘文化社, 2003年)
  • 『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』(平凡社, 2003年)
  • 『同時代批評――日朝関係と拉致問題』(彩流社, 2005年) 
  • 『テロルと改革――アレクサンドル二世暗殺前後』(山川出版社, 2005年)
  • 『ある戦後精神の形成 1938-1965』(岩波書店, 2006年)
  • 『日露戦争 起源と開戦』(岩波書店, 2009-10年)
  • 『日本と朝鮮の一〇〇年史 これだけは知っておきたい』平凡社新書、2010 
  • 『領土問題をどう解決するか 対立から対話へ』平凡社新書、2012
  • 『北朝鮮現代史』岩波新書、2012
  • 『慰安婦問題の解決のために アジア女性基金の経験から』平凡社新書 2015

共著[編集]

編著[編集]

  • 『レーニン』(平凡社, 1977年)
  • 『ロシア史の新しい世界――書物と史料の読み方』(山川出版社, 1986年)
  • 『ペレストロイカを読む――再生を求めるソ連社会』(御茶の水書房, 1987年)
  • 『ロシア史』(山川出版社, 2002年)

共編著[編集]

職のいきさつから東京大学社会科学研究所の研究者との共著が多い。

  • (高崎宗司)『分断時代の民族文化――韓国創作と批評論文選』(社会思想社, 1979年)
  • 梶村秀樹)『韓国の民衆運動』(勁草書房, 1986年)
  • (梶村秀樹)『韓国民衆――学園から職場から』(勁草書房, 1986年)
  • (梶村秀樹)『韓国民衆――「新しい社会」へ』(勁草書房, 1987年)
  • 小森田秋夫近藤邦康)『「社会主義」それぞれの苦悩と模索』(日本評論社, 1992年)
  • (近藤邦康)『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』(東京大学出版会, 1993年)
  • 田中陽兒倉持俊一)『世界歴史大系 ロシア史(全3巻)』(山川出版社, 1994-1997年)
  • 家田修松里公孝)『スラブの歴史』(弘文堂, 1995年)
  • 水野直樹)『朝鮮近現代史における金日成』(神戸学生青年センター出版部, 1996年)
  • 大沼保昭下村満子)『「慰安婦」問題とアジア女性基金』(東信堂, 1998年)
  • 隅谷三喜男)『日朝国交交渉と緊張緩和』(岩波書店, 1999年)
  • 石坂浩一)『現代韓国・朝鮮』(岩波書店, 2002年)
  • (高崎宗司)『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店, 2003年)
  • 『「韓国併合」100年を問う 『思想』特集・関係資料』趙景達,宮嶋博史,李成市共編 岩波書店 2011
  • 『岩波講座東アジア近現代通史』全10巻 後藤乾一,木畑洋一,山室信一,趙景達,中野聡,川島真共編 岩波書店 2010-11
  • 『日韓歴史問題をどう解くか 次の100年のために』内海愛子,金泳鎬, 李泰鎮共編 岩波書店 2013
  • 『慰安婦問題とアジア女性基金 デジタル記念館』村山富市共編 青灯社 2014

訳書[編集]

  • 金大中獄中書簡』金学鉉, 高崎宗司共訳(岩波書店, 1983年)
  • アレク・ノーヴスターリンからブレジネフまで――ソヴェト現代史』(刀水書房, 1983年)
  • アレクサンドル・チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』(晶文社 1984年)のち平凡社ライブラリー 
  • 『資料集コミンテルンと日本共産党』G.M.アジベーコフ共監修 富田武共編訳 岩波書店 2014

家族[編集]

夫人はロシア文学者和田あき子。長女の和田真保練馬区区議会議員をつとめた。

脚注[編集]

  1. ^ 萩原遼は、「これ以上恥をかくことなく、世間に迷惑をかけないよう、もとの専門と称するロシア史の研究に戻って、静かに余生を送るがよかろう」「ロシア史の専門家ながら朝鮮問題も勉強している感心な人とほほえましい思いで眺めてきた」と述べている「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号187頁、「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号145頁
  2. ^ 朝日新聞』2017年1月25日 夕刊 P.4「人生の贈り物 わたしの半生」
  3. ^ 朝日新聞』2017年1月26日 夕刊 P.4「人生の贈り物 わたしの半生」
  4. ^ 朝日新聞』2017年1月27日 夕刊 P.4「人生の贈り物 わたしの半生」
  5. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、113頁。ISBN 978-4163593104
  6. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、115頁。ISBN 978-4163593104
  7. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、120頁。ISBN 978-4163593104
  8. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、122頁。ISBN 978-4163593104
  9. ^ 和田春樹論 [要高次出典]
  10. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、117頁。ISBN 978-4163593104
  11. ^ “韓国の教科書論争”. 世界日報. オリジナル2014年6月27日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20140627010025/http://vpoint.jp/world/korea/15102.html 
  12. ^ 和田春樹「北朝鮮が決定してはじめた国土統一戦争」『世界』平成10年3月号
  13. ^ 『週刊朝日百科日本の歴史124』(1988年朝日新聞社)P84-p89
  14. ^ a b 京郷新聞』2001年9月21日
  15. ^ “"강정구의 '남침유도설', '위스콘신 좌파 고향'선 고개 숙였는데"”. 朝鮮日報. (2005年10月11日). オリジナル2005年10月13日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20051013074809/http://www.chosun.com/editorials/news/200510/200510110224.html 
  16. ^ “弟子であることが恥ずかしい、「韓国戦争は統一内戦」とした姜教授を批判”. 中央日報. (2005年8月4日). オリジナル2016年11月23日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161122194053/http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=66303 
  17. ^ a b “姜禎求被告、「国保法違反」で有罪判決”. 東亜日報. (2006年5月27日). オリジナル2016年11月23日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161122194653/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/293406/1 
  18. ^ “盧大統領「6.25は内戦」と左派表現”. 中央日報. (2006年11月21日). オリジナル2016年11月23日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161122193533/http://japanese.joins.com/article/976/81976.html?sectcode=&servcode=200 
  19. ^ “때가 되면 등장하는 日좌익 '와다 하루키(和田春樹)'”. NewDaily. オリジナル2016年11月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161124173722/http://newdaily.co.kr/news/article_s.html?no=190868&rvw_no=1559 
  20. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、185頁
  21. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、186頁
  22. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、142頁
  23. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、143頁
  24. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、144頁
  25. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、147頁
  26. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、148頁
  27. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、149頁
  28. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、149頁
  29. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、149頁
  30. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、186頁
  31. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、150頁
  32. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、185頁
  33. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、186頁
  34. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、185頁
  35. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、187頁
  36. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、150頁
  37. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、187頁
  38. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、187頁
  39. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、188頁
  40. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、149頁
  41. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、150頁
  42. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、188頁
  43. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、188頁
  44. ^ 『金日成―その衝撃の実像』 講談社1992年4月、194頁。ISBN 978-4062058636
  45. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、189頁
  46. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、189頁
  47. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、189頁
  48. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、189頁
  49. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、190頁
  50. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、190頁
  51. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、191頁
  52. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、191頁
  53. ^ 在日朝鮮統一民主戦線機関紙『解放新聞』1953年9月22日第561号
  54. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、192頁
  55. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、192頁
  56. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、191頁
  57. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、192頁
  58. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、193頁
  59. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、186頁
  60. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、193頁
  61. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、147頁
  62. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、146頁
  63. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、146頁
  64. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、146頁
  65. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  66. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  67. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  68. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、148頁
  69. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、151頁
  70. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、152頁
  71. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、144頁
  72. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、145頁
  73. ^ 「東大教授か、デマゴーグか」『諸君!』1995年4月号、145頁
  74. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、186頁
  75. ^ 2001年1月号『世界』「日本人拉致疑惑」を検証する[上]和田春樹[1]
  76. ^ 2001年2月号『世界』「日本人拉致疑惑」を検証する[下]和田春樹[2]
  77. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  78. ^ a b 鄭大均 『韓国のイメージ』 中央公論新社2010年9月ISBN 978-4121912695、p107-108
  79. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、128頁。ISBN 978-4163593104
  80. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、122頁。ISBN 978-4163593104
  81. ^ a b c ハンギョレ新聞(韓国語)2008年7月27日。
  82. ^ 和田春樹氏「日本は韓国の主張認めるべき」=独島問題、聯合ニュース、2013年10月1日
  83. ^ a b c d e f g 週刊文春』2004年3月25日号、加藤昭「韓国親北政権の罪第二弾 盧武鉉弾劾の真実大統領府に北のスパイが浸透していた」
  84. ^ a b 日韓併合、首相談話で無効宣言を 『共同通信』 平成22年7月28日配信
  85. ^ 扶桑社中学校社会科歴史教科書の近現代史部分(第4,第5章)の問題点 [3]
  86. ^ 『朝まで生テレビ』 (テレビ朝日)
  87. ^ 初版〜4版の各版とも1903年5月上旬に『露軍、鴨緑江を超えて竜岩浦に至り、軍事根拠地の建設を開始』と記載
  88. ^ 世界』 1986年5月号
  89. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、110頁。ISBN 978-4163593104
  90. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、122頁。ISBN 978-4163593104
  91. ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文藝春秋2003年1月、120頁。ISBN 978-4163593104
  92. ^ 和田春樹『同時代批評』所収「重村智計『最新北朝鮮データブック』(講談社現代新書)の記述に抗議する」彩流社、2005/03、ISBN 978-4882029588
  93. ^ 重村智計『激動!! 北朝鮮・韓国そして日本』実業之日本社、2013/5/16、ISBN 978-4408109947、p54
  94. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、178頁
  95. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、179頁
  96. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、180頁
  97. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、181頁
  98. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、180頁
  99. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、181頁
  100. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、182頁
  101. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、182頁
  102. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、184頁
  103. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、184頁
  104. ^ 「駁論 和田春樹氏『朝鮮戦争全史』への反論」『諸君!』2002年9月号、191頁
  105. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、186頁
  106. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  107. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  108. ^ 「『和田春樹』よ、北朝鮮よりさらに北へ去れ」『諸君!』2003年8月号、187頁
  109. ^ a b 八木秀次 『「人権派弁護士」の常識の非常識』 PHP研究所2008年ISBN 978-4569697314 、p117
  110. ^ 山脇直司「日本外交の哲学的貧困」『論座』 2004年3月号

注釈[編集]

外部リンク[編集]