朝鮮戦争

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朝鮮戦争
한국 전쟁(韓国戦争)
조국해방전쟁(祖国解放戦争)
Korean War
Korean War Montage 2.png
上段:長津湖の戦いで撤退する米第1海兵師団
中段左:アメリカ空軍F-86
中段右:仁川上陸作戦で揚陸中のLST
下段左:仁川に上陸するバルドメロ・ロペス中尉率いる海兵隊員
下段右:M26戦車の前に立つ韓国人難民
戦争冷戦
年月日1950年6月25日 - 1953年7月27日
(名目上は継続中)
場所朝鮮半島
結果:南北分断状態のまま休戦協定が結ばれ、現在に至る
交戦勢力
国際連合の旗 国連軍
韓国の旗 韓国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス

戦闘支援
コロンビアの旗 コロンビア
フランスの旗 フランス
カナダの旗 カナダ
オランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
トルコの旗 トルコ
タイ王国の旗 タイ
フィリピンの旗 フィリピン
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
ギリシャの旗 ギリシャ王国
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
Flag of Ethiopia (1897-1936; 1941-1974).svg エチオピア帝国
南アフリカの旗 南アフリカ連邦


医療支援
デンマークの旗 デンマーク
インドの旗 インド
イタリアの旗 イタリア
イスラエルの旗 イスラエル
ノルウェーの旗 ノルウェー
スウェーデンの旗 スウェーデン


掃海及びその他支援
日本の旗 日本
エルサルバドルの旗 エルサルバドル
キューバの旗 キューバ
スペインの旗 スペイン
中華民国の旗 中華民国台湾

朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
中華人民共和国の旗 中華人民共和国中国人民志願軍
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(顧問団派遣及び物資支給)

医療支援
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
ハンガリーの旗 ハンガリー
ブルガリアの旗 ブルガリア
ポーランドの旗ポーランド
ルーマニアの旗 ルーマニア


その他支援
インドの旗 インド
モンゴル人民共和国の旗 モンゴル

指導者・指揮官
大韓民国の旗 李承晩
大韓民国の旗 蔡秉徳
大韓民国の旗 丁一権
大韓民国の旗 李鍾賛
大韓民国の旗 白善燁
大韓民国の旗 林富澤
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗 ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗 ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 マシュー・リッジウェイ
アメリカ合衆国の旗 マーク・ウェイン・クラーク
アメリカ合衆国の旗 ウォルトン・ウォーカー
アメリカ合衆国の旗 ジェームズ・ヴァン・フリート
アメリカ合衆国の旗 マクスウェル・D・テイラー
イギリスの旗 ジョージ6世
イギリスの旗 エリザベス2世
イギリスの旗 クレメント・アトリー
イギリスの旗 ウィンストン・チャーチル
オーストラリアの旗 ロバート・メンジーズ
カナダの旗 ルイ・サンローラン
フィリピンの旗 エルピディオ・キリノ
フィリピンの旗 フィデル・ラモス
コロンビアの旗 グスタボ・ロハス・ピニージャ
トルコの旗 タハシン・ヤズシュ
朝鮮民主主義人民共和国の旗 金日成
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朴一禹
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朴憲永
朝鮮民主主義人民共和国の旗 崔庸健
朝鮮民主主義人民共和国の旗 金策
朝鮮民主主義人民共和国の旗 南日
朝鮮民主主義人民共和国の旗 金雄
朝鮮民主主義人民共和国の旗 武亭
朝鮮民主主義人民共和国の旗 方虎山
中華人民共和国の旗 毛沢東
中華人民共和国の旗 彭徳懐
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・マレンコフ
戦力
大韓民国の旗 590,911(国民防衛軍 406,000[1]
アメリカ合衆国の旗 480,000
イギリスの旗 63,000
カナダの旗 26,791
オーストラリアの旗 17,000
フィリピンの旗 7,430
トルコの旗 5,455
コロンビアの旗 5,100
ニュージーランドの旗 3,972
フランスの旗 3,421
ニュージーランドの旗 1,389
タイ王国の旗 1,294
エチオピアの旗 1,271
ギリシャの旗 1,263
ベルギーの旗 900
南アフリカの旗 826
ルクセンブルクの旗 44
朝鮮民主主義人民共和国の旗 260,000
中華人民共和国の旗 780,000(諸説有り)
ソビエト連邦の旗 26,000
損害
韓国軍 281,161
アメリカ軍 40,677
イギリス軍 1,257
国連軍 1,831
民間人 676,811
北朝鮮軍 294,000
中国軍 135,600
民間人 1,086,000
韓国での表記
各種表記
ハングル 한국 전쟁 / 육이오 사변
漢字 韓國戰爭 / 六二五事變
発音 ハングク・チョンジェン/ユギオ・サビョン
日本語読み: かんこくせんそう/ろくにご じへん
ローマ字転写 Hanguk jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon
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北朝鮮での表記
各種表記
ハングル 조국해방전쟁
漢字 祖國解放戰爭
発音 チョグッケバンジョンジェン
日本語読み: そこくかいほうせんそう
ローマ字転写 Chogukhaebang-chŏnjaeng
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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争[2][3]

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国と1949年10月1日に建国された成立間もない中華人民共和国が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化した後に荒廃させた。1953年7月27日中朝連合軍国連軍朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

現在も南北朝鮮の両国間、及び朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、休戦直後の1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約に基づいて大韓民国は北朝鮮を想定した米韓合同軍事演習を度々行い、他方朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国への領空領海侵犯を契機に武力衝突を勃発させている。

目次

概説[編集]

第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国カイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表し、1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて四国による朝鮮の信託統治が合意された[4]

1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍赤軍)は8月13日当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日大統領に昇格したハリー・S・トルーマン反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。

1945年8月15日日本ポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし8月24日平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領し、既に建設されていた朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施し、朝鮮半島南部には9月8日仁川に上陸したアメリカ軍朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を実施、朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた[5]

その後、米ソの対立を背景に1948年8月15日に南部には大韓民国が建国され、追って翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスフィリピンオーストラリアベルギータイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」。実態は中国人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達訓練などのかたちで支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した。

  • 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。

呼称[編集]

呼称に関しては、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)または朝鮮戦争と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。

開戦までの経緯[編集]

第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況[編集]

第二次世界大戦の連合国会議によって、降伏後の日本が朝鮮半島を含む海外領土の統治権を放棄することは既定方針であり、1945年7月26日に発表されたポツダム宣言に置いてもその方針は明らかにされていた。8月、ソ連軍の朝鮮半島侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり[6]、アメリカ軍の占領域に首都ソウルが含まれる事も考慮されていた[7][8]ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に8月16日に合意し、8月17日には一般命令第一号英語版として、38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された[9]日本政府は8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告、日本の降伏が決定された。ソ連軍は8月16日以降に本格的な侵攻を開始し、27日には38度線付近の都市新義州に至った[7]9月2日日本は降伏文書に署名、正式に降伏した。この際に一般命令第一号は日本側に伝達され、大本営は朝鮮半島に駐留していた日本軍に対し、一般命令第一号に従って降伏するよう通告した。

日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあり、その勢力は小さく亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海大韓民国臨時政府中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。

このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった[10][11]朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[12]

朝鮮建国準備委員会[編集]

朴憲永(左)と呂運亨(右)
米軍の訪問を受ける建国準備委員会の済物浦(仁川)支部

諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し8月10日、密かに建国同盟を結成していた。その2日前の8月8日参戦したソ連8月9日豆満江を越え、朝鮮半島に侵攻してきた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。超党派による建国を目指した。

呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。9月6日、同委員会は朝鮮人民共和国の成立を宣言。その要人には李承晩金日成朴憲永金九曺晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。

一方、連合国はすでに戦時中の諸会談で、自身の主導による朝鮮半島の信託統治を決定していた(後述)。彼らにとって朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。また総督府も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱し、さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。9月8日仁川にアメリカ軍が上陸。呂は面会を求めるが拒絶される。翌9月9日、総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲。9月11日アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。

建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。さらに反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、9月16日宋鎮禹をトップとする韓国民主党(韓民党)を立ち上げ、上海から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。

建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治を放棄した後、行政機構として一定の機能を果たしたとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であり、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。

朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を初めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちも次々に帰国し、独自の政治活動を展開していた。しかしこの過程で、朝鮮半島に発生した各政府はいずれも連合国全体からの承認を得られなかった。

信託統治案[編集]

連合国による信託統治に抗議する南朝鮮のデモ

アメリカは戦前の検討の中で、朝鮮には信託統治を適用するべきと考えていた。1942年には朝鮮半島の国民は貧しく、文盲が多いため一世代は強大国の保護と支援が与えられなければならないという報告書が出されており、これはアメリカの朝鮮半島政策の根幹となった[13]。アメリカ大統領ルーズベルトは、1943年2月のアンソニー・イーデン英外相との対談でこの構想をはじめて明かした[14]。1943年11月22日のカイロ宣言では、朝鮮は自由かつ独立するべきとされていたが、「しかるべき手続きを踏んで」という、信託統治機関に含みをのこす形で発表された[15]。その後のテヘラン会談で「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」とし、ソ連のスターリンもこれに同意した[16]1945年2月のヤルタ会談では「20〜30年間は信託統治すべき」とし、それに対してスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答していた[17]。長期間の信託統治を提案したルーズベルトは1945年4月12日に死去したが、同月にモスクワでは米英ソ中の4カ国による信託統治が原則的に合意されている[17]。しかしその後、朝鮮問題についての詳細な打ち合わせは両国間で行われなかった[18]

1945年12月、ソ連の首都モスクワでアメリカ、イギリス、ソ連は外相会議を開いたが(モスクワ三国外相会議)、朝鮮半島問題も議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として、暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。この提案は合意され(モスクワ協定)、12月27日に公表された[19]。その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。

ところが韓国民主党系新聞の東亜日報が協定について「アメリカはカイロ宣言を根拠に朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった(東亜日報#捏造記事・疑義が持たれた報道)。12月31日の集会とデモは空前の規模に達した。

信託統治に対してはほとんどの派が完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。右派は信託統治では反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。軍政庁にとって行政運営上、朝鮮人登用は必要であり、過激な運動を抑える治安問題の解決のため、即時独立に固執せずアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用した。さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認してしまった。ここに李承晩が合流した。

一方ソ連占領区域では、現在の北朝鮮政府が「各地で自発的に生まれた」と自称する人民委員会1945年10月までに朝鮮総督府の統治組織を接収した。ソ連は1945年11月に朝鮮民主党を起こした曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかったため、代わりに朝鮮共産党の北部分局のトップに過ぎなかった金日成の支援に回った。ソ連の後ろ盾を得た金日成によってその後、国内の他の共産主義者たちは時間をかけて粛清されていくことになる。

アメリカとソ連は、1946年1月16日からの予備会談を経て、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、李承晩などが反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張、ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、5月6日委員会は決裂、信託統治案は頓挫した。

反米化する国内、米ソ対立[編集]

金日成(右)
李承晩(左)

不調に終わった米ソ共同委員会の再開を目指すアメリカ政府は、軍政庁の親米派(李承晩金九など)に偏重した政策[20]を批判、極左、極右を排斥して呂運亨などによる左右合作の親米政権の樹立を画策し始めた。

アメリカは常に朝鮮問題は東西対立の一部としてみなし、対立となる要素を国内からアメリカが主導して排除することに腐心した。一方ソ連は、朝鮮人自身の南北問題とみなし、ソ連と主義を一にする朝鮮人主導者を立てて統一を支援した。

ソ連占領下の北半部では、1946年2月8日金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行して共産主義国家設立への道を歩み出した。これに対抗して李承晩は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた(6月3日の「井邑発言」)。金九などはこれに反発して離反した。

そのころ国内はインフレが進行し失業者が急増。5月には水害と疫病(コレラ)が発生し1万人規模で死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生する。軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力で暴動鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネスト発生。10月には大邱10月事件が発生、全国で230万人が参加する騒乱となった。軍政庁は戒厳令を敷き鎮圧したが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁は一連の騒動の責任を左派、特に朝鮮共産党から11月に結成した南朝鮮労働党に求め、朴憲永などは弾圧を避けて越北した。

1947年3月12日トルーマン大統領は、イギリスがギリシャ内戦への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言(トルーマン・ドクトリン)。それ以降、南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。そこへ反共活動のため渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。1947年6月には軍政と対立したまま李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂。それを機に北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。

金日成は1948年3月に、南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(1910年から1945年の間、朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心に水豊ダムなどの水力発電所を建設し、そのため南半部は電力を北半部に依存していた)。一方、李承晩は韓国内で朝鮮労働党を参加させない選挙を実施し、正式国家を樹立させることを決断した。1948年、済州島では南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件も発生した(済州島四・三事件)。

分断の固定化と対立[編集]

南北の分離独立[編集]

ソウルで行われた大韓民国の国家成立記念式典

1948年8月15日ソウル李承晩大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。建国後、南北両政府の李承晩大統領は「北進統一」を、金日成首相は「国土完整」を主張し、共に政治体制の異なる相手国を屈服させることによる朝鮮半島統一を訴えた[21]

その後、金日成は李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日ジュネーブ条約に調印し[22]麗水・順天事件を受けて南朝鮮労働党をはじめとする国内の左翼、反李承晩勢力除去の為に11月国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした[23]

同じ頃、地続きの中国大陸ではソ連の支援を受けていた毛沢東主席率いる中国共産党国共内戦に勝利し、1949年10月1日中華人民共和国が建国された。一方、敗北した中国国民党蒋介石総統率いる中華民国政府は台湾に脱出した(台湾国民政府)。アメリカ合衆国は、蒋介石率いる国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、合衆国政府内の中国共産党共感者(チャイナ・ハンズ)やスパイの影響を受けて援助を縮小していた。

李承晩の対日行動とアメリカの誤算[編集]

韓国に到着したダグラス・マッカーサーを迎える李承晩大統領

反共主義者であると同時に頑迷な反日家でもあった李承晩は、今度はポツダム宣言で日本が放棄したとする日本領土について、返還を主張し始めた。さらに、大統領就任3日後の1948年8月18日、記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた[24]。国内政治では、李承晩は1948年に反民族行為処罰法を制定し、この法律に基づいて1949年反民族行為特別調査委員会が設置され、以後大韓民国では「親日反民族行為者」が法的に認定されている。

1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「西太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、台湾や朝鮮半島は地政学上大陸と大洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。

さらに、極東地域のアメリカ軍を統括していた合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下に置いた日本の統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった[25]。金日成はこれらを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。

スターリンによる侵攻容認[編集]

これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月にはモスクワで、T34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。

これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。

南北の軍事バランス[編集]

北朝鮮軍のイリューシンIl-10

開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。

これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製の新鋭戦車であるT34/85戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10アントノフAn-2など航空機211機を有していた。また、上のソ連や中国との協定に基づき、1949年夏より独ソ戦でスターリングラードの戦いなどに参加した朝鮮人ソ連軍兵士五千名が帰国、また中国からは、朝鮮族で構成された国共内戦の経験を持つ東北人民解放軍の3個師団と2個連隊が朝鮮人民軍に移籍され、3万を超える実戦経験者が増強された。

また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。

参戦国一覧[編集]

国連軍[編集]

その他インドなど
日本は参戦国に算入されていないが、#日本の参加と日本特別掃海隊の節に記している通り、国連軍の要請(事実上の命令)により特別掃海隊などを派遣、死者も出している。

在日義勇兵[編集]

在日韓国人の団体である在日本大韓民国民団は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定した志願兵の募集を行ったが在日韓国人647名、日本人150名の志願者にとどまったため[27]、志願に応じた在日韓国人641名を選抜して韓国に送り込んだ(在日学徒義勇軍)(135名戦死、行方不明。242名韓国に残留)[28]

アメリカ海軍予備船隊[編集]

アメリカ合衆国はこの戦争遂行に際し、国防予備船隊から第二次大戦時に大量建造して保管されていた輸送船舶の内、540隻を軍隊輸送支援のため動員した。また戦争期間中は世界的に海上輸送力に不足を来たした時期にも重なっており、1951年から1953年までは国防予備船隊より600隻以上が北欧への石炭輸送とインドへの穀物輸送(民需輸送)に使用されている[29]

北朝鮮・ソ連・中国連合軍[編集]

  • 朝鮮民主主義人民共和国:兵力135,000人[要出典]
  • 中華人民共和国(抗美援朝義勇軍)兵力780,000人
  • ソビエト連邦:兵力72,000人(金日成に武器を援助している。また、ソ連軍パイロットが中国兵に扮し局地的な戦闘を行っていた)

戦争の経過[編集]

北朝鮮の奇襲攻撃[編集]

朝鮮半島を南北に移動する戦線
破壊されたソウル市内の建物

1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。このことを予測していなかった李承晩とアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、ソ連崩壊後のロシア中華人民共和国ではこのような主張が否定されている。

前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。

連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。

トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給、海軍第7艦隊中華民国台湾国民政府への出動を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。

国連の非難決議[編集]

6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「中国」を代表していた中国国民党政府と、前年に誕生した中国共産党の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から理事会を欠席していた。しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで米国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、ヨーロッパにおける社会主義を強化するための時間稼ぎにつなげる目論見があった。このことは1950年8月27日付のスターリンからチェコスロバキアクレメント・ゴットワルト大統領に宛てられた極秘電文によって明らかになっている[30]

決議の後、ソ連代表のヤコフ・マリク国連事務総長トリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。

保導連盟事件[編集]

1950年6月27日、李承晩は南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、保導連盟事件が発生、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された[31]

韓国軍の敗退と逃亡[編集]

韓国軍・韓国警察による政治犯等の処刑(保導連盟事件)。1950年7月アメリカ軍撮影

南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件[32]。同日、韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。

また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったが、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。

ところが、韓国軍が総崩れの中で北朝鮮軍は突然南進を停止、3日間の空白の時を作った。結果的に韓国軍とアメリカ軍はこの間で勢力を巻き返すための貴重な時間稼ぎができたが、形勢有利の筈の北朝鮮軍が3日間進撃を停止した理由について明確な理由は現在も不明であるが、一説によると、韓国の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる[33]

国連軍を率いたマシュー・リッジウェイ将軍は自著のTHE KOREAN の中で、退却する韓国軍が放棄した装備は、完全装備の数個師団を充分装備可能なほどだったと述べている。中国軍は、米軍、英軍ではなく韓国軍の担当区域を攻撃し総崩れとなった。リッジウェイ将軍は「韓国軍1個師団の崩壊によって、他の国連軍部隊の各側面が危険にさらされ後退を余儀なくされた」と述べている[34]

アメリカ軍の出動[編集]

国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民
ダグラスC-54「バターン号」を背にするマッカーサー(右2人目)

マッカーサーは6月29日東京羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けた。

マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29B-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。

この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。

一方の韓国軍は、7月3日蔡秉徳日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(奉天軍官学校5期卒、日本陸士55期相当・元満州国軍大尉)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日[35]に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。

国連軍の苦戦[編集]

6月27日国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国コロンビアベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。

朝鮮人民軍に射殺されたアメリカ兵捕虜(303高地の虐殺

なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。

準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件[36]

また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した[37]。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた[38]

この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[37]離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている[39]。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。

仁川上陸作戦[編集]

仁川上陸後にソウルで戦う国連軍兵士
国連軍機の爆撃を受ける元山市

マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。

また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。

補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺en)が起きた[40][41]

この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。

国連軍の38度線越境[編集]

1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった[42]

しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。しかし、ジョージ・マーシャル国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた[43]。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日にその事実がアメリカのマスコミに公表されると[44]、ついで10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。[45]また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた[46]

10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中国人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した[47]。 しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の再精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた[48]。 中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官のディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった[49]

中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、トラック島において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1~2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している[50]。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。

その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍が二方面より進撃する計画であった。ウォルトン・ウォーカーは、第10軍の指揮は今まで第8軍司令官として前線の作戦全般を取り仕切ってきた自分が任されるものと考えていたが、マッカーサーは第10軍団の指揮をマッカーサーを心酔しているエドワード・アーモンドに継続して行わせる事とし、更にウォーカーの指揮下にあった韓国軍の半分をアーモンドの指揮下に移し、朝鮮半島の指揮権も二分、西部をウォーカー、東部をアーモンドの管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任は引き続きウォーカーが任される事となった。ウォーカーが現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問を感じ、また、第10軍団を時間がかかり危険も大きい水陸両用作戦で元山に上陸させる事に統合参謀本部の参謀らも疑問を持ったが、仁川の成功で国民的喝采を浴びているマッカーサーに対し、作戦の疑問を呈する事は憚られた[51]

10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌(1948年から1972年まで法的効力を有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった[52]。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40~60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった[53]

その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。

日本の参加と日本特別掃海隊[編集]

1950年10月18日、葛麻半島西側の元山港を掃海作業中に触雷して爆発する韓国軍の掃海艇YMS-516

日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上[54]の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした[55]

開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した[56]。元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する[56]。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した[56]。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。

特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した[57]李承晩韓国大統領1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた[58][59]。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという[60]

中国人民志願軍参戦[編集]

朝鮮戦争中の中華人民共和国1950年代前半のプロパガンダ・ポスター。「抗美援朝」(に対してけることの意味)と大書されている。

金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた[61]

当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた[62]

ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めていた。毛沢東主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。

  1. 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
  2. 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
  3. 1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党蒋介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など、「国内問題」の解決を優先すべき

しかし、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。 アメリカとの全面衝突を防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された[63]。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。

参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである[64]

中朝国境付近に集結した中国人民志願軍は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への侵入を開始した。中国人民志願軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。

中国人民志願軍の作戦構想は平壌-元山以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御線を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった[65]。しかし中国人民志願軍が北朝鮮に侵入した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった[65]。そこで彭徳懐は亀城-球場洞-徳川-寧遠の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった[65]。さらにこの時の中国人民志願軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった[65]。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした[65]

それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報を報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた[66]。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーにより、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した[67]。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に侵入した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている[68]

マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった[69]10月26日、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した[70]。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、迫撃砲を中心とした攻撃に大韓民国国軍はこれを朝鮮人民軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した[71]10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた[72]

前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった[73]

さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた 清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国人民志願軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した[74]。その後、前線から中国人民志願軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した[74]。中国人民志願軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった[74]

毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ[75]

マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた[76]。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった[77]。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、もっともあてにならないと思われていた[78]

11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃で殆どが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士の殆どが武器を持ったまま逃げ散った[79]。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った[80]。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している[81]。しかし実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた[82]

ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し[83]またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった[84]

中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた[85]。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった[86]

マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った[87]。退却した距離は10日で200㎞にもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された[88]。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ[89]

大韓民国の国民防衛軍(1951年1月)

12月11日、戦況が悪化した為、大韓民国の李承晩政権は国民防衛軍法を発効すると直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した[1]

LT636号沈没事件[編集]

1950年11月15日、元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没し日本人船員22名が死亡した[55]

初のジェット機同士の空中戦[編集]

RF-86F
MiG-15bis

また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84ロッキードF-80F9Fイギリス空軍グロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。当時はまだF4Uコルセア、P-51F6Fなどのレシプロ戦闘機が現役で、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。哨戒機爆撃機は殆どの機体がレシプロ機であり、第二次世界大戦時に使用していたB-29などの機体も投入された。

後退翼を採用したMiG-15は当初、速度差で国連軍のノースアメリカンP-51ホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していた直線翼のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた[90]ほか、太平洋戦争では空の要塞であったボーイングB-29やB-50爆撃機の撃墜率を高めていった。しかし、すぐさまアメリカ軍も後退翼を採用した最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。 旧式化したレシプロ戦闘機や直線翼のジェット戦闘機はその後の戦闘では対地攻撃などの爆撃任務や夜間戦闘任務に使用されたが、停戦後は多数の機体が退役し、練習機として運用されている。

初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。

なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したと言われている。低い練度のまま参戦したこれらの北朝鮮軍に対し、十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的に北朝鮮軍のMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった[91]

なお朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸海軍シコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。

朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。

国連軍の北進と中朝軍の攻勢[編集]

国民防衛軍事件で処刑される国民防衛軍の幹部(1951年8月12日)[92]

MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件[93]。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落とした[92]2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。

37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた[94]

国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた[94]。 12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を後任として推薦した。トルーマンや統合参謀本部の評価はマッカーサーより高く「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」との評価で、アメリカ陸軍が得た最高の人物という評価であり、マッカーサーの推薦を承認しウォーカーの後任を命じた[95]

リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた[96]。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた[97]

リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた[94]

1951年1月25日第25師団と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した[94]。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に水原-利川の線に進出した[94]1月27日、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した[94]。北上するにつれて第50軍と第38軍の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した[94]

西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって洪川付近に中国軍が集結していることを掴んだ[94]。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-江陵の線に進出するように命じた[94]2月5日から北進を開始し、順調に進展していたが、横城付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した[98]

2月11日夜、中朝軍が横城正面に第4042、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の第39軍で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した[98]。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した[98]

攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、2月18日には後退の兆候も見られるようになった[99]。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した[99]2月21日、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅は達成できなかった[99]

リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパ―作戦を命じた[99]3月7日、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した[99]。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した[99]。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを修復した[100]

4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン(臨津江-全谷-華川-襄陽)を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した[101]。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩ませながらもユタ・ラインに進出した[101]。各軍団は21日からワイオミング・ライン(漣川-鉄原-金化-華川)を目指して北上した[101]

4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した[101]。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた[101]。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した[102]。新たに第8軍司令官として着任したヴァンフリート中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した[102]。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した[102]。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した[102]

国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた[102]。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計30個師団を太白山脈沿いの韓国第3軍団に向けた[103]。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた[103]。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した[103]

カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した[103]。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた[103]

7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した[104]。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した[104][105]。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した[104]

膠着状態に[編集]

中国軍は日中戦争国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回した[106]ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。

中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した[107]。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した[107]

1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった[107]。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた[107]

マッカーサー解任[編集]

マッカーサー解任・リッジウェイ着任を報じる新聞(世界通信)

1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に[108]38度線以北進撃を命令[109]し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する[110]

またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もその殆どがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事をトルーマンに進言した。

この当時のマッカーサーによる、中華人民共和国国内への攻撃、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、原子爆弾の使用などの提言は、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言であった。

マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から[111]解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。

解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。

停戦[編集]

休戦会談を行う両陣営(1951年10月11日)

この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。

李承晩ライン[編集]

その様な状況下の1952年1月18日に、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は李承晩ラインを宣言し竹島対馬の領有を宣言して、連合国占領下にあり、自国軍を持たないかつての宗主国である日本への強硬姿勢を取るようになった。

休戦協定[編集]

1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。

停戦協定は結ばれたものの、板門店ソウル開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。

中立国停戦監視委員会[編集]

なお、その後両国間には中立を宣言したスイススウェーデンチェコスロバキアポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。

犠牲と損害[編集]

保導連盟事件(1950年7月アメリカ軍撮影)
板門店

ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。しかしこれらの推計は発表者によって数値にかなりの差がある。

アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。これに対して、中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している。

また西側の推定によれば中国人民志願軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者をそれぞれ出している。一方中華人民共和国側の公式発表によれば、北朝鮮軍は29万人の犠牲を出し、9万人がとらえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされる。によれば、中国人民志願軍は戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人となっている。これらの捕虜のうち約1万4000人が中華民国へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した[112]

戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人〜500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。民間人に対する惨劇の最悪の実行者は韓国警察であった[113]。開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたもののアメリカ軍による報道検閲の実施により隠ぺいされるようになった[113]。また、ソウルにいた金億朴烈らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。

また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。一方で、アメリカ軍によってアメリカに運ばれて難を逃れた文化財が多数あるが、韓国では御宝窃盗事件として報じられ、現在にいたっても返還を要求する運動がなされている[114]

アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85パーセントは民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍である。

中国人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされる。それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げた。

慰問団・慰安婦[編集]

アメリカ軍慰問団[編集]

国連軍の中で最大規模の軍隊を派遣したアメリカ軍に対して、アメリカ本国から慰問団の訪問が相次ぎ、ボブ・ホープアル・ジョルスンジェリー・ルイスなどの当時人気の絶頂期にあった俳優コメディアンが、日本国内の基地などを経由して前線に慰問に訪れ、兵士らを相手に公演を行った他、停戦後にも韓国に駐留するアメリカ軍に対して、日本をジョー・ディマジオとのハネムーンに訪れたマリリン・モンローが訪れた。朝鮮戦争を通して、国連軍兵士のための国連軍慰安所が韓国の行政官によって運営された[115]

韓国軍慰安婦[編集]

韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった[116]。また、慰安婦で構成される「特殊慰安隊」と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達の中には拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった[117][118]。韓国軍やアメリカ軍の前線には第五品目補給物資としてドラム缶に押し込められた女性達がトラックで補給され夜間に利用された[119]

影響[編集]

毛沢東は戦前には核兵器を「張り子の虎」と読んで軽視していたが、朝鮮戦争終了後には核開発を本格的に開始している[120]

朝鮮半島の分断と離散[編集]

「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない)。さらに国際法上では現在も戦闘が終結していない(休戦中)ままである。ここが、分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。

なお日本も韓国と同じように北朝鮮を国家として正式には承認しておらず、外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と地域扱いしているが、国際政治の舞台では実質的に国家扱いしている。日本国内で発行されているほとんどの地図でも「朝鮮民主主義人民共和国」と国名が記されており、ひとつの国家として扱われている[121]。日本国内の在日本朝鮮人総聯合会は、主に日本社会党(後の社会民主党)を通して、事実上の政府代表部として機能していた。

日本への影響[編集]

横浜港に到着した連合国軍兵士の棺
蜂起した在日朝鮮人による火炎瓶攻撃で負傷した警察官吹田事件

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、オーストラリアや中華民国、ソビエト連邦などを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えた。日本を占領しているアメリカ軍からは韓国への援軍が順次送られていたが、脱走兵による騒乱事件が起きた(小倉黒人米兵集団脱走事件)。

逆コース[編集]

政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日(旧)日米安全保障条約と共に締結された。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。もっとも、日本の再軍備自体は連合国軍による占領終了後には必要となってくることから、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していた。

また、戦火を逃れるために朝鮮半島から大量の密入国者が流入することとなった[122]。韓国政府が摘発された密入国者の送還を拒んだため、日本政府予算を逼迫する深刻な事態となった[122]

在日韓国・朝鮮人と日本共産党による騒擾事件[編集]

休戦後、また、在日韓国人と在日朝鮮人の間では騒乱事件が引き起こされた。朝鮮総連とその関係者、また日本共産党員などによる日本政府や警察に対する武装蜂起事件も多数発生し、1951年3月21日には北朝鮮を支持する在日朝鮮人による浅草米兵暴行事件によって、日本の占領任務にあたっていた連合国軍兵士(アメリカ軍兵士)に死傷者が出て[123]1951年12月1日東成警察署襲撃事件1951年(昭和26年)12月16日に国連軍を支援する工場に対して襲撃が加えられた親子爆弾事件1952年(昭和27年)5月1日血のメーデー事件1952年5月25日5月26日高田事件1952年5月30日大梶南事件1952年6月24日6月25日吹田事件枚方事件1952年7月7日大須事件などが起こった[124][125]。これら一連の事件は、朝鮮戦争を有利に進める為に米軍の後方を攪乱しようとするソ連と、それに呼応した朝鮮総連による計画的な騒擾事件であった[124]。これを受けて1952年7月21日破壊活動防止法が施行。

1959年12月4日には帰還事業を妨害するため在日義勇兵によって新潟日赤センター爆破未遂事件が引き起こされた。

朝鮮特需[編集]

朝鮮戦争に伴い、在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービスを指す。また在日国連軍、外国関係機関による間接特需という分類も存在する。朝鮮戦争勃発直後の 8月25日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われる。なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は特需景気糸ヘン景気金ヘン景気朝鮮戦争ブーム朝鮮動乱ブームなどと呼ばれた。

アメリカへの影響[編集]

この戦争はその規模にもかかわらず、アメリカでは経済など国内情勢にほとんど影響を与えなかった。このため「忘れられた戦争」とも呼ばれる[126]。一方で中華人民共和国では、戦時中には空軍を中心とした軍備近代化がおし進められた[120]

現状[編集]

板門店の軍事停戦委員会本会議場

南北の緊張は2000年南北首脳会談でアピールされたように、停戦当初に比べれば大幅に緩和された。1990年には両国はともに独立国として国際連合に加盟し、スポーツの国際大会で共同のコリアチームを結成することもある。しかし、平和条約の締結や両国政権の相互承認などの根本的な和解には至っておらず、2015年現在も両国間は準戦時体制にある。国際法上では「休戦」(戦闘の一時休止)であり、戦争は「継続中」である。この為、現在に至るまで、両陣営間の軍事境界線上にある板門店の共同警備区域内に置かれた「中立国停戦監視委員会」と「軍事停戦委員」が、両陣営によって停戦状態の順守が行われているかを定期的に確認している。韓国には現在も在韓米軍司令官が司令官を兼ねる国連軍司令部が存在し、また日本には現在も国連軍後方司令部が設置されている。

一方で休戦後も青瓦台襲撃未遂事件ポプラ事件など、たびたび両国間の緊張をもたらす事件が発生している。韓国の金大中盧武鉉両大統領時代には太陽政策により対立が緩和されたこともあるが、2010年3月韓国哨戒艦沈没事件が発生して6月に北朝鮮が戦争事態を宣言し、さらに同年11月23日に延坪島砲撃事件が発生して韓国全土で最大レベルの警戒がとられるなど、近年も関係が悪化している。北朝鮮は1994年、1996年、2003年、2006年、2009年、2013年の少なくとも6回にわたり、もはや休戦協定に束縛されないと表明している[127][128]が、国際連合は休戦協定は国際連合総会で採択されたものであり南北朝鮮のいずれかが感情的に破棄できるものではないとしている[129]

この状況は両国間関係のみならず、韓国に基地を持ち、米韓相互防衛条約によって同盟関係にあるアメリカと、中朝友好協力相互援助条約によって北朝鮮との相互援助義務を持つ中華人民共和国との軍事的なバランスと対立がある。またこの四国にくわえて日本とロシアは北朝鮮核問題解決のための六者会合(六カ国協議)の参加国であるなど、朝鮮半島問題に関与している。伝統的に日本は韓国、ロシアは北朝鮮と友好関係にある。露朝関係はかつてソビエト連邦が締結していたソ朝友好協力相互援助条約による相互援助義務規定は失効したものの、ロ朝友好善隣協力条約が締結されている。2010年には六者会合の元北朝鮮人民軍通訳がロシア亡命を求めたがロシア側が拒否するといった事件[130]も起きている。

一方で北朝鮮の核開発に対しては中国およびロシアもたびたび反対を明言している。また2010年11月29日(日本時間)、ウィキリークスにより流出した約25万点にも及ぶアメリカ外交公電の中に、中華人民共和国当局が、北朝鮮に対して批判したとされる内容や、韓国による南北統一に言及したとされる内容を含んでいたことが発覚[131]、さらに北朝鮮も友好関係にあるモンゴル政府との協議で、中華人民共和国とロシアへの批判を繰り返していたことも発覚し[132]、また、同年12月に行われた日米韓外相会談の中でアメリカが中華人民共和国への柔軟姿勢を示したりするなど、単純な構造とは言えない状況にある。

政治状況[編集]

韓国
韓国は停戦後も引き続き李承晩大統領による独裁が維持され復興が遅れていた。このため北朝鮮の呼びかけにより在日朝鮮人の帰国事業が行われると日本に工作員を送り込み新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こし帰国事業を妨害した[133]。クーデターにより政権を掌握した朴正煕大統領が日本と財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定を締結することで多額の経済支援を獲得し、ベトナム出兵によってアメリカから多額の援助を受けることで急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称された。朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、朴以降の30数年で、日本に次ぐアジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。1972年までに1万人を超える北派工作員と呼ばれる武装工作員を北朝鮮に送り込んだ[134]。全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、政治的民主化が促進された。1988年に、アジアとしては2番目のオリンピックであるソウルオリンピックの開催に成功した時点の北との経済格差は4倍に拡大した(なお同オリンピックに北朝鮮は参加していない)。
その後もアジア通貨危機に端を発する深刻な経済危機も日本などの援助で克服して、日本とともにFIFAワールドカップ2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を獲得している。1990年には国連加盟(北朝鮮と同時)その後、潘基文第8代国連事務総長も選出されている。また、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から取り残されてきたが、緊張緩和によって急速に住宅地として整備されている。また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り壊されつつある。
一方、男子には一定の徴兵期間が義務として設けられているほか、数ヶ月に一回は各地方・都市で空襲に備えた民間防衛訓練(民防)が行われている。
李明博大統領の兄弟はアメリカの空爆で死んだが、李大統領はこれを事故として見なし、親米的で対北朝鮮政策を敷いている。
1992年の中韓国交正常化時、「朝鮮戦争で中国人民解放軍が韓国北部を侵攻した事に対して、中華人民共和国政府が謝罪をする」という情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをしたが、駐韓中華人民共和国大使の張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝して、それ以降、韓国マスコミは謝罪に関して一切報道しなくなった[135]。朝鮮戦争で補給に難点があった中国軍は、ソウル占領には加わったが、南下は京畿道の南のはずれにあたる平沢止まりだった[136]。現在韓国と中華人民共和国の関係は官民ともに概ね良好であるが、近頃歴史問題の相違、日中問題の悪化(日中問題に関し韓国は日本支持)などで悪くなりつつある。
2006年、北朝鮮による日本人拉致問題について被害者家族横田早紀江らと会談する当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ。左に座っている少女は瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件の家族の一人
北朝鮮
戦争開始間もない1950年6月30日には北朝鮮労働党南朝鮮労働党が合同して朝鮮労働党が成立し、一党独裁が行われていたが、この体制はこの後も継続している。休戦直後の1953年、旧南朝鮮労働党の勢力は朴憲永らの指導者が逮捕され消滅している。
1956年のスターリン批判後にはソ連との関係が悪化し、朝鮮労働党満州派の領袖である金日成が延安派ソ連派などの国内派閥の粛清を進め、党内での独裁権を確立した(8月宗派事件)。その後個人崇拝を強化した軍事独裁政権を確立し、中ソ対立の最中に両国から一定の距離を持つ「ウリ式(我々の方式)の社会主義」である「主体思想」を唱え、政治の「安定」が図られた。一方で対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、韓国を含む外国民の拉致を行った(北朝鮮拉致問題)。冷戦終結に伴い、東欧革命ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家を揺るがす事態に遭遇した。
金日成の死後、息子の金正日による権力の世襲が行われ、「強盛大国」を目指す「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を作り出した2000年頃から中華人民共和国を手本にした改革を行っているが、かえって貧富の格差が広がった。また、偽札覚醒剤の製造や、日本人の拉致を始めとした諸外国人の拉致など(北朝鮮拉致問題)、国家ぐるみの犯罪と人権蹂躙を諸外国から非難されている。金正日の死後はその息子の金正恩が後継者となり、基本的な政策を受け継いでいる。
経済は初期は順調であったものの、やがて停滞を見せるようになった。また金正日政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、餓死者などが数多く出たと考えられている。以降も食糧不足は慢性的であり、国際社会に対してしばしば食糧援助を要求している。
また、中華人民共和国が現在に至るまで、北朝鮮との高官レベル以上の交流や、北朝鮮に対して明確な批判を行わないばかりか様々な形で支援を続けており、北朝鮮の独裁体制維持や、弾道ミサイルを初めとした戦力維持に大きく貢献しているという意見がある。
同じく在日朝鮮人を代表する機関である朝鮮総連が、現在に至るまで北朝鮮に様々な形で支援を続けており、パチンコや覚醒剤の輸入、密売がその資金源となっているという意見がある。
一貫してアメリカ合衆国を敵視しており、1968年プエブロ号事件1969年アメリカ海軍EC-121機撃墜事件などでは軍事衝突している。また核開発の根拠としてアメリカの核兵器からの防衛を挙げている。アメリカと敵対しているイランに対しては友好関係にあり、ミサイル輸出などで協力している。一方でイランやパキスタンに対して核技術を融通しているという疑惑も挙げられている。

軍事バランス[編集]

韓国
国連軍へ提供される慰安婦の登録実施を報道する東亜日報1961年9月14日
韓国軍の装備はF-16戦闘機K1A1戦車など、おおむね現在の西側先進国の水準である。また、男子に対して徴兵制が施行されている。これに更に在韓米軍の戦力も加わる事になる。なお、韓国は首都ソウルが軍事境界線に近く、軍事境界線の北側からでも北朝鮮の長射程砲やスカッドミサイルの射程内に収まる事が弱点で、北朝鮮から侵攻しやすい。また、現在に至るまでアメリカ軍を中心とした国連軍が駐留している。国連軍[137]やアメリカ軍[138][139]には慰安婦が提供されていた[140][141][142]
寧辺の核関連施設
北朝鮮
北朝鮮の軍備はソ連から供与されたものが主で、現行水準の兵器はほとんどないという。2003年3月に公海上でアメリカ空軍のボーイングRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機のMig-29戦闘機が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の偵察衛星に写る北朝鮮機はMig-15Mig-17のような骨董品レベルの古典機ばかりで、部品調達や燃料調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。こうした状況から核兵器の開発を進めており、2006年には最初の核実験を成功させた(北朝鮮の核実験)。また韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な弾道ミサイルテポドンノドンムスダン)の開発に熱心であると見られ、たびたび発射実験を行っている。

万が一、戦闘状態が再燃した場合、北朝鮮軍がゲリラ戦術を取ってソウル周辺の短期間・限定的な戦闘に持ち込めれば、一時的には北朝鮮軍がやや有利であるが、いずれにしても北朝鮮が韓国に対して侵攻を行った場合、国際的な非難を受けて再度アメリカ軍を中心とした国連軍が編成され、徹底的な攻撃を受けて北朝鮮軍は潰滅状態になり、国家崩壊と韓国への吸収による朝鮮半島統一という状況は免れないと予想される。

韓国側が先制攻撃した場合、中華人民共和国が北朝鮮を支援する可能性もわずかに残っているが、対米全面戦争を行う力は持っておらず、たとえその様な場合でも介入は極力避けるという推測もある。また、中華人民共和国にとっては、北朝鮮が崩壊して韓国によって朝鮮半島が統一されてしまうと、北朝鮮を緩衝材として遠のいていたアメリカの軍隊ならびに基地が北京と目と鼻の先まで近づくことになり、安全保障上ならびに台湾海峡の軍事バランスにも大きな影響を与える可能性が高いのみならず、大量の難民が鴨緑江を越えて自国内に流入する恐れもあり、体制維持を望んでいると思われる。なお、北朝鮮の羅先には中国人民解放軍が進駐しているとする情報もある[143]

しかし2012年、李明博大統領が竹島に上陸、加えて今上天皇を侮辱するという行為に及び、さらに抗議と関係安定を求めた野田佳彦首相の親書を拒絶するなどしたため、日本における韓国に対する国民感情が急激に悪化することになった。後任の朴槿恵大統領は当初、日韓基本条約の締結時の大統領朴正煕の娘と言うことで、やはり政権交代していた安倍晋三内閣は関係改善の取り掛かりになるのではないかと目論んでいたが、朴槿恵は日本に対する侮蔑的ともいえる批判外交に終始し、これにより日本国内の対韓感情は下手に韓国を支援すれば政権が倒れる危険すらある状況になった。この中で日韓通貨スワップ協定が終了、韓国経済は中国経済の鈍化と共に急速に行き詰りつつある。一方、米国との間では朴槿恵政権がTHAADミサイルによるミサイル防衛網の構築に難色を示したうえ、本来良好な日米関係に対し、自らの主張で水を差すことをした(告げ口外交)ため、米国から再三にわたり警告を受けている。さらに2015年にはマーク・リッパート駐韓米国大使に対する暗殺未遂事件が発生するなどし、米国との関係も急速に冷え込んでいった。日本も米国も、韓国がこれ以上自国の反日体質を悪化させないことと、秘密協定による経済支援はしないこと、米国の安全保障網に忠実であることを求めているが、韓国の国内世論はこれに沿える状況ではなく、現状ではたとえ北朝鮮が南進しても、国連軍の編成は行われず、米軍は撤退するのではないかとの見方も強くなってきている。

朝鮮戦争を題材とした作品[編集]

絵画
映画

Category:朝鮮戦争の映画」「戦争映画#朝鮮戦争」を参照。

テレビドラマ
ウォー・シミュレーションゲーム
  • 朝鮮戦争 - エポック社刊。1950年の戦争初期(北朝鮮軍の侵攻から国連軍による仁川上陸、ソウル解放まで)を扱う。韓国側団体の抗議により生産中止。現在、サンセットゲームズより再発売されている。

注釈[編集]

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  1. ^ a b c ““국민방위군 수만명 한국전때 허망한 죽음””. ハンギョレ. (2010年9月7日). http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/438726.html 2010年11月27日閲覧。 
  2. ^ 1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している。
  3. ^ NHK磯村尚徳が番組で「北が南に攻め込んだ」と語ると、在日朝鮮人が騒ぎ出した。彼らに同調する土井たか子らからも抗議が来ると、番組内で謝罪した(高山正之『オバマ大統領は黒人か』)。
  4. ^ 田中(2011:4)
  5. ^ 田中(2011:4-8)
  6. ^ 李圭泰 1992, pp. 405-406.
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  9. ^ 李圭泰 1992, pp. 405.
  10. ^ 李景珉『増補版 朝鮮現代史の岐路』平凡社、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203
  11. ^ 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、「自ら独立を勝ち取ることができなかったことが、今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろう」と述べたと言われている
  12. ^ 前掲李景珉、22頁
  13. ^ 李圭泰 1992, pp. 393-394.
  14. ^ 李圭泰 1992, pp. 394.
  15. ^ 李圭泰 1992, pp. 395.
  16. ^ 李圭泰 1992, pp. 395-396.
  17. ^ a b 李圭泰 1992, pp. 396.
  18. ^ 李圭泰 1992, pp. 396-397.
  19. ^ 1945年12月27日のモスクワ協定 -イェール大学「アバロン・プロジェクト」(英文)
  20. ^ マッカーサーから任じられていた軍政長官のホッジ司令官は生粋の軍人であり、政治や外交、朝鮮をとりまく状況などについての知識は皆無だった。これはホッジの失策というよりは、マッカーサーの朝鮮への無関心によるものだった。
  21. ^ 田中(2011:9)
  22. ^ 今日の歴史(8月12日) 聯合ニュース 2009/08/12
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  24. ^ ラスク書簡参照
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参考文献[編集]

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山田耕介・山田侑平訳、(上・下、文藝春秋、2009年/文春文庫、2012年)
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  • 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』(学研 上・下、1999年、新版1冊本 2007年) グラフティブック
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う〈下〉「朝鮮戦争と日本」』(文藝春秋、のち文春文庫)
  • 軍事史学会編『軍事史学 特集朝鮮戦争』 (第36巻1号・通巻141号 錦正社
  • 木村幹『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房 2003年 人文・社会科学叢書71)
  • 李圭泰「連合国の朝鮮戦後構想と三八度線」(1992年)
  • 田中恒夫 『図説 朝鮮戦争』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京2011年4月30日、初版発行。ISBN 978-4-309-76162-6
  • ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社、1985年
大部な研究
  • 韓国国防軍史研究所『韓国戦争 第1巻〜第5巻』
    (同翻訳編集委員会訳 かや書房 2000年9月 - 2007年6月)
ISBN 4906124410ISBN 4906124453ISBN 490612450XISBN 4906124585ISBN 490612464X
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』(上・中・下、原書房)
  • 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』(全10巻、原書房
  • 赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会)
  • 金東椿、崔真碩ほか訳『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(平凡社)
  • 金学俊『朝鮮戦争 原因・過程・休戦・影響』(論創社
  • 和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店 2002年) ISBN 4000238094
  • 西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争』 (岩波書店 2004年) ISBN 9784000223782
  • 金賛汀『在日義勇兵帰還せず』 (岩波書店 2007年) ISBN 4000230182
回顧録
  • サー・セシル・バウチャー『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』
レィディ・バウチャー編、加藤恭子、今井万亀子訳(社会評論社)
日本の特別掃海隊について
  • 「朝鮮動乱特別掃海史」掃海OB等の集い世話人会(平成21年1月5日)[4]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]